【 説教・音声版】2021年8月29日(日)10:30 聖霊降臨後第14主日礼拝  説教 「 神の思い、人の思い 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十四主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書7章1~8、14~15、21~23節

今日から、またマルコ福音書に戻って参りました。
ところで、本日の日課に記されていました「偽善者」という言葉をどう思われたでしょうか。「偽善者」…。この言葉は、私にとっては非常に痛い言葉です。キリスト教と出会った若い頃から、ことあるごとに自問自答を迫られている言葉でもある。「お前は偽善者なのではないか」と。信仰者になってからの、私自身の悩みの一つでもあります。

「偽善者」。手元の国語辞典で引いてみますと、「偽善をする人」とあり、「偽善」とは、「本心からではない、うわべだけの善行」とありました。私たちにも、よくわかることです。ところが、新約聖書が書かれているギリシア語では、「偽善」とは、元々は仮面をつけて芝居を演じる役者のことだと言われます。そして、ある方はこうも言う。「見栄えの良い面をつけて、人々を喜ばせる」ことだと。私自身が時折問われる「偽善者」とは、おそらく後者に近いと思います。最初っから「うわべだけの善行」をしたいとは思っていない。できれば、本心からしたいとも願っている。

しかし、その目的は何か、と問われると、本当にその善行そのものにあるのか。もっと言えば、その人のために、となっているのか、と問われるのです。知らず識らずのうちに、その目的が評価されるため、自分が少しでも良く見られるため、と変質してしまっているのではないか、と問われる。騙したい訳ではありません。見せびらかしたい、訳でもない。できれば、本心から、誠心誠意と思っている。しかし、その目的がいつの間にか、結局は「自分自身のために」と成り果ててしまっているのではないか、と悩むのです。それが「罪」なのだと言われれば、その通りでしょう。

イエスさまは、ここでファリサイ派の人々や律法学者たちを「偽善者」だと断罪されました。度々お話ししていることですが、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、決して悪人ではないのです。おそらく、善人の部類と言っても良いでしょう。ともかく、彼らは信仰熱心なのです。私たちは、どうしても善と悪といった二分化をしたがる者なのかもしれません。ことあるごとにイエスさまに反対・反抗し、結局は十字架へと追いやっていったファリサイ派、律法学者たちは悪人なのだ、と。今、アフガニスタンで何が起こっているかは、皆さんもよくご存知でしょう。タリバンが復権し、非常な混乱が起こっています。また、特に女性の権利など、さまざまな懸念がもたれてもいます。事実、流血沙汰や女性に対する弾圧が起こっているといった報道もされています。

そんな中で、二年前に凶弾に倒れた中村哲さんが取り上げられることが多くなったように感じます。中村哲さんのことを詳しくお話しする時間はありませんが、アフガニスタンの内情をよく知る者として、2001年の国会に参考人として呼ばれていたときの様子が新聞記事に掲載されていました。この時は、米国の同時多発テロ直後であり、自衛隊が米国の対テロ活動を支援できるように国会で法整備を急いでいた時のようですが、中村哲さんは自衛隊派遣を「有害無益」と言われたようです。その意見を撤回するように求められた時には、「日本全体が一つの情報コントロールに置かれておる中で、率直な感想を述べているだけ」と突っぱねた、とか。つまり、聖戦を目指す米国は善であり、テロリストを匿うタリバンは悪といった構図です。

もちろん、哲さん自体、タリバンの方針を全面的に支持する訳ではなかったわけですが、それでもアフガニスタンの内情を深く知るものとして、そのような単純な図式は百害あって一利なし、と訴えた訳です。そんな中村哲さんを取り上げた藤原辰史(京都大学准教授)氏の記事も印象深いものでした。

「『正義』の野蛮な二分法が国会から人気アニメまで貫徹し、日本の思考様式が複雑な状況に耐えられなくなったのも、そして、国会での議論で首相が答弁をごまかすようになったのも、ちょうどこの頃である」。物事は善悪という単純な二分法で測れるようなものではない。しかし、あのアフガニスタンに対する対応の時から、日本はそんな複雑さを推し量る思考に耐えられなくなっているのではないか。そのような指摘は非常に重いものがあると思うのです。

随分と話が逸れてしまったかもしれませんが、今日の箇所で言えば、イエスさまがファリサイ派・律法学者たちを「偽善者」と言われたのだから悪だ、と単純化するのではなくて、なぜそうなってしまったのか、といった理由を探ることが大切だと思うのです。なぜなら、それらは決して他人事とは言えないからです。

最初に言いましたように、ファリサイ派の人々、律法学者たちは、当時の人々の誰よりも信仰熱心でした。彼らの出発点が「熱心さ」にあったことは、疑いようのないことでしょう。信仰の熱心さとは、神さまが与えてくださっている律法への熱心さということです。つまり、如何にして律法を守るか、ということです。しかし、皆さんもご存知のように、律法の代表格である十戒を見ても分かるように、律法は非常に大まかなことしか記されていません。当然、その熱心さは、果たして私は本当に適切に律法を守れているのか、といった問いになる訳です。

そして、そのような不安な気持ちを解消してくれるのが、いわゆるハウツー本なのです。初めての子育てで不安だった時、このようなハウツー本に飛びついたことを思い出します。ともかく、何が良くて何が悪いのかの詳細を知りたくなる。そのために、学者たちがさまざまな解釈を施すことになりました。それが、今日の箇所でいう「昔の人の言い伝え」ということです。これは、単なる伝承ではありません。どうすれば、律法を厳格に守ることができるか、といった昔からの知識の積み重ね、でした。その中でも、特に注意していたことは「汚れ」ということです。なぜなら神さまは「汚れ」を厭われるからです。ですから、汚れから身を守るためにはどうしたら良いのか、と昔から熱心に探究されてきたのです。食事の前に手を洗わないことがどうしてこれほどの問題を引き起こすのか。

私たちにとってはピンとこないところですが、当時の彼らにとっては非常に重要なことでした。しかし、そんな熱心さが裏目に出てしまった。熱心になればなるほど、本来の目的から逸れていってしまったからです。そのことをイエスさまは問題視されるのです。

ヨハネス・フェルメール マリアとマルタの家のキリスト1654年 – 1656年 スコットランド国立美術館 (イギリス)



一方で、そのような熱心さが問題だ、といった指摘もあるでしょう。私たちの世界を見回しても、独りよがりな熱意がかえって問題を引き起こしていることも事実です。しかし、だからと言って、熱意・熱心さを否定すればよい、ということではないでしょう。熱心であろうが、あるいは冷めていようが、問題は本質・真意を見失っている、ということだからです。その具体例として、イエスさまは「コルバン」のことを持ち出されました。今日の日課では飛ばされていましたが、「コルバン」とは神さまへの捧げ物ということです。

例えば、本来は両親に対する扶養義務があるはずなのに、それらがコルバンになれば、その扶養義務が免責されている、と言われます。確かに、神さまを第一にするといったことを考えるならば、一応の筋は通っているのかもしれません。しかし、これは、いくらでも抜け道になります。両親を養うのが嫌ならば、コルバンになったと言えばいいのですから。私たちが今聞いても、これは馬鹿らしいことです。しかし、こんな馬鹿らしいことが熱心さのもとで堂々と行われている。全く本質を、神さまの真意を見失っている。

しかし、残念なことに、この私たちの現代世界では、そんな馬鹿らしいことは起こっていない、と果たして言えるのでしょうか。イエスさまは旧約聖書を引用して、このように言われました。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」。本当に心に突き刺さる言葉です。今日の日課の最後のところを読みましても、イエスさまが私たちの内面を問われていることは明らかだと思います。

ここに登場してきたファリサイ派、律法学者の人たちと私たちとは、決して無縁とは言えないでしょう。最初は正しい動機であったとしても、それがいつの間にか歪んでしまうからです。本質を見失い、百害あって一利なしってことにもなってしまう。私たちもまた、すぐにでも本質を見失い、神さまの真意・御心から外れ、自分を良く見せることだけに心奪われてしまう「偽善者」になりやすいのです。だからこそ、内面を探る必要性が出てくる。本当の意味で私たちを汚すのは、外からではなくて内から出てくるからです。だから、悔い改めがどうしても必要となる。

近年は自虐的と称して、自省を軽視するような傾向がなかったでしょうか。それは、世の中だけでもなく、キリスト者である私たちにとっても、決して軽視できないことでもあるように感じるのです。確かに、内面を見つめることは辛いことです。なぜなら、ここに記されていますように、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などの私たち自身を、また私たちの周りの人たちを傷つけ、汚すものが渦巻いていることに気付かされるからです。

しかし、実はここに福音がある。悔い改めることができるのは恵みに他ならないからです。なぜなら、悔い改めることができるからこそ、私たちは立ち止まることができるからです。神さまから離れていってしまっていないだろうか、と内省することができるからです。そして、このような弱さを、汚れを、罪を持つ私たちを救うために来てくださったイエスさまに思いを向けることが、救いを求めることができるからです。

それが「偽善」の、善悪の単純化の暴走を止めることにもつながると思うからです。どうぞ、ルターの伝統に生きる者として、生涯悔い改めを重視していく私たちでありたい、と願わされています。