【 説教・音声版】2021年10月24日(日)10:30 聖霊降臨後第22主日礼拝  説教 「 助けを求めてみるもんだ 」 浅野 直樹牧師

2021年10月24日 聖霊降臨後第二十二主日礼拝説教
聖書箇所:マルコによる福音書10章46~52節



今日の福音書の日課は、ひとりの人の救いの出来事・物語りだと受け取っても良いと思います。
ところで、皆さんは誰かに助けを求めたことがお有りでしょうか。日課の、あの目の不自由な人のように…。私自身、考えてみました。案外、思い当たらないものです。もちろん、色々なお願い事はしてきました。こうして欲しい、ああして欲しい、と。しかし、この人のように、真剣に、心の底から誰かに助けを求めたことがあっただろうか。無論、誰の助けも借りずに生きてきた、などとは思っていません。むしろ、多くの人の助けがあったからこそ、ここまで来れたとも思っています。しかし、それは、必ずしも明確な助けを求めた結果ではなかったようにも思うからです。むしろ、周りが気を利かせてくれた結果だ、と言っても良いのかもしれません。

では、なぜ助けを求められなかったのか。こんなことくらいで助けなど呼べない。自分で何とかしなくては。迷惑になるんじゃないか。理由は色々とあります。しかし、もっと探っていくと、そこに「信頼感の欠如」というのもあったように思うのです。どうせ助けを求めたって、何ともならないのだ、と相手の力不足もさることながら、果たしてこのことを受け止めてくれるのだろうか、私の味方であり続けてくれるのだろうか、逆に傷つきはしないだろうか、と心開けずにいたようにも思うからです。

助けを求めるということは、自分の問題・課題を曝け出すことにもなるからです。
今日の福音書に登場してまいります目の不自由な人は、バルティマイと言いました。「ティマイの子」(子というのが「バル」ですので)なので「バルティマイ」です。実は、これは非常に珍しいことなのです。福音書には多くの奇跡物語り、癒しの物語りが記されていますが、そのほとんどに登場人物の名前は記されていないからです。

そういう意味では、非常に珍しい。では、なぜここでわざわざ名前が記されているのか。多くの注解書が記していますように、おそらくこのバルティマイは良く知られた人物だったからでしょう。今日の日課の最後には、「なお道を進まれるイエスに従った」とありますように、この後生涯に渡ってキリスト者として生きたことが伺われます。ある方が記していますように、ひょっとして、この出来事に関しては、このバルティマイ自身があちこちの教会で語っていったのかもしれません。自分の身に起こった出来事として。ですから、「バルティマイ」といえば、「ああ、あの人のことね」って分かったんじゃないかと考えられているわけです。

この人は生まれながらだったかどうかは分かりませんが̶̶ある翻訳によると、「また(再び)見えるように」なりたい、と訳されているからです̶̶長い間、盲目だったのでしょう。当然、当時では普通の職業にはつけませんので、物乞いになるしかなかった。イエスさまがエリコの街を出られてすぐのことのようですので、街の門のすぐそばに座っていたのかもしれません。エリコの街は高低差はありましたがエルサレムから27キロほどしか離れていませんでしたので、多くの巡礼者たちが行き交っていたようです。その人たちからの施しを期待して、このエリコの道沿いには多くの物乞いたちが並んでいたとも言われています。ともかく、ユダヤの律法では施しは徳を積むことになりますので、生活にはそれほど困っていなかったかもしれません。しかし、だからといって、彼は今の生活に満足できていたわけではなかったでしょう。できれば、他の人たちのように、普通に、自由に生きていきたかったと思っていたに違いない。

目の不自由な人は、その分聴力が優れていると言われます。バルティマイもそうだったに違いありません。彼は目は不自由だったかもしれませんが、街に溢れかえっていた噂話には詳しかったかもしれない。そこに、おそらくイエスさまの話も出ていたでしょう。

今日もいつもと変わらない朝を迎えたのかもしれません。おそらく、いつも世話をしてくれている人が定位置に連れてきてくれたのでしょう。今日もまた、いつもと変わらない一日が始まる。真っ暗な一日が。太陽の熱で肌が焼かれる一日が。誰かも分からない人の善意に頼るしかない一日が。なんの当てもない、確証もない一日が。ただ座っていることしかできない不自由な一日が。空しい一日が。なんら希望を見いだせない一日が始まる。そう思っていたのかもしれない。すると、いつもとは違う街の様子が聞こえてきました。

多くの人の塊が近づいてくる。しかも、どんどんとその数は増えているようです。みんな口々にいろんなことを言っています。おい、見に行ってみようぜ、といった野次馬的な言葉も聞こえてくる。ご一緒します、といった敬虔深い言葉も聞こえてくる。何事が起こったのだろうか、彼は考えたでしょう。すると、「イエス」という言葉が飛び込んできました。イエス? ひょっとすると、あの噂のナザレのイエスのことか? 彼は、咄嗟に叫んだに違いありません。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐んでください」。彼は、何度も何度も叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐んでください」。

これは、バルティマイにとっても、ある種の賭けだったでしょう。なぜなら、単なる噂でしかなかったからです。何の確証もない。癒していただけるといった保証もない。むしろ、反対に、それはお前の罪が招いた罰なのだ、と叱責されてしまうかもしれません。これまで、多くの人々から散々聞かされてきたように…。賭けだった。しかし、恐らく彼には、イエスさまに賭ける十分な根拠があったのでしょう。それは、第一に自分の置かれている現実です。この機を逃したら、一生この現実から抜け出せないと思った。もう一つは、彼が聞いてきた噂は、単に奇跡だけの噂ではなかった。イエス・キリストという人物の言動、為人についても聞いてきた。そして、そんな噂を聴きながら、ぜひ会ってみたい、との思いを膨らませてきたのではないか。そう思います。

しかし、すんなりとは行きません。人々の雑踏に自分の声はかき消されていきます。そして、近くにいる人々は口々に、自分の声を殺そうとさえする。「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」。これも、深く考えさせられることです。イエスさまに向けられた声を黙らせようとしてはいないだろうか、と。ともかく、それでも彼は諦めませんでした。ますます叫び続けた。そして、ついに、その声が勝った。「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた」。彼は、イエスさまに癒していただきました。そして、イエスさまはこう語られた。

「あなたの信仰があなたを救った」と。最初に、このバルティマイは教会にとっては良く知られた人物だったのではないか、ということを話しました。しかし、では、なぜそれほど彼が教会で有名になったかといえば、彼のこの出来事に多くのキリスト者たちが共感したからです。もちろん、皆が皆、彼のように奇跡を、癒しを経験したわけではなかったでしょう。しかし、彼のこの救いのプロセスに、何ともいえない共感が生まれたのだと思うのです。私も、その一人です。

最初は、噂でしかなかった。何の確証もなかった。むしろ、不安さえあった。果たして、本当に私は救われるのだろうか、と。こんな私を受け入れてくださるのだろうか、と。お前など救われる値打ちなんかないのだ、と門前払いを食うのではないか、と。それでも、今の自分を変えたかった。今の現実を変えたかった。何とかしたかった。すがるような思いで、賭けのような覚悟で、勇気を振り絞って救いを求めていた。しかし、何も起こらなかった。内に、外に、そんな自分の思いを殺すような何かが迫ってきた。どうせ無駄だ。お前の声など届かないのだ。お前のことなど心に留められていないのだ、と。怯む思いがした。しかし、どうしても諦められなかった。そして、ついに…。そんな共感。

初めに、誰かに助けを求めたことがありますか、と問いました。皆さんがどうかは分かりませんが、少なくとも私自身はあまり思い当たらなかった。しかし、神さまには、イエスさまには、助けを…、本当に腹を割って、心を開いて助けを求めてきたな、と思い起こします。

イエスさまの「あなたの信仰があなたを救った」との言葉は、バルティマイのこの熱心さが、信仰深さが救いを勝ち取ったかのように聞こえますが、必ずしもそうではない、と思います。私たちは、全てが神さまの恵みでしかないことを信じています。この信仰でさえも、神さまから与えられた賜物です。しかし、その上で、このバルティマイのような物語りもあるということを忘れないでいたいと思うのです。

バルティマイはこの後、イエスさまに従う人生をはじめました。イエスさまは「行きなさい」、つまり家に帰りなさい、と言われたにも関わらず、です。彼は、最後の最後までイエスさまの後を、その道を歩み続けた。そこには、あの私の決断が、あの熱心さが、あの信仰深さが、などの思いは微塵も感じられないのです。彼は、その全ても恵み、神さまの憐れみと感じながら生きていったことでしょう。それも、覚えていきたいと思います。