【 テキスト・音声版】2020年11月15日 説教「 動機はなあに? 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第24主日礼拝説教
聖書箇所:マタイによる福音書25章14~30節


先週は終末…、つまり世界の終わりについてお話をしました。それは、年の終わりに差
し掛かり、聖書のテキストが終末に関するものが取り上げられるようになったからです。
今日のよく知られた譬え話もそうです。

このマタイ福音書の24章と25章には終末に関する記事が集められていますし、この譬え話の中にも主人の不在と帰還について語られているからです。つまり、イエス・キリストの再臨ということです。先週もお話ししましたように、この終末という出来事とキリストの再臨とはセットで考えるべきものです。この譬え話も、その視点で考えなければなりません。

確かにそうなのですが、世界の終わりと言われても、正直、私たちはピンとこないのかもしれません。もっとも、環境破壊や核兵器などの現実を見ると、いずれは…、といった思いが浮かばない訳ではありませんが…。

しかし、これは幸いなことでもあるのでしょうが、今にも、といった危機感はないでしょう。むしろ、私たちにとっての身近な終末・終わりについての関心事と言えば「死」の問題、人生の終わり、ということではないでしょうか。いずれにしましても、キリスト教の歴史観では…、これは何も仰々しくキリスト教の歴史観などと言わなくとも私たちの実感でもあると思いますが、昨日よりは今日、今日よりは明日と終わりに近づいているのは、終わりへと向かっているのは確かなことだと思うのです。

そこで、先週は「備え」が大切である、ということをお話ししたと思います。いざという時に対しての備え。それがあるかないかで結果が全然違ってきてしまうからです。

しかし、それは、生き方を問うことにもなると思います。どんな生き方をしてきたか。それが、結局は備えてきたかどうか、ということにも繋がっていくからです。そして、今日のこの譬え話は、そんな「生き方」ということにポイントが置かれているようにも思います。

「生き方」への問いと言えば、充実した生き方をしてきたか、一所懸命に生きてきたか、
後悔のない生き方をしてきたか、などといった思いがすぐにでも浮かんできますが、聖書
が問う「生き方」とは、果たしてそういったものなのでしょうか。
今日の譬え話の中には、3人の人が登場してきます。いずれも、ある同一の主人に仕える僕です。「僕」と聞きますと、下僕などあまり良いイメージが持てないかもしれませんが、ここで預けられた金額をみてみますと、かなり信頼されていた、重用されていた僕ではなかったか、と思います。一番少ない金額を預かった僕でも1タラントン、つまり6000日分の賃金に相当する額ということになるからです。

単純に一日の労賃を1万円とすると…、いくらくらいになるかはお分かりでしょう。そんな金額を預ける訳ですから、いくら気前の良い主人であったとしても、いい加減な人間には預けられなかったことでしょう。ということは、金額の差はあったとしても、この3人は主人に一目置かれていた存在だったのではないか、と想像できます。

ここで聖書は率直に個人差が生まれることを語ります。皆が同じ力量な訳ではない。これは、私たちがよくよく感じるところです。場合によってはその差が嫉妬にもなる。しかし、考えて見てください。確かに、5タラントンの人に比べて1タラントンの人は5分の1もの開きがあります。しかし、そもそもこれらの人々は「僕」なのです。預かったお金は決して自分のものではない。

このタラントンといった単位はタレントの語源ともなったと言われますが、そもそも自分の能力ということではなかったはずです。このことを考える時、あのヨブの言葉を思い出します。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」。全てが神さまから授かったもの。しかも、神さまは私たちを信頼してくださり、分不相応なくらいに手厚く賜物を与えてくださっている。

ならば、多い少ないと心騒がせるよりも、感謝しつつそれをどのように用いるかが大切になってくることが分かるはずです。もちろん、これらの人々は私たちを代表しています。それ以外の姿…、例えば全く「0」の人は描かれていないことにも心を留める必要があるでしょう。いずれにしても必ず賜物は与えられているのです。

Rembrandt -The Parable of the Talents- c. 1652 173 x 218 mm Reed-pen and bistre Louvre, Paris



ともかく、ここで注目したいのが、稼いだ額が違っているにも関わらず、5タラントン、2タラントン預かり利益を上げた二人は、全く同じ言葉で労われていることです。また、1タラントン預けられた人も、利益をあげなかったというよりも、その語った言葉が問題視されていました。つまり、儲けがあるかないか、多いか少ないかといった成果がここでの評価の対象ではないということです。そうではなくて、その姿勢、動機が問われているように思うのです。

1タラントン預かった人は、なぜ土に埋めたのか。「恐ろしかったからだ」といいます。もし事業に失敗して元手が減ってしまったり、あるいは思うような利益が上げられなければ叱責どろこでは済まないのではないか、と恐れた。だから、一番「安全」と思える方法をとった、というのです。私自身、彼の気持ちがよく分かります。いいえ、私自身の生き方はまさにそうだった、と言えるでしょう。

それが、私自身の神さまとの、イエスさまとの向き合い方だったからです。罪を恐れる。過ちを恐れる。失敗を恐れる。叱責を恐れる。罰を恐れる。私にとっての神さまとは、大変厳しい方だった。だから、なんとか叱られないように、安全パイな生き方を志向してきた。しかし、それは、「怠け者の悪い僕だ」と言われてしまうのです。

では、5タラントン、1タラントン預けられた人はどうだったのか。おそらく、彼らは恐れていなかったのでしょう。それは、自分に自信があったからではないと思います。自分たちの事業は必ず成功するといった自負ではなかったと思います。あのご主人様ならば、きっと分かってくださるに違いない。ご主人様のことを思ってのことであれば、たとえ失敗したとしても赦してくださるに違いない。

それよりも、私はご主人様の喜ぶ顔が見たいのだ。ご主人様に喜んでいただきたいのだ。そんな思いが、温かな雰囲気・関係性が伝わってくるように思う。だからこそ、そんな僕たちの気持ちを喜ばれたからこそ、この主人はこんな言葉で僕たちの労をねぎらわれたのではないでしょうか。「忠実な良い僕だ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」。ともに喜びを分かち合うことができる、そんな僕たちの姿に、関係性に、利益なんかよりもこの主人は何よりも喜びを感じていたのではないか。そう思うのです。

先週、終末への私たちの備えとは、終わりの時に裁き主なる神さまと出会うことになる
のか、それとも救い主としての神さまと出会うことになるのか、そのための備えだ、といったことをお話ししたと思います。今日の譬え話の生き方も、まさにそうだと思う。どんな神さまと出会って生きていくのか。裁き主なる神さまなのか、それとも救い主なる神さまなのか。同じ主人、同じ神さまを見ているはずなのに、この僕たちは全く違った認識の中に生きることになってしまった。それは、私たちに対する問いでもあると思います。

福音に生きるとは、救い主なる神さまと、イエスさまと共に生きるということです。恐
れず、信頼して、生きるということです。神さまが喜んでくださることを、姿を追い求め
ながら。そうではないでしょうか。

Andrea Mantegna (1431–1506) Collection:Palazzo Ducale di Mantova



祈り
・今日は子ども祝福式の礼拝でしたが、このコロナの影響で残念ながら子どもたちを招く
ことができませんでした。しかし、改めて、この私たちむさしの教会においても多くの子
どもたちが与えられていることを覚えて感謝いたします。子どもたちは教会においても宝
です。どうぞ、教会としてもこの子どもたちの健やかなる成長を祈っていくことができま
すようにお導きください。また、幼き頃にあなたと、イエスさまと出会うことができるよ
うにと願っています。どぞ、この私たちの祈り、思いも聞き届けてください。

子どもたちがあなたと共に生きる生涯を送ることができますように。また、それぞれの保護者の方々をどうぞお守りくださり、力づけてください。このコロナ禍にあって、子育てもの苦労もより多くなっていることでしょう。どうぞ、精神がすり減ってしまうことのないように、なおも愛情深く育てていくことができますように、常に保護者の皆さんをお支えくださいますようお願いいたします。

日本においても新型コロナの流行が急速に進み、第三波とも言われています。地域によっ
ては、すでに医療機関が逼迫しているとも聞きます。どうぞ、お助けください。以前から
冬場は気温の低下は湿度の低下などによって流行しやすいといった指摘もされてきました
が、まさにそのような兆しが見ているように思います。

また、長期間にわたるコロナとの対応で、気持ちの緩みも指摘されています。多くの場合は軽症や無症状で済むのかもしれませんが、しかし、重篤化しやすい方々が確かにおられ、危険な病気に違いありませんので、自らのことばかりでなく、人にうつさない心がけを、なお一層胸に刻んでいくことができますように、どうぞお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン