【 説教・音声版】2021年10月31日(日)10:30 東教区 宗教改革日礼拝 説教「 真理は自由を与える」松岡俊一郎牧師(東教区長)

宗教改革日礼拝


※説教音声版

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

この時期は、街のあちらこちらでオレンジのカボチャの飾りを目にします。ハロウィンの飾りものです。さすがに去年と今年はコロナの影響で、フィーバー具合は少ないですが、10月31日というと一般の方はハロウィンと思われると思います。時々誤解されていますが、ハロウィンはヨーロッパで始まった習慣ですからキリスト教とまったく無関係というわけではありませんが、キリスト教のお祭りではありません。もともとはヨーロッパのケルト民族の収穫祭であり、一年の終わりである10月31日に精霊や魔女が集まると考えられていました。カトリック教会では11月1日を「諸聖人の日」として守っていますので、その前に精霊や魔女が大騒ぎをするというのです。しかしカトリック教会もハロウィンを教会の行事としてはいません。

中世の時代には10月31日は諸聖人の日の前夜ということで教会の周りに人々が集まってきていました。諸聖人の日には、聖人の聖遺物なども公開されていました。その人が集まる時を考慮して、修道士であり、神学教師であったマルティン・ルターがヴィッテンベルグの城教会の扉に「贖宥の効力を明らかにするための討論(いわゆる95カ条の提題)」を貼りだしたとされています。当時は、そのような議論を巻き起こすための行為が普通に行われていたといわれています。これが宗教改革の発端と言われていますが、実際には騒動になったのはもう少し後のようです。いずれにしろ、当時絶大な権力を有していたローマカトリック教会に、疑義を申し出たのですから、大変なことであったことは違いありません。

この贖宥というのは私たちにはあまり聞きなれない言葉ですが、当時の教会は資金集めのために、贖宥券(免罪符)を購入すれば死んだ後に行く試練の場所である煉獄で苦しんでいる先祖の魂が救われると勧めていたのです。ルターはこれに対して疑義を唱えたのです。キリストの十字架と復活による贖いでは救いが十分でないかのような教えは正しくない。また救いは贖宥券購入というような行為によって得られるものではなく、ましてやお金がチャリンと音を立てて投げ込まれた時に霊が解放されるなどというのはまやかしであると主張したのです。

この主張の背景は、今日の使徒書のある「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです。」「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」これらのことばに端的にあらわされています。このような主張に当時の教会は、厳しい反応を示します。審問官をたて、ルターに真意を問いただし、国会において撤回を求めるのです。しかしルターはそれを拒否し、破門され、宗教改革のうねりが広まっていくのです。

ルターの主張のもう一つの面は、律法の問題です。それは今日の使徒書や福音書の日課のポイントでもあります。

イエス様の時代のユダヤ教の教えの中心は、神殿礼拝と律法の遵守です。モーセの律法に加えて、多くの戒めが加えられ、膨大なものになっていました。律法が人々の生活の規範であり、この律法を守ることが救いの条件です。まさに律法が人の行動の規範、心の規範として支配していたと言っていいと思います。そこには束縛ということはあっても、自由という発想はなかったと思います。あえて言えば、律法を守ることによって得られる満足感と守らない人への優越感はあったかもしれません。旧約聖書で「自由」という言葉を検索すると、奴隷や捕らわれからの解放という意味での自由という言葉は出てきますが、今日私たちが考えるような信仰的に救われ、精神的に解放された自由ということはほとんど出てきません。ルターが問題としたのは、ユダヤ教が律法によって人々を束縛し、支配していたと同じように、中世では教会が、ことにローマ法王を中心とする教皇性が人々の心を束縛し、支配しているということでした。

Ferdinand Pauwels (1830–1904) 「ヴィッテンベルク城教会の門に95ヶ条の論題を貼り出すマルティン・ルター」1872年



それでは私たちはどうでしょうか。もちろん今の時代の私たちは、ユダヤ教の律法にも、教会の力にも束縛されてはいません。しかし、本当に自由であるかというと、それも怪しい。確かに時代が変わり、価値観が多様化し、何でもあり、何をするにしても自由になりました。それでは私たちの心が本当に解放されているかといえば、そうではないように思います。心の病にかかる人が増え続けています。本当に自由であるならば、解放されているのであれば、こんな現象は起こっていかないのではないかと思います。自由に行動できる半面、人目を気にし、監視され、評価され、批判され、束縛されていると感じているのではないでしょうか。

最近ではバッシングや炎上という言葉に代表されるように、他者を批判することが当たり前、よりエスカレートしているように思います。自由と言いながら、本当のところで、一人の人間として自由な考えをもち、自由な気持ちをもち、自由な行動がゆるされているとは思っていないのではないでしょうか。プレッシャー、ストレスなど様々な抑圧、緊張、攻撃を受けながら、それに締め付けられながら、耐えながら生きているのです。それは外からの束縛だけではありません。自分の心を自分で縛りつけている何かがあるように思うのです。

イエス様は「真理はあなたたちを自由にする」と言われます。真理とは何でしょうか。真理とはどんなときにも変わらないもの、確実な根拠に基づく正しさとされています。私たちの身の回りを見ると不変なものと考えられていたものが、時代や場所、環境によって絶えず変わり続けているように思います。むしろ今日は多様性が重んじられるようになりました。そのような中で変わらない確かさ、正しさとは何でしょうか。

 

ヨハネ福音書14章6節でイエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われています。聖書はイエス・キリストこそが真実なお方であり、私たちを様々な捕らわれから解放し、自由にし、生かしてくださるお方だと言います。人間の力で自由にされる、自由を獲得するのではなく、このキリストを信じる時にこそ、本当の自由が神様から与えられるのです。様々なルールからの自由、常識からの自由、世間体からの自由、批判や評価の目からの自由、優越感からの自由、劣等感からの自由、欲望からの自由、様々なものからの自由がキリストを信じることによって与えられるのです。

しかしそれは無秩序を意味するのではありません。マルティン・ルターは著書「キリスト者の自由」の中で「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する」と言っている通りです。キリストによって自由を与えられた人は、強いられてではなく喜んで他者に仕え、社会に仕えるのです。キリストによって与えられた自由は愛を生みだします。神様の自由が愛と一つだからです。パウロもまたガラテヤの信徒への手紙5章13節で「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」と言っているからです。

自由によって生み出された愛は他者へと向かうのです。イエス様は、わたしの掟は互いに愛し合う事だと言われます。キリストを信じる者に求められる愛と奉仕の業は、この自由に基づき、強いられてではなく、喜びをもって他者に仕えることが出来るのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン