【 テキスト・音声版】2020年11月22日 説教「 報われる時 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後最終主日礼拝説教



聖書箇所:マタイによる福音書25章31~46節

このところ何週間か「終末(世界の終わり)」についてお話をしてきました。そして、今日は教会の暦としては今年最後の日、聖霊降臨後最終主日となりましたので、まさに日課も「終末」ということが取り上げられている訳です。ある方が言っておられますように、「終末」とは世界に結論が出される時です。

総決算の日…。もちろん、これまでも度々取り上げてきましたのように、私たち個々人の終わりについても言えることでしょう。ですから、不安にもなる。なぜならば、及第点をもらえるような人生だったかどうかが問われることにもなるからです。果たして自分はどうだったのか、と。今日の日課においても、そんな終わりに際しての「結論」が記されているように思います。これも、ここ一二週間お話ししてきたことですが、この「終末」ということと「キリストの再臨」とはセットで考えるべきです。

ここに、キリスト教特有の「終わり」の意味が見えてくることになる。イエスさま抜きに終わりは考えられないということです。繰り返しますが、これは世界の終わりだけのことではありません。私たちの終わりについても言えることです。イエスさまの存在とセットで終わりを受け止めるのとそうでないとでは雲泥の差が生じるからです。ここでのイエスさまは「裁き主」として登場しておられることも見落としてはならないでしょう。

Jesus separating people at the Last Judgement in Fra Angelico’s The Last Judgement, c.1431 Collection :Museum of San Marco



ただし、誤解してはいけません。「裁き主」とは、罰を与える存在ということを必ずしも意味しないからです。本来は審判者ということです。ジャッジを、判定を下される方です。ですから、この方によって羊と山羊とに分けられることになる。しかし、これが決定的な意味を持つことになる訳です。イエスさまの再臨の時、永遠の救いに与ることになるのか、それとも、永遠の滅びに定められることになるのか、その結論が出されてしまうことになるからです。

こう見ていきますと、どうも私たちの信仰理解とは随分とかけ離れているようにも思えてきます。なぜならば、私たちは恵みによって救われると信じているからです。私たち自身の功績ではない。私たちが何をしてきたかが問題になるのではない。

ただ、神さまが私たちを憐れんでくださり、救いたいと欲してくださり、そのためにイエスさまの命までも十字架で捧げてくださったからこそ、私たちは罪赦されて救われるのだと信じている。それが、福音なのだと。

確かに、そうです。その恵みを信じることが、その恵みの御業を成し遂げてくださったイエスさまを信じることが、この方に徹頭徹尾信頼していくことが信仰なのだと受け止めている。それは正しいことです。しかし、そのイエスさまを信じるということは、イエスさまが語られた一つ一つの言葉、その教えもまた自分たちにとっては決定的な意味を持つのだと受け止めていくことにもなるはずです。イエスさまを信じると言いながら、その言動を蔑ろにすることは大間違いです。そういう意味では、イエスさまに従うこともまた求められている。では、イエスさまに従うとは具体的にはどういうことか。

ご存知のように、このマタイによる福音書には、「山上の説教」と言われる箇所が記されています。5章から7章にかけてです。随分と長く、また細かな項目で語られている。

これがマタイ福音書の特徴にもなっている訳です。では、一体そこには何が記されているのか。新しい戒めに生きる、ということです。旧約聖書に記されている古い戒めではなく、それを新たに解き明かされたイエスさまの新しい戒めに生きる、ということです。しかも、イエスさまはその最後にこのように念を押されています。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」。

よく知られた言葉です。聞くだけで終わってはいけないとの戒めの言葉です。では、今日の箇所で、イエスさまの再臨の時、永遠の祝福に与ることができた人々は何をしてきたのでしょうか。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」。

これは後に分かるように、直接イエスさまにしたのではなくて、「最も小さな者の一人」にしたことが評価されている訳ですが、はっきり言ってしまえば、それほど大したことはしていない、ということです。牢云々ということは、あまり経験がないでしょうが、大方の人はちょっとした食事を提供することも、渇きを癒すことも、また誰かを家に迎え入れたことも見舞いに行ったことも経験がおありでしょう。

私たちは、何か「新しい戒めに生きる」と聞くと、大層なことをしなければ認められないのではないか、と尻込みをしてしまいそうになりますが、そうではなくて、ちょっとしたこと、日常的なこと、ほんの少し頑張れば出来ることが大層評価されている訳です。ただし、ここで重要になるのが、彼らはそれがイエスさまにしていたことに気づいていなかった、ということです。逆に言えば、永遠の刑罰に入れられる人にも言い分があるでしょう。もし、あなただと分かってさえいれば、私はきっとあなたに良いことをしたはずです、と。あなたにならば、もっと凄いことでも、大変なことでもしたでしょう、と。

ここに、大きな問いがある。ここで大切なのは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とのイエスさまの言葉なのです。最も小さな者、つまり無力な者です。社会的にはいてもいなくてもよい役に立たない者です。存在価値のない者。そんな一人とイエスさまはご自身を重ねておられる。その者にしたことは、この私にしてくれたことなのだ、と。では、この最も小さい者とは、一体誰のことでしょうか。教会の誰それさんのことでしょうか。

職場のあの人のことでしょうか。近所の困った人のことでしょうか。だから、私たちは、そんな人たちを助ける必要があるのだ、ということなのでしょうか。そうではない。わたしが、あなたが、この最も小さな者なのです。見る目を持てば、否が応でもそれが分かってくる。いかに自分がちっぽけで役に立たない存在なのか。

もちろん、私たちは何もできない訳ではない。私たちにも出来ることがいっぱいある。社会的にも評価されている人も少なくはないでしょう。しかし、神さまの前では。自分と同じように人をも愛せよ、のたった一つのことさえ私たちは満足にできないのです。もっとも身近な愛すべき人に対してさえも。本当にその人自身のことを思って愛せているかと問われてくる。無力なのです。ちっぽけなのです。役に立たないのです。そんな私たちを、神さまが、イエスさまが誰よりも憐れんでくださった。

愛してくださった。癒してくださった。あたかも、あなたは私自身だ、と言わんばかりに、慈しんでくださった。だからこそ、今の私たちがあるのです。そして、私たちも多くの人々に、食べさせてもらって、飲ませてもらって、見舞ってもらってきた。だから…。新しい戒めに生きるとは、神さまが、イエスさまがこの上なくこの私を憐れんでくださっているのだ、ということを知って生きることです。

だからこそ、私たちもまた、人を憐れむ心をもっていくことができる。最も小さな者の一人にさえも。別に何のためでもない。評価されるためでも、得をするためでもない。ただ、自分のできることで助けたいと思うだけ。ただ、それだけ。それでも、イエスさまは私に良くしてくれてありがとう、と言ってくださる。


それは、何という幸いなことでしょうか。何という報いでしょうか。終末の話は脅すためにあるのではありません。お前はダメだと断罪するためにあるのでもありません。そうではなくて、今の自分を見つめ直すためにあるのだと思うのです。誰もかれもが確実に終わりへと着実に向かっているのですから。そして、私たちにはまだ悔い改めるチャンスがあるのですから。

祈り
・神さま。この日本においても新型コロナの感染が急激に拡大しています。また、今回の流行は前回の第二波とは違い、若い人ばかりでなく、重篤化しやすい中高年の人々に感染が広がっています。そのために重症患者が一気に増えるのではないか、とも危惧されています。現在においても医療の現場は大変な状況だとも聞きます。これまでも長い期間、新型コロナとの戦いで、医療従事者の方々の疲労も相当蓄積されているのではないか、とも言われています。どうぞ、憐れんでください。

日本はこれまで、一人一人の意識の高さから流行を抑えてくることができてきたとも指摘されてきましたが、現在はそのような意識も緩みがちになっているとも言われています。現在では、この新型コロナについても良く分かるようになってきており、マスクの着用、手洗いうがい、密を避けることなどの基本的なことによって相当抑えられることも分かってきました。

どうぞ、もう一度一人一人の意識が高められていき、自分が感染しないことばかりでなく、人に感染させないことをしっかりと意識づけられていきますように、基本的な感染対策にしっかりと取り組んでいくことができますように、どうぞお導きください。

・来週からいよいよ待降節を迎えますが、今年はこの新型コロナの問題でいつものようにはいかないでしょう。クリスマスの集会も大幅に削減され、24日のイブ礼拝もオンラインのみで行うことにしました。

私たちにとってこの大切なクリスマスの時期を、このように迎えなければならないことは大変辛いことですが、それでも、できることをしていきながら、もう一度クリスマスの原点を一人一人が噛み締めていくことができますようにお導きください。様々な試みを通して、闇に光をもたらしていくことができますように、私たちを聖め用いていってくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン