【 説教・音声版】2021年12月5日(日)10:30  待降節第2主日礼拝 説教 「神から遣わされた人 」 浅野 直樹 牧師

待降節第二主日礼拝(むさしの教会)
聖書箇所:ルカによる福音書3章1~6節



今日は待降節第二主日。アドベント・クランツ(アドベント・リースとも言いますが)の2本目のローソクにも火が灯りました。
そんな本日と来主日の2週間に渡りまして、福音書の日課は洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)が取り上げられることになります。それは、このヨハネがイエス・キリストの先駆者と受け止められているからでしょう。
 そんな洗礼者ヨハネですが、ご存知のようにこの人も不思議な生まれ方をした人でした。彼の両親はザカリアとエリサベトと言います。このエリサベトは「不妊の女」と言われていまして、二人の間には子どもはいませんでした。二人とももう高齢になっており諦めていたのかもしれません。この二人は祭司の家系の出身で、夫のザカリアは祭司としての職務についていました。どうやら当時の祭司たちはいくつかの組に別れており、当番制で神殿の職務についていたようです。あるとき、彼の組が当番となり、しかも滅多に回ってこない聖所で香をたく務めにクジで当たったのです。その奉仕にあたっていると、そこに天使が現れ、このように告げたと言います。

「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」。

すでに、ここで洗礼者ヨハネが神さまから遣わされた特別な人であることが明らかにされていると思います。しかも、彼の使命も明らかです。彼の使命は、イスラエルの多くの人々を神さまのもとに立ち帰らせることです。そのために、彼は主に先立って出ていき、「準備のできた民を主のために用意する」のだ、と言われています。しかし、ザカリアはこのお告げを信じることができませんでした。このように語られています。「そこで、ザカリアは天使に言った。

『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』」。結局、これが不信仰とみなされ、彼は口をきくことができなくなりました。確かに、このことは「罰」といった側面がないわけではないと思います。しかし、私には別の側面もあるように思えてならないのです。彼は口がきけなくなることによって神さまの力を体験したからです。確かに、ザカリアにとって口がきけなくなることは不幸なことです。不自由なことです。罰とみなされてもおかしくないことです。しかし、いくら口をきこうとしても出来ないそのもどかしさの中で、彼は考えたことでしょう。否応なく、考えさせられた。現実のこととは思えない、夢幻のような、非常識なあの出来事、そこで語られた言葉を、彼は何度も何度も反芻していったのだと思うからです。そして、時間の経過とともに、確実に妻であるエリサベトの肉体が少しづつ変化していくさまをも見せられていくことになったからです。

そして、ついにお告げの子ヨハネが誕生し、口がきけるようになったとき、彼は溢れるような思いをもって神さまを讃美しました。

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」。そして、こうも語っていきました。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを 知らせるからである」と。まさに、先ほどの天使が告げた思いが、ここに溢れていると思います。この言葉がザカリアの口から溢れ出たのも、ヨハネが生まれるまでの10ヶ月間、先ほど言ったような熟考に熟考を重ねてきたからではないかと、私は思います。

その洗礼者ヨハネが成人しまして、歴史の表舞台に登場してきたのが、今朝の福音書になります。そこでルカはこう書き始めていきました。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」。この福音書を記したと考えられていますルカなる人物は、医者ルカとも言われています。医者というのは、古今東西論理的思考を求めるものなのかもしれません。

ルカも例外ではなかったようです。この福音書の冒頭でこのように記しているからです。「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」。このルカの性質もあって、先ほどの文章があるのでしょう。

つまり、この出来事が歴史上現実に起こった、ということです。皇帝ティベリウスはアウグストゥスの後継の皇帝です。これは、歴史上はっきりしていることです。ですので、その「治世の第十五年」というのは、紀元28年から29年頃であることもはっきりしています。また、その時代にポンティオ・ピラトがユダヤの総督であったことも、ヘロデ(正式にはヘロデ・アンティパスですが)がガリラヤの領主であったことも、その他のことも歴史的事実であることが分かります。つまり、ルカは念入りに調べて、これから語ろうとする事柄が単に絵空事などではなく、歴史の中で、つまり人の営みの中で現実に起こった出来事であることを伝えたいわけです。確かに、そうです。洗礼者ヨハネが、そして後にイエスさまが活動される紀元28年、29年のパレスチナの現実世界がそこに描かれている。しかし、ただそれだけでもないように思うのです。後に、またこのルカが福音書を記した頃にはローマ帝国による迫害がすでに起こっていたでしょう。

ピラトは言うまでもなくイエスさまを十字架刑にした総督です。ヘロデ・アンティパスも異母兄弟であるフィリポも、幼子イエスを殺そうとしたあのヘロデ大王の息子たちです。また、大祭司であったアンナスとカイアファとはイエスさまと敵対し、十字架刑へと追いやっていった張本人たちです。つまり、ここに登場してくるほとんどの人物たちは、イエスさまを排斥した者たちなのです。つまり、その時代とは、彼らに代表されるようなイエス・キリストを排斥するような時代であったと言っても言い過ぎではないようにも思うのです。

また、それは同時に、イエスさまが愛された人々…、貧しく、生活のために、生きるために、右も左も分からず罪を犯さずにはいられなかった人々を排斥するような時代でもあったのでしょう。私は次のような言葉が浮かんできます。ヨハネによる福音書1章10・11節、「言(イエス・キリストのことですが)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。そんな現実の世に神さまから遣わされたのが、洗礼者ヨハネでした。

彼の活動はすでに旧約聖書に預言されていた、と言われます。それは、イザヤ書40章の言葉です。この箇所をご覧いただければお分かりのように、新共同訳では「帰還の約束」との小見出しがつけられています。では、どこからの帰還なのか。あのバビロン捕囚からです。今日は詳しくお話しする時間はありませんが、ご存知のように新バビロニア帝国により南ユダ王国は滅ぼされ、多くの国民が連行されていきました。そこからの帰還の約束、希望がイザヤ書40章だ、と言うのです。その帰還を困難にさせるのが、山であり谷でした。パレスチナにはそういった地域が多いので、その困難さは手にとるように分かったと思います。ですから、その山が低くされ、谷がなくなり、全てが平坦になる、と言うことは、帰還(国に戻ること)を困難にさせるものが取り去られることを意味したのでしょう。

人生山あり谷あり、といったりします。人生には困難がつきものだ、と言うことでしょう。それに対して平坦にされると言うことは、そういった困難が取り去られて、楽な、平安な人生が与えられることを意味するのかもしれません。しかし聖書は、必ずしもそのように期待通りには語ってくれないのです。なぜならば、これは次週の日課になりますが、洗礼者ヨハネは人々に悔い改めを説いていくことになるからです。しかも、辛辣な言葉によって。

洗礼者ヨハネの説教 1566年:ピーテル・ブリューゲル (1526/1530–1569) ブダペスト国立西洋美術館



私たちはここでもう一度思い起こさなければなりません。洗礼者ヨハネの使命とは一体なんだったのか、と言うことを。彼の使命とは、神さまのもとに人々を立ち帰らせるということです。つまり、先ほどのイザヤ書の帰還と重ね合わせていえば、山や谷が変えられて平坦にさせられるのは、帰還を困難にさせるものの除去にあったわけですから、神さまのもとに人々が立ち返ることを困難にさせるものの除去という意味合いがあるのかもしれません。ならばむしろ、私たちの山や谷とは、困難や不幸などではなく、神さまを求めなくする、必要としなくする、自分たちだけで十分にやっていけるという思い、あるいは生
活全体なのかもしれないのです。

洗礼者ヨハネについては、次週より深く考えていくことになると思います。しかし、忘れてならないのは、このヨハネがイエスさまの先駆者だと考えられているということです。もちろん、このヨハネと同じ方法をイエスさまは用いられなかった訳ですが、しかし、イエスさまの目的もヨハネと同様に、人々を神さまのもとに立ち帰らせることにあったということは、忘れてはならないことだと思うのです。