【音声版・テキスト】2020年7月5日 説教「イエスに学ぶ」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第五主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書11章16~19、25~30節



「今の時代を何にたとえたらよいか」。今朝の福音書の日課の冒頭に、こう記されていました。私は、これはとても深い問いだと思いました。今の、このコロナ禍の…、あるいは、新型コロナウイルスとの共生・共存といわれるこの時代、いろいろな矛盾が一気に浮き彫りになってきているこの時代を何にたとえたらよいのか。

ともかく、イエスさまはイエスさまの時代をこのように言われました。「広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。

『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』」。これは、一体何を意味するのか。いろいろな解説がありますが、良くは分からない。ともかく、子どもというのは、何か楽しいことがあればすぐに飛びついてくるものでしょう。つまり、ノリがいい。

子どもたちにとって面白そうな遊びならばすぐに乗って来る。しかし、ここでは一向に乗って来ないわけです。本来ならば、皆が飛びついてきてもおかしくないような出来事が起きているのに、現実に目の前に起こっているのに、ちっとも乗って来ない。

「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」。どちらも、結局は、はなっから受け入れるつもりなど、ないのです。本当のところ、誰も、何も求めてはいないのです。

確かに、生活が豊かになるとか、不幸から逃れることとか、圧政から解放されるとかは多くの人々の切に望んでいたことかもしれませんが、イエスさまが、神さまが求めるような「変化」は誰も欲してはいなかったのです。神の国について語っても、誰も乗って来ない。すこぶるノリが悪い。それが、イエスさまが見た「その時代」の状態でした。時代的な状況、大勢は確かにそうだったでしょうが、それでも、ノリのいい人々も確かにいた。

決して時代を特徴付けるほど多くはありませんでしたが、むしろ大勢からすればごく少数派に過ぎなかったかもしれませんが、イエスさまの呼びかけに反応した人々も確かにいたわけです。そのことを、このように記しています。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」。イエスさまは大変喜ばれたと思います。

ノリの悪い、無反応の時代にあっても、少数ではあってもちゃんと反応してくれた人々がいたことを。だから、思わず感謝の祈りをせざるを得なかったと思います。裏を返せば、相当にがっかりされたのだと思うのです。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」。子どもたちが、きっとみんなも乗ってきてくれるだろうとおもって頑張って吹いたのに、みんな知らん顔をしている。そんな様子にがっかりしたように、イエスさまも、その時代の様子に本当にがっかりされたと思う。そして、それもまた、神さまの御心なのだ、と思いを定められたのだと思います。

ここで、イエスさまの呼びかけに反応した人々は「幼子のような者」と言われています。逆に、反応しなかった人々は「知恵ある者」「賢い者」と言われている。これらの言葉に、あのパウロの言葉を思い起こされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。コリントの信徒への手紙1 1章18節以下です。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。

『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」。もちろん、知恵のある人、賢い人の全てが信仰をもつに至らない、ということではないでしょう。現に、これを書いているパウロは知恵ある人、賢い人でもあったからです。

ご承知のように、彼は若い頃から熱心にユダヤ教を学び、ファリサイ派の中でも将来を有望視されていた人物です。しかし、同時に、そんな彼はイエスさまを否定し、教会を迫害する者でもあった。そんな彼の苦い経験もあったのかもしれません。知恵、あるいは賢さ自体が悪いわけではないでしょう。しかし、そのことだけでは、誰も真の神さまのお姿には至れないです。

では、幼子とそうでない者…、幼子ではない訳ですから大人と言っても良いのかも知れませんが、幼子と大人との決定的な違いは何か。それは「依存」ではないでしょうか。幼子は本能的に、自分一人では生きられないことを、誰かを頼らなければ生きていけないことを知っている。もちろん、我を出して何でも一人でやりたがる時期はありますが、それでも、自分一人で生きられるとは少しも思ってはいないでしょう。

逆に、人が大人になるということは、「依存」を捨てていくことでもあるわけです。自分一人で生きられるように、自立することが求められる。そうでないと、かえって、「いい年をしていつまで甘えているの」と社会的な制裁を受けることにもなる。もちろん、人は一人では生きられないことを知っています。

大人になっても、誰かに頼らざるを得ない。しかし、心を明け渡すことはしません。本当に心の底から頼ることはしないのです。踏み込まれたくない領域をしっかりと確保しながら、必要としている援助をしてくれればいい、と思っている。それ
は、明らかに幼子が頼るということとは違うことだと思うのです。もちろん、大の大人たちが互いに依存し合っていては社会が成り立たないわけですから、幼子のままでいてはいけない、ちゃんと大人にならなければいけない、といったことも人間社会では必要な知恵でもあると思います。

しかし、こと神さまの前では、それが大きな壁になってしまうことがある。大人ならではの「よそよそしさ」が生じてしまうからです。

先ほどは、イエスさまの呼びかけに応えようとしなかった人々は、「幼子のような人」以外の人々、特に「知恵ある者や賢い者」と言いましたが、その代表的な人々が、聖書にもイエスさまと対立する人々として度々登場してきますファリサイ派と言われる人々、あるいは律法学者と言われる人々だと思います。

博士達とイエス Christ among the Doctorsチーマ・ダ・コネリアーノ1459~1517 *1



では、彼らはなぜそれほどまでにイエスさまを頑なに拒んだのか。ひとことで言えば、考え方が全く違っていたからです。ファリサイ派、律法学者、あるいは多数派と言っても良いと思いますが、彼らは「頑張っている人々こそが救われる」と考えていたわけです。一所懸命に頑張れば頑張るほど神さまに認めていただけるのだ。ご褒美がいただけるのだ。救いに預かることができるのだ。と考えていた。それに対してイエスさまは、「いいや、たとえ頑張れない人々であっても、神さまは一人一人を深く憐れんでくださり、救ってくださるのだ」と教えていた。

そして、実際に、頑張れない、頑張っているようには思えない人々の代表でもあった徴税人たちや罪人たちとも交流をもっておられた。それは、頑張ってきたファリサイ派の人々にとっては、面白くない訳です。彼らにとってそれは不正義にも映ったでしょう。正直者が馬鹿を見る。道理に合わない、と思えた。

その気持ちは、私たちにも痛いほど良く分かります。頑張っている方が報われて当然だと思う。しかし、結局、だからこそ、彼らはイエスさまの呼びかけに応えることができなかったのです。逆に、頑張っている側からすれば、全くなっていない、大人とはいえない、「いい年こいて」としか思えない、頑張れない自分を、罪深い自分を自覚して胸を叩くしかなかった「幼子のような人」こそがイエスさまの呼びかけに応えることができた。

ですから、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という大変慰めに満ちた言葉も、単なる休息のためだけの言葉ではないことが分かると思います。何よりも、このイエスさまの招きに応えることが大切なのです。イエスさまのところに来ることが大切なのです。イエスさまに心明け渡し委ねることが大切なのです。そこに、真の休息も安らぎもやってくる。

ここでは、直接的には、いわゆる律法主義からの解放ということが言われています。何度も言いますように、ファリサイ派や律法学者たちは、決して悪人ではないのです。むしろ、誰よりも熱心です。誠実です。だからこそ、神さまの戒め・律法を徹底して守ろうとした。少しの落ち度もあっては成らないと、どこまでが許されており、どこからがダメなのかと聖書の戒めを細分化した訳です。それは、紛れもなく熱心さから出たことです。しかし、イエスさまの目からすれば、それは神さまの御心から離れているとしか思えなかった。

悲しいことですが、熱心になればなるほど、神さまの本来の意図からズレてしまう人間の現実がそこにもある訳です。そして、熱心な彼らは自分たちがそれらを荷なうだけでなく、人々にも要求した。それが、「重荷」となっていた。知らず識らずのうちに、神さまの意図から遠く離れてしまっていたその重荷に、人々は疲れ果てていました。頑張れない人々は特に…。結局は、真の神さまを知らないからこそ生まれてしまった重荷でもあった。

そして、今日の私たちにとっては、たとえ律法主義ということがなくても、この神さまを知らないが故に負ってしまっている重荷があるのではないか。そうも思うのです。自己嫌悪、自己卑下。「こうでなきゃ」と思う自分への過剰な期待。

「こうであってほしい」と周りからかけられる期待。本当のところの自分など誰も分かってはくれない。理解してはくれない、との孤独感、孤立感。こんな自分をさらけ出していいのだろうか。こんな自分を本当に受け入れ愛してくださるのだろうか、との不安、不信感。私たちは、いろんな想いで疲れてしまう。人の前だけでなく、神さまの前に出ることにも疲れてしまう。最後の砦であるはずなのに、重荷に感じてしまう。聖書を読むのも、祈るのも、億劫に感じてしまう。

自分の嫌なところばかりが見えてきて、疲れてしまうから。そう、私たちは彼らとは別の意味で神さまを誤解して、勝手に重荷にしてしまって、疲れ果ててしまっているのかもしれません。

だから、イエスさまはこう語られます。「わたしに学びなさい」と。神の独り子であるイエスさまだけが真の神さまのお姿を教えてくださるからです。たとえ、私たちにとって耳の痛い言葉であっても、従うことを躊躇してしまうような戒めであっても、無理難題とも思えるような要求であっても、それは、私たちを苦しめるためでもないし、懲らしめるためでもないし、怒っておられるからでもないし、私たちのことを、私たち以上に気遣い、知っていてくださり、私たちのことを慮ってのことだからです。

たとえ気づくことがなくとも、神さまは私たちのために常に良いことをしてくださっている。そのことを、イエスさまから学ぶ。イエスさまの言動、その生涯、十字架と復活、礼拝、み言葉、祈り、黙想、ありとあらゆることを通してイエスさまから学ぶのです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」ということを、です。常に、私たちと共にいて、軛を一緒に荷なってくださっていることを信じながら。

『キリストの降臨と勝利』ハンス・メムリンク 1480年  ドイツ:アルテ・ピナコテーク所蔵 *2



祈り
・各地で、特に熊本・鹿児島地区で記録的な大雨が降り、被害も出ているようです。この地域にはルーテル教会も多く点在していますが、今の所教会および教会員の方々に大きな被害は出ていないようです。しかし、多くの方々がこのコロナ禍にあって大変な思いをしていますので、どうぞ憐れんでくださり、必要な助けも速やかに与えられますようにお導きください。災害大国と言われる日本の中で、このコロナ禍での避難生活が危惧されていますが、どうぞ、そういった二次、三次的被害にもならないように、どうかお助けくださいますようにお願いいたします。また、中国でも大変な豪雨被害が出ているようです。どうぞお助けください。まだまだ梅雨の時期が続きますので、大きな豪雨被害がでませんようにお守りください。

・今日から礼拝堂での礼拝を再開する予定でしたが、都内では連日新規感染者数が100人を超えたこともあって、大変残念ではありますが、延期することと致しました。都内ばかりでなく、首都圏の近隣の地域でも感染者は増えているようです。どうぞ憐れんでくださり、これ以上感染者数が急激に増えていったり、医療体制が逼迫するようなことのないようにお助けください。再開時期についても、どうぞ良き時を与えてくださいますようにお願いいたします。

また、世界では本当に深刻な状態が尚も続いていますが、特に医療機関にも十分にかかることのできない貧しい方々から多くの犠牲者が出ているとも聞きます。どうぞ憐れんでくださり、それら社会的弱者と言われる方々をお助けくださいますようにお願いいたします。

・現在、紛争下にある国々や貧困者の多い国々などの食料不足がより深刻化していると言われています。それは、この新型コロナの影響で物資の移動が困難になったり、また、感染の危険から職員を守るための人員不足などによるとも言われています。全世界規模のパンデミックで、それぞれの国でも余裕がないのでしょうが、どんどんと置き去りになってしまっている国々、人々を思うと胸が痛みます。私たちができることといえば、ほんのわずかなことですが、それらの人々のためにも祈りつつ、小さな援助の業を行うことができるように。また、援助する国々、団体も多く起こされますように、どうぞ憐れみお助けください。



イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

*1  Christ among the doctors, 1504, National Museum in Warsaw
*2 『キリストの降臨と勝利』MUSEY: https://www.musey.net/4883