【説教・音声版】2021年3月14日(日) 10:30 四旬節第4主日礼拝  説教 「神さまの決意 」 浅野 直樹 牧師 」

四旬節第四主日礼拝説教


聖書箇所:ヨハネによる福音書3章14~21節

今日の福音書の日課には、ルターが「小福音書」̶̶つまり、福音書の内容がここに凝縮されている、という意味でしょうが̶̶と表現したと言われています非常に有名な言葉が記されていました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

確かに、実に素晴らしい恵みのみ言葉です。ここで神さまが愛されたと言われている「世」とは、世界の全てを指すのでしょう。つまり、世界中の全ての人を神さまは愛しておられる、ということです。そこには、なんら分け隔てがありません。当時の状況で言えば、ユダヤ人と異邦人という大きな区別が存在していました。ユダヤ人は神さまに愛されている人々。異邦人はそうではなく、神さまに疎まれている人々。そんな区別が、少なくともユダヤ人サイドからはあった訳です。

しかし、そうではなくて、あらゆる国・民族・身分を超えて、出来る出来ないといった能力の差を超えて、どんな人でも…、そう、どんな人でも、自分には愛される資格などない、誰からも愛されない、と思い込むしかないような人であっても、神さまはその全ての人々を、その一人一人を愛しておられる。しかも、この福音書において「世」とは決して信仰深い、立派な世界を意味しないのです。むしろ、不信仰で罪に塗れた「世」でもある。そのことを重々承知の上で、それでも、なおもご自分の大切な独り子を与えるほどに愛し、愛し抜かれた。それが、福音書を凝縮していると言われる…、この「小福音書」と言われるみ言葉の意味するところだからです。

ですから、私自身も含めて、多くの人々の心を捕えて離さないのでしょう。確かにそう。素晴らしき『良き知らせ』。しかし、そのような普遍的で、寛容で、優しい「愛」のメッセージだけで十分か、といえば、それだけでは足りないようにも思うのです。なぜならば、このみ言葉には「一人も滅びないで」という言葉もあるからです。神さまの目的は、イエスさまを信じることによって全ての人に「永遠の命」を与えること。

しかし、その前提に「滅び」という現実が横たわっているのです。この「滅び」という現実があるからこそ、神さまは何とかして全人類をそこから救い出したいと欲せられた。なぜならば、神さまは私たち全人類を愛しておられるからです。ですから、御子を…「独り子」を与えられた。この「与える」は明らかにイエスさまの十字架を意味すると言われる。ですから、私には、先ほどの言葉は、人類を救うために御子イエス・キリストを十字架につけるという神さまの決意表明のようにも思えてならないのです。私たち人類への愛の決意表明。

必ず救うという決意表明…。先ほどから言ってきましたように、ここには神さまの全身全霊をかけた「愛」の言葉が記されていますが、と同時に、「滅び」「裁き」などの愛に似つかわしくない言葉も多数記されていました。現代に生きる私たちは、このような「罪」「裁き」「滅び」といった言葉がどうも苦手なようです。「愛」の言葉だけで十分だ。それ以外の言葉は捨て去ったほうが良いとさえ思っているのかもしれません。「罪」「裁き」「滅び」などと言われる神さまは、神さまらしくない、と思っているのかもしれない。教会では、たびたび救われなければならない、赦されなければならない「罪人」だと言われるけれども、自分のことをそれほど悪くはない、と思っているのかもしれない。

たとえ、神さまの手が下されなくても、私たち人類は滅びへと向かいつつあるようにも思えてきます。NHKスペシャル『2030未来への分岐点』という番組をご覧になられたでしょうか。ある専門家は、2030年が世界の分岐点になると警鐘を鳴らしています。つまり、この10年の間の私たちの取り組みが明暗を分ける、ということです。

事実、その通りになるかどうかは意見が分かれるところでしょうが、少なくとも「このままではダメだ」といった危機感は多くの人々が共有しているところではないでしょうか。この番組ではシリーズで「温暖化」の問題、「水・食料危機」の問題、「プラスチック汚染」の問題などが取り上げられていましたが、どれも衝撃的なものでした。これらの迫り来る課題と、罪の問題(自分たちの欲望を満足させようとする、自己都合ばかりを考える等)とは決して無縁とは言えないでしょう。そういう意味では、この「罪」と「滅び」の問題は、私たちの身近に迫っている課題とも言えなくないのかもしれません。

しかも、聖書ははっきりと「神さまの裁き」を語っていきます。私たち人類の罪を、悪を放ってはおけないからです。そして、実は、私たちもそのことが正しいことだと分かっているのです。なぜならば、罪や悪を野放しにしておけば、やがて混沌と暗黒をもたらし、破滅へと向かわせることを知っているからです。ただし、問題なのは、私たち自身は、そんな「神さまの裁き」に値するほどに罪深くはない、悪くはないと思っていることです。思い込んでいることです。果たして、他国を侵略し、強圧的に植民地化していった人々は、自分たちがやっていることは罪だとか、悪だとか思っていたのでしょうか。

果たして、戦争を終わらせるためだと、一度に十万人以上もの人々の命を奪うことができる原子爆弾を開発し、投下していった人々は、自分たちがやっていることは罪だとか、悪だとか思っていたのでしょうか。平和的なデモをしている市民を実弾で排除しようとしている軍事政権の人々は、自分たちがやっていることを罪だとか、悪だとか思っているのでしょうか。日々の食事にも事欠いている人々が何億人もいるのに、毎日、まだ食べられる食材を大量に捨てている私たちは、それを罪だとか悪だとか思っているのでしょうか。自分たちの豊かで快適な生活を維持するために、ある特定の地域の人々に多大な危険を強いている私たちは、そのことについて疑問さえも抱いていないのではないでしょうか。私たちの罪とは、悪とは、そんなにもあからさまなものばかりなのでしょうか。自覚していないだけ、ということはないでしょうか。それでも、本当に私たちは、それほど悪くはない、罪深くはないと胸を張って言えるでしょうか。神さまの裁きは、滅びは、私たちにとっては無縁だと言い切れるのでしょうか。

しかし、聖書は語ります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。確かに人は自らの罪によって「滅び」へと向かいつつある現実があったかもしれない。しかし、神さまは、その現実を放っておくことも、また諦めて裁きに任せておくこともお出来にならなかったのです。なぜならば、世を…、不信仰で罪に塗れていた世を、この私たちを愛しておられたからです。ですから、どうしても救いの道を求めずにはいられなかった。それが、「独り子」を与える、つまり、独り子であるイエス・キリストを私たちに代わって十字架につけるという方法でした。

キリストの祝福 Christ blessing the children (1545–1550) ルーカスクラナッハ Lucas Cranach the Younger メトロポリタン美術館 Metropolitan Museum of Art,N.Y.



あの3.11から10年が経ちました。しかし、その10年という年月で痛みが和らぐものではないということも、この間の様々な報道等からも知らされました。そして、私たちも知っている。愛する者を失う悲しみを。その痛みを。神さまは違うのか。私はそうは思いません。私たち以上に、痛かったに違いない。苦しかったに違いない。しかも、そんな思いをしてまでも救おうと願った相手は、神さまに逆らい、自らの罪によって滅びへと向かおうとしていた人々。その愚かさ、過ちにも気づかなかった私たち人類です。矛盾と悲しみを孕んだ、この世です。

私たちはこの「独り子」を与えるほどの神さまの愛を受け止めるところから始めなければなりません。そして、この神さまの愛を知った者だけが、この愛に触れた者だけが、本当の意味で自らの罪深さにも気付いていけるのでしょう。だからこそ、なおもこの愛の言葉に寄りすがっていくことにもなる。まさに、この恵み深い言葉に。良き知らせに。
私たちはもう一度心新たにして、この神さまの愛に生かされていきたいと思うのです。そして、自分自身のためだけでなく、この世、この世界のためにも罪の気付きにチャレンジして、罪・罪の力からの開放を求め続けていきたいと願っています。



祈 り
本日は午後1時より教会総会が行われます。このコロナ禍で例年より1ヶ月以上遅れ、開催方法も大きく異なりますが、昨年一年間の恵みを感謝し、また新たな思いでこの一年をはじめて行けますように、どうぞお導きください。また、ITを使った初めての総会となります。機器のトラブル等もないようにお守りください。

東日本大震災から10年が経ちました。一つの区切りということでしょうか、最近はニュース等で当時の映像が多く流されていますが、改めて当時の被害の大きさを思い起こしています。また、被災された方々にとっては、なかなか踏ん切りのつかない月日でもあったのでしょう。まだ悲しみの癒えていない方々も多くおられると思います。また、人災とも言える原発問題で、苦しい思いをされておられる方々も多いと思います。どうぞ、憐んでください。癒しと希望をお与えくださり、一歩一歩前へと進んでいくことができますようにお導きください。

また、これらの経験を風化させることのないようにもお導きください。私たちは、本当に反省の足りないもの、喉元を過ぎるとすぐにでも忘れてしまうものです。あれだけ多くの日本中の人々が様々なことを学んだはずなのに…。私たちはどこかで自然を、世界を手中に収めているような錯覚、傲慢さがあったのかもしれません。もっと謙遜になって、様々な歴史的教訓からも学びとって、持続可能な節度ある生き方、文化が育っていきますようにお導きください。

今週土曜日(20日)には教区総会も行われます。教区総会も通常の総会とはいきませんが、この東教区においても様々な課題がありますので、少しでも改善に取り組んでいくことができますように、執行部をはじめ、それぞれの教会を豊かに導いていってくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン