【説教・音声版】2022年6月26日(日)10:30  聖霊降臨後第3主日礼拝  説教 「たとえ嫌われても 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書9章51~62節

今日の日課は、後半の小見出し(「弟子の覚悟」)にもありますように、弟子のあり方、弟子としての心構え、といったことが中心主題になるでしょう。
ところで、皆さんは、この「弟子」という言葉を聞かれて、何を、あるいは誰を連想されるでしょうか。イエスさまの12弟子でしょうか。それとも、特定の誰か、でしょうか。私たち信仰者は誰でも、牧師であろうと宣教師であろうと、キリスト者(クリスチャン)と呼ばれます。また、そのようにも自覚しています。しかし、こう呼ばれるようになったのは、イエスさまが昇天されて(天に帰られて)何年も経ってからのことです。使徒言行録11章26節にこう記されているからです。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」。

ちなみに、キリスト者(クリスチャン)とは、「キリストに属する者」という意味です。では、それ以前はなんと呼ばれていたのか。先ほどの箇所にも記されていましたように、「弟子」と呼ばれていました。この「弟子」というのは、後に「使徒」と呼ばれる特別な使命が与えられた12弟子に限りません。イエスさまの存命中から、また、その後仲間として加わっていった名も無いキリスト者たちも、「弟子」であった訳です。これは非常に大切なことです。つまり、今日の箇所の教えは、牧師や宣教師などの特別な使命に生きる者たちにだけ語られているのではなく、弟子である皆さん一人一人にも語られている、ということです。確かに、内容としても非常に厳しいことが記されていますが、是非とも他人事ではなく、自分のこととしても向き合っていただきたいと思っています。

そのように言っておきながら、少し矛盾したような話になってしまいますが、私が牧師となって心打たれた物語がいくつかあるのですが、その一つが今朝の旧約の日課であるエリヤの物語でした。私はこの物語から、使命に生きることの厳しさと慰めを受けたのです。旧約聖書には度々、預言者と偽預言者の対比、対決が記されていますが、大抵の場合、偽預言者たちは希望的観測を語り、本当の預言者たちは悔い改めを求めるための裁きを語っていきます。当然、本物の預言者たちの方が嫌われ者になる。大変厳しいことです。このエリヤもそんな大変厳しい戦いを経験しました。エリヤが活躍した時代のイスラエルではアハブという王様が統治していましたが、異教の神であるバアル信仰が盛んになっていました。当然、エリヤたち正統な預言者たちは弾圧を受けることになる。そんな中、エリヤはたった一人でバアルの預言者400人以上と戦うことになりました。

今日は詳しくお話しする時間がありませんので、ぜひ列王記上の18章をお読みいただければと思いますが、結局はエリヤが勝利を収め、ユダヤ人たちの心を本来の神さまへの信仰へと立ち戻らせることに成功する訳です。しかし、その勝利で王妃イゼベルの怒りを買うことになり、命を狙われることになります。エリヤは逃げました。そして、こう祈りました。

「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。そして、何日も何日も眠り込んでしまいました。今で言えば、鬱のようになっていたのでしょう。そんな彼を神さまは不思議な方法で養い、旅立たせ、ご自身と出会わせてくださり、そして、後継者作りへと送り出してくださいました。それが、今日の箇所です。あの大預言者エリヤだって孤独な戦いで心が折れてしまいそうになる。そんな彼を無理矢理に叱咤激励したり、追い立てたりするのではなく、回復するのを待ってくださり、新たな使命へと送り出してくださった。そこに、先ほども言いましたように、厳しさと慰めを感じたわけです。

キリストの変容 ティツィアーノ サンサルバドル(ヴェネツィア) 1560年頃(右上:エリヤ 左上:モーセ)


今日の福音書の日課の前半部分は、直接的には弟子のあり方と関係がないようにも思えますが、そうではありません。なぜなら、弟子とは「師」と同じ道を歩くからです。つまり、師であるイエスさまが歓迎されなかったのであれば、弟子である私たちもまた歓迎されないということが起こる、ということです。

では、なぜイエスさまは歓迎されなかったのか。そもそもユダヤ人とサマリア人とでは、歴史的な経緯もあって犬猿の仲だったということもあるでしょうが、どうやらイエスさまが「エルサレム」を目的地と定めていたことが関係していたとも言われています。先ほど歴史的に犬猿の仲と言いましたが、それは民族的にもそうですが、もう一つは信仰的な側面が強く出ていました。サマリアでは独自の信仰文化を作っており、礼拝場所はエルサレム神殿ではなく、ゲルジム山としていたことも大きな対立点でした。ですから、イエスさまがあくまでも「エルサレム」に向かっていこうとされたことは面白くなかったのでしょう。ともかく、イエスさま、あるいはイエスさま一行が彼らの意に沿わなかったことは事実だと思います。

ご承知のように、日本では長らくキリスト者人口は1パーセント未満ということもあり、宣教が大きな使命となっています。そのためにも、なるべく来やすいような環境を作ったり、いわゆる「敷居を低く」したり、世の中の人々にも受け入れやすいことを企画したりと私たちは頭を悩ませながら取り組んでいる訳です。もちろん、私自身、そういったことは大切なことだと思っていますが、しかし、それでも忘れていけないのは、先ほども言いましたように、イエスさまご自身でさえもなかなか受け入れてもらえない、認めてもらえない、歓迎されないことが多々あった、という事実です。

なぜなら、私たちの信仰のあり方には、世の中の人からすれば「意に沿わない」ことも含まれてくるからです。その最たることが、神さまに従う、ということでしょう。イエスさまはなぜ拒絶されても、疎んじられても、敵視されても、歓迎されなくても、福音を伝え、エルサレムに向かって行かれたのか。それが、神さまの御心だったからです。それに従われたからです。イエスさまの最大の関心事、志は、そこにあった。それは、何も人を無視することではありません。むしろ、人を救うためです。それが、何よりの神さまの御心だからです。

しかし、それは、必ずしも人々が期待するような、理解できるような、意に沿うようなものではなかったのです。その最たるものが、十字架と復活です。これは、世の人々はなかなか受け入れられないこと。しかし、私たちは、そこに神さまの救いを見ているわけです。パウロがこう語っている通りです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。イエスさまご自身がそのように歩まれたということは、弟子である私たちにもそのことが期待されているということです。

57節以下にも大変厳しいことが記されている。一つ目は、単に住まいのことだけでなく、衣食住などの安定が期待できないことが言われているのかもしれません。あるいは、親に対する最低限の義務さえも果たせないような、死に目に遭うこともできないような状況も想定されているのかもしれない。最後はより厳しい、家族に別れを言うことさえも許されないような内容です。これらは最初に言いましたように、ある意味牧師・宣教師なら覚悟しているところです。最近は状況も随分と変わってきましたが、先輩牧師などから、このような実体験も度々聞いてきました。しかし、これも最初に言いましたように、これは牧師・宣教師に限らないことです。大なり小なり、全ての弟子たちに求められている。しかし、注意していただきたいのは、この言葉だけで全てが決まるわけではない、と言うことです。

聖書は他にもいろいろと語っているからです。衣食住の心配を神さまご自身がしてくださっていること。家族を大切にするように求められていること、など。つまり、文字通りに、こうすることが良いと言うことでは、必ずしもないのでしょう。そうではなくて、私たちがこれらのものに縛られない自由さを得ているか、と言うことです。親、兄弟、家族、妻、夫、子ども、家庭、仕事、友人、仲間…。当然、私たちにとって大切なものが多くある。しかし、それらに縛られているようではダメだ、と言うことです。それらにだけ支えられているようではダメだ、と言うことです。大切なものに違いないが、しかし、同時に自由であることの大切さ、です。そうでないと、むしろ、そんな大切だと思っているものに悪影響(不健全な依存などの)を与えないとも限らないからです。

私たちが真に必要としていることは「魂の救い」です。これは、神さまとの繋がりがなければ決して与えられないものです。そこから、決してなくなることのない信仰と希望と愛が生まれてくる。それは、この私たちだけでなく、当然愛する者たちにとっても必要なことです。だからこそイエスさまは、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われるのです。

イエスさまはこんな譬え話も語っておられます。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。無理矢理に、嫌々・渋々に弟子としての心得を持つのではありません。そうではなくて、すでに与えられている宝の大きさに、その素晴らしさに気づくのです。そうすれば、自ずと他のものからは自由となり、弟子として生きていきたいと願うに違いない。家族・愛する者のためにも、真に自由となって、魂の救いを得た者として、この宝を隠しては置けない、と思うに違いない。たとえ、辛く、厳しいことがあったとしても。そうでは、ないでしょうか。