【テキスト・音声版】2020年7月26日 説教「愛は勝つ」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第八主日礼拝説教



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聖書箇所:マタイによる福音書13章31~33、44~52節

今朝の説教題は「愛は勝つ」とさせていただいています。このフレーズを聞かれると、私の前後の世代の方々は、1990年代に大ヒットしたKANの『愛は勝つ』という曲を思い浮かべられるのではないでしょうか。それもあって、この説教題にした訳ですが、それは、この曲の「信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」という歌詞が今日の聖書の箇所となんだか重なるように私には感じられたからです。「必ず最後に愛は勝つ」。先週は、「正義は必ず成る」、「正しきことは必ず報われる」ということをお話ししたと思います。


先ほどの『愛は勝つ』の歌詞をもじれば「信じることさ 必ず最後に正義は成る(勝つ)」ということになるでしょうか。それが、当時の人々にとっての何よりの慰めの言葉、励ましの言葉となった訳です。しかし、正直に言いまして、それが…、正義は必ず成る、果たされる、報われるということが慰め・励ましになると言われてもピンとこいようにも思うのです。

なぜなら、私たちはそれほどこの「正義」ということに飢え渇きを感じてはいないからです。確かに、先週もお話ししましたように、森友問題に端を発した公文書改ざん問題や様々な社会問題、あるいは個人的にも理不尽な目にあうと、「正しきことが行われていない」と義憤を覚えたりしますが、しかし、全体的には一応法治国家としての体が保たれていると大らかな信頼を寄せているからです。それは幸いなことですが、もちろん、そうではない国、地域もある訳です。

ご承知のように、今香港は大変なことになっています。中国政府が強引に「国家安全
法」を成立、施行させたからです。これで、これまでの言論の自由が大きく制限されるようになりました。なぜなら、政府の批判をするだけで捕まってしまうかもしれないからです。香港ではこれまでも度々抗議デモなどが行われてきました。その一部は過激化し、外から見ている私たちからは「ちょっとやりすぎじゃない」と思ったほどです。

しかし、彼らとしてはこうなることを恐れていたからです。私たちのように他人事ではいられなかったからです。その恐れていたことが現実となってしまった。多くの若者が民主化運動から手を引いていきました。これくらいのことで手を引くのかとも思いましたが、その一人が語った「これは命に関わることなのだ」が胸に重くのしかかりました。

正義…、法による保護と法によって保障された自由、それらがどれほど大きなものなのかを私たちはそれほど真剣に受け取っていないのかもしれません。それらが極端に制限された世界は、おそらく地獄のような世界になるでしょう。しかし、今の私たちにとっては、それらはあまりにも当たり前のものになっていて、その恩恵に気づいていないのです。大抵の場合そうですが、この「当たり前」のものは失ってみてはじめて掛け替えのないものであったことに気づかされるものです。

ともかく、日本も気をつけないと直ぐにでもそのようになってしまう、といったことを言いたいのではなくて、この「当たり前」がいかに大切であるか、ということです。
今日の福音書の日課も「天の国」の譬え話が取り上げられていました。このマタイは
「神」という言葉はあまり使いたくなかったようで(ユダヤ人ですから恐れ多いと思ったのでしょう)「神」という言葉の代わりに「天」という言葉を使っている訳ですが、「神の国」と同じ意味です。そして、この「神の国」というのは、なにか特定の場所を指すのではなくて、神さまのご支配を意味するものです。

神さまの思いが、御業が隅々にまで行き渡っている世界。それが、「神の国」。ですから、先ほどから言っています「正義」も、この「神の国」の重要な一面になる訳です。神さまは義なる方だからです。ですから、正義のない、行われていない世界に生きていた者たちにとっては、正義に飢え渇いていた人々にとっては、憧れの世界に思えたでしょう。

ですから、慰め、励ましになる。しかし、この「神の国」を考える上でもっと大切なことは、「愛」ということです。神さまの愛による支配。それが「神の国」。なぜならば、私たちが信じる神さまは、義なる方であると同時に、愛なる方でもあるからです。そんな「神の国」、「天の国」の様子といいますか、特徴を今朝の譬え話は私たちに語ってくれています。

最初の二つの譬え話は、共通するイメージを私たちに与えてくれます。それは、大きく成長する、ということです。はじめはごくごく小さいのに、取るに足らないように思えるのに、それが誰もが目を見張るように大きく成長する。そんなイメージです。具体的にはクリスチャンの広がりを指すのかもしれません。あるいは教会の広がりと言っても良いのかもしれない…。

最初はイエスさま一人からはじまった運動でした。そういう意味では一粒の「からし
種」「パン種」だったと言えるのかもしれません。それが12人に広がり、数百人、数千人に広がり、迫害下の中でしたがローマ帝国中に広がり、ヨーロッパに広がり、私たちの教会文化とは随分と異なりますが、あるグループはインド、中央アジア、中国へと広がり、アフリカに広がったものもあり、そして、新世界であった南北アメリカ大陸に広がり、この日本にも伝えられ、他の地域から比較すると大きな広がりとは言えないかもしれませんが、それでも着実に広がっていきました。

そして、2014年時点では全世界に23億人のクリスチャンがおり、人口比33%と言われています。そういう意味でも、確かにこの譬え話のように「天の国(神の国)」は大きく成長した、と言えるのかもしれません。

また、次の二つの譬え話は、この「天の国(神の国)」の価値に目を止めさせてくれます。どちらも、是が非でも手に入れたい、との思いが伝わってきます。どんな犠牲を払ってでも、大切なものと引き換えてでも惜(お)しくない。どうしても手に入れたい。それほどの価値がこの「天の国(神の国)」にはあるのだ、そんな思いです。
神の国、神さまのご支配、愛の支配は、そういうものです。

あらゆるものを手放してでも手に入れたくなる、そういうものです。それほどの魅力がある。だからこそ、たった一粒の取るに足らないと思えたちっぽけなからし種が、あらゆる気象条件、悪天候、迫害にも耐え、多くの実りを結んだ、とも言えるでしょう。しかし、どうでしょうか。

本当に私たちの目に、それほど輝いて見えているでしょうか。欲しくて欲しくてたまらない宝物のように、神の国を感じているでしょうか。では、なぜ、そうはならないのでしょうか。それは、神さまのご支配が見えないからです。とてもそうは思えない世界の中に私たちは生きているからです。神さまの愛が見えていないからです。むしろ、なぜこんなことが、と愛を疑いたくなるようなことばかりだからです。それも、正直な私たちの実感でしょう。

私は神さまの愛が分からず、ずっと悩んできました。神さまに愛されているといった実感がどうしても持てなかったのです。なぜなら、私は自分自身にばかり目を向けていて、見るべきものを見ていなかったからです。いいえ、もっと正確に言えば、目には写っていたのでしょう。視界にも入っていた。決して知らなかった訳ではない。

しかし、そちらに焦点を合わせることをしていなかった。自分の内面ばかりに、感覚ばかりに焦点が向かっていたからです。私たちの視界は、案外狭いものです。見えてはいても、焦点が合っていなければぼやけてしまってなかなか実体が掴めません。特に、集中していればいるほど、そういった傾向に陥りやすくなります。欲すれば欲するほど、求めれば求めるほど、視界が狭くなって、向けるべき焦点からズレてしまっていることが多いのです。

感じるのではないのです。見るのです。イエスさまを見るのです。イエス・キリストというお方に焦点を合わせるのです。そこからしか見えてこない真実が、伝わってこない感覚が必ずあるはずです。



今朝の使徒書の日課であったローマの信徒への手紙8章31節以下は私にとっては非常に大切な、また大好きな箇所です。そして、決して手放したくない言葉です。しかし、最初っからそうだった訳ではありませんでした。正直、最初はピンとこなかった。自分にばかり焦点を合わせようとしていた私にとっては、なんだか実感の湧かない素通りするような言葉でしかありませんでした。

しかし、少しづつイエスさまに焦点を合わせることができるようになっていった。それが、信仰生活だとも思いますが、そのことによって、この言葉の景色が私にとっては掛け替えのないものになっていったのです。31節でパウロはこう語ります。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。なんという言葉でしょうか。先ほど、私たちにとって神の国とは、すべてのものを捨ててでも手に入れたい程に魅力的なものだ、と言いましたが、ここでは、神さまはこの私たちを手に入れるために、愛するためにご自分の子を捨てても惜しくないと思えるほどに魅力的だったと言われるのです。

この私たちのどこに、一体そんな魅力があるのでしょうか。罪にまみれた私たち。自分でも嫌になってしまうような私たち。ボロが出て大切な人たちからも見捨てられてしまうのではないかとビクビクするような私たち。結局、愛される資格も価値もないのではないかと自暴自棄になってしまうような私たち。自分に焦点を合わせれば、そんなことしか見えてきませんが、しかし、そんな私たちを我が子さえも惜しまずに与えるほどに、捨ててしまえるほどに愛しているよ、と言ってくださっている。

この私が、どんな思いで、どんな決意で、お前のことを愛しているか分かるだろ、と語りかけてくださっている。私の目には、どうしようもなく愛おしく見えているのだ、と囁いていてくださっている。それが、イエスさまに焦点を合わせた時に見えてくる世界なのです。本当に信じられないくらいに、私たちは愛されている。

だから、パウロもこう語ります。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と。そのように、イエスさまによって示された神さまの愛が、私たちの心に注がれている。

何十億という人々に注がれている。もちろん、あなたの心にも注がれている。
見えないから、感じないから、そうは思えないから、無いのではありません。焦点が
合っていないから見つからないのです。イエスさまにしっかりと焦点が合えば、神の国が、神さまの愛の支配がすでに始まっているし、それが広がっていることに、気づけるはずです。もちろん、私たち一人一人の内にも、です。

その心の眼差しをもって、この厳しい時代にあっても、祈りつつ、しっかりとした足取りで歩んでいきたい。そう思います。

「信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」。

ジョン・シングルトン・コプリー「キリストの昇天」「The Ascension」(1775)John Singleton Copley


《祈り》
・都内ばかりでなく、全国的に新型コロナウイルスの感染が広がっています。このまま何の対策もとられないと、8月には目を覆いたくなるような現実がやってくるとさえおっしゃる専門家の方もおられます。確かに、経済との両立という非常に難しい舵取りが求められていますが、どうぞ良い知恵を与えてくださり、感染の広がりを、特に重篤化しやすい方々への広がりを抑えていくことができますようにお導きください。まだ病床数に余裕がある、といった意見も出ていますが、医療の現場ではすでに悲鳴が上がっているようです。

志高く医療の現場で頑張ってくださっていますが、それでも限界があるでしょう。これ以上の急激な広がりは、医療の現場がもたなくなるのではないか、と心配になります。どうぞ、経済的なことも含めて適切な援助の手が与えられて、医療の現場が守られていきますように、どうぞお助けください。

・世界でも一向におさまる兆しが見えません。一度はおさまったかのように見えた国々でもぶりかえしているようです。どうぞ憐れんでください。多くの命が奪われていますが、少しでも良き対策がとられて、命が守られていきますようにお助けください。

・香港では今、多くの市民たちが非常に厳しい立場に立たされています。国外へ脱出する人々も後を絶たないようです。どうぞ、憐れんでくださいまして、基本的な人権が守られすように、不当な逮捕などが横行しませんようにお助けください。

・豪雨被害に遭われた方々の生活はまだまだ厳しいようです。復旧復興にも時間がかかるでしょう。雨も心配ですし、また暑さも気がかりです。新型コロナのこともあります。本当に大変な毎日でしょうし、今後のことも心配でならないでしょうが、どうぞ速やかに様々な対策がとられて、少しでも早く平穏な生活に戻ることがおできになるように、どうぞお助けください。

・大きな病気をされておられたり、様々な困難、課題を向き合っておられる方々が私たちの仲間にも多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、それぞれの祈りに応えてくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン