【説教・音声版】2021年6月6日(日) 10:30 説教 「 家族になる 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第二主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書3章20~35節

今日から…、正確には今日は聖霊降臨後第二主日ですので、先週からと言った方が良いのでしょうが、教会の暦としては「聖霊降臨後」の季節、「緑(典礼色としては)」の季節に入っていくことになります。つまり、特別な祝祭…、宗教改革主日とか全聖徒主日などがない限り、今年はB年ですので、落ち着いてマルコによる福音書を学ぶことになるわけです。ですので、早速ですが今日の日課であるマルコによる福音書3章20節以下をご一緒に見ていきたいと思います。

今日の福音書の日課は、先ほどお読みしましたように、マルコによる福音書3章20~35節でした。新共同訳では二つ小見出しがついていますので、二つの物語ということができるでしょう。一つ目は「ベルゼブル論争」と小見出しがついていますが、イエスさまが行われていた悪霊追放の業を、「悪霊の頭の力」で行っているに違いない、との指摘から起こったものでした。では、なぜそのような口撃がなされたのか。それは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」といった評判が既に起こっていたからです。この「ベルゼブル」、諸説あるようですが、元々は異教の神の名だったようで、偶像を嫌うイスラエル人たちがそれを嘲って「ハエの王」と呼び直したことにはじまる、とも言われています。それが、悪霊の頭、悪魔などのように用いられるようになっていった。ともかく、そういった論争が一つ目の物語でした。

そして、二つ目は「イエスの母、兄弟」と小見出しにありますが、要するに「イエスさまの家族とは一体誰か」ということでしょう。この二つの物語り、一見あまり関連性がないようにも思われますが、しかし、よくよく見ていきますと、この両者がある意図をもってここに記されていることが分かってくると思います。それは、21節と31節とに、イエスさまの血縁と目される人々が登場しているからです。21節「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」。ここで「身内」とされている人々がどこまでの範囲なのかは定かではありませんが、家族、親類、あるいはかつての同郷の人たちもいたのかもしれません。では、なぜそんな人々がイエスさまを取り押さえに来たのか。先ほども言いましたように、「ベルゼブル」に、悪霊に取り憑かれていると評判になっていたからです。

イエスさまは良きにつけ悪しきにつけ、当時の常識の範囲におさまらない方でした。罪人こそが神さまに招かれている、と言うのですから。こういった人々の出現は、今日でもそうですが、賛否が極端に別れるものです。同じような問題意識を抱えていた人たちにとっては、もちろん好意的に受け止められ、ヒーローにさえなるのですが、逆に今までの秩序・価値観の維持を目論む者たちにとっては、世界の、正義の破壊者、ダークヒーローと見られるわけです。そんな「悪霊憑き」と評判になっていたイエスさまを案じて連れ戻しにきた、といった側面もあるでしょうが、その多くは、一族の、町の評判が傷つかないように、「困ったことをしてくれたな」との思いで取り押さえに、連れ戻しに来たのでは

ないか。そう思うのです。そのように、本来、一番理解してくれてもいいはずの身内の者たちが、信仰の道の障害となる例は、決して少なくありません。
以前もお話ししたことがあると思います。静岡時代に親しくなった、もう引退されていましたが、救世軍の元士官(軍隊組織を採用している救世軍では、牧師のことをこのように言います)の奥様(この方も士官ですが)の話です。戦後、まだそれほど経っていない頃のことだと思いますが、この奥様、分家でしたが、会津の結構な家柄の娘さんだったようです。会津の女性といえば、大河ドラマ『八重の桜』で有名になりました新島襄の奥方山本八重さんを思い出しますが、八重さん同様、気丈な女性だったのでしょう。女学校時代に救世軍で信仰を持たれ、そして士官を志し、士官学校(私たちのいうところの神学校ですね)の入学を願われます。しかし、当然、家族から反対されることになる。しかも、自分の家族だけではない。本家からも圧力がかかり、余計に家族の同意が得られなくなるわけです。

そして、とうとう勘当されてしまう。そういったことを経て、士官になっていかれました。そんな例は枚挙にいとまがないでしょう。私の家内もそうです。クリスチャン・ホームであるにもかかわらず、最初は神学校に入るのを許可されなかった。常識の範囲内なら良いのです。しかし、いったん常識を超えてしまうと、̶̶一信徒としてではなく、神学校にいく、献身するということは、常識を超えることになるのでしょう。何も、そこまでしなくても、熱心にならなくても、と。̶̶身内すら、いいえ、身内だからこそ反対されることになるのかもしれません。ともかく、イエスさまの身内の中でさえも、そういった姿があった。

31節では、こう記されています。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」。ひょっとすると、先ほどの身内たちがイエスさまを連れ戻すことに失敗したから、今度は最も近い存在である家族が連れ戻しに来たのかもしれません。あるいは、少なくとも、イエスさまの母マリアと兄弟たちは、他の身内のやり方には賛成していなかったのかもしれない。やはり、一番身近な存在ですので、評判うんぬんを気にするよりも、健康等が気になっていたのかもしれません。ちょっと「やりすぎ」なのではないか、と。もうそろそろ、家に、家族の元に戻ってきてはどうか、と。

ここで、イエスさまは非常に重要な発言をされます。「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』」。ここでイエスさまは、血縁を超えた家族の定義をされました。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。教会のことを、「神の家族」という言い方がされることがあります。また、イエスさまのことを「長兄」とも表現いたします。その根拠がここにある。血縁を超えた神の家族の姿が、ここにある。しかし、注意が必要です。イエスさまは決して血縁としての家族の姿を否定されてはいないからです。イエスさまは決して、十戒で求められている「父と母を敬え」との御心を蔑ろにはされないでしょう。事実、聖書には、「両親に仕え」たと記されていますし、十字架の上で母マリアの今後を心配してもおられました。また、初代教会であるエルサレム教会で指導者として立っていたのは、イエスさまの兄弟ヤコブだとも言われています。

イエスさまは決して血縁を蔑ろにしてはいないのです。家族は神さまが与えてくださった賜物、大切な存在です。もちろん、そうです。しかし、その上で、その血縁をも超えた家族の姿もある。「神の御心を行う人」、ここに血縁を超えたイエスさまの家族の姿がある。では、神の御心を行うとは一体どのようなことか。色々と考えることができると思いますが、ある方はこう言っています。この時のように、まずはイエスさまの周りに座る、ということではないか、と。私も、そう思う。イエスさまの元を訪ねる動機は様々でしょう。病気を癒していただくため、霊的な問題を解決していただくため、教えを受けるため、興味本位、ただ会って見たかった…。私たちだってそう。色々な動機、期待がある。

しかし、大切なのは、今、私たちはどこにいるか、です。今、イエスさまを取り囲んで、周りに座っていること。そして、座るということは、あのベタニアのマリアのように、イエスさまの話に、その教えに、聞き入ることをも差すのでしょう。それが、イエスさまの家族の姿なのです。

家族とは本来、一番信頼ができ、落ち着ける、安心できる、憩える、そんな関係性を差すのでしょう。しかし、残念なことに、現実は前述のように、そうとは言えない面も多々あるのです。牧師として相談にのるその多くは家族問題が大きく関係してきますし、巷のニュースなどを見ても分かるように、残虐な犯罪の多くが家族間で行われてもいます。血縁関係でもそう。同じ親から生まれたはずの兄弟姉妹同士でも、合う合わないがあったりする。ならば、イエスさまの家族だって、そういった課題は残るのではないでしょうか。

私自身、世帯を持ってつくづく感じることですが、自然に家族が「ある」、のではなく、家族に「なる」、「なっていく」ことが大切だと思うのです。そこで見失っていけないのは、この家族の原点です。イエスさまの家族、教会の原点は、イエスさまを中心に、その周りを取り囲んで座るところにある。そこから『はじまる』からです。

家族の絆とは強いものです。今は一緒に住んでは、過ごしてはいなくとも、だからといって家族でなくなってしまうのではない。遠方にいたって、しょっちゅう会うことができなくたって、何年も音沙汰なしだって、関係が消えてしまうものでもない。むしろ、また会える日を楽しみに、その人の健康、幸いを願い、祈っていくものではないか。そう思う。その人にも、神さまの祝福が豊かにあるように、と。イエスさまがいつも共にいてくださり、助けて、見守ってくださるように、と。