【 説教・音声版】2021年1月17日(日) 10:30 説教「出会うことで」浅野直樹牧師

顕現後第2主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書1章43~51節

人生には、さまざまな出会いがあるものです。それらが私たちの人生を彩っていく。そして、人生を変えるような、あるいは大きな影響を与えるような良き出会いがあるということは幸いなことではないでしょうか。

思い返しますと、私にとっては特に次の三つの出会いが思い起こされます。皆さんはどうでしょうか。
一つは、中学時代の社会科の先生との出会いです。この先生との出会いがなければ、私はキリスト教に、教会に触れることはなかったのかもしれません。御多分に洩れず、と言いますか、私の中学時代は危うい思春期真っ只中の状態で、今から思えば非常に青臭い悩みでしたけれども、その頃は死を考えるほど深い悩みを抱えておりました。また、社会や周りの大人たちにも非常に反抗的でした。

そんな中、唯一好意を抱いていたのが、前述の社会科の先生でした。といっても、私の性格上、先生と親しくなれていたわけではありませんでしたが、先生の授業だったからこそ、先生の語ったキリスト教がすっと心に入ってきたのだと思います。そして、そんなキリスト教に憧れを抱きました。そのことがなければ、教会を訪ねることは恐らくなかったでしょう。

もう一つの出会いは、最初の神学校時代の学友たちとです。本当に彼らとの出会いは大きな支えになりました。素直に信仰の話が真剣にできたのは、彼らが最初だったと思います。それまでの私は、自分の信仰に自信が持てずにいました。洗礼を受け、神学校にまで行った訳ですが、自分の中に疑いの思いや反発心などが渦巻いており、本当にこれが信仰者なのだろうか、と悩んでもいたからです。かといって、そんな心の内を相談できる相手もおらず、悶々としていました。今から思えば、動機としては全く不謹慎だった訳ですが、そんな思いを何とかしたくて神学校に行ったようなものです。

しかし、いざ入学してみると、たちどころに「ここは自分のような人間が来るところではなかった」と思い知らされました。牧師を目指すような人たちばかりな訳ですから、周りは信仰の猛者ばかりだったからです。彼らからそのような話を聞かされるたびに、ますます自信を失い、本当に逃げ出したいばかりでした。彼らとの出会いがなければ、本当に逃げ出してしまい、牧師にもならなかったのかもしれません。その中にいることが、あまりにも辛くなりすぎて、ある日、非難されるのを覚悟の上でそんな心の内を打ち明けてみました。すると彼らは普段と何ら変わらず、あまりに当たり前の口調で「そんなの誰もが通る道だよ。僕たちだってそうだった」と答えてくれました。その言葉にどれほど救われたことか。本当に感謝に絶えません。

もう一つはルターとの出会いです。といっても、もちろん、本人自身にではありません。もっと言えば、彼の著書自体でもありませんでした。アメリカの神学者であるベイントンという人が書いた『我ここに立つ』が授業の課題図書とされ、読むことが求められたからです。これは、いわゆる伝記物です。その中に記されていた修道院時代の信仰的苦悩・葛藤にひどく共感を覚え、たちまちルターの虜になりました。その後、ルター関連の本を漁るように読んだことを覚えています。このルターとの出会いがなければ、信仰的自覚、信仰的成長、信仰的確信もなかったかもしれませんし、何より今現在ルーテル教会の牧師としてここに立っていることもなかったでしょう。もちろん、これ以外にも様々な出会いがあった訳ですが、そういった出会いが意図せずに人生を変えることになったことを深く思います。

先ほどは、私自身の特に三つの出会いを例として出させていただきましたが、出会いには大きく分けると二種類あるように思います。一つは偶然、たまたま、と言えるものです。前述の中学時代の先生にしろ、神学校時代の学友にしろ、たまたま同じ時期、同じ場所にいたからこそ生まれた出会いでしょう。場合によっては、すれ違うことだってあった。確かにそうなのですが、しかし、信仰の目で見れば違った景色も見えて来るように思います。それもまた、神さまが意図されたことなのだと。私の必要のために備えてくださった出会いなのだと。私は、そう思っています。

そして、もう一つは、誰かを媒介とした出会いです。私の場合は、前述のルターとの出会いがそうでしょう。その授業の先生が何らかの意図をもってその本を紹介してくれたお陰で、私はそれと出会うことができまし
た。たまたま、私自身はその先生の意図以上にルターとの出会いにハマってしまい決定的な意味を持つようになった訳ですが、そのような仲介がなければ出会うことがなかったのかもしれません。そういう意味では先生には本当に感謝しています。そのように、そんな偶然(神さまからすれば必然?)と仲介によって私たちは多くの出会いをしてきたはずです。

Leonardo da Vinci (1452-1519) – The Last Supper (1495-1498)※Philip:フィリポ:部分※手で自分を指している図 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会



今日の福音書の日課は、いわゆる「弟子の召命物語」と言えるでしょう。ここでイエスさまは二人の人物を弟子とされました。一人はフィリポ、もう一人はナタナエルです。前者、フィリポの方は他の福音書の中でも12弟子として取り上げられていますので良く分かるのですが、後者のナタナエルは他の福音書には登場してきません。ですので良く分からない。ここでフィリポと並んで取り上げられているくらいだから、ナタナエルも12弟子の一人ではないか。とすると他の福音書に記されているバルトロマイと同一人物ではないか。そんなふうにも言われています。ともかく、このヨハネ福音書の「弟子の召命物語」には、他の福音書にはない非常にユニークな場面が登場してまいります。フィリポの方は馴染みのある召命物語です。

「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた」。これは、偶然の出会いと言っても良いのかもしれません。たまたまガリラヤに行く道中で出会ったから…。しかし、信仰の目で見るならば、前述のように、ここにも神さまの働きかけがあると考えられるし、もっと言えば、イエスさまの方からわざわざフィリポを弟子にするために出会っていかれたのかもしれません。いずれにせよ、これは従来型の召命物語でしょう。しかし、ナタナエルの方は一風変わっています。なぜならば、先ほど弟子とされたフィリポがナタナエルをイエスさまに引き合わせているからです。

Leonardo da Vinci (1452-1519) – The Last Supper (1495-1498)※Nathanael ( Bartholomaenus ):※左端部分 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会



これは、他の召命物語にはないものです。しかも、ここには非常に示唆に富んでいることが書いてある。フィリポは何とかしてナタナエルを説得しようと試みる訳です。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。ある人はフィリポは非常に凡庸な人だったと言います。そうかもしれません。彼の言葉も、それほど人を引き付けるようなものではなかったのかもしれない。しかし、彼は彼なりに精一杯、ナタナエルにも分かってもらおうと努力したはずです。しかし、ナタナエルの方はそっけなくこう答える。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。

私にも覚えがあります。学生時代、なんとかこの人を説得しようと何時間もかけて試みたのに、暖簾に腕押し、難癖ばかりを返してきて、疲れ切ってがっかりしたことがありました。しかし、このフィリポはその時私がしなかったことをした。「来て、見なさい」。実際にイエスさまに会って見なさい。そうすれば分かる。彼がしたことは、たったそれだけです。しかし、それが、ナタナエルとイエスさまとの運命的な出会いの架け橋になったのです。私たちだってそうでしょう。大抵は凡庸です。心動かすような、人生をひっくり返すような言葉など出てこないのかもしれません。

それでも、実際に「来て、見なさい」と勧めることはできるのかもしれません。この「来て、見なさい」は、現代では教会のことだとある方はいっておられます。そうかも、しれません。実際に教会に来て見てごらんなさい、と言えるのかもしれない。あるいは、聖書を読んでごらんなさい、かもしれない。信仰の入門書をプレゼントすることかもしれない。または執り成しの祈りをすることかもしれない。とにかく、私たちが説得するのではないということです。私たちは、何とかしてイエスさまと出会えるようにと橋渡しをすること。それで十分。それだけで、その人はイエスさまと出会えるかもしれない。

イエスさまと出会って、人生が大きく変えられるかもしれない。信仰の目でしか見ることのできない偉大なものを見ることができるようになるかもしれない。そして、生涯、希望を見失うことなく生きることができるようになるのかもしれない。そんな人を、私たちを媒介とする「弟子の召命物語」が今日の箇所に記されていることを、私たちはもう一度新たに心に刻んでいきたいと思います。

祈 り

緊急事態宣言後、一週間以上が経ちましたが、あまり人の出が減らずに効果に乏しいといった指摘もされています。東京では連日1000人をはるかに超えるような感染者が出ており、ますます医療現場は困窮していると思われます。また、なかなか入院することが出来ない方々が増え、心配されていたように自宅療養されていた方が急変してお亡くなりになられてしまったという事例も出てしまいました。どうぞ、憐れんでください。これ以上、感染が広がらないように、一人一人が行動を律することができますようにお導きください。

また、経済的に苦しい状況に追い込まれている方々も多くおられます。一方では、このコロナ禍にあっても利益を重ね、ますます格差が広がっているようにも感じています。本当に、このコロナ禍で社会の歪みがいっきに噴出しているようにも感じます。どうぞ、あなたが命じられているように、「隣人を自分のように愛すること」を志していく社会となっていきますように、また、様々な歪みに対してもしっかりと目を向け、反省しつつ、あり方を正していく勇気と力を与えてくださいますように、気候変動で立ち上がったあの若者たちのように、新しい社会のあり方を、誰もが当たり前の生活が送れるような優しい社会を求めていくことができますように、どうぞ罪深い私たちを顧み導いていってください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

Leonardo da Vinci (1452-1519) The Last Supper(1495-1498)