【 説教・音声版】2021年10月17日(日)10:30 聖霊降臨後第21主日礼拝  説教 「 イエスが与えるのは 」 三浦 慎里子

聖霊降臨後第21主日


イザヤ53:4-12 ヘブ5:1-10 マルコ10:35-45

「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」本日の福音書のみことばの中でイエス様が放たれたこの言葉が、胸に刺さります。なぜイエス様はこのようなことをおっしゃるのでしょうか。みことばから聞いてまいりましょう。

イエス様と弟子たちの一行は、エルサレムに近づいてきました。本日の箇所には入っていませんが、この場面のすぐ前に、イエス様は3回目となる受難と復活の予告をなさいました。前の2回と同じく、ご自身が祭司長や律法学者たちに引き渡され、殺され、三日後に復活すると、弟子たちに告げられたのです。

本日の福音書で描かれるのは、この3回目の受難と復活の予告がなされたすぐ後の出来事ということになります。イエス様の弟子たちの中でもペトロと並んでイエス様が特に可愛がっておられた、ヤコブと弟のヨハネが登場します。二人は、イエス様から「ボアネルゲス(雷の子ら)」というあだ名をつけられていたほどに激しい性格だったという話をよく聞きますが、彼らは野心家でもあったようです。この兄弟がイエス様の所に来て願ったことは、イエス様が栄光の座につかれる時、自分たちをイエス様の右と左に座らせてほしいということでした。

なかなかに大胆なお願いをするものだなと思います。王様の隣に座るということは当時も今も特別なことです。それは、権力や威厳や栄光を意味しています。イエス様が何度も受難と復活の予告をなさったことを、彼らなりに真剣に受け止めたからこそ、二人は思い切った願い事をしに来たのでしょう。「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」とイエス様から問われ、「できます」と答えるところからも、イエス様に従って行こうとする二人の決意が伝わってきます。しかし、エルサレムで待ち受けている苦しみを前に、二人が固める覚悟は、栄光の座への期待と強く結びついたものでした。

イエス様と共にどんな苦難も受けよう!イエス様が王となられた暁には、私たちも栄光の座に引き上げていただけるのだ。となれば、今のうちにイエス様に話を通しておかなければ。二人はそう思っていたのではないでしょうか。他の弟子たちは、皆を出し抜こうとしたヤコブとヨハネに腹を立てたと書かれています。他の弟子たちも、きっと二人と同じ気持ちだったのでしょう。

聖書を読む私たちは、ヤコブとヨハネの姿、そして腹を立てた他の弟子たちの姿の中に、自分自身を見つけます。自分を他人と比較して優越感に浸ったり、成功しようとする人を心のどこかで妬んだりする気持ちは、誰にでもあります。今の時代に偉くなりたいと思う人は少ないのかもしれませんが、偉くなりたいと思っていないとしても、私たちは職場で、学校で、家庭で、あらゆる人間関係の中で、認められたいと思っているし、努力が報われることを願うものではないでしょうか。頑張れば結果が付いてくると思えばこそ、試練にも耐えることができるのです。ところが、イエス様はこのように言われます。「私の右や左に誰が座るかは、私が決めることではない。」聖書は、ただ一つの目的に向かって歩まれているイエス様を指し示します。それは、私たちに与えられている特別な贈り物です。イエス様は弟子たちを呼び寄せて言われます。

部分:幼子イエス(ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 「大工の聖ヨセフ」) (1640)



「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである。」イエス様が私たちに与えてくださるもの。それは、華々しい栄光や権力、見返りなど、私たちが求めているものよりはるかに大きなものです。イエス様が与えてくださるのは、他でもないイエス様ご自身なのです。多くの人の身代金として、と言われます。身代金は、奴隷や人質を解放するために支払われるものです。罪に囚われた状態の私たちを解放するため、救いに与らせるために、自分の命を犠牲にする。私はそのために来たのだ、と言われるのです。

イエス様は、十字架の死によって、私たちにご自分を与え尽くされました。何の見返りもなく、ただ神の御心に従うためにです。イエス様の弟子として、イエス様が飲む杯を飲み、イエス様が受ける洗礼を受けるということは、イエス様の生き方を自分の生き方とすることです。これは、私たちにとって厳しい教えです。見返りを求め、自分のことに心を煩わせてばかりいるこんな自分は、到底イエス様の弟子であるなどと言うことはできない。天の国に入ることなんてできない。私たちは、弱く小さな罪人に過ぎない自分の姿を痛いほど認識します。でも、弱く小さな罪人だからこそ、イエス様に救っていただくことができるのです。

本日の使徒書、ヘブライ人への手紙5章2節。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」イエス様は、神の御子でありながら、私たちと同じ人となり、私たちと同じ悩み苦しみをこの世界で味わわれました。私たちが囚われている苦しみをご自身の身をもって分かっておられるからこそ、私たちを決してお見捨てになることはありません。

キリスト教において、イエス・キリストのことを預言していると理解されているイザヤ書53章5節からお読みします。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた。」イエス様は私たちの救いのためにご自分の命を与えてくださるお方です。私たちはイエス様から命を受け取ります。

それは、私たちが何か良いことをしたからもらえるご褒美ではありません。神様が私たちを愛されるから、救われて欲しいから、与えてくださる恵みです。そして、恵みの命を与えるイエス様は願っておられます。弟子である私たちが、皆に仕える者となり、すべての人の僕となることを。私たちは、新しい命をいただいて、既に神様のものとして生きています。私たちは、互いに仕え合い、平和をつくる者へと変えられているのです。

この救いの業を喜びをもって受け止め、今日もまた、このむさしの教会からそれぞれの場所へ、隣人のもとへと遣わされていきましょう。