【テキスト・音声版】2020年6月21日 説教「困難な時代を生きる」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第三主日礼拝説教



ライブ配信はこちらからご視聴できます。

 

聖書箇所:マタイによる福音書10章24~39節

今朝の福音書の日課は、大変厳しい内容の箇所でした。日課ではありませんでしたので読みませんでしたが、今日の箇所の小見出しに「迫害を予告する」とありますように、10章16節以下には「迫害」について記されています。ですから、今日の日課の底辺に流れているのは、「迫害」ということでしょう。

ご存知のように、キリスト教の歴史は迫害の歴史でもありました。おそらく、この福音書を最初に読んでいた教会の人々も、程度の差こそあれ、様々な迫害に遭っていたことでしょう。キリスト者…、キリストを信じる者というだけで、人々から疎んじられ、白眼視され、陰口を叩かれ、罵詈雑言を浴びせられ、時には実際に暴力までも振るわれる…。中には、そんな嫌がらせ、迫害に耐えかねて教会を去って行った人々もいたでしょう。それが、この箇所を読んでいた人々の現実でもあった。

幸いにして、今の私たちは、この箇所を読んでも縁遠く感じていられます。先ほど言いましたように、知識として、過去に起こっていた出来事としては理解できても、自分のこととしては感じずに済んでいるからです。信教の自由が保障されている現代日本では、信仰という事柄だけではあからさまな嫌がらせなどを受けることは、まず滅多にないでしょう。

The Procession To Calvary(ゴルゴタの丘への行進) 1564,Pieter Brueghel The Elder ※1



また、近年は随分と変わったとしても、今だにキリスト教のイメージは日本ではそれほど悪くないと思います。西洋美術に西洋音楽、むさしの教会にもあります素敵なステンドグラスにヨーロッパを思わせる建築物。そういった文化的なものに憧れや関心を持つ人々も決して少なくないからです。そして、なんとなく抱いているキリスト者のイメージも決して悪くはない。ですから、イベントごとには、結構多くの方々が来てくださいます。

先ほどは、キリスト教は迫害の歴史だ、と言いました。確かに、そうです。そして、大方は、キリスト教は迫害を受けた側だと理解していることでしょう。しかし、実はそうではないのです。キリスト教の迫害の歴史は、被害者でもあり加害者でもあるからです。

このところ、時間が与えられていますので、いろいろと本を読ませてもらっています。その中で、改めてキリスト教の歴史についての本を読みました。正直、後味が悪かった。

物事には光りと影があるものです。キリスト教の歴史も例外ではないでしょう。しかし、光どころではない。あまりに影が濃くって光が見出せないほど惨憺たるものでした。もっとも、著者がそういったこともしっかりと記そうとしたからなのかもしれませんが…。権力闘争、聖職売買、あらゆる堕落、信仰の名の下の流血…、等々。確かに、教会は迫害を受けて来た。

日本におけるキリシタンの迫害もまさにそうでしょう。しかし、一方で、教会も他の人たちを迫害してきた。同じキリスト者同士であっても迫害をしてきた。しかも、残虐極まりない方法で。そういった歴史が確かにある。迫害のことばかりではありませんが、私たちキリスト者たちも、そういった現実を真摯に受け止めなければならないと思います。

そして、そういった教会の様々な過ち、思惑も含めて、政治、経済、不満の爆発などが歴史を動かして行く。はっきり言って、そこに正義はあるのか、と思う。もちろん、彼らはそれを正義だと主張し、場合によっては本当に正義だと思い込んでいるのかもしれませんが、しかし、所詮は自分たちの利益のために他ならない。そして、虐げられてきた者たちが爆発し、大抵は血を流して終わるのです。

現在のコロナ禍の中で見えて来たものがある、と言われます。あるいは、「コロナ後の世界」といったことも言われています。アメリカで起こった大きな人種差別に対する抗議運動もその一つかもしれません。潜在化していた紛れもない問題が、このコロナ禍で顕在化してきた。

あるいは、近頃の北朝鮮の過激な言動も関連があるとも言われています。経済封鎖の上、このコロナ禍での危機的な状況がその背後にあるのではないか、と指摘されているからです。ともかく、人々は、あるいは人類は、危機的な状況の中でどう動くか分からないのです。

今まで通りの秩序や価値観が維持されるとも限らない。そこで、権力闘争がおこり、経済的理由で混乱が生じ、不満分子が一気に火を吹き暴動が起きるかもしれない。その矛先が、私たちに向けられないとも限らない。

もちろん、そういった可能性は大きくはないとは個人的には思っていますが、しかし、歴史を見れば、そういった理性では測ることのできない激動が決して起こらないとも言えないわけです。

たとえ、そうでなくても、現実においても私たちはある種の不安をいつも抱えているのかもしれません。なぜ公に、自分がキリスト者であることを言い表せないのか。そのために不利益を被ることを恐るからです。人々の自分を見る目が気になるからです。

今まで通りの付き合いができなくなるのではないか、と不安になるからです。プチ「迫害」への恐れ、です。私にも、記憶がある。まだ牧師になる前の私は、一人の普通のキリスト者でした。いいえ、どちらかと言えば不熱心なキリスト者でした。堂々と自分がキリスト者だと言えるときもあれば、隠してしまう時もあった。

なんとなく雰囲気を感じ取って、言わない方が無難だな、と思うような時も決して少なくありませんでした。ですから、言えない気持ち、言いたくない気持ちも良く分かります。しかも、ことは表明するかしないか、だけでもありません。

キリスト者としての生き方、あり方を前面に出すことを躊躇してしまうことがある。キリスト者である自分の価値観からすれば間違っていると思っても、なかなか言えない。何か言ようものなら、「お前はクリスチャンだから」と揶揄されることを恐れてしまう。間違っている、良くないと思いながらも、なんとなく付き合ってしまう。その方が平和だから。

それは、職場や社会の中だけでもないわけです。家庭の中でもそう。信仰の事柄よりも波風立てないことを優先してしまう。それは、決して信仰者ではない家庭の中に止まりません。いわゆるクリスチャン・ホームと言われる中でも起こることです。同じ信仰を持つ者たちであっても、ほどほどがいいのです。熱心すぎると困るので
す。自分の生活が脅かされるような熱心さは不要なのです。だから、献身したいと言い出すと、とたんに反対し、その熱心さを咎めるクリスチャン家庭もある。何事もほどほどがいい。平和を失いたくない。その気持ちも良く分かります。

ともかく、今日の箇所は私たちと無関係だ、と過ごすわけにはいかないのです。遠い過去のこと、歴史の一場面と安易に捉えることも間違いなのです。25節にこう記されています。「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」。次週の日課にありますように、私たちのことを受け入れてくれる人々は確かに存在します。キリスト者だといった理由だけで良くしてくれる人も確かにいる。

しかし、イエスさまがそうだったように、どうしてか分かりませんが、反対する者たちも多くいるのです。私たちの目からすれば不思議でならない。真理を語り、愛に富み、良きことをしているのに、そのことを目の当たりにしているはずなのに、なぜか反発する人々が確かにいるのです。偽善者扱いし、悪魔に取り憑かれているとさえ言う。

イエスさまがそうであったならば、イエスさまの弟子であるあなたがたもそうではないか、と言われるのです。悪を行ったからではありません。不正を働いたからでもありません。善を行ったにも関わらず、イエス・キリストと関わりがあるというだけで、宣教したというだけで迫害を受ける。それが、弟子たちの姿でもあった。だから、イエスさまはこうも言われる。

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。天を見上げることが必要なのです。あの最初の殉教者であったステファノもそうでした。まさに石を投げつけられようとした時、彼は天を見上げてこう言いました。

「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」。私たちの力、希望は全てこの天の神さま、父・子・聖霊なる神さまにかかっている。確かにそう。しかし、ではこの私たちが、かつての信仰の英雄たちと同じように迫害に対峙できるのか、と言えば、自信満々に「そうだ」と答えらえる人はまずいないでしょう。

「迫害」と言えば、遠藤周作の『沈黙』を思い出さずにはいられません。ご存知のように、キリシタン迫害下が舞台ですが、その弾圧の苛烈さに目を覆いたくなるほどです。その迫害下にあっても、勇敢に最後まで信仰を貫き通して殉教の死を遂げて行く信仰の英雄たちもいれば、そのあまりの過酷さに棄教する者たちも多く出て来ます。その弱さの代表なのが、もう一人の重要人物キチジローでしょう。

すでに迫害下の中にあった日本に、主人公のロドリゴは秘密裏にやってきて、隠れキリシタンたちを力づけていきますが、先ほどのキチジローに裏切られ、囚われてしまいます。当時のカトリック宣教師たちにとって、殉教は大変名誉なことでしたので、ロドリゴも殉教することを願いますが、しかし、自分が棄教しない限り、代わりに信徒たちが拷問され続けることを知って、ついに彼は信徒を救うために棄教することを決意します。信仰を捨てたくないのに捨てざるを得ないロドリゴ。

自分の弱さの故に信仰を捨てる決意をしたものの、しかし、捨てきれずに自分の弱さを後悔し続けるキチジロー。どちらの気持ちも痛いほど良く分かる。先ほども言いましたように、迫害にあっても最後まで信仰に生きた信仰の英雄にこそ神さまは目を留めてくださる。そう考えるのが伝統的な信仰理解だったでしょう。

しかし、遠藤は、人の弱さにこそ目を留めてくださっている神さまのお姿を明確に示していきました。確かに、私自身も、弱さのために信仰を守り通すことのできなかった、棄教してしまった、転んでしまったキチジローのような弱き信仰者たちも、神さまは英雄たちと同じようにお救いくださると信じています。しかし、それでも、この言葉はどうしても無視できないのだと思うのです。

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。

どんな迫害が来ても微塵も動じず、殉教さえも厭わない信仰の英雄が必ずしも望まれているのではないと思います。誰からも揶揄されない、恥じることのない立派な人物が求められているのでもないと思います。一度でも失敗したらもうアウトということでもないでしょう。

現に、この言葉を直に聞いた弟子たちは、この通りには生きられなかったからです。ペトロなどは、三度もイエスさまを知らないと言ってしまった。だからこそのイエスさまの十字架だと言えるのです。罪の赦しです。弱さの労りです。しかし、そうであっても、私たちはこの言葉の前に言い逃れをして良いのか、とも思う。弱さがあっても、失敗があっても、反省があってもいい。

それと、無視することとは違うからです。私たちは英雄にはなれないのかもしれない。やはり、不安で恐れるのかもしれない。目に見える迫害がない時代でも、その不安は消えないのかもしれない。しかし、いいえ、だからこそ、私たちは聖書を通して、ますますこの方を、普段私たちが見えている現実ではなく天を、天の現実を見る必要があるのだと思うのです。ペトロをはじめ、弟子たちを変えていった現実を。英雄にはなれなかった、弱さを嘆いてきた多くのキリスト者たちをそれでも立ち上がらせていった現実を。

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐るな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。

「小鳥への説教」(画:ジョット、1305年頃)※2



《 祈り》
・今、北朝鮮と韓国とが、大変厳しい状況に置かれています。傍若無人(ぼうじゃくぶじん)で悪質な北朝鮮の謀略行為ですが、一方で餓死者が出るほどの厳しい国内事情の現れだとも言われています。

もともとの農作物の不作に加え、新型コロナによる国境封鎖の影響で食料の供給が滞り、1990年代に300万人もの餓死者が出た頃に迫る危機的な状況とも言われています。核兵器問題を抱える北朝鮮のためにどのように祈れば良いのか分かりませんが、しかし、いつでも虐げられ、苦しい思いをするのは、弱き者たちですので、国同士のいざこざやプライドによるのではなく、弱者のための解決を双方がまず求めることができるように、国の指導者や国民たちを、また世界の世論を導いてくださいますようにお願いいたします。

・アメリカからはじまった人種差別における抗議運動も続けられています。それは、世界中で現に人種差別が横行しているといった事実があるからでしょう。日本も他人事ではありません。日本では「白人」「黒人」といった差別はないのかもしれませんが、同じアジアの人々に対しては少なからず差別意識を持っているのかもしれません。

現に、アジアの人々に対する差別的なヘイトスピーチが後を絶たないからです。どうぞ、人種差別をはじめとした様々な差別がなくなりますように。一人一人の人権を大切にする世界が広がっていきますように、私たち一人一人の意識を変えていってくださいますようにお願いいたします。

・現在、紛争下にある国々や貧困者の多い国々などの食料不足がより深刻化していると言われています。それは、この新型コロナの影響で物資の移動が困難になったり、また、感染の危険から職員を守るための人員不足などによるとも言われています。全世界規模のパンデミックで、それぞれの国でも余裕がないのでしょうが、どんどんと置き去りになってしまっている国々、人々を思うと胸が痛みます。

私たちができることといえば、ほんのわずかなことですが、それらの人々のためにも祈りつつ、小さな援助の業を行うことができ
るように。また、援助する国々、団体も多く起こされますように、どうぞ憐れみお助けください。

・新型コロナの脅威からも人々を守ってくださいますように。医療従事者たちを顧みてくださいますようにお願いいたします。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン



 

※1, ゴルゴタの丘への行進 – 中央に十字架を担うキリスト、右上にゴルゴダの丘
※2,フレスコ画、サン・フランチェスコ聖堂上堂、アッシジ