【音声版・テキスト】2020年6月7日 三位一体主日礼拝 説教「父・子・聖霊」浅野 直樹牧師

聖書箇所:マタイによる福音書28章16~20節



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このところ、祈りの言葉が変わったことに気づかれた方もいらっしゃるかもしれません。説教の終わりの祈りで、以前は「天の父なる神さま」と呼びかけていましたが、近頃は「父・子・聖霊なる神さま」と呼びかけるようにしたからです。これは、ある本を読んでいましたら、「父・子・聖霊」は『固有名詞』だといったことが記されていたからです。

なるほど、と思いました。『固有名詞』…、つまり名前みたいなもの、ということです。確かに、「父なる神さま」と呼びかけていましたが、父なる神さまだけに祈っているわけではない。子なるイエスさまにも、聖霊なる神さまにも祈っている。つまり、「三位一体」なる神さまに祈って来た訳ですから、『固有名詞』として、そんな三位一体なる神さまのお名前として、「父・子・聖霊なる神さま」と呼びかけた方が適切なのではないか。

そう思えたからです。もっとも、習慣とは恐ろしいもので、普段、個人的に祈るときは、ついつい「天の父なる神さま」と呼びかけてしまうこともあるのですが…。

今日は、『三位一体主日』の礼拝です。ご存知のように、この「三位一体」という信仰の理解はキリスト教特有のものです。唯一神を信じる信仰は他にもあります。複数の神さまを信じる信仰も、数多くあります。しかし、私たち教会は、ただお独りの神さまを信じていますが、と同時に、イエスさまも聖霊も神さまと信じています。だからといって、私たちが信じているのは、三人の神さまでもないし、一人の神さまだけれども三つの顔を持つ、あるいは登場する場面が違う、ということでもない。完全に溶け合って区別がつかないようなことではなく、それぞれの個性はありつつもただお独り。

専門的な表現をすれば、一にして三つの位格を持つ。非常にややこしい、と言いますか、非合理とも言えるのかもしれませんが、そんな信仰を持っている訳です。

あるキリスト教系新興宗教の方々が指摘しているように、聖書には「三位一体」といった言葉は出てきませんし、様々な神学論争を経て、その中には政治的な思惑もなくはなかったようですが、ようやく4世紀になって教会の教え、信仰理解・告白として落ち着きを見せていきました。しかし、今日お読みした三つの聖書の箇所を見てもお分かりのように、全く聖書的根拠がない訳ではないのです。

キリストの洗礼:1475年頃 アンドレア・デル・ヴェロッキオ,レオナルド・ダ・ヴィンチ(部分)


むしろ、単純素朴に聖書を読むならば、たとえ非合理に思えても、理解し難くても、そうとしか言い表せないのではないか。個人的には、そう思っています。ですから、信じるしかない。ああだこうだと捏ね回してみても、恐らく、そこからは何も生まれてはこないでしょう。むしろ、良く分からなくても、幼子のようになって、単純素朴に信じていくところに、むしろ何かが生まれていくのではないか。そんなふうにも思うのです。

ともかく、これが私たちキリスト教の、教会の信仰なのです。唯一無比の、まことにユニークな信仰告白なのです。

先程来、「非合理」と言ってきましたように、この「三位一体」といった教え・教理は、理性を使って理解しきることは、甚だ難しいと思いますが、しかし、これを関係性の中で̶̶私たちの(キリスト教の)信仰理解では、この「関係性」ということが非常に重要になってくると個人的には思っていますが̶̶捉えていくならば、むしろ非常に身近に感じられるのではないか、と思います。

 

アンドレイ・ルブリョフによるイコン『至聖三者』(1422年~1427年、トレチャコフ美術館所蔵)※注2


皆さんの中にも学ばれた方も多いと思いますが、ルターは『小教理問答』の中で使徒信条を三つに分類しております。この使徒信条、私たちにとってはもっとも身近な信仰告白ですが、非常に単純に、あるいは乱暴に言ってしまえば、三位一体なる神さまを信じる、といった信仰告白になります。それを、ルターは三つの部分に分類した。父なる神さまについては、「第一条 創造について」と分類した。

つまり、父なる神さまと私たちとの主な関わりは、この「創造」ということにおいてだ、ということです。もちろん、この一点に限定される訳ではありませんが、それが「主」だということです。そして、ルターはこのように解説します。「私は信じている。神が私をお造りになったことを。すべての被造物と一緒にだ。神は私にからだと魂、目や耳やすべての部分、理性、あらゆる感覚をお与えくださったし、そのうえこれを保ってくださっている。

また衣服や履物、食べ物や飲み物、家屋敷、妻や子、畑や家畜やすべての財貨を、このからだといのちのあらゆる必要なものと共に豊かに日毎に与え、あらゆる危険から守り、あらゆる災いに対して備え、保護し、これらすべてのものを純粋に父としての、神のいつくしみとあわれみから、私のなんらの功績やふさわしさなしにしてくださるのだ」。私たちは、偶然の産物として生まれたのではありません。親の熱意に依るだけでもありません。

神さまが私たちをこの世界に生み出してくださった(創造してくださった)。しかも、生み出しておいて放ったらかしではなく、私たちが生きる上で必要なありとあらゆる物を与えてくださっている。しかも、豊かに。父として。私たちも、子育てをする時、何もできない、役に立たない、苦労ばかりをかける赤子を、自分の子どもだからといった理由だけで、慈しみ、育むことを知っています。それを同じように、神さまは私たちの父となってくださっていると言うのです。

ご存知の方も多いと思いますが、私の父は、私がまだ1歳の頃、29歳の若さで死にました。胃がんでした。3歳の頃、母は私を連れて再婚しましたが、その夫婦仲はあまり芳しくなく、常にその家庭はギクシャクしたものでした。義父からは、今でいえば虐待めいたことも度々受けました。母からは苛立ちのはけ口として扱われました。しかも、母からは、事あるごとに、「お前は癌の子だから長生きできない」「医者からお前を産まない方が良いと言われた」などと聞かされ続けてきました。多感な思春期の頃には、毎日自殺のことばかりを考えるようになりました。

自殺に踏み切れなくなってからは、生まれなければ良かった、と思いつづけるようになりました。生い立ちを呪っていたのです。今から思えば、随分と青臭い悩みだとは思いますが、14~5歳の頃ですから、仕方がなかったのでしょう。そんな私がキリスト教と出会った。教会に通うようになった。しばらくして、意識が変わったことに気づきました。「そうだ。私は奇跡の子なのだ。場合が場合ならば私は生まれてこなかったかもしれない。

しかし、神さまがどうしても私をこの世界に生まれさせたかったのだ」。不思議とそう思えた。その瞬間、今まで見えていた自分の人生の風景が一変したことを今でも良く憶えています。生まれてきたことに本当に感謝できた。
これは、私という一つの例です。しかし、誰もがこの父なる神さまによって、愛をもってこの世界に生み出されていることは間違いないことでしょう。

では、子なる神、イエスさまについては、ルターはどのように分類しているのでしょうか。「第二条 救いについて」、「私は信じている。永遠のうちに父から生まれた真の神であって、また、おとめマリアから生まれた真の人であるイエス・キリストが私の主であることを。主は失われ、罪に定められた人間である私を、金や銀をもってではなく、ご自身の聖なる、尊い血とご自身の罪なき苦しみと死をもって、すべての罪と死と悪魔の力から救い、あがない、かちとってくださったのだ」。イエスさまは救い主としてこの私たちと関わってくださる。

私は、親を殺したいと思うほどに憎しみの虜になっている自分を変えたくて、教会の門を叩きました。そこで、はじめて聖書を読むようになり、イエスさまと出会った。私はすぐにイエスさまの虜になりました。私にとってイエスさまはカッコよくてヒーローだった。しかし、次第に自分の罪の重さに耐えきれなくなり、教会を去るほどでした。そんな私のためにイエスさまが十字架で死なれたことを知った。親を殺したいと思う私の代わりに、そんな自分が嫌で嫌で仕方なく、自分を滅ぼしてやりたいと思う私の代わりに、妬み、怒り、殺意、貪欲、虚栄心、傲慢…、ありとあらゆる罪を持つ私の代わりに、イエスさまが血を流し、十字架で命を捨てられたことを知った。

もう感謝でしかなかった。涙が溢れて止まらなかった。それは、私のためだけではない。皆さん一人一人のためでもある訳です。みなさん一人一人のためにもイエスさまは血を流し、十字架で死なれたのです。

聖霊なる神さまについては、ルターはこう記します。「第三条 聖化について」、「私は信じている。私は自分の理性や力では、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみ許に来ることもできないが、聖霊が福音によって私を召し、その賜物をもって照らし、正しい信仰において聖め、保ってくださったことを」。そうです。全ては、聖霊なる神さまによらなければはじまらないのです。救われないのです。人は神さまを、イエスさまを信じることも、求めることもできない。

私も、そうでした。先に言いましたように、天の父なる神さまによって、私の人生観そのものが変わりました。まさに、きらめいた、といって良いほどに、今まで見て来た世界に光が差したのです。本当に嬉しかった。そして、イエスさまと出会い、この私のための十字架であることを知った。心の底から感動しました。この方のために生涯を掛けようとも思った。

しかし、その思いは長続きはしませんでした。揺れ動いて行きました。あの出来事が霞んでしまうくらいに不安になり、絶望感に苛まれることも決して少なくはなかった。「自分の信仰」というものに自信が持てませんでした。それだから、色々と上手くいかないのだ、と思い込んでもいました。信仰を強めなければともがきました。

そして、その度に挫折を味わいました。しかし、ある時、教えられたのです。この信仰とは、自分から出て来たものではないのだと。そうではなくて、神さまが私のことを救いたくて、救おうとされて、神さまご自身が与えてくださった
ものなのだと。聖霊によって。全身から力が抜けていくのを感じました。これほどの開放感を未だ嘗て味わったことはありません。

私は、父なる神さま、子なる神さま、聖霊なる神さまによって救われたのです。どれ一つとして欠けていては、今の私はなかったでしょう。この世にいたかどうかも分かりません。ともかく、当然、皆が皆、同じような体験をする訳ではありません。1、2、3といったステップを踏むとも限らない。しかし、すべての人がこの父・子・聖霊の「三位一体」なる神さまとの関わりの中で生きているはずです。たとえ、自覚がなくても、私たちはこの神さまの恩恵の中で生きている。

そして、できれば、その自覚を持っていただきたい、と思うのです。気づいていただきたい、と思うのです。そのためにも、今日の福音書の言葉があるのではないでしょうか。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。



《祈り》
・日本では随分と収まりが見えていますが、世界ではまだまだ感染が広がっています。特に、医療体制が脆弱な国々、地域においても感染拡大が起こっており、懸念されています。どうぞ憐れんでくださり、弱き者、貧しき者をお助けください。適切な治療も受けられるように、援助の手を差し伸べられますようにお導きください。都内では依然として20名前後の新規感染者が出ており、東京アラートも発動しています。依然として予断の許さない状況ですが、経済との両立という難しい舵取りの中、医療崩壊につながるような感染拡大に向かうことのないようにお助けください。また、6月より都内の学校なども授業が再開されていますが、子どもたちも感染からお守りくださり、学校生活も有意義なものとなりますようにお導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・ワクチンや薬の開発も待たれています。大国同士の覇権争いの道具になるのではなく、国際協力のもと、速やかに開発され、貧しい国々の人々にも届けられますようにお導きください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・コロナ鬱や虐待、DV被害者なども出ないようにもお助けください。

・アメリカでは差別問題から一部が暴徒化してしまい、大統領も武力での鎮圧も辞さないといった状況です。すでに、死傷者も出ていると聞きますが、確かに根深い問題ですが、互いに冷静になって、この問題を克服していく方向に向かっていくことができますようにお導きください。また、香港も大変厳しい状況になりつつありますが、自由が奪われたり、人権が軽視されたりすることのないようにお助けください。主イエス・キリストの御名によって。

アーメン



注1)ウフィッツィ美術館  Andrea del Verrocchio, Leonardo da Vinci – Baptism of Christ
注2)至聖三者のイコン  創世記18章にある、三人の天使をアブラハムがもてなす姿によって、三位一体を象徴する