【説教・音声版】2021年5月16日(日) 10:30 説教 「 天に上げられる前に 」 浅野 直樹 牧師

主の昇天主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書24章44~53節

本日は「主の昇天」主日の礼拝です。来週はいよいよ聖霊降臨祭となりますが、イエスさまが復活され、40日後に天に上られたことを記念する礼拝です。ですから、聖書のテキストもその場面が取り上げられています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。

祝福、喜び、讃美…と、大変短い箇所ですが、実に内容豊かなところだと思います。しかし、今日は、時間も限られていますので、今日の箇所(日課)の前半部分を主に考えて行きたいと思います。これはある意味、イエスさまの最後の言葉だと言えると思うからです。

最後の言葉…。人生の最後に語る、残す言葉…。「遺言」と言っても良いのかも知れませんが、これは重い言葉だと思います。他の言葉以上に、ずっしりと残った人々の心に留まり続けるのではないでしょうか。
以前もお話ししたかも知れませんが、私は50(歳)を過ぎてから、自分の人生の終わりについてよく考えるようになりました。人生も折り返しを過ぎ、現実のこととして身近に感じられるようになったからなのかも知れません。そこで思うことは、どんな言葉を残せるか、ということです。自分の子どもたちに、ひょっとして孫たちもいるのかも知れない、そんな残される家族たちに、友人知人たちに、教会の仲間たちに、どんな言葉を残して旅立てるのだろうか。

〈キリストの昇天〉1460年頃 Andrea Mantegna (1431–1506) ウフィツィ美術館



つまり、これからの人生をどのように生きられるのか、といった問いにもなるわけですが、そんなことを考える時がある。そういう意味では、私はあまり「ピンピンコロリ」を願わない。もちろん、これには色々な意味合いがあるわけですが、少なくとも自分の死期を悟らず、いきなり、あっという間に死を迎えるといった死に方はしたくないと思う。ちゃんと、自分はもう長くはないと悟り、しっかりと語るべき言葉を語り終えて旅立てればと願っています。もちろん、自分の思う通りになるかどうかは分かりませんが、そう願っている。

長男が…、まだ11歳でしたが、病気が進み、歩くこともできなくなり、耳も聞こえなくなり、一日の大半を寝ているような状態になった頃、不意に、そう本当に不意に、私にだけこう言ったのです。「ママと離婚しちゃダメだよ」と。決して最後の言葉だったわけではありませんが、今でも鮮烈に残っています。今から思えば、自分の死期を悟っていたのかも知れません。そして、何かを感じていたのかも知れません。正直、その言葉で危機を乗り越えることができたこともありました。

イエスさまは天に上られる前に、最後に、何を弟子たちに語って行かれたのでしょうか。一つは聖書を教えられた、ということです。これは、復活の出来事ともつながるものです。弟子たちは、イエスさまの復活を信じることができませんでした。最も大切なところを、イエスさまの真実を、信じることができなかった。なぜか。聖書を理解することができていなかったからです。

しかし、これは、ただ単に聖書の内容を理解しているかどうかではありません。心が開かれていなければ、それは単なる知識で終わってしまうからです。心が開かれてこそ、真に聖書が語らんとすることを悟ることができるようになる。ですから、イエスさまは弟子たちに聖書を教えられると同時に、心をも開いてくださったのです。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。

『イエス・キリストの昇天』ジョットGiottoスクロヴェーニ礼拝堂(パドバ) 1304-1305年



『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」』」。イエスさまの十字架と復活は、心が開かれていなければ決して悟ることのできない聖書の真理、奥義です。よく、十字架と復活が分からない、といった声を聞きますが、ある意味、当然と言えるのかも知れません。いくら自分で頑張って取り組んでみても、それだけでは悟ることができないからです。皆さんもこんな経験がないでしょうか。

最近は説明書をあまり読まなくなりました。むしろ、説明書自体がついていない家電製品も多くあります。それでも、おそらく一向に困らないのでしょう。今までの何かしらの経験で何とかなることも多い。しかし、何ともならないことがあります。いくら、以前はこうすれば動いたのに、他の機種ではこれでよかったのに、と思って取り組んでも、全然埒があかない。とうとう観念してウェブ等で説明書を見ると、なんてことはない、すぐに使えるようになった、なんてことが。もっと早くに説明書を見ればよかった。俺の2時間を返してくれ、って思います。ちゃんとした方法、手順が必要なのです。まずは、心を開く、といった手順が。それを、イエスさまはしてくださる。

また、続けてこう書いてあります。「『また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。イエスさまによって私たちに何がもたらされるのか。弟子たちは…、それは、この私たち自身も含めてのことでしょうが、そのことの「証人となる」と言われています。

ある方が、こんなことをおっしゃっておられました。このままだと、コロナ後の日本の教会は壊滅的になるのではないか、と。その方は、もちろん危機感からそうおっしゃっておられるのですが、特に牧師たちが偉そうなことばかりを言って、何も実践していないのが問題だ。そのように辛辣に言われていた。社会はそれをしっかりと見ている。そんな口先だけのものを誰が信じるのか。今、このコロナ禍で困っている人たちがこんなにもいるのに、まさに実践の時ではないか、と言われる。

なるほど、と思います。もちろん、私自身、牧師の一人としても反省が多い。その通りだ、と思います。実践が足りないとは、誠に痛い指摘だと思う。確かに、そうです。では、何をすれば良いのか。何でも良いでしょう。自分にできることで何かをする。物品の援助でも良いでしょうし、寄付でも良いのかも知れない。実際に現場で働くのも、また情報を発信して協力者を募るのも一つの手かも知れません。

確かに、私たちには実践が求められている。しかし、そこで大切になってくるのが「証する」ということと結びついている、ということです。それは、何もいつも言葉で宣教的なことを伝えなければならない、ということではありません。教会に来てね、と誘うことでもありません。そうではなくて、イエスさまがしてくださったことを通してする、ということです。自分の言動の全てがイエスさまと繋がっている、ということです。イエスさまが、その人を助けなさい、とおっしゃっておられるので実践する、ということです。

もちろん、この「証し」ということが実践をしないことの隠れ蓑にしてはいけないことは当然のことですが、しかし、少なくともキリスト者である私たちにとっては、イエスさまと結びつかない実践ってどうなのか、とも思うのです。コロナ前であろうが、コロナ後であろうが、イエスさまを証ししないところに教会の存在意義はあるのでしょうか。

そして、最後にイエスさまは聖霊を待ちなさい、とおっしゃる。そうです。どれも、私たち自身の力、思い、能力だけではできないことです。どうしても、ご聖霊の力を必要としている。ですから、イエスさまは無茶なことは言われない。私たちの弱さや罪深さもよく知っていてくださるからです。だから、聖霊を待ちなさい。これが、最後の言葉になる。

最初に言いましたように、来週は聖霊降臨祭を迎えます。教会の誕生日とも言われます。つまり、聖霊の存在なしに、教会は成り立たないのです。そして、イエスさまは聖霊を待つように、と、聖霊の力に覆われるように、と最後に言葉を残してくださった。これは、私たちにとっても、決して小さな、軽い言葉ではないと思います。本当に私たちの教会が、教会員・信徒一人一人がキリスト者・キリストのものとして生きたいのなら、聖霊を待つしかない。信じて、祈って、聖霊が来てくださるのを待っていきたい。そう思いま
す。