【 説教・音声版】2021年10月10日(日)10:30 聖霊降臨後第21主日礼拝  説教 「 主のまなざし 」 中村 朝美 牧師

マルコ10:17-31聖霊降臨後第20


アモス5:6-7 ヘブライ4:12-16

私たちの父なる神と 主イエス・キリストから 恵みと平安とがあなた方にありますように。

私は35年程前、賀来先生の時代に、この場に立たせて頂きましたので、今日で2度目となります。その日の様子、雰囲気は今でも鮮明に覚えているのですが、何を、どの箇所から語ったのかは全く覚えていません。賀来先生は、むさしの教会の歴史の中で初めて女性からの説教を聞くということで皆も緊張しているのでしょう、とおっしゃっていました。その言葉通り、教会全体の空気が違っていました。針を落としても聞こえるくらいシーンとしていました。

礼拝が終わりますと、今は亡き川上範夫さんが真っ先に私のところに、このような声をかけてくださいました。「内村さん(旧姓です)、久し振りにきれいな日本語が聞けた。ありがとう。」 とても複雑な思いでした。

当時も神学生が何人かいまして、司式の補助はさせていただいていましたが、説教は神学校生になってからでした。私も神学校生になって初めてここに立たせていただき、そして、現役の牧師生活の最終段階で、またここに立たせていただけていることに感謝しております。

 

学生時代むさしの教会で、牧会に出てからも多くの方々との様々な出会いがありそこで多くのことを学び、教えられました。

福音書は、イエスさまと出会った多くの人々のことを伝えています。この出会いによって、ある人たちはイエスさまに従い弟子になりました。信仰をほめていただいた人、その信仰にイエスさまが驚かれたこともありました。多くの人々は自分の生活の場に戻ってゆきました。その人々の、その後について何も語られていませんので想像するしかありませんが、慰めに、喜びに包まれて生活していったに違いないでしょう。

しかしながら何事にも例外がありますように、本日の日課は、その例外が語られています。イエスさまを求め、そして出会ったにもかかわらず、悲しみながら去っていったこの男の人の話を人々は忘れることができなかったと思われます。

 

イエスさまに、確信の持てない自分に確かな答えを求めて走り寄って来た人は、

「あなたに欠けているものが一つある」と、慈しみに満ちた言葉と眼差しを受けながらも、気を落とし、悲しみながら立ち去って行きました。

この出来事は、マタイ、ルカ福音書にも並行記事が伝えられています。そのいずれも、イエスさまが幼子を祝福した後の出来事として伝えています。マタイ福音書は「金持ちの青年」、ルカ福音書は「金持ちの議員」、そしてマルコ福音書では「金持ちの男」というタイトルが付けられています。どの福音書もこの男の人を、「金持ちの」と説明しています。3つの福音書を併せ見てゆきますと、この人は資産家で、ルカ福音書では「議員」であると語っていますので社会的地位が安定し、しかも、幼い時からユダヤ人としての教養を身に着け、礼儀正しい、非の打ちどころのない人物であるように紹介されています。

 

ユダヤ人にとって、言葉が話せるようになると、まず暗唱させられるのが「十戒」だと言われています。八王子教会の礼拝は、ルターの小教理問答書の交読から始まります。10数年前の高井先生の時代から始まったようです。十戒、主の祈り、聖なる洗礼の礼典、聖晩餐を、毎回、少しずつ交読しています。八王子教会の特徴の一つと言えると思います。

ユダヤ教では、モーセの十戒を中心にした律法を守ることが「永遠のいのちを受け継ぐこと」と教えられていました。マルコ福音書においては、「永遠のいのち」という言葉は、この箇所と10章にしかない、それだけに特別な意味を持つ言葉として使われています。

イエスさまのもとに走り寄り、ひざまずいて尋ねたこの人の悩みは、幼い時から十戒を忠実に守っているのにもかかわらず、救いの確信が持てない、ということでした。

「何をすれば永遠のいのちを受けることができるのか」は、切実な問いでありました。

イエスさまは善い先生であるから、その答えを教えてもらえる、永遠のいのちに至る特別な業を教えてもらえると期待していたのでしょう。

イエスさまはこの人の問いを、『神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』と、神さまだけがそれに答えられると、まず、神さまに向くようにと促されました。そして、神さまの教えられる命への道は十戒に込められていることを語られました。その答えはこの人にとって意外であり、望んでいたものではありませんでした。

彼は、今まで守ってきたことだけでは未だ、何か足りないと思っていたからでした。

イエスさまの言われる「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母を敬え」、これらは十戒の中の「人間関係の戒め」です。そのようなことは幼い時から守って来た、と答えています。

イエスさまは、ご自分のことを「善い先生」と呼んだこの人に、神さまに対して人間が守るべき戒め、「あなたは私の他に何ものをも神としてはならない」、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」との、神さまと自分の関係に目を向けるように促されたのでしょう。

そして、「あなたに欠けているものが一つある」と言われました。

聖書には「一つ」という言葉がしばしば出てきます。

マルタがもてなしで忙しくしている時、マリアは主の足もとで話に聞き入っている、そのことでイエスさまに不満を言うと、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ11:38~)と教えられました。

生まれつきの盲人だった人がイエスさまの言われた通り、シロアムの池で泥を塗られた目を洗うと見えるようになりました。そのことでユダヤ人たちに尋問された時、このように答えています。

「あの方が罪人かどうか、私には分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです。「(ヨハネ9章)

ルカ福音書の並行記事(18:22)では、「あなたに欠けていることがまだ一つある」となっています。おそらくこの男性は、この「一つ」のことさえ分かれば永遠のいのちを得ることになると、積み重ねてきてたものの上に何か一つを乗せればと、ずっと考えていたのでしょう。

ハインリヒ・フェルディナント・ホフマン (1824–1911) ゲッセマのキリスト1886年 Riverside Church, ニューヨーク.



この時のイエスさまは、十字架への道を真っすぐに進んで行かれていました。ということは、ユダヤの指導者たちからは、危ない存在として見られていた時期です。

そのようなイエスさまに、ひれ伏して願ったということは、本当に切羽詰まっていたのでしょう。けれども、この人は、イエスさまの慈しみ溢れる眼差しを受け入れることができませんでした。「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」

この男の人が忘れている最も大切なことに気付いてもらいたい、という思いが含まれている言葉でした。

イエスさまのところに来るまでに、この人は助けを求めている人々への施しはしていたでしょう。イエスさまのこの言葉は、お金を所有するということに対しての厳しさを語っているのではないと思えるのです。確かに私たちは、しばしばお金の魅力に取りつかれることもある、お金は危険なものであることも知っています。けれどもイエスさまがこの箇所で伝えようとしたのは、それとは別なことだったと思います。

この人は、イエスさまの慈愛に満ちた眼差しを受けながらも、悲しみながら立ち去って行きました。マルコはその理由を、「たくさんの財産を持っていたからである」と語ります。もし、イエスさまの言われる通り、持っているものを全て売り払ったとしますと、この人は施しを受ける側に、貧しい者の側になります。この青年は、それができなかったのでしょう。釜ヶ崎の喜望の家の8月のニュースレターの1面に、「炊き出しに並ぶ人の列」というタイトルの写真が載っていました。炊き出しに並ぶ人々の真ん中にイエスさまの姿が描かれています。この人は、炊き出しの列に並ぶ側に、自分を置くことができなかったのでした。「貧しい者と共に生きる」という、イエスさまの招きに応えられなかったのでした。

 

この人は律法で決められていることを守ってきました。けれどもそれは、財産なり、地位などを“持ち続けること”を前提にしていました。それが、「先生、そういうことは皆、小さい時から守ってきました」という言葉に表れています。

この人と似たような境遇の人物が聖書の中にいました。

「私は生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストの故に損失と見直すようになったのです。…」(フィリピ3:5-9)

パウロは、「持つことを大切にする生き方」から、「存在を大切にする生き方」へと、イエスさまとの出会いによって変えられていきました。

 

気を落としながら立ち去って行く男の人に注がれたイエスさまのまなざしは、この男性が再びご自分の前に現れることを期待されていたのだと思うのです。そして、何よりも、神の愛に目を向けることを願われたのでしょう。神の愛、「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」手放すことの意味に気付くことを望まれたのだと思うのです。

ユダヤ人の考えでは、財産というものは決して悪いものではありませんでした。

財産は基本的に神さまの祝福の「しるし」でした。ヨブ記を読むとそれがはっきりしています。財産、子孫の繁栄、長寿、これらの祝福は旧約聖書では当たり前のことでした。それ故に、「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエスさまの言葉に弟子たちは驚いたのでした。誰もが、自分の努力では神の国に入ることができない。その難しさに弟子たちは、では誰が救われるのだろうか」と、ますます驚くのでありました。

金持ちが神の国に入れない理由は、はっきりと示されていません。

けれども考えられることの一つに、お金があれば、どうしてもそれに頼ってしまう、ということがあるのかも知れません。イエスさまが語られる「神の国」は、自分の持っているものに頼って、それで到達するようなものではないのです。この人は、人間のできることを基にして生きる世界の中にいました。イエスさまはこの男性を、そうではない世界、善い行いを積み重ねて救いを求める生き方から解放されること。救いを与えて下さる神さまの眼差しに心を向ける。この人は、それに気付けなかったのでした。持っているものに頼る生き方ではなく、隣人に心を開くように招かれたのでした。

 

この物語が子どもを祝福された出来事の後に語られている、ということに深い意味が込められているように思います。イエスさまのもとに連れて来られた子どもたちは、この男性と対極にいる存在です。財産も無ければ、社会的な地位も力もありません。ユダヤ教の教えを、まだきちんと受けていないのです。まして、他者に与えられるようなものは何一つ持っていません。そのような子どもたちをイエスさまは近くに呼び寄せ、抱き上げてくださいました。

『神は何でもできるからだ』、このイエスさまの言葉に私たち自身を委ねる、そのような生き方に思い巡しながら、今週1週間を過ごしたいと思います。

 

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。