【説教・音声版】2022年12月25日(日)10:30 説 教 「まことの光 」渡邉 進 牧師



イザヤ 52:7~10、へブル 1:1~4、ヨハネ 1:1~14
( 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。)(Jn 1:1)

ヨハネには、他の福音書に見られるようなクリスマス物語はない。物語は一種の歴史です。多くの物語には歴史が隠されている。平家物語に代表される日本最高の文学作品に、歴史がある。そしてそれを通して、何事かを後世の人々に教えようとしている。それは人間の生きるこの現実の世界の露わな姿でもある。『諸行無常の響きあり』の中に、人間の生きた歴史、露わな姿としての、ありのままの姿を描いている。

しかしヨハネには、そのような意味での歴史はない。ヨハネはその代わり に、≪永遠≫を語る。ヨハネは、神の子が永遠からこの世に来たことを語る。永遠なんて、全く我々とは無関係だと思われるでしょう。何故ヨハネは永遠 などと言う、我々とはかけ離れた概念を用いて、イエス・キリストを語ろう とするのでしょうか? 歴史は繰り返す。

人間の世界は、≪平和≫を願い、求め、平和を築いても、一時的でしかない。いつまた戦争が始まるか分からない。だから神の子は永遠から来たのである。歴史に属してはいない。人間世界に属してはいない。しかしこの世に、この歴史に来たのである。

ヨハネの冒頭の言葉は、詩です。≪Poem≫である。決して韻を踏んではいないが、詩篇にあるような聖書的詩である。一つの思想を幾つかの並行を用いて発展的に述べている。
例えば、『 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。』(Jn1,3,4)

ヨハネの冒頭の言葉は、明らかに≪創世記≫のはじめ、≪天地創造≫を思い出させる。『初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。≪光あれ』、こうして光があった。』(Gn1:1)
なぜ、ヨハネが≪言≫と言う表現を使ったのか? それはこの≪天地創造≫の物語に起源がある。箴言8:22に、『主は、その道の初めにわたしを造られた。』とある。知恵が世のはじまり以前から存在していたという思想がある。≪知恵≫は、≪言≫と置き換えることができる。

ヨハネには、他の福音書に語られるようなイエス誕生の物語はない。この≪言≫が、イエスと言う人格に結びつく。つまり言がイエスと言う人間になった。
創世記では、≪天地創造≫の後に、≪堕罪物語≫が続く。それに相当するのが、ヨハネの語る≪暗闇≫である。≪天地創造≫は、人間創造で、完成を見ることが強調されている。『神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べが来あり、朝があった。』
(Gn1:31) 六日間に渡って、宇宙万物が創造され、その頂点の創造が、人間創造であった。これですべての創造が完成し、≪それは極めて良かった≫のである。しかし創造物語は、実はそれで終わりではない。まさにそれに続く、≪堕罪物語≫こそが本当に著者が語りたかったことである。何故、イエスがこの世に来なければならないのか? それこそが、ヨハネが語り真実の物語なのである。

創世記の語る≪堕罪≫は、ヨハネにおいて、≪暗闇≫である。そしてこれ こそがヨハネが語らねばならない言葉である。何故なら、人間は、光として こられたイエスを理解しなかったからである。『光は暗闇の中で輝いている。しかし暗闇は光を理解しなかった、』( Jn1:5 ) 英語の聖書を読むと、 “ Put it out ”と表現され、取り払おうとしなかったとの意味である。この表現の方が原文に近いように思う。何故なら、私たちの生きている世界は、暗闇が覆っているからである。取り巻かれている。それが私たちの生きている現実である。

更にヨハネは続ける、『その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。』 イエスこそがまことの光であることが宣言されている。しかしこの世はまがいものの光があり、偽の光がある。暗闇にいる私たちには、その分別がつかない。『言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。』(Jn1:10)

なぜ人々は、≪闇≫を好むのであろうか? それは正義に基づいた戦いを好むのである。自尊心を満たそうとすると言っても良い。人間にとってこの自尊心こそが必要である。自己満足ではない、利己主義とも違う。自尊心である。これが生きる矜持である。これが崩れると狂ってしまう。個人の自尊心、国としての自尊心がある。このためにしばしば愛を忘れ、戦わねばならなくなる。行き着くところは泥沼である。≪闇≫の中を生きるとは、このような沼地を歩いているようなものかもしれない。ここから這い出ることは容易ではない。

東方三博士の礼拝(1480-1482) レオナルド・ダ・ヴィンチ ウフィツィ美術館


『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。』(Gn1:4) 命こそ、光こそ、私たちが求めているものである。そしてそれがイエス・キリストにおいて実現したとヨハネは語る。それは≪まことの光≫であるから。私たちを照らし、導く光であるから。私たちが、平和に過ごすにはこれしかない。

クリスマスになるとどこからともなく、ソングが聞こえる。クリスマス・ソングである。John Lennon のクリスマス・ソングが好きである。題は、 “ Happy Christmas”と言う歌である。副題は“War is over ”である。この歌が発表された時、アメリカはちょうどベトナム戦争の最中であった。彼は早く戦争が終わるようにとの願いを込めてこの歌を作ったに違いない。クリスマス、それは誰でもが幸せに、楽しく過ごせる時である。昔は戦争している国同士が、クリスマス休戦をした時代もあった。もはやそれも可能ではなくなったのが今の時代である。昔より戦争が苛烈となり、凄惨になってきたのであろう。従って、人間の生きている現実は、ますます厳しさを増しているように思う。

『いかに美しいことか。山々を行き廻り、良い知らせを伝える者の足は、彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王と なられた、と。シオンに向かって呼ばわる。』(Is52:7) この言葉を新 約で、引用し、自らの働きにたとえた人物がいる。それはパウロである。

『ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことかと書いてある通りです。』(ローマ10:14,15) ここでパウロは、宣教の働きの尊さを語ると同時に、自らがその役を担っている誇りを率直に語っている。
宣教の働きとは、イエス・キリストを語ることである。聖書が語るイエス。キリストを語ることである。その働きに従事する者は、なんと麗しいことであろうか!

今年も、最後の主日を迎えた。2022年も後僅かで暮れようとしている。コロナも3年目を迎え、人々の心もだいぶ疲れ、早く収束を強く願ってい る。また今年は、ウクライナの、ロシアによる侵略戦争がはじまり、未だ解 決の見通しが立たない。多くの人は、これを世界第3次戦争と呼んでいる。

このような中を生きている私たち、お互いのために祈り、人の幸せを願う者 でありたい、バッハは、オルガン小曲集の第一曲目の中で、『古き年は過ぎ去りて』と言う、オルガン曲を残している。彼は、その中でこの一年を終えるに当たりこのように語る。『古き年は過ぎ去り、主イエス・キリストよ、かかる危機の中にありて、なお恵み深く我らを守り給いしことを感謝する。』と記している。まさに私たちは≪かかる危機の中を≫、生きてきた。最後に感謝を持って終えたい。