【説教・音声版 】2022年6月19日(日)10:30  聖霊降臨後第2主日礼拝  説教 「解放された人 」 浅野 直樹 牧師

ルカによる福音書8章26~39節

教会の暦も「聖霊降臨後主日(いわゆる「緑」の季節)」になり、日課も久しぶりにルカ福音書に戻ってくることになりました。これから待降節までの間、よほどの祝日がない限り、このルカ福音書から学んでいくことになります。

そこで、今日の日課は、悪霊に取り憑かれた人の癒しの物語り・解放の物語りが取り上げられていますが、小見出しの下にもありますように、この記事はルカ特有のものではありません(マタイもマルコも記すところです)。それが、いわゆる「共観福音書」と言われる所以ですが、しかし、それでも、やはりルカ福音書の特徴はあるわけです。ある方は、その特徴を、イエスさまの救いの出来事が強調されている、と語っていましたが、その通りだと思います。36節に「救い」という言葉が明確に記されていることからも明らかです。この言葉は、マタイにもマルコにも出てきません。

ところで、皆さんは、なにがしからの解放を願ったことはないでしょうか。何か抑圧的な外的要因(社会人として、夫として、妻として、「こうあるべきだ」みたいなものも含めて)、あるいは性格的…、心配や不安などの内的要因など、案外私たちはいろいろなものに囚われているものです。
では、囚われている、というのは、どういうことか。その典型的な例が、今日の「悪霊に取り憑かれた人」でしょう。つまり、自由がない、ということです。自分で自分がコントロールできない。自分の思うようにできない、いうこと。悪霊に支配されているのですから。叫びたくもないのに叫んでしまい、したくないことをしてしまい、逆にしたいこと、成さなければならないことをすることができない。それが、悪霊に支配されている、ということでしょう。この男性のように。

こう考えていきますとどうでしょうか。確かに、私たちは悪霊に取り憑かれてはいないでしょう。この人のように、正気を失って、奇行を繰り返すようなことはない。むしろ、至って普通の善良な市民です。しかし、先ほど申し上げたような「囚われの姿」、つまり、したくないことをしてしまい、しなければいけないことができない、ということを考えてみれば、案外本質は変わらない、と言えるのかもしれません。

実は、私たちは、それほど不自由な人間なのです。パウロもそんな人の、自分自身の姿を嘆いて、こう語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。パウロがここで語っていることは、悪霊のことではありません。罪のことです。しかし、今日の悪霊に取り憑かれている人と同じように、私たちの内には罪が住み着いており、私たちを虜にして、本来あるべき私たちの自由を奪い取ってしまっているというのです。それは、まさに「惨め」な状態だとパウロは嘆いている。私たちの姿です。

そんな惨めな私たちの典型的な姿は、何もこの悪霊に取り憑かれている人ばかりではありません。この人を取り巻く人々もまた(親、兄弟、親類等も含めて)、惨めな人です。この人が度々悪霊に取り憑かれて一体何をしでかしたのか、よくは分かりません。突然人を襲うようになったのか、家を壊そうとしたのか、分からない。ただ、手がつけられなかったのでしょう。親も匙を投げた。だから、彼は「鎖につながれ、足枷をはめられて監視されていた」とあります。それでも、彼はそれらを引きちぎって、荒野へと出て行ってしまったようです。果たして、そんな彼を親は、町の人々は連れ戻そうとしたのだろうか。

もちろん、時代が違います。そもそも、こういった現象を「悪霊に取り憑かれた」と表現するくらいですから、今日の我々の状況とは全く違うわけです。しかし、果たして、本当にそう言えるのでしょうか。

神学校のカリキュラムの一つに、「病院実習(CPE:臨床牧会教育)」というのがあります。私は特例で、神学校には1年しか在籍しませんでしたが、やはり実習することが求められ、2年生と一緒に(私はその時4年生でしたが)精神科の病院に行くことになりました。私にとっては初めての経験でしたが、正直、思ったほどには大変ではありませんでした。むしろ、興味深くもありました。荒唐無稽な話を永遠と聞かせて下さった方もおられました。

しかし、今から思えば所詮は他人事だったからでしょう。神学生であり、ただ実習に来ているだけといった外野的なお気楽さがあったことは否めません。もし、身近に、自分の親、兄弟、子どもに、そういった方々がいたら、どうだったろうか。世間の目、社会の目を気にしながら、身内ならではの不寛容さで追い詰めていたのではないだろうか。そんなことも思うのです。

もちろん、難しいのも事実です。簡単なことじゃない。手に余るのも仕方がないのかもしれない。しかし、それでも、このことは引っかかる。この人は、イエスさまによって癒されたのです。解放されたのです。救われたのです。しかし、この文章からは、その喜びが伝わってこない。「そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである」。

確かに、こんなことはこれまで見たこともないし、聞いたこともなかったでしょう。まさに、衝撃的なことです。悪霊に取り憑かれて、縛り付けていても抑えきれなかった人が、今や正気に戻っているのですから。その光景に、恐れを抱くのも無理からぬことに違いない。しかし、目撃者たちから、その人の「救われた次第」の説明を聞いたにも関わらず、つまり、単に事の次第を説明したのではなく、この人は「救われたのだ」と説明したにも関わらず、人々の恐れが止まず、イエスさまに出て行って欲しいと願った、というのです。いかに、この町の人々は、この人の存在を見ていなかったことか。ひょっとすると、その中に親・兄弟・親類縁者、かつての友人たちも含まれていたのかもしれない。なのに、この人が救われたという事実に思いがいかない、注目できない、喜べない、感謝できない、そんな人の姿の中に、やはり惨めさを認めずにはいられないのです。それも、私たち自身の姿なのかもしれない。

それに対して、イエスさまはどうか。その人を見るのです。ただ、その人の苦しみを見るのです。そして、その人の救いを見るのです。人々の反応がどうかなど気にしない。ただ、その人が救われて、解放されて、自由とされることを願われる。たとえ、この町からつまみ出されるようなことになろうとも、このたった一人の人が囚われから解き放たれ、救われたことを喜ばれるのです。イエスさまこそ、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈し」まれる方です。実は、これらは決して簡単なことではないのです。私たちは憐れに思いながらも、色々な囚われの中でなかなか憐れむことができないでいる。そういう意味でも、イエスさまほど真に自由な方はいません。

イエスさまには、囚われの、惨めな私たちを救う力がおありです。解放する力がおありなのです。私たちを自由にする力が…。その囚われの典型的な例である悪霊さえも、例外ではあり得ないのです。よく神さまと悪魔とは好敵手(ライバル)のように思われがちですが、そうではありません。神さまが、悪霊さえも認める神の子イエスさまが圧倒的なのです。悪霊はただ従うしかない。

しかし、私たちはこうも思うのかもしれません。解放されることを願っている私たちは、果たして本当に解放され、自由とされているのか、と。むしろ、ますます不自由な、囚われの中にいるのではないか、と。それも、率直な感想なのかもしれない。しかし、少なくとも今はそれが必要だからこそ残されているのでしょう。実は、私たちが願う解放とは、心が軽くなることに過ぎないからです。罪悪感、劣等感、フラストレーションなどから。

もっと言えば、それは、神さま抜きで、神さまに頼らずに、自分のやりたいように生きたいという欲求の追求にすぎない。つまり、神さまからも解放されたい、と思っているのかもしれないのです。自分を照らす信仰がかえって重荷なのだ、と。しかし、その結果は明らかです。いっとき解放されたように感じることがあったとしても、別のものに囚われ、結局はもっと悪い不自由さの中に生きることになるのかもしれない。「自己中心」という不自由さの中に。だから、残る。そんなまやかしの解放は御心ではないので、むしろ残っているのです。かえって神さまとの繋がりを保つために。

では、悪霊から解放されたこの人はどうなったか。「正気になってイエス(さま)の足もとに座っ」たのです。この「足もとに座る」とは、弟子入りを意味する、と言います。そして、彼は神さまが自分にして下さったことを、家族に、自分の町の人々に伝えたのです。ここに、真の解放がある。神さまがこの私をお救い下さったということが明確に分からされることこそが、真の解放、自由につながって行くからです。このイエスさまが、今、私たちとも出会ってくださいます。解放を、真の自由を願う私たちと…。