【 説教・音声版】2021年11月7日(日)10:30 全聖徒主日礼拝  説教 「 死に打ち勝つ 」 浅野 直樹 牧師

全聖徒主日(召天者記念)礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書11章32~44節

今年も、何名もの仲間たちが召天(亡くなられ)されました。それぞれの在りし日のお姿が目に浮かんできます。寂しい限りです。
昨今は、人生90年時代、100年時代と言われ、ますます「死」の現実感が遠のいていった感が致しますが、昨年からのコロナ禍で、特に第5波によって医療現場が逼迫し、自宅で命を落とされた方々が頻発したことから、改めて「死」の実感が…、より率直に言いますと「死の恐怖」が身近になった気が致します。現在は、ひと頃からすれば信じられないくらいに落ち着いた状態にあります。

そのためもあって、今日から礼拝の人数制限を撤廃いたしました。今でも、この急激な減少傾向の理由が分からない、と専門家も言っています。もちろん、ワクチンの効果もあるのでしょうが、それだけでは説明がつかない、と言うのです。私は、連日マスコミ等で取り上げられた自宅で重症化していく姿に、やはり「恐れ」を抱いた人たちが多くいたからではないか、と個人的には思っています。あの初期の頃、志村けんさんの死をきっかけに潮目が変わったように…。

そう、「死」はやはり恐ろしいのです。なぜなら、全てのものから…、愛する者たちから、社会から、この世の営み・生の営みから、そして、自分自身からも断ち切られてしまうとしか思えないからです。そう、やはり「死」は終わりなのだ、全くの「暗闇」なのだ、と思えてくる。ですから、できれば避けたいと思うのです。しかし、誰もがその現実からは逃れられないことも知っています。全ての人が、私たちの誰もが死を迎える。では、どうすれば良いのか。諦めか、無関心か、絶望か。このことに、真剣に向き合ったのが聖書だと私は思います。なぜなら、聖書の中には、この「死」に対して、諦めも、無関心も、絶望も記されているからです。まさに、死に向き合わされた人々の歴史でもある。しかし、聖書が語るのは、それだけではありません。この人類最大の敵とも言われる「死」の克服をも語っていきます。今日の日課も、そうでしょう。先ほど読んでいただいた最初の箇所には、このように記されていました。

「主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」。2番目に読まれた箇所も、同様のことが記されていました。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。

もうお分かりのように、鍵になるのは神さまです。神さまの存在です。人は自分たちの死の問題をどうにも解決のしようがない。そこで取り得る人の対策は、諦めか、無関心か、絶望でしかないわけです。どうせ人はいつかは死ぬ。それは、仕方がない定めだ、と諦めるしかない。

あるいは、どうせ解決のないことなら、見ぬふりをして生きるしかない。そんなこと気にしないで、生きている間を楽しもうではないか。今ひとつは、死んだらお終い、と不安を抱えながら、絶望感に苛まれながら生きるしかない。そのどれかか、あるいは、互いに混じり合いながら死を見つめるしかない。しかし、聖書は、そうではなく、神さまに目を向けなさい、と言います。人によって解決がいかないのなら、人を越えた存在である神さまにこそ、思いを向けなさい、と語るのです。

レンブラント「ラザロの復活」Los Angeles County Museum of Art


今日の福音書の箇所は、ラザロの復活物語りでした。このラザロには、先ほど読んだ箇所に出てきましたように、マルタとマリアといった姉妹がいました。一般的に、このラザロはこの姉妹たちの弟ではなかったか、と考えられています。この物語には両親の存在は出てきません。おそらく、二人ともすでに他界していたのでしょう。この兄弟たちが、どれほど歳が離れていたのか、あるいは、彼らは何歳くらいだったのか、それらの情報も私たちは持っていませんが、おそらく、それほど年齢を重ねていなかったと思います。まだ、年若かった。姉たちは、末っ子のラザロを可愛がってきたと思います。そして、両親亡き後、兄弟3人で支え合って生きていく中で、より絆も深められていったのではないでしょうか。

そのラザロが重病に倒れてしまった。その様子から、姉妹たちは危険だと悟ったのでしょう。すぐさま、イエスさまに使いを出しました。弟を助けて欲しいと。この兄弟たちとイエスさまとの間には、深い親交があったと思われます。そして、彼らはイエスさまを尊敬し、その力を、奇跡を起こす力を信じていました。だからこそ、使いを出したのです。姉妹たちは苦しむラザロを看病しながら、ひたすらイエスさまを待っていました。

なんとか間に合って欲しいと祈る思いで待ち続けました。しかし、ラザロは息を引き取ってしまった。後に、姉のマルタがラザロが墓に葬られてから「4日も経っている」と語っていることから、イエスさまが到着なさったのは、ラザロが死んでから3~4日後だったと思われます。そのイエスさまがマリアに会いたがっていると知らされて、マリアは飛んでいきました。そして、イエスさまに会うや否や「足もとにひれ伏し」て、というよりも、へたり込むようにしてだったのではないかと思いますが、こう語らずにはいられなかったのです。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。少し非難の思いがこもったきつい言い方だったのか、涙で途切れ途切れの言葉だったのか分かりませんが、マリアの素直な気持ちをぶつけた言葉だったと思います。

私たちも、どこか似たような思いを持ったのではないでしょうか。奇跡を願った。死なないで済むように、と祈った。私から奪い取らないで、と心の中で叫んだ。「主よ、もしここにいてくださいましたら」と。
今日の箇所で、多くの人たちが立ち止まらされる箇所があります。皆さんも、そうかもしれません。それは、イエスさまが「憤り」を覚えられた、という言葉です。愛する者を亡くし、嘆き悲しむ人々を前に、なぜ憤られたのか。これは、なかなかに難しい問題です。色々な解釈もありますが、今日は時間の関係もありますので、代表的なものを一つだけご紹介したいと思います。この「憤り」は、実は「死」そのものに、あるいは「死」の
背後にあると考えられていた悪魔に対する憤りではないか、というものです。これほど人々を悲しみに、失意に引き落とす死に対する憤り。

それが、神さまの思いとも重なるのです。人を死の縄目から解き放ちたい、と。そして、イエスさまは事実、死んだラザロを復活させられます。死から救い出されたのです。しかし、私たちはこう思います。そんなことは起こるはずがないだろう、と。現に、私たちの愛する者たちは死んでしまったままではないか、と。

そうです。人は死ぬのです。このラザロもやがては死んだはずです。死なない人など、一人もいない。しかし、死に打ち勝つことはできる。死を乗り越えることはできる。ある方は、この後のラザロの歩みを想像するのも面白い、と言います。程なくして、ラザロは自分を復活させたイエスさまの十字架の死を体験したことでしょう。他の弟子たちのように、愕然としたはずです。死なれたこと自体が信じられなかったのかもしれない。しか
し、イエスさまの復活を知ることになった。あのイエスさまは、本当に神の子であったと知ることになった。やがて、自分も歳をとった。姉たちを看取っていったのかもしれない。そこで思うことは、希望です。このイエスさまによる希望です。死を打ち破る力を持っておられる方が、この私を、私の姉妹たちを愛してくださっているという希望です。
このお方が私たちに良いことをしてくださらないことなどありえない。これは、単なる気休めでしかないのでしょうか。そうかもしれません。しかし、私は、この信仰の力を信じております。なぜなら、自分の死期を悟りながらも、天国でイエスさまと共に生きる姿を望み見ながら、穏やかに旅立っていった人を知っているからです。いいえ、身近に・間近に見てきたからです。そして、死別の苦しみ・痛みの中にも消えてしまわなかった希望の光を体験してきたからです。

今日、共に覚える召天者の方々…、先に召された私たちの先達たち、愛する者たち、大切な仲間たちもそうでしょう。その希望を私たちに証してくれている。死に打ち勝つ希望があるということを。死は決して終わりではない、暗闇ではない、ということを。断絶ではなく、再会の喜びが待っているということを。神さまの、イエスさまのもとで。そうではないでしょうか。