【 テキスト・音声版 】2020年8月23日 説教「小さなキリスト」浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十二主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書16章13~20節

有名なマルティン・ルターの『キリスト者の自由』には、こんなことが記されています。少し長いですが引用したいと思います。「ここで、パウロが私たちの前に示しているキリスト者の理想の姿について考えてみましょう。パウロは私たちのすべてのわざが隣人の益となるように努力すべきだと勧めています。私たちひとりびとりにとって信仰は十分であり、私たちの働きと生涯のすべてが、隣人への惜しみない愛の奉仕に用いられるようにと、主の御手にゆだねられています。神は、この無価値で罪に定められた私に、何のいさおしもないのに、計り知ることのできない救いと愛の宝を与えてくださいました。キリストにあって惜しみのない純粋の愛をもってです。

それ以外の何事をも考えずに専念できるようになったのです。しかし一方、私はこのようにあふれるばかりの祝福を注いでくださった、父なる神に喜んで心から仕え、主のみこころにかなうことをせずにおられません。またキリストが私に対してそうであったように、隣人に仕えるキリストとなり、その人の救いのために役立つあらゆることをせずにいられません。信仰によって私の足りないところはすべて、キリストにあって満たされているからです。このようにして、信仰からは、神に対する愛と望みがあふれ、愛からは、隣人に対して惜しみなく奉仕する喜びに満ちた自由な生活があらわれてきます」。



ルターは神さまの恵みを力強く主張していきましたが、それは「行い」自体を否定した、ということではありませんでした。救われるための行いを…、つまり、私たちの何らかの業が救われるためには必要なのだ、私たちが持つ何らかのものをもって救いを勝ち取らなければならないのだ、といった「行い」の理解を強く否定したのです。そうではなくて、人が救われるのは、ただただ神さまの一方的な恵みによるのだ、と。ですから、先ほどの『キリスト者の自由』でも、救われるための行いはもう必要ではない、と言います。そんな労力はもはや必要ではないのだ、と。

むしろ、だからこそ、その労力を他者に向けるべきではないか、というのです。すでに、神さまの恵みによって私たちは救われているのだから、今度は私たちの持てる力で、隣人のために奉仕すべきではないか、と。つまり、「行い」のシフトチェンジです。自分のためにと向けられてきた「行い」を、今度は隣人のためにと向け直す。今までは自分の救いのためにあくせくしてきた労力を、その必要性がなくなった以上、今度は隣人の方に振り向けるべきではないか。

それが、恵みによって救われるという神さまの御心なのではないか、ということです。ですから、このようにも言われている。「またキリストが私に対してそうであったように、隣人に仕えるキリストとなり」。イエスさまの恵みによって救われた私たちは、今度は私たち一人一人が隣人のためのキリストになるのだ、という。いわゆる、「小さなキリスト」です。当然、私たちなど等身大のイエスさまには到底なれないのですから、小さなキリストにならなれるかもしれない。

いいえ、たとえ小さくても、ほんの小さな貧しいイエスさまの姿しか写し出せないとしても、私たちだって小さなキリストにはなっていける。ならしていただける。そう期待されている。確かに、そうだと思います。キリスト者である私たち一人一人は、隣人に対しての小さなキリストになっていく。

しかし、今朝の使徒書の日課…、ローマの信徒への手紙12章1節以下を読んでいきますと、それだけでもないように思えて来ます。一人一人が小さなキリストになることも大切ならば、キリストの体である教会が一人の隣人のための小さなキリストになっていくこともまた大切なことではないか、と思えてくるからです。

San Pedro arrepentido, por El Greco- National Gallery of Norway



今朝の福音書の日課は、よく知られた「ペトロの信仰告白」の場面でした。イエスさまは弟子たちにこう尋ねられます。「人々は、人の子のことを何者だと言っているのか」。
「人の子」とはイエスさまのことです。人々、民衆はイエスさまのことをどう理解し受け止めているのか、と問われるのです。そこで、弟子たちがこれまでの関わりの中で聞いてきた様々な答えを伝えます。人々は「洗礼者ヨハネ」だと言ったり「エリヤ」だと言ったり「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言ったりしています。つまり、只者ではない、ということでしょう。

大方の人々の認識は、イエスさまは特別な人だ、ということです。それに対して、今度は弟子たちに問われます。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。これは、非常に重要な問いだと思います。周りの人々がどう言っているかではない。どう評価しているかではない。あなたがた自身はどう思っているのか。もっと言えば、「あなたは、わたしをどう思っているのか」と問われているからです。

「あなたは、わたしをどう思っているのか」。皆さんがイエスさまにそう問われたとしたら、どうお答えになるでしょうか。「あなたは、どう思っているのか」…。
私はこの箇所を思い巡らせる中で、ふとヨブ記を思い起こしました。このヨブ記はご存知のように、旧約聖書の中でも特異な物語だと思います。ある意味、不条理を語っている。しかし、私は、だからこそそこに信仰のリアリティーがあるように思っています。

ヨブは神さまの御心にかなった正しい人でした。ですから、その人生も祝福されていたわけです。彼はあらゆるものに恵まれ、何不自由のない生活を送っていましたが、しかし驕り高ぶることなく、常に神さまに対しても謙遜であり続けました。しかし、そんな彼を試すようにと悪魔が神さまに進言するわけです。彼が従順なのは神さまが祝福されているからであり、不幸になれば彼もまた変わるだろう、と。彼はその試みのゆえに子どもたちも財産も全てを失うことになりました。しかし、彼は不平を口にしません。有名な言葉がここで語られます。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。あっぱれです。しかし、悪魔も諦めません。再度神さまに進言します。彼の肉体が苦しめば今度こそ彼も落ちるだろう、と。そして、彼の全身はひどい皮膚病に侵されて大変な苦痛を味わうことになりました。とうとう彼も問わずにはいられなくなります。なぜならば、理由がわからないからです。なぜこんな不幸な目にあうのか。これが神さまからの裁きだとしても身に覚えがない。

どうしてか理由が知りたい。そうして、悶々とした苦悩が続いていきました。あるとき、ついに神さまからの答えが返って来ました。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは」(ヨブ記38章1節)。長い沈黙のあと、ようやく耳にしたのは、ヨブにとって大変厳しい言葉でした。

しかし、それでも、この神さまの語りかけが、答えがヨブの救いになったと思います。こう語られているからです。42章5節「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」。彼は確かに立派な信仰の持ち主でしたが、それは、まだ「出会い」にまではなっていなかった、ということではないでしょうか。

つまり、噂の域を出ていなかった、ということでしょう。しかし、今はそうではなく、この試練の只中で真剣に神さまを呼び求めずにはいられなかった。そんな彼に神さまはご自身を現してくださった。その出会いが、彼のこれまでの問いを覆い尽くし、苦悩を癒して行ったに違いない、と思います。その出会いが、真実の力になる。

ですから、イエスさまも問われるのです。「あなたがたは、どうか」と。一般論でも、教科書通りの答えでも、周りの人々の評価でもない。「あなたは、わたしをどう見ているのか」と問われる。そこで、ペトロは答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」。

これは、後のイエスさまの言葉にあるように、神さまがしてくださったことです。しかも、後のペトロの様子からも、この信仰告白を十分に理解していなかったことも明らかです。しかし、それでも、「あなたはどう思うか」との問いかけに対して、自分の口で、自分の言葉で、「私はあなたをこう信じております」と告白することは大切なことだと思うのです。

「あなたは(わたしの)メシア、生ける神の子です」と。その信仰告白が、その出会いが土台となって教会は建て上げられていく。

そんな信仰告白を、出会いを土台として建てられた教会を、今日の使徒書では、「キリストの体」と表現されていました。これは、パウロの好む教会理解です。そこで大切なのが、多様性です。コリント書にはこう書かれています。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。

つまり、一つの霊によって、わたしたちはユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。……あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(第一コリント12章12節以下)。

私たちは一人で何でもできるわけではありません。出来ることもあれば、できないこともある。進んでやれることも、苦手なこともある。それで、いいのです。それが、キリストの体である教会なのです。皆手の働きをしなくても良い。足の働きをしなくても良い。
出来ることできないこと、得意なこと苦手なことがあっても良い。だから、そんな私たちが集まるからこその教会なのです。パウロもこう語っています。6節「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」。なにもかも、あれもこれも、でなくて良い。一つのことだけでも良い。小さなことでも構わない。目立たないことの方が必要なのかもしれない。

Job’s wife grieves behind Job, while his friends, Eliphaz, Bildad, and Zophar, observe his impoverished condition. Collection Russian Museum



最初にキリスト者は隣人の小さなキリストになることが期待されていると言いましたが、一人では自信が持てないかもしれません。しかし、私たちキリストの体であるならば、皆で持てるものを持ち合って、出来ることをし合って、小さなキリストになっていけるのかもしれない。
パウロはこうも語っています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。

一緒に集えないからといって教会でなくなるわけではないはずです。確かに、皆で一つのところに集まり、共に神さまの御前に出て祈ることも大切な礼拝の姿だと思いますが、ここでパウロはそれだけが礼拝ではないことを教えてくれているようにも思います。たとえ、物理的には離れていても、み言葉によって一人一人が神さまと出会い、自分の口、自分の言葉で信仰を告白し合い、神さまの御心に従って生きていく。それも、立派な礼拝になっていくのではないか。

そして、お互いにキリストの体の一部として、補い合いながら、助け合いながら、自分たちのできることを用い合いながら、小さなキリストの業を隣人に、兄弟姉妹たちに、周りの人々にしていくことも「なすべき礼拝」となっていくのではないでしょうか。

祈り
・毎日毎日、災害級の猛暑が続いています。各地で毎日のように熱中症で病院に搬送される方々が出ています。また、残念ながら命を落とされる方々も多くいらっしゃいます。どうぞ憐れんでください。特に、ご高齢の方々、幼い子どもたちをお守りくださいますように。これも、私たちがもたらした環境破壊によるのかもしれません。私たちのあくなき便利さへの追求の結果かもしれません。どうぞ一人一人が、この環境問題にも関心を持ち続け、社会全体としても共生・共存を何よりも優先させていく取り組みがなされていきますようにお導きください。

・新型コロナの第二波のピークが来たと言われていますが、まだまだ新規感染者も多く出ています。また、重傷者も徐々に増え、亡くなられる方々も増えています。どうぞ憐れんでくださり、終息へと導いてくださいますようにお願いいたします。医療関係、医療従事者の方々もお守りください。また、教会再開の良き時が与えられますように。
世界では日本よりもはるかに深刻な状況です。どうぞ憐れんでくださり、命が守られていきますように、どうぞお助けください。ワクチン、治療薬等も速やかに開発されていきますように。

・モーリシャス沖での重油流出被害も深刻です。生態系への影響も心配ですが、どうぞ世界が知恵を出し合い、適切な方法で速やかに除去されていきますように。深刻な影響が出ませんように、どうぞお守りください。

・先日の書面式の臨時総会で鐘楼の修繕が承認され、近々工事に取り掛かることになると思います。台風シーズン前にと希望していますが、この炎天下の中での作業ともなりますので、全てをお守りくださり、良き修繕がなされますようにお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン