【 説教・音声版】2021年8月8日(日)10:30 聖霊降臨後第十一主日礼拝  説教 「 世を生かすもの 」 浅野 直樹 牧師

2021年8月8日 聖霊降臨後第十一主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章35、41~51節

今日の日課は、新共同訳(聖書)の小見出しである「イエスは命のパン」とまとめられているものの中にある箇所になります。先々週の「五千人の供食」の出来事と繋がっているものです。ちなみに、先週は「平和主日」として特別な礼拝を行いましたが、教会手帳を見てみますと、聖霊降臨後第十主日としての福音書の日課は、ヨハネによる福音書6章24~35節が指定されていました。「五千人の供食」の後、今日の日課の前、と言うことになります。つまり、来週以降もしばらくは繋がっていくことになりますので、ここ数週間は連続してここから学ぶように、と言うことでしょう。

先ほども言いましたように、先々週は「五千人の供食」の出来事から学んでいきました。そして、この箇所は「聖餐式」と強く結び付けられている箇所だ、とも言われています。昨年からの新型コロナウィルスの流行によって、私たちの教会も大きく変化せざるを得ませんでした。かつて経験したことのないような危機と言っても良いでしょう。共に礼拝に集うことが難しくなったからです。これについては、さまざまな方々の尽力もあって、代替ということではありませんが、ライブ配信等によってある程度は補うことができました。しかし、聖餐式は違います。聖餐式は実際に「飲食」という体験が伴うものです。ですから、なかなか替えがききません。感染症の対策をしっかりと講じた上で、なんとか特別な祝祭日であるクリスマスとイースターにできたくらいです。私たちの教会ばかりでなく、このことについては多くの教会が頭を悩ませていることでしょう。感染症が落ち着いて、一日も早く共に礼拝し、聖餐の恵みに与る日が来るようにと願っています。

「五千人の供食」の出来事では、男性だけで五千人、女性や子どもたちも含めると一万人以上となるでしょうか、ある奇跡を体験いたしました。食事で満たされるという体験…、奇跡です。ですから、彼らはイエスさまを王として立てようとします。「イエスは、人々が来て、自分を王とするために連れて行こうとしているのを知り」とある通りです。王様とは、政治的力をも表すのでしょう。安心・安全を与え、生活を豊かにしてくれる存在。そんな力を群衆はイエスさまに認め、自分たちの王となって欲しいと願ったのです。それは、私たちにもよく分かることです。今で言えば、新型コロナの脅威から人々を守り、経済的にも立て直してくれるような政治的指導者を人々は、私たちは求めています。逆に言えば、そうでないと失望してしまう。

政治家一人でできることなど限られていると思いますが、そういった空気感も漂う今日です。当時の人たちにも、自分たちの政治的指導者たちはいたはずです。ガリラヤ地方で言えば、ヘロデ・アンティパスという王様がいた(実際は領主に過ぎませんでしたが)。しかし、民衆は失望していたのでしょう。

一向に、安心・安全が手に入らず、自分たちの生活も改善されなかったからです。ですから、そんな思い、願いを、奇跡の力で五千人を、一万人を養うことができたイエスさまに向けたのも無理からぬことだと思うのです。しかし、そんな民衆の期待に対するイエスさまの反応はどうだったのか、と言えば、「ひとりでまた山に退かれた」と記されていることからも分かると思います。「よろしい、あい分かった。そう願わずにはいられないお前たちの窮状もわたしは良く知っている。だから、お前たちが望むような安心・安全を与える、お前たちの生活を今よりもずっと豊かにする王にわたしはなろう」とは、ならなかった。そんな民衆の期待に応える王になれる自信がなかったからではありません。こう記されているからです。26節「はっきり言っておく。

あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」。そして、こう言われた。「わたしが命のパンである」と。私は、これらを読んだときに、「荒野の誘惑」の場面で語られたイエスさまの言葉を思い出しました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。

以前、国際援助の働きをされておられた方からこんな話を聞いたことがあります。飢饉などに際して食料援助などをする訳ですが、それだけでは本当の解決にはならない、というのです。援助を受ける人たちは、それが当たり前になってしまうというのです。働かなくても、食べていけることが当たり前になる。つまり、無気力です。

言葉としては適切ではないのかも知れませんが、いわゆる「飼い殺し」の状態になってしまう。善意でのパンの援助が、かえって現地の人たちを悪くしてしまうこともある。そんな現場をよく見たと言います。ですから、援助の方法を変えることした。単に食料を与えるのではなくて、自立を促していく、しかも持続的な自立を促す方法に変えたと言います。しかし、これがなかなか骨が折れることだったようです。

なぜなら、なかなか言うことを聞いてくれないからです。その方法ではダメだ。それでは気候にあまりに左右されすぎるので、こういった方法にしなくてはダメだ。そんなふうに、ある意味先端的な技術支援をしようとするのですが、自分たちはずっと代々こういった方法をとって生きてきたから、今更変えるつもりなどない、と突っぱねられる。それでも、地道に、時間をかけて説得していくと、一人二人は興味を持ってくるようです。大抵は若い人のようですが…。そういった興味を持ってくれた人たちを手取り足取り指導していく。すると、みるみる違いが出てくる訳です。従来型では、あまり収穫できないのに、新しい方法で取り組むと市場に売りに行けるほどの収穫量になる。そんな様子を間近に見ると、流石に考えを変えざるを得ないのでしょう。次々とその支援を受ける人々が出てくる。

そして、自分たちで技術支援ができるようにと現地の人を指導者として教育することも大切だと言います。いつまでも、そこに残ることができないからです。私は、それらの一連の話を興味深く聞かせていただきました。先ほどの話でもお分かりのように、意識を変えることが非常に大切になってくるのです。そんなことは言われるまでもない、と思われるかも知れません。その通りです。みんな分かっている。でも、現実はそれほど簡単ではありません。頑なに大切な技術を拒んできた現地の人を私たちも笑えないでしょう。私たちは、どうしても目の前にある現実、そう信じている現実に、また私たちの体験・経験に囚われて頑なになってしまうからです。確かに、人類は進歩しています。技術だけじゃない、仕組みも思想…、人格、人権理解も良くなっている。安心・安全、生活の向上を目指してきた結果です。

それらを実現させていった偉大な指導者たちも多く出てきたのかも知れません。しかし、人類はいまだに、平和の問題、差別の問題、格差・貧困の問題等、乗り越えることができていないものも数多くあるのです。本当に私たちの幸せ、あるべき姿は、これらの延長線上だけにあるのでしょうか。それとも、もっと別に、別の次元に飛躍すべきなのでしょうか。いずれにしても、その道筋を、私たちの必要を本当の意味で知っている者だけが(あの援助者たちのように)、その人々を救いへと導いていけるはずです。

今日の日課でイエスさまはこうも語っておられます。「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」。この言葉は、あのニコデモとのやりとりを連想させるものでもあると思います。なぜなら、こう記されていたからです。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」。ニコデモもなかなか自分自身を抜け出せないでいた中で語られた言葉です。

神さまだけが、この世界の、私たちの救い主であり解決者である。少なくともキリスト者である私たちはそう信じている。考えてみてください。もし、全ての人が心から神さまの御心に、イエスさまの教えに従えたのなら、この世界がどうなるのかを。パンどころの話ではないはずです。しかし、現実の私たちには、途方もなく難しいのです。理解さえ及ばまい。超えられない。求めることさえもできない。だから、イエスさまが来てくださった。真に向かうべき道を示すために。そして、神さまもそんな私たちを引き寄せてくださった。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言われている通りです。それらのことを身をもって体験するためにも聖餐式がある。

残念ながら、今しばらくは共々に聖餐式に与ることはできないかも知れませんが、しかし、それらがなくなってしまうことはないはずです。本当の道を示してくださるイエスさまがいてくださる。神さまも、私たちをイエスさまへと引き寄せてくださっている。だからこそ、信じて生きることができる。希望を失わずに済む。自分を超えて進んでいける。そうではないでしょうか。