【 テキスト・音声版】2020年12月06日 説教「 神の子イエス・キリストの福音の初め 」 浅野 直樹 牧師

待降節第二主日礼拝説教


聖書箇所:マルコによる福音書1章1~8節

待降節第二主日であります本日の福音書の日課は、マルコによる福音書1章1節からは じまっています。 ご存知のように、このマルコによる福音書には、直接的なクリスマスの出来事に関する 記事は記されておりません。クリスマスの物語といえば、マタイによる福音書とルカによ る福音書の二つに負っていると言って良いでしょう。

もっとも、ヨハネによる福音書に は、抽象的ではありますが、クリスマス…、つまりイエス・キリストの御降誕について、 神の「ことば」であられる、また「命」そのものであり、「人間を照らす光」であられる イエス・キリストの到来について、非常に印象深く記されていますので、このクリスマス の季節にも度々読まれたりいたします。そういう意味では、福音書の中でもこのマルコに よる福音書は、クリスマスの時期には蚊帳の外に置かれていると言えるのかもしれませ ん。

しかし、そのマルコ福音書は、このように書き始めています。「神の子イエス・キリ ストの福音の初め」。なんと印象深く力強い言葉でしょうか。確かに、このマルコ福音書 のは、クリスマスの物語は登場してこないのかもしれません。ヨハネ福音書のように、イ エス・キリストの到来についての心とらえるような美しい言葉も語られていないのかもし れない。しかし、このマルコによる福音書は、まさしく「福音書」なのです。イエス・キ リストによってもたらされた喜ばしき知らせの書なのです。イエス・キリストは確かに、 この世界に来られた。

たとえ、クリスマスの華やかな心躍るような物語がないとしても、 私たち人類を救うために、私たちによき知らせを告げるために、イエス・キリストは私た ちの只中にお生まれになった。その事実は、このマルコ福音書においても変わらないので す。そういう意味でも、今朝、このイエス・キリストの御降誕を待ち望む待降節に読まれ るのに、相応しいと言えるのではないでしょうか。 確かに、そうです。ここから、イエス・キリストの喜ばしき知らせの物語がはじまって いくのです。しかし、ここではたと私たちは歩みを止めてしまうのかもしれません。

荒野の洗礼者聖ヨハネ,1490 トット・シント・ヤンス,ヘールトヘン Geertgen tot Sint Jans ベルリン国立絵画館



なぜ ならば、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と言われた言葉に続くのが、洗礼者ヨ ハネの物語りだからです。ご存知のように、この洗礼者ヨハネは自分自身も大変厳しい禁 欲的な生活を送って行ったようですが、人々に罪から離れることを、罪の悔い改めを説い ていった人物だからです。これから喜ばしき物語が始まると思いきや、いきなり罪の糾弾 をする厳しい人物が登場してくる。キリスト者である私たちは、どこかでこのような展開 に慣れてしまっているのかもしれませんが、初めて読む人にとっては、なんだか予想を裏 切られた思いを持たれるのかもしれません。

この洗礼者ヨハネについては、このように記されています。「預言者イザヤの書にこう 書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよ う。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」そのと おり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ 伝えた』」。ここは、旧約聖書のイザヤ書だけの引用ではなく、いろいろな箇所の言葉が混在しているようですが、ともかく、イザヤ書の預言が成就したと見ている訳です。そし て、先ほどお読みした第一の朗読のイザヤ書40章がその根拠となっている言葉というこ とです。そのイザヤ書40章の4節では、このように記されていました。

「谷はすべて身 を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」。 「人生、山あり谷あり」と言ったりします。大抵は、人生とは良いことも悪いこともあ るものだ、と理解したりしますが、しかし、山というのも困難を連想したりしますので、 人生とはうまくいかないことの連続だ、といった理解の仕方もあるようです。そういう意 味でいえば、山が低くされ、谷が高くされ、平坦な道のりにされるということは何を意味 するのでしょうか。順風満帆、安心安全、平和、安らぎ…。人生の困難・難局とは逆の展 開、肯定的な展開を連想するでしょう。

ならば、なおさら、そのような役割を担うべき存 在である洗礼者ヨハネが、それらとは全く真逆とも思えるような罪の悔い改めを説くとい うことは、どういうことになるのでしょうか。 答えは明瞭です。神さまと共に生きる。これだけのことです。マタイによる福音書で は、これをインマヌエルと語っています。「神は我々と共におられる」という意味です。 お分かりのように、これはクリスマスの物語で語られるものです。イエスさまの誕生と は、このインマヌエルをまさに実現するためのものだったからです。

そして、これこそが 人類最大の幸福なのだ、と聖書は語るのです。 神さまと共に生きる。たったこれだけのことですが、これほど難しいこともない。なぜ か。人が罪を犯すからです。人は罪を犯して、神さまから逃げ隠れするようになってし まったからです。それを、人は、私たち人類は有史以来ずっと繰り返すようになってし まった。しかも、人は、どこから落ちてしまったのか、どうして真の幸福から外れてし まったのか、気づくことさえできなくなってしまった。なぜか。神さまを求めなくなった からです。

いいえ、自分に都合のいい神さまは求め続けて来たかもしれませんが、自分に 都合の悪いことも明確にはっきりと語られる、つまり、私たちが罪人であるという現実を 突きつけられる神さまを求めず、むしろ避けてしまって来たからです。しかし、真実から 目をそらすところに、本当の幸福などやってくるのでしょうか。 もう何年も前に『不都合な真実』という映画が上映され、私自身大変衝撃を受けました が、今だに「不都合な真実」に目を向けない人々が多いのです。あるいは、これほど新型 コロナの猛威に深刻なダメージを受けており、マスクが感染予防のためにも有効だと分 かって来ているにも関わらず、陰謀論を唱えながら新型コロナの問題自体を否定しようと している人々がいるとも聞きます。

これは、決して対岸の火事ではないでしょう。私たち にだって見えていない、いいえ、見ようとしない「不都合な真実」があるのかもしれませ ん。誰も私たちは、自分自身の全てを知り得ないのです。この目で見えるところは一部だ け。見えないところは、自分以外の方法を、鏡を、写真を、映像を用いるしかない。外見 でもそうならば、内面においてはなおさらでしょう。気づかせてくれる存在がどうしても 必要なのです。 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」とイエスさまはおっしゃいま したが、自分がまさに医者を必要としている病人であることが分からなければ、医者を頼 ることさえできないのです。いいえ、しないのです。

ともかく、イエスさまに至る道を歩むためには、私たちにとっての「不都合な真実」に もしっかりと向き合わなければなりません。しかし、その先にあるのは、福音、喜ばしき 知らせなのです。神さまは、私たちを救うために、福音に生かすために道を整えてくだ さった。そのための、洗礼者ヨハネであった。大切なことは、それが「神の子イエス・キ リストの福音の初め」ということです。

祈り

・神さま。新型コロナの感染拡大が止まりません。医療現場は大変な状況になっていま す。どうぞ憐れんでください。国や地方自治体による感染防止策はもちろんのこと、一人 一人が意識をしっかり持ち、特に重症化しやすいご高齢の方々や病気を抱えておられる 方々に感染が広がっていかないように自覚ある生活を志していくことができますようにお 導きください。また、新型コロナの感染拡大によって、通常の医療を必要としている方々 にもしわ寄せがいっているとも聞きます。すぐにでも治療の必要な方々に、適切な医療が 提供されますように、どうぞお助けくださいますようお願いいたします。

また、このコロナ禍で経済的に困窮している方々が増えています。どうぞ、これらの 方々にも適切な援助の手が与えられますようにお助けください。政治を司る人々も大変厳 しいかじ取りが求められていますが、適切な判断を下していくことができますようにお導 きください。

・こういった状況の中で、私たちの教会でもそうですが、各教会においてもクリスマスの 取り組みに苦心されていると思います。どうぞ、各教会の取り組みを祝してくださり、こ のような中にあっても最善をなし、少しでもクリスマスのメッセージを届けていくことが できますようにお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン