【音声版・テキスト】2020年7月19日 説教「一筋の心を与えてください」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第七主日礼拝説教



聖書箇所:マタイによる福音書13章24~30、36~43節

今朝の日課も、先週に引き続き「譬え話」ですが、今朝のこの譬え話も何だか私たちをドキッとさせるような、不安を呼び覚ますような、そんな譬え話ではなかったでしょうか。果たして私は良い麦なのだろうか、それとも毒麦なのだろうか、と。

私自身、覚えがあります。若い頃…、まだ教会に行きはじめて間もない十代の頃、私は自分が「悪魔の子」ではないか、と思い悩んでいた時期があるからです。それは、不思議な心の動きを感じていたからです。教会に行くようになって、私は即座にクリスチャンになりたい、信仰を持って生きていきたい、「これだ」、と思うようになりました。しかし、その思いとは裏腹に、自分の心の中に別の動きがあったのです。信じたいのに、信じようとしない、と言いますか、反発とも違う、何か得体の知れない悪感情が聖書を読むたびに、私の心の中に湧き起こって来たからです。

それは、自分でも理解し難いことでした。先程も言いましたように、自分としては、思いとしても、意志としても、「信じたい」のです。なのに、その思いから引き離そうとするかのような思いが自分の中から猛烈に湧き上がってくる。でも、どうしてか分からない。原因が皆目見当もつかない。別にその時に読んでいた聖書の言葉は自分にとっては不快な言葉でも信じ難い言葉でもなかったのに、なんとも言えない憎悪にも似た感情が私を襲ってきました。

それは、あのパウロが書き記しましたロマ書にあります(7章13節以下ですが)自分の中に罪の法則があることを自覚させられた(「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」)、自分にとってはそんな出来事でもありました。ともかく、そんな自分ではどうにもならない心の動きに、これは予め自分が「悪魔の子」と定められているからではないか、抗うことのできない運命なのではないか、と恐れた訳です。


皆さんは「予定論(あるいは予定説)」といった言葉をお聞きになられたことがあるでしょうか。ちょっと運命論的な考え方ですが、予め救われる人とそうでない人とが定められている、といった考え方です。これは、いわゆるカルヴァン派…、多くは改革派や長老派と言われるグループですが、そのグループに特徴的な考え方だと一般的には言われています。しかし、ルターもこの考え方に立っていました。

しかし、どうも当初の受け止め方とは違ってきているようにも思います。先程、運命論的と言いましたが、それは、人が生まれる前から神さまが救われる人とそうでない人とを定められた以上、それは決して覆らない、と考えるからです。すると、先程も言いましたように、私たちは途端に不安になる。もし、救われない側に定められているとしたら、どうなってしまうのだろうか。いくら努力したところで、一旦決められたことが覆らないとしたら、もうダメじゃないか。

そうなると、どうせ自分は救われないのだから、運命は変えられないのだからと、不貞腐れるか、運命を呪って自暴自棄になるしかない。しかし、本来はそういった意図で使われたのではないのです。ルターやカルヴァンたちは、人の努力や頑張りで救いを勝ち取るのではなく、神さまの恵みで人は救われるのだ、と説いて行きました。

つまり、人によって左右されるようなものではない、ということです。それが、福音…、いわゆる信仰義認と言われるものです。ならば、神さまがいったん恵みによって救うと決められたのなら、途中で心変わりされて、さっきの約束や~めた、なんてことはないのですから、必ず救ってくださるはずだ。神さまのこの思いは何があっても決して変わることがない。

だから、安心しなさい。そういう意図だったのです。人は脆いもの。浮き沈みの激しいもの。罪だって犯さずにはいられない。もし、自分の力で、となったら、こんなに不確かなことはない訳です。自分の姿を見つめては、すぐに不安になる。確信が持てなくなる。しかし、そうではなくて、信仰によって救うと約束してくださった神さまを見なさい。神さまの約束ほど確かなものはない。だから、救いを疑ったりせず、予めちゃんと救うと約束してくださっているのだから、安心して生きて行きなさい。その確かさを与えるための「予定論」だったはずです。つまり、本来は慰め・励ましの言葉だったのです。

聖書を読んでいきますと、大きく「警告」と「慰め・励まし」といった傾向があるように思います。そして、私たちはどうも、「慰め」や「励まし」よりも「警告」の方に思いが向けられてしまうようにも感じるのです。例えば、黙示録。皆さんもお読みになったことがあるでしょう。世の終わりに向けてのおどろおどろしい描写が印象的ですが、多くは「警告」と受け止めるのではないでしょうか。しかし、加藤常昭牧師は、これは迫害下の中にあった教会を励ますために書かれたものだ、と言われます。私は、この言葉を聞いて、目からうろこのような思いが致しました。

今日のこの譬え話もそうでしょう。「警告」と受け止めざるを得ないところもあるのかも知れない。そういう意味では、自分は果たして良い麦なのか、毒麦なのか、との問いも当然のことかも知れません。しかし、それ以上に、私たちはここに慰めの言葉、励ましの言葉があることも見逃してはいけないのだと思います。

今日のこの譬え話は「天の国」の譬え話だ、と言われています。と同時に、この世の、私たちの現実社会をも映し出しているように思うのです。この世界は、良い人ばかりで成り立っている訳ではありません。良いもので満ちているのでもありません。表現としては適切ではないかもしれませんが、悪い人も、悪いものも多く混在している世界です。そんな世界に私たちは生きている。確かに、そうです。どう考えてもおかしいとしか思えない出来事に多く遭遇します。正義が全く見えない現実にもぶち当たります。本当に神さまの力が及んでいるのかと分からなくなるのです。

森友問題の公文書改ざん事件で残念ながら自死をされた赤木さんの妻雅子さんが訴訟を起こされたことは、もう皆さんも良くご存知のことでしょう。森友問題が報道された時から、私自身すっきりしない思いをずっと抱いてきました。しかも、上司から改ざんを強要された職員が、その罪悪感に押しつぶされて自ら命を絶たれた。なのに、疑惑の当人たちはのうのうとしているように見える。本当にやるせない、憤りにも似た思いを抱いたものです。そして、先日訴訟に踏み切られた奥様のインタビューを見ました。

奥様の口から出た「もう後悔したくない」との言葉に胸が痛くなりました。ご主人が壊れていく姿をじっと見ているしかなかった辛さ。助けることができなかった無念さ。罪悪感。そして、後悔…。ただ真相が知りたいと言われる。なぜ夫があんなにも追い込まれることになったのか、その真実を知りたい、と言われる。その一念で重い口を開かれました。

私自身は、この奥様の志を心から応援したいと思いますし、また、司法の場で真実が明らかになることを心から願っています。また、そういったことが起こらない社会・世界であって欲しいし、常に真実が明らかになり正義が行われる社会・世界であって欲しいとも心から思っています。しかし、残念ながら、なかなかそうはいかない現実がある。変わらない社会・世界がある。

このような社会全体を巻き込むような大きな課題でなくても、私たちは日常的に感じているはずです。正義が行われないことを。泣き寝入りをするしかない現実を。職場でも、学び舎でも、家庭でも、地域でも。教会もまた無縁ではいられないのかもしれない。むしろ、正義、正論ではうまくいかないことも多い。では、私たちは諦めるしかないのか。どうせ世界は良い人も悪い人も、良いものも悪いものも混在しているのだから、どうせ社会は、世界は変わらないのだからと虚無的になるしかないのか。

不正義を単に黙って見過ごすことではないでしょう。雅子さんも正当な権利を行使しただけです。世の中を正していくことは、当然悪いことではない。しかし、聖書は「耐える」ことも語っています。忍耐することも求めるのです。この世、この社会がたとえ不正にまみれていたとしても。泣き寝入りでしかない社会だとしても。なぜならば、神さまの正義は必ず成るからです。今はそうは思えないような世界が広がっているように見えていても、来たるべき時に、結果が出される時に、神さまの正義はあまねく世に成る。そして、必ず報われます。

どんな小さなものであっても、この世では認められない、報われないようなことであっても、神さまは見ておられる。必ず、それらに答えてくださる。だから、こう書いてある。43節「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい」と。

もちろん、そうは言っても堪え難いことも事実です。忍耐にも限度がある。同じ問題、同じ人に3度忍耐できたら上出来です。私たちの忍耐などそうそう続くものではありません。だから、祈りが生まれる。祈らざるを得なくなる。これが、私たちの真相だと思うのです。このコロナ禍、私自身もいろいろと考えさせられていますが、「信仰は生活」というのも、その気づきの一つです。私たちはどうも、信仰を生活とは別次元においてはいまいか。信仰を何か特別なものにしているのではないか、そう思うのです。しかし、そうではないはずです。そして、信仰を生活にするのは祈りなのです。祈らざるを得なくなる日常です。自分の無力さを感じて神さまに頼らざるを得なくなる。それが、私たちの生活になっていく。

これは、孤独な戦いではありません。たった一人で忍耐し、孤独な戦いをするのではないのです。この畑の、世界・社会の主人がいてくださる。理想通りにはいかない社会であっても、そこに目を注いでくださっている方がいてくださる。このイエスさまがいてくださるからこそ、私たちは戦えるのです。訴え、心をさらけ出し、愚痴を言い、反省し、特には激しく感情をぶつけながら、そんな私たちをしっかりと抱きしめ、受け止めてくださる方がいるからこそ、私たちは耐えられる…、いいえ、耐えていこう、戦っていこうと思えるのです。何度でも。そのことに気づいていくのが、「信仰生活」なのだと思う。

今日の使徒書の日課に、こんな言葉が記されていました。ローマ8章24節「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。これも、非常に大切な言葉だと思います。今は肉眼で、実感を持って見えてはいないのかもしれない。そういう意味では心許ないのかもしれません。しかし、私たちは信仰の目で見えているはずです。私たちのために命を捨てられたイエスさまのお姿が。だからこそ、希望に生きることができる。そのことも、今日の日課に加えて、覚えていきたいと思います。

《祈り》
・九州地方を中心に、各地で大雨による被害に遭われた方々をどうぞお助けくださいますようにお願いいたします。復旧も少しづつ進んでいるようですが、まだまだ時間がかかりそうです。このコロナ禍によってボランティアなどの人手も不足していると聞きます。速やかなる復旧復興がなされ、少しでも生活が改善されますように、必要な援助も速やかに与えられますようにお助けください。今年は例年よりも梅雨明けが遅く、まだ雨の降りやすい予報がされていますが、災害に発展することのないようにお守りください。また、日照不足などによる作物の影響なども心配ですが、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。

・このところ都内での新規感染者数が200人を超え、過去最多も記録しています。重症化しやすい中高齢者にもじわじわと広がっているとも指摘されています。また、身近に感染者が出るようにもなってきました。どうぞお助けください。医療体制にはまだ余裕があるとも言われますが、あっという間に入院患者が増え、再び医療現場が混乱するのではないかと心配です。また、病院が経営難になり、懸命に働いてくださっている医療スタッフのボーナスがカットされ、大量の離職希望者が出ているとも聞きます。どの分野も大変ですが、特に医療の現場は大変です。どうぞ、憐れんでくださり、国や行政なども適切な手当てを速やかにしていくことができますようにお導きください。

・このような中、今週半ばから「Go To Travel キャンペーン」がはじまろうとしています。賛否いろいろありますが、確かにこのコロナ禍にあって観光業界は深刻ですが、全国に感染拡大が起こってしまうのではないかと危惧されています。ウイズ・コロナの難しさがここにも出ていますが、どうぞ爆発的な感染拡大につながらないように、一人一人が自制した行動を取ることができますように、どうぞお守りください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン