【説教・音声版】2021年6月20日(日) 10:30 説教 「 あなたは眠れるか 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第四主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書4章35~41節

本日の福音書の日課は、嵐を鎮められた、いわゆる「奇跡物語り」です。聖書には、数多くの奇跡物語りが記されていますが、その中でも良く知られている物語りではないでしょうか。そして、なんだかふと映像が浮かんでくるような…、̶̶それほど大きくもないボートのような舟が、突然の突風による大波に翻弄されて、慌てふためいている弟子たちの姿が…、イエスさまが波風を叱りつけられると急に静かになって、雲の隙間から光が差し込んでくるような(実際は、どうやら夜間のことのようなので、光は差し込んではこないのでしょうが)̶̶そんな物語りだと思います。

ところで、そんな日課から今日は「あなたは眠れるか」といった説教題をつけさせて頂きました。何だか変な題だ、と思われたかもしれません。では、どうしてそんな題をつけたのか。弟子たちが命の危険を感じるほどの嵐の只中で、イエスさまだけは艫の方でぐっすりと寝ておられた、と記されているからです。これまでも、何度もこの箇所は読んでも来ましたし、説教もしてきた訳ですが、正直、この点についてはそれほど関心をもっていなかったように思います。しかし、このコロナ禍ということもあるのでしょうか。この時のイエスさまの姿と弟子たちの姿とのコントラストに、妙に胸が刺されたように思ったからです。

 みなさんは、ちゃんと眠れていますか? 睡眠の大切さは、以前から言われていることですが、最近では専門のクリニックもあるようで、結構人気だと聞いています。そういう意味では、病気と同じように、健康に重大な影響を及ぼしていると考えられているからでしょう。もちろん、睡眠障害の原因は様々だと思いますが、精神的な側面ということも、やはり無視できないのではないでしょうか。
私は幸い眠れる方です。昔からよく眠る方でした。最近は加齢のせいか、ちょっとしたことで目が覚めてしまうことも多くはなりましたが…。そんな私でも、やはり何度かは眠れぬ夜がありました。悩み、苛立ち、不安…、いろんなことが頭をぐるぐると駆け巡って、結局朝になってしまったことも、数は多くはありませんが、ありました。もちろん、原因は様々です。ちょっとした工夫で眠りの質が変わることだってある。しかし、やはり、ぐっすりと眠れることは幸なのだと思うのです。人は、安心しているからこそ眠れる、というところも、確かにあるからです。

この物語りはガリラヤ湖で起きた出来事です。このガリラヤ湖は、イエスさまが活動拠点にしていたガリラヤ地方にある淡水の湖で、魚も豊富だったことから、昔から漁業で有名だったようです。イエスさまの弟子たちの中にも、そんな元漁師たちが何人もいました。みなさんは、このガリラヤ湖の南にある死海もよくご存知でしょう。世界で最も低いところにある湖です。ですから、ここに流れ込む水は逃げ場がないので、入ってきた水はみんな蒸発してしまい、そのために塩分濃度が極端に濃くなったと言われています。生き物が生息できないそんな死海と真逆のように思われるこのガリラヤ湖ですが、実は、死海に次いで二番目に低い場所にあるのです。水面の高さは、海抜マイナス213メートル。

海の高さから、まだ213メートルも低いところに水面がある。そして、周りは丘のようになっていてすり鉢状なので、結構突風が吹くようなのです。この辺の人なら、みんな良く知っていたことでしょう。しかも、弟子の中には、元漁師、この湖のプロたちもいたわけです。そんな彼らが、この突風で慌てふためいた。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。この湖のプロたちが、これほど慌てるということは、彼らにとってもかつて経験したことのないような荒れよう、まさに命の危険を感じるような状況だったことが想像できます。そんな状態なのに、イエスさまはまだ眠っておられた。少々の嵐ではない。まさに命の危険を感じるような中で、まだ眠っておられた。さすがに、あまりの無頓着ぶりに弟子たちもキレたのかもしれません。

レンブラント・ファン・レイン (1606–1669) The Storm on the Sea of Galilee ガラリアの海の嵐



「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と憤慨しながら、イエスさまを起こしました。すると、やおら起き上がって風を叱りつけられると、あれほど荒れ狂っていた波風が一瞬でおさまり、凪になってしまった。そして、イエスさまは弟子たちに語られた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。深い沈黙に落とされるようです。そう、明らかに違う。嵐の中でさえ眠っておられたイエスさまと、恐れに取り憑かれて狼狽えるしかなかった弟子たちと。その不信仰ぶりに、打ちのめされる思いがいたします。しかし、私たちにも言い分がある。もちろん、自分たちの不信仰ぶりは認めます。情けないとも思う。しかし、あなたと比較されても困ります。あなたのようにはなれません。あんな波を見せられたら、荒れ狂った姿に晒されたら、舟が軋む音を、今にも転覆しかねない様子を体験したら、とても安心して寝てなどいられません。むしろ、恐れまどうことの方が自然なのではないでしょうか、と。

イエスさまにも眠れぬ夜がありました。あの十字架を目前に控えたゲッセマネでの祈りの時です。この時は逆に、弟子たちは眠りこけていた。これから起こるであろうことを理解できずに、肉体の弱さから眠りに落ちてしまっていた。そういう意味では、何でもかんでも眠れるならば良い、ということではないでしょう。そうではなくて、眠れぬ夜もあるのです。そういったことを引き受けなければならない時が。それも、信仰から、神さまに従うところから生まれるのです。

しかし、この時は違った。まだその時ではなかった。だからこそ、イエスさまはたとえ嵐の只中でも眠ることができた。神さまのご計画を信じていたからです。そのご計画に従っておられたからです。神さまに不可能なことは、何一つないのだと。だから、この時は、安心して眠ることができた。
ここで弟子たちに、「まだ信じないのか」と言われた理由について色々と言われているようですが、私は、35節にそのヒントがあるのではないか、と思っています。「その日の夕方になって」。その日とは、前回学んだ譬え話を語られた日を指します。その日、おそらくイエスさまは一日中、多くの人々に教えておられたのでしょう。神の国のことを。

そうです。イエスさまは譬え話で神の国を教えておられたのです。神の国とは、独りでに成長していくものだ。神の国は、最初はからし種のように小さいかもしれないが、やがて信じられないほど大きく成長していくのだ、と。これは、イエスさまご自身のことでもある。イエス・キリストという存在が、神の国を、神さまのご支配をこの地上にもたらすからです。病人を癒し、罪人を回心させ、悪霊を追放されるイエスさまの姿を見れば、神さまのご支配がすでに始まっていることを知ることができるからです。つまり、そこに、その舟の中に、弟子たちの只中にイエスさまがおられる、いてくださるということは、そこに神の国が、神さまのご支配がある、ということです。ならば、それは決して「破滅」で、「滅び」で終わるようなことはないでしょう。

しかし、弟子たちにとっては、それがまだピンと来ていない。うまく結びついていない。確かにイエスさまのことは尊敬するし、立派な方だと思っているけれども、そこにこそ神さまの国がすでにはじまっているとは、理解できていなかったのです。信じることができていなかったのです。だから、ま・だ・信じないのか、です。これほど一緒にいて、誰よりも私のことをよく知っているはずなのに、ま・だ・信じないのか、なのです。イエスさまと神の国とを。

不信仰とは、叱責されるべきものです。もちろん、私たちの誰もが叱られたくはないでしょうが、しかし、それがどんな理由でなされたかで違ってくるはずです。イエスさまの叱責は愛から出ている。だから、嵐を鎮められた上で、救われた上で叱責されるのです。信じたら、恐れなくなったら、嵐を鎮めよう、救おう、ではない。

たといイエスさまと共にいたとしても、この弟子たちのように嵐に遭遇するものです。苦難に遭わない訳ではない。そんな時、とてもイエスさまのようには高枕で眠ることなんてできないのかもしれません。それでも、イエスさまと一緒なら、溺れて死ぬことはないだろう、と試練に耐えることはできるのかもしれません。いいえ、たといその時に、そんな信仰を持てなくても、イエスさまを叩き起こせばいい。あの弟子たちのように。「私たちが溺れてもかまわないのですか」と。

不信仰を咎められるかもしれませんが、それでも私たちを助けてくださるに違いないからです。そして、そんな体験の積み重ねが、イエスさまと神の国とを結びつけていくことに、信じていくことに繋がっていくようにも思うのです。そして、安心して眠ることにも。そう思うのです。