【 説教・音声版 】2021年11月21日(日)10:30  聖霊降臨後最終主日  説教 「イエスとピラトの対話 」 浅野 直樹Sr.牧師



11月第3週のきょうが、聖霊降臨後の最後の主日となりました。次週から教会の暦は新しくなり待降節です。きょうが終わりで次週からは新たな暦が始まります。

きょうの三つの聖書日課は、先週に引き続き終末を描いたテキストとなっています。私たちに終わりということを強く意識させるみことばです。終わりというのは区切りです。楽しいことがずっと続いていたあとに来る終わりには、終わってしまったという残念な気持ちが残ります。反対に、辛抱の時期が続いたあとに来る終わりというのは、長く続いた辛い時期がようやく終わったという安堵のため息がつけます。私たちの受け止め方はそのときそのときによって様々ですが、終わりという区切りそのものが私たちに何かを語りかけてくるのです。

終末ということを告げるきょうの三つの聖書箇所ですが、それぞれに特徴があります。最初は旧約聖書からダニエルが聞き取った預言です。王座に座るのは神様でしょう。雪のように白い衣装をまとっています。そして王座は燃える炎に包まれています。そこに「人の子」のような人物が天の雲に乗ってやって来て前に進み出て、人の子は玉座に座る王からみっつのものを授かります。三つのものとは、権威、威光、王権、それらを受けとったのです。

この三つをもって人の子が諸国、諸部族、諸言語の民を支配統治するという幻が語られたのです。14 節の「諸国、諸族、諸言語の民」というところに、旧約聖書らしさが感じられます。国籍、民族、言語の違いが強く意識されていて、民族間の争いを繰り替し、領土を奪い合っていた時代を彷彿とさせます。けれどもやがて人の子がやってきて、そうした時代は終わり、すべての国々と民族が人の子の支配のもとにおさまります。国とか民族、支配とか統治という言葉づかいから、ダニエルの預言の言葉では、争いの絶えなかった当時のイスラエル社会が見えてきます。そういう時代を生きた人たちにとって、このような預言はとても大きな励みになったことと思います。

続いて第二朗読は、ヨハネによる黙示録からです。その1 章8 節の言葉、「わたしはアルファであり、オメガである」、これはヨハネが幻のなかで聞き取った、神の声です。神様の語りかけです。神様のみ旨がここにあります。「わたしはアルファであり、オメガである」、とても象徴的であり、心に残るみことばなので覚えている方も多いことと思います。アルファとはギリシャ語のA のことでアルファベットの始まりのこと、オメガはZ ですから、同じくアルファベットの終わりの文字です。ですから「わたしはアルファであり、オメガである」とは、私は初めであり終わりであるということになります。初めも終わりも神様のことですから、すべて神様の支配のなかにあるということが語られています。

さきほども言ったように、始まりとか終わりというのは言葉にしなくても私たちに迫ってくるメッセージがあります。わくわくしたり、緊張したり、寂しくなったり、ほっとしたりするのです。そそうした刹那を私たちは日頃感じながら生活しているわけですが、始まりも終わりも、すべて神のうちにあるのです。これから起こるかも知れない様々な終わりということに心を向けると、何もわからない不安とか恐れの感情が湧いてきたりすることもあるでしょう。たとえどんな感情が私たちの心の内に広がろうとも、それらはすべて神のオメガのなかの出来事なのです。

本日の福音書に表れているのはどんな終わりかというと、イエスの生涯の終わりの場面でした。イエスが取り押さえられて、ローマ総督ピラトの前に連れてこられてピラトから尋問を受けているところです。イエスに十字架刑が宣告される直前の様子です。そこでのピラトとの会話が、福音書が示す終わりです。ピラトはイエスに尋ねます、「みんながお前がユダヤ人の王だと名乗っていると言っているが、お前はユダヤ人の王なのか」。ここにも王という言葉が出てきています。ダニエル書にも王座とか王権がありました。黙示録にも王様が出てきます。そしてピラトの言葉からも。それに対してイエスの口からは、「私は王です」という言葉は出ませんでした。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」これがイエスの返答でした。興味深いやりとりです。イエスは「私はユダヤ人の王です」とは言わなかったのです。

ムンカーチ・ミハーイ (–1900) イエスを尋問するピラト 1881年ハンガリー国立美術館



王様という言葉から私たちがイメージするのは、最高の権力者でしょう。その国で最も力をもった人物が王という共通の認識があります。イエス・キリストを主と仰ぎ礼拝する私たちにしてみても、イエスは王様というイメージはあまりピンときません。それはイエスの十字架のことを知っているからです。けれどもイエスの時代を生きた民衆はそうではありませんでした。ただならぬ人イエスと出会い、そのお話しと数々の奇跡と癒しのわざから、ユダヤ人が抱いたイエスのイメージ、それは王様だったのです。

数週間前の日曜日の福音書に、盲人バルティマイがイエスによって目が見えるようになったという奇跡のお話しがありました。あのお話を思い出してください。バルティマイはイエスに向かってなんと叫びましたか。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫んだのです。イスラエルの王ダビデの子です。人々はイエスにダビデ王をみたのです。そうした民衆の声をピラトは聞いていました。ピラトはローマから来ました。ローマ皇帝の命を受けて、ローマの支配下にあったユダヤを監督するのが仕事です。喜んでこの仕事をしていたかというと、そういう印象はありません。

地方に飛ばされたという気持ちがくすぶっていたように見うけられます。めんどうなことに煩わされるのはだれも好まないですが、そういうタイプと言って差し支えないでしょう。彼の頭の中にあること、それをひとことでいうならこの世の力です。高い地位について部下を従えて、誉れを受けること。彼が一番なりたかったのは間違いなくローマ皇帝でしょう。王様にあこがれた人がピラトです。そういうピラトがイエスと対話しているのです。イエスは彼にはっきり言いました、「わたしの国は、この世には属していない。」この世にどっぷり属しているピラトは、これを聞いてきょとんとしたことでしょう。

王様というのもこの世の言葉です。国という言葉もこの世の言葉です。人としてこの世に生を受けたイエスもまたこの世に属することになりました。けれどもピラトの前に立ったときイエスは言ったのです、「私の国は、この世には属していない」。パウロがフィリピの教会に宛てた手紙のなかで書いた一言が思い浮かびます。「私たちの本国は天にあります。」この世に属していながらも、この世には属さない人、それがイエス・キリストを信じる私たちだといえます。

「私はこの世には属していない」、そう言われて、ピラトは言葉が出なくりました。ただ同じ質問を繰り返すだけです、「それでは、やはり王なのか」。するとイエスは答えます。ここでイエスは真理という言葉を持ち出すのです。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」真理がこの世に属さない何かであることを、イエス様のこの言葉は指しています。真理は、ヨハネ福音書に度々登場するキーワードです。真理、もっとも具体性に欠ける言葉です。無理もありません、この世に属していない何かを指し示しているのですから。ピラトには何も響かなかったことでしょう。たぶんこれを聞いてキョトンとしたのではないでしょうか。ただこういうしかありませんでした。

「真理とは何か?」。ピラトが発したこの問いは哲学的でも神学的問いでもありません。「真理ってなあに?」その程度の意識から出ています。しかしながらそれに答えたイエスの次の言葉は、私たちに語りかけてきます。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」イエスはここで初めて自分を結びつけたのです。真理という何かに結びつけて自身を証したのです。


きょうは聖霊降臨後最終主日です。そして次週からは待降節となります。救い主イエス・キリストの降誕を待ち望みます。アドベントからクリスマスにかけて、私たちはヨハネ福音書の次の言葉をきっとどこかで聞くことでしょう。「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」・・・恵みと真理に満ちた方が、肉となって私たちの間に宿られました。来週からその方を待ち望みます。真理。最も具体性に欠ける言葉が、肉をとりました。そして人となりました。真理は、イエス・キリストとして最も具体的になられたのです。