【説教・音声版】 2021年2月28日 「イエスの死を恥じてはいけない 」浅野 直樹 牧師

四旬節第二主日礼拝

聖書箇所:マルコによる福音書8章31~38節

本日、四旬節第二主日に与えられました福音書の日課は、マルコによる福音書8章31節以下、いわゆる「受難予告」と言われる箇所でした。
今朝は、このことについて考えていく前に、使徒書のテーマであった信仰について少し考えてみたいと思います。

ここでパウロは信仰の父とも言われるアブラハムを引き合いに出して律法による救いではなく、信仰の重要さを語っていきます。先ほども言いましたように、アブラハムのことを「信仰の父」というくらいですから、信仰について知りたければ、アブラハムから学べ、ということでしょう。それほどに、このアブラハムの信仰は評価されてきました。パウロも、そんなアブラハムの生涯の一場面を切り取って、こう語っています。

「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。

彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです」。このように、パウロはアブラハムの例を出しながら信仰の大切さを語っていったわけですが、その出来事が今日の旧約聖書の日課になります。

ご承知のように、神さまからの「子孫と土地を与える」との約束を信じて、命じられるままに未知なるパレスチナの地に旅立ったのが、アブラハム75歳の時でした。あれから、約四半世紀。待てど暮らせど子どもが生まれる気配がない。

これは単に時間の経過だけを意味しないわけです。アブラハムも妻のサラもどんどんと年をとって、ますます不可能に思えてくるからです。途中で痺れを切らして、すでにアブラハムはサラの女奴隷であったハガルによってイシュマエルという子どもをもうけてもいました。

それなのに、ようやく神さまからの語りかけを聞けたかと思えば、妻サラとの間の子どもが約束の子孫だと言われる。その語りかけを聞いたアブラハムの心境も頷ける気がいたします。創世記17章17節以下。「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』アブラハムは神に言った。『どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように』」。

「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った」。神さまの言葉を「笑う」。痛烈な言葉です。聖書は本当に素直だな、と思います。信じられないのです。アブラハムは100年も生きてきた訳ですから、この世の酢いも甘いも噛み分けて、人間的な常識というものを否が応でも身につけてきたことでしょう。その結果、「不可能」という判断に至った。

当然です。そんな話し、聞いたことがない。だから、彼は笑うしかなかった。馬鹿馬鹿しいとさえ思ったのかもしれない。だからと言って、決して神さまのことを信じていない訳ではないのです。神さまは信じている。敬っている。だから「ひれ伏す」。しかし、他のことならともかく、少なくともこの件に関しては不可能としか人間理性では、常識では思えないので、無理だ・有り得ないと笑うしかないのです。そんなアブラハムの気持ち、私たちにもよく分かるのではないでしょうか。

それでも、やはりアブラハムは「信仰の父」なのだと思うのです。このアブラハムから信仰というものを学ぶ必要がある。しかし、それは、アブラハムの信仰を、ということを必ずしも意味しないと思います。そうではなくて、このアブラハムを「信仰の父」「信仰の人」としていった神さまを学ぶ。人間的な常識、知識、経験などを超えて、ただ神さまの言葉のみに信頼を寄せる、そういった信仰へと導いていかれた神さまのお姿を学ぶのだと思うのです。

最初に言いましたように、今日の福音書の日課は、いわゆる「受難予告」と言われる箇所です。もっと正確に言えば、「受難と復活の予告」ということでしょう。これは、以前もお話ししましたように、直前のペトロの信仰告白を受けての出来事ということになります。イエスさまは、人々のご自分に対する認識を問われた後、弟子たちにも尋ねられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。

その時にペトロは即座に答えます。「あなたは、メシアです」と。メシアとは、元々は「油注がれた者」ということを意味していましたが、次第に救い主を意味するようになっていきました。そして、このメシアに当たるギリシア語が「キリスト」ということです。

沈黙のキリスト:Le Christ du silence (1890-1907) Odilon Redon (French, 1840-1916) オディロン・ルドン(Odilon Redon)



イエス・キリスト…、イエスはキリスト、救い主。これが、私たちの信仰告白です。ここでその信仰告白をペトロが最初にしたことになる訳です。しかし、その直後になされた受難予告を聞いてからのペトロの言動を見ますと、ペトロの抱いていた救い主の認識とイエスさまが成そうとされていた救い主の認識とが、大きく異なっていたことが分かると思います。

「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」。「イエスさま、何てことをおっしゃるのですか。私がメシアだと認めたあなたが、人々から排斥され、殺されることなど、あるはずがないではないですか。そんな弱気な発言は困ります。そんなことでは、誰もついて来なくなりますよ」、そんなことを語ったのかもしれません。

しかし、先ほどの言葉をよくよく見ていきますと、単に認識の違いでは済まないことも思わされるのです。先程の「いさめ始めた」の「いさめる」という言葉は、後の「ペトロを叱って」と記されている「叱る」と同じ言葉が使われているからです。ですから、ペトロはイエスさまを「叱り始めた」と言っても一向に差し支えないのです。

では、なぜペトロはイエスさまを叱ったのか。自分の方が正しいと思ったからです。少なくとも、このメシアについての認識は、イエスさまの方が間違っている。受難のメシアなどありえない。自分の理解の方が合っている。だから、馬鹿なことを言うんじゃない、と叱る。

そんなペトロに対して、今度は逆にイエスさまが叱責なさいました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。これも、大変厳しい言葉です。いくら間違いを犯したとはいえ、愛弟子に対して「悪魔よ、引き下がれ」などというのは、ちょっと言い過ぎなのではないかとさえ思えてきます。パワハラだと訴えられてしまうかもしれない。しかし、そんな厳しい口調にではなく、なぜそう言われたのかという意味をしっかりと考えなければなりません。

つまり、ペトロの言動は、図らずも悪魔のやり口そっくりだった、ということです。そして、悪魔のやり口とは、「神のことを思わず、人間のことを思っている」ということ。しかし、本当は人間のことも思ってはいないのです。いかにも人間のことを思っているように装って仕掛けてくるのが悪魔のやり口。それは、創世記3章の記事を見ても明らかだと思います。

「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存なのだ』」。いかにも、人間の利益になるように唆してくる。それが、人類悲劇の始まりになる。しかも、現代に生きる私たちにとっては、この問題は抜き差しならぬ問題になっているように感じます。神さまの思いよりも、人間の思いの方が価値があると思い込んでいるからです。信仰になんて…、しかも、十字架に死んだ過去の人イエスを信じることに果たして意味があるのだろうか、と。キリスト者である私たちであっても、この問いは無縁とは言えないのかもしれません。

C’est moi, Jean, qui ai vu et qui ai oie ces choses (And I John saw these things and heard them (1899) Odilon Redon (French, 1840-1916)



使徒パウロははっきりとこう語っています。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。神さまの意思、神さまの力、神さまのご計画は、私たちの知識、認識、常識からすれば、「愚か」「ありえないこと」「馬鹿げている」としか思えないのかもしれないのです。ですから、信仰が必要になってくる。悪魔の策略を打ち破り、自分(あるいは人・人間)にではなく、神さまにこそ信頼を寄せる信仰が必要になってくる。

そして、そんな信仰を養い、育むためには、この神さまのためには十字架への道をも厭われなかったイエスさまのお姿が是が非でも必要なのだと思うのです。一見私たちの目には正しそうに、有益そうに見えるものでも、実は滅びへと向かわせる悪魔の策略なのかもしれない。一見役に立たないような愚かなものの中にこそ、私たちを救う真実の知恵と力があるかもしれない。

私たちも「引き下がれ(元々は「私の後ろに廻れ」という意味ですが)」と叱責されながらも、あのペトロたちと同じようにイエスさまと共に歩んでいく中で、信仰のなんたるかも学ばせていただきたいと思います。

 

祈り

・先日も、この地上の生を全うされ天に帰られた姉妹がおられます。み約束の通りに、どうぞ姉を永遠の安息と祝福とに与らせてください。また、どうぞ、憐んでくださり、ご家族・ご親族の上に天来の豊かな慰めをお与えくださいますようにお願いいたします。

・一都三県以外の地域の緊急事態宣言が解除されましたが、リバウンドも心配されています。どうぞお守りくださり、また上昇傾向にならないようにお導きください。一都三県でも随分と減少してきましたが、新規感染者の下げ止まりがあり、医療機関等もまだまだ大変なようです。

また、春先の様々なイベントによる懸念もあるようです。ワクチン摂取も予定より遅れ気味ですが、どうぞお守りくださり、少しでも感染者数を抑えていくような日常を送ることができますようにお助けください。

あるいは、若い方々は感染を広げている元凶のように見られがちですが、しかし、学校にも行けず、アルバイトもままならず、自粛もして大変な思いをしている学生、若者たちも多いと聞きます。どうぞ、彼らへの理解も深まって、また、彼らが少しでも当たり前の青春時代を過ごしていくことができますように、どうぞお助けください。

・悩みのうちにある者、絶望に追い込まれている者をかえりみ、助け導いてください。病床にある者、怪我をされている者にいやしと慰めをお与えください。正義のために苦しむ者、自由を奪われた者に勇気と希望を与えてください。闇の中を歩む者に、あなたの光を注ぎ、計り知れない恵みのみ旨を示してください。また、ご家族を亡くされた方々に、あなたからの豊かな慰めと希望をお与えください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン