【 説教・音声版 】2022年1月9日(日)10:30  主の洗礼主日礼拝  説教 「 なぜ洗礼を? 」 浅野 直樹牧師

主の洗礼主日礼拝説教
聖書箇所:ルカによる福音書3章15~17、21~22節


本日の礼拝は、「主の洗礼主日」の礼拝です。ですので、聖書の箇所もイエスさまの洗礼の場面が取り上げられていました。
実は、このイエスさまの洗礼は、先週ご一緒に考えていきました「顕現」とも深い関わりがあります。むしろ、主の顕現といえば、こちらの洗礼の場面ではないかと考えられているくらいです。なぜなら、この洗礼の場面では、イエスさまが公に神さまの子どもであることが宣言されているからです。

「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあるからです。そこで、こういった考え方も生まれました。イエスさまは洗礼を受けられたことによって神さまの子どもとされたのだ、と。もっと専門的に言いますと、「養子説」です。つまり、本来、神の子ではなかったが、洗礼によって養子として迎えられたのだ、といった考え方です。

もちろん、これは教会の、聖書の考え方ではありません。「受胎告知」の場面でも記されていますように、イエスさまの誕生は「聖霊」によってもたらされたからです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」とマリアに告げられている通りです。そういう意味では、イエスさまは生まれる前から神の子、聖なる者、特別な存在として描かれているにもかかわらず、ではどうして洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか。なぜなら、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼とは、まさに「罪の赦しを得させるため」の「悔い改めの洗礼」だったからです。

キリストの洗礼 ピエロ・デラ・フランチェスカ (–1492) ナショナル・ギャラリー



このイエスさまの洗礼の出来事については、今日のルカ福音書のみならずマタイ福音書もマルコ福音書も記すところです。ちなみに、ヨハネ福音書には、他の福音書と同様に洗礼者ヨハネのことは記されていますが、明確にはイエスさまが洗礼を受けられたとは記されていません。もちろん、それぞれの記事に共通性がある訳ですが、それぞれの特徴もある訳です。そして、この言葉もそんな特徴の一つとなっています。

「民衆が皆洗礼を受け」。この洗礼の場面に「民衆」が出てくるのは、このルカだけです。では、この「民衆」とは一体誰のことでしょうか。洗礼者ヨハネから厳しく叱責され、「では、わたしたちはどうすれば良いのですか」と尋ねるしかなかった隣人を思いやることが出来なかった群衆、規定以上に取り立てては私腹を肥やしていた徴税人、脅しては金品を巻き上げていた兵士たちです。自分たちの罪が赦されるようにと、悔い改めの洗礼を求めてきた者たちです。その中に、イエスさまがいた、とルカは明確に語る。おそらく、列をなして自分の番が回ってくるのを待っていたのでしょう。その行列にイエスさまも並んでおられたのです。そして、「民衆」と一緒に洗礼を受けられた。

私たちは、このヘブライ人への手紙の言葉を良く知っているでしょう。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。

イエスさまは私たちと決して遠くない方。私たちのようには罪を犯されませんでしたが、同様の試練・苦労・困難を味わって下さったから、私たちを理解して同情してくださる。だから、大胆にこの方のところにいって助けを求めようではないか。私たちにとっては大いに慰められ、励まされる言葉です。ここに記されていますように、私たちとイエスさまとの違いは、罪を犯されなかったことだけなのです。なのに、今日の箇所では、罪を犯されなかったはずの方が、罪を犯した者と一緒に、罪の赦しの悔い改めの洗礼を受けられた、という。これは、一体どういうことか。

私たちは、ここにもっと深く思いを向けていく必要があると思うのです。罪を犯されなくても、私たちと同様に様々な試練に遭われ、私たちの気持ちを理解して下さるだけでも、しっかりと受け止め助けて下さるだけでも幸いなのに、さらにその先、私たちがどうしても越えられない壁、「罪人」であるという壁さえも、イエスさまの方から乗り越えて下さる。罪人の私たちと一緒になって、あたかもご自身もそんな罪人の仲間のようにして、一緒に洗礼を受けるために並んでくださる。

それが私たちが主、救い主と呼んでいる方のお姿なのだ、ということを伝えてくれているわけです。そんなイエスさまに対して天からこのような声が聞こえてきた、と記されています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。最初に言いましたように、これは、この時から神さまの子とされた、という意味ではありません。そうではなくて、生まれる前から神さまの子どもに違いないのですが、これから公に宣教の働きをはじめられるに及んで、公に神さまの子どもであるということを明らかにするためのものです。

しかも、この言葉は、詩編2編7節の言葉とイザヤ書42章1節の言葉が合成されたものだと言われます。そして、詩編2編7節の方は王の戴冠式の時に用いられた言葉であり、イザヤ書42章1節は、いわゆる「主の僕の歌」と言われるものの一つなのです。つまり、これから始まるであろうイエスさまの活動は、王として、また僕としての働きであることを暗示しているわけです。

今日の福音書の日課では、初めに洗礼者ヨハネのイエスさまについての言葉が読まれました。「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』」。

洗礼者ヨハネが言うところによると、イエスさまは洗礼者ヨハネよりもはるかに偉大な方で、「聖霊と火」で洗礼をお授けになられる方です。これは一体何を意味するのか。様々な解釈がありますが、簡単に言ってしまえば、「聖霊」は神さまの働きを表し、「火」は後の「焼き払われる」という言葉からも分かるように「裁き」が連想されるものです。つまり、ここに「王」としての偉大な働きを見てとることができる訳です。王とは本来、正しい裁きをすべき存在です。そうでなければ不正が蔓延って、その民たちは路頭に迷うことになる。火は本来、私たちの生活にとって欠かせないものです。しかし、時にその本来の目的を離れ、暴走することがある。この冬場、連日のように火災のニュースが飛び込んでくることからも明らかです。しかも、人はあえてその暴走を起こそうとさえする。

前述の洗礼者ヨハネから洗礼を受けるためにやってきた人々、群衆、徴税人、兵士の罪のリストは、それほど大したものではないようにも思います。ある意味、常識を守れば良いのです。しかし、人はそれさえも出来なくなってしまうのです。隣人のことを気にかけなくなる。自分のことばかりにしか関心がいかなくなる。みんなもやっているからと不正に手を染めてしまう。少しばかりの権力を手にしたからといって、それを乱用して周りの人々を傷つけてしまう。自分だけじゃない、世の中がそうだからと社会の空気に飲まれて、人は簡単に逸脱してしまうものです。それは、正されなければならない。そういう意味でも、洗礼者ヨハネがやってきたことは正しいのです。

ヨハネが思い描いていたメシア、王としてのイエスさまのお姿も正しいのです。誰かが正さなければならない。しかし、それだけでは、罪人である私たちは救われない。だからこそ、洗礼者ヨハネが知らなかった僕としてのイエスさまが必要なのです。しかも、同時に王であられるからこそ、罪をいい加減に扱われはしない。では、どうするのか。罪を、その咎を、ご自身で引き受けられた。私たちの僕となって。それが、十字架なのです。もうこの時点から、いいえ、それよりも遥かに前から、そのことを見据えながら、私たちの本質的な問題を解決するために、イエスさまは王として、また僕として、私たちと同じように、まさに罪人の一員のようになって歩んでくださった。私たちが滅びないように。生きる、生かされるように。

「なぜ、洗礼を?」。これは、イエスさまへの問いであると同時に、私たち自身への問いでもあると思います。私たちは「なぜ、洗礼を」受けたのか。罪人だからです。罪赦され、救われるためです。しかし、ただ救われる、赦されるためではありません。私たちのために洗礼までも受けられた神の子イエスさまと繋がるためです。だからパウロはこうも語るのです。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。……わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。……このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。

私たちは普段、なかなか自分たちの洗礼の恩寵を感じている訳ではないのかもしれません。しかし、もう一度、この年の始まりの時、イエスさまの洗礼の意味を噛み締めると同時に、この私たちに与えられている洗礼の恵みがいかに尊いものであるのかを心に刻んでいければと思っています。