【 説教・音声版】2021年12月19日(日)10:30  降誕(待降節第4)主日聖餐礼拝 説教 「わたしは幸いだ 」 浅野 直樹 牧師

待降節第4主日(クリスマス)
聖書箇所:ルカによる福音書1章39~55節



本日は先週もお話しましたように待降節第四主日ではありますが、クリスマスを祝う礼拝をしています。そこで、説教の後に教会讃美歌38番の1節と4節を歌いたいと思って
います。普段、讃美歌を選ぶときにはそんなことはしていませんが、今日はせっかくのクリスマスの祝いですので、選ぶ者の特権を利用いたしまして私の好きな讃美歌を選ばせて
いただきました。特に4節の歌詞が気に入っています。「わたしのこころ 住居にして どうか主イエスよ 来てください。わたしはいまは あなたのもの こころの家に 来て
ください」。「どうか主イエスよ 来てください。」「こころの家に 来てください」。特にこのクリスマスの季節、そう思わされるからです。

今日の福音書の日課には、二人の女性が登場して参ります。一人はエリサベト、もう一人はマリアです。この二人は親類だと言われます。エリサベトはご存知のように、洗礼者ヨハネの母、祭司ザカリアの妻です。この夫妻にはなかなか子どもが与えられず、とうに産むことを諦めざるを得なかった年齢だったと考えられています。しかし、天使のお告げを受けて、エリサベトは身ごもっていました。妊娠6ヶ月です。対してマリアは、おそらくまだ十代だったでしょう。親子以上の年齢差があります。人生経験も全く違っています。そのマリアが急いでエリサベトに会いに行きました。それは、いわゆる「受胎告知」を受けたからです。
この「受胎告知」については、今さらお話する必要はないくらいでしょう。まだ結婚もしていなかった処女マリアのところに天使ガブリエルが現れ、イエス・キリストを身ごもるとのお告げを受けたのでした。最初はマリアも信じられない様子でしたが、自分の思いよりも神さまの御心を優先して、このように答えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。有名な、また信仰者である私たちが見習うべき言葉です。

そのマリアがなぜエリサベトに会いに行ったのか。色々な理由が考えられるようですが、私は単純に話したかったからだ、と思っています。この自分が体験したあの不可思議な出来事を分かち合いたかったから、です。しかし、もちろん誰でもいいわけではありません。なぜなら、当然信じてもらえないからです。逆に、痛くもない腹を探られるようなことにもなりかねません。ですから、エリサベトなのです。親類といっても、それほど交流があったわけではなかったでしょう。世代も全く違う。人生経験だって違う。何一つ共通項がないようにも思えます。しかし、彼女もまたあの不可思議な出来事を経験していました。神さまの約束の力を、言葉の力を体験していました。だから、話したかった。自分がまさに経験したことを、改めて確認したかった。だから、急いで会いに行った。そうではないか。

この二人の出会いは、まさに喜びの声が伝わってくるようです。もうお腹が目立ちはじめた頃でしょう。マリアの姿を見て、エリサベトは駆け寄ったと思います。「胎内の子がおどった」からです。妊婦の大変さを知らない男の私が軽々に言えることではありませんが、それでもやはり、女性たちの命の絆は神秘だと思います。生まれる前からすでに、胎児と強い絆で結ばれているからです。それは、やはり男性には分からないことです。エリサベトの胎内に宿っている子どもは、イエスさまの先駆者としての使命が委ねられている洗礼者ヨハネです。その命の絆のせいか、母親であるエリサベトも聖霊に満たされて、このように語りました。

「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。二人が抱き合いながら、互いに祝福の言葉を語っている姿が目に浮かんできます。

この物語を読んでいますと、クリスマスとは本来女性たちのものであったようにも思えてきます。なぜなら、先ほどのエリサベトの言葉にありますように、もうすでにイエス・キリストはマリアの中に来ておられるからです。そういう意味では、世界で最初にクリスマスの祝福に与ったのは、この二人の女性たちだったといっても言い過ぎではないでしょう。ヨハネによる福音書によりますと、イエスさまは神さまの言葉であり、また命であると言われています。そのイエス・キリストが、私たちのところに来てくださった。私たちの只中に聖霊によって宿ってくださった。その命の絆を最も敏感に、そして五感で感じ取ることができるのが、やはり女性だと思うのです。

そう考えていきますと、古来から教会には女性たちの方がはるかに多かったことにも合点がいくように思います。そういう意味では、男性たちはとても太刀打ちできないでしょう。しかし、私は、以前もお話したと思いますが、このマリアは女性だけでなく私たち男性も含めて全ての人の、人類の代表、模範だと思っています。ですから、そのような区別を超えて、ご一緒に歌いたいと思う。

「わたしのこころ 住居にして どうか主イエスよ 来てください。わたしはいまは あなたのもの こころの家に 来てください」。「どうか主イエスよ 来てください」と。
神さまはこのクリスマスの出来事に女性たちを用いられました。それは、イエスさまが人として生まれるための器ということだけではなかったと思います。マリアはエリサベトと会って、こう賛美しました。いわゆる「マグニフィカート」です。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう。

力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」。マリアはここで自分のことを「身分の低い、この主のはしため」と言っています。これは、いわゆる「謙遜」ではないと思います。当時の女性の立場については、皆さんも何となくお分かりでしょう。現在も色々と課題はありますが、それらとは比べものにならないほど、大変厳しいものでした。もちろん、親の愛情は注がれていたと思います。

-The Visitation- フィリップ・ド・シャンパーニュ (1620–1674) プリンストン大学美術館


しかし、当たり前のように男性と女性とでは扱いが違った。お前が男の子だったら良かったのに、と何度も聞かされてきたのかもしれません。マリアはヨセフの許嫁だったことはご存知でしょう。しかし、もちろんマリアには選択権はありません。マタイ福音書を読んでみましても、ヨセフは良さそうな人でしたので結果的には幸せだったかもしれませんが、父親が結婚相手を勝手に決めることができた時代です。エリサベトもそうでしょう。夫のザカリアは理解し、優しくしてくれたかもしれませんが、周りの人たちからは子どもが産めないことを散々に言われ、針の筵だったかもしれないのです。

女性と言うだけで…。このいわれなく虐げられる社会、それが、彼女たちの現実でした。そんなマリアがこう賛美するのです。神さまはこの私をも目を留めてくださっていたのだ、と。そのことに、これらの出来事によって気付かされたのだ、と。そう、イエスさまを身籠ったことによって、です。それが、力ある神さまの偉大な業だからです。そして、ここにクリスマスのメッセージもあるのではないか、と思う。

このクリスマスによって、私たちにイエスさまが与えられたことによって、こんな私たちにも神さまは目を留めてくださっていた、目を留め続けてくださっていたことに気付かされるからです。見えていなかった、気づいていなかった神さまの眼差しが、愛が見えてくる。だからこそ、私たちも賛美することができる。この私たちの上に注がれていた神さまの愛に気付かされたからこそ、賛美することができる。私たちは本当に幸せ者ですと感謝することができる。そして、マリアと共に声を合わせてこう告げることも許されていると思います。「今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」と。

確かに、この命の鼓動に私たちはいつも気付けるわけではないのかもしれません。妊娠初期には全く気付くことはありませんし、かえって「つわり」で苦しむことになるのかもしれません。しかし、その「つわり」でさえも、私たちの中に命が芽吹いていることを教えてくれるのです。私たちの中に宿ったイエス・キリストという命は、その命そのもののゆえに育つのです。否定しようもないほどに、誰の目にも明らかになるように育つのです。私たちは、そのゆりかごでしかないのかもしれない。しかし、それが嬉しいのです。
喜びなのです。男女を超えたその命の絆に、あのマリアとエリサベトと同じように、その幸いを共に祝っていきたいと思います。