【音声・テキスト 】2020年5月24日 説教「上を見上げて」浅野直樹牧師

主の昇天主日礼拝説教



「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように、思い出す 春の日 一人ぽっちの夜」。
ご存知のように、坂本九さんの大ヒットソング。名曲です。私自身は知らなかったのですが、作詞をされたのは、あの永六輔さんのようです。続けて、この曲はこう歌います。「上を向いて歩こう にじんだ星をかぞえて 思い出す 夏の日 一人ぽっちの夜。幸せは雲の上に 幸せは空の上に 上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 泣きながら 歩く 一人ぽっちの夜」。

何があったのかは分かりませんが、この主人公はある春の日に、涙を流すような思いの中にあったようです。寂しかったのか、悲しかったのか。本来「春」と言えば、喜びに満ちた季節なのに、それとは裏腹に、たった一人、涙をこらえて上を向いて歩いていました。そう、最初は、涙がこぼれないように、これ以上、みっともない、惨めな思いにはなるまい、と思い、必死な思いで溢れる涙を抑えて上をみていたのかもしれない。

しかし、次第に思いが変わっていったように思います。上を見ていると、抑えていた涙で滲んだ星が見えて来た。なんだか、その星の存在に心が吸い込まれていったのでしょう。上を見上げていると、心の変化を感じるようになった。そうだ、自分にも活力に満ちたかんかん照りの夏の日差しのような時があったではないか。大切な人と一緒に行った盆踊り。一緒に見上げて歓声を上げていた打ち上げ花火。

そうだ、自分にも幸せと思える日々が確かにあったのだ。幸せは、雲の上に、空の上にある。だから、もう涙を流すまいとして上を見上げるのではなくて、幸せを感じるために上を向いて歩いて行こう。泣きながら…。そう、この涙はそんな気づきによる喜びの涙に変わっていたのかもしれません。同じ一人ぽっちの夜の風景なのに、全く違うものに変えられていた。

上を向いて、喜びの涙を噛み締めながら、たとえ一人ぽっちという現実は変わらなくとも、幸せを見つめて歩いていく。これは、私の勝手な解釈かもしれませんが、そんな思いを、この歌から感じさせられます。なぜならば、私もまた、上を向くからです。私は、自身の趣味を「ぼ~と、空を、雲を眺めること」と言って来ていますが、それは、最初っからそういった嗜好があったからではありませんでした。ある時、空を(上を)見上げたからです。

涙をこぼすまい、ということでは必ずしもありませんでしたが、やはり悲しくて、辛くて、心がどうにも落ち着かなかった時に、何気無しに空を見上げたのです。その空の青さが、雲の何とも言えない穏やかな造形美が、私の心を救ってくれた。そんな経験があった。だから、今では、何でもない時にも空を見る。雲を見る。そうすると、心が落ち着くし、なんだか幸せな気分にもなれる。

そういった経験、皆さんにもお有りになるのではないでしょうか。上を向くことによって、何だか救われた、といった経験が。だから、あの歌はあんなにも共感を生んで、大ヒットとなったのではないか。個人的には、そう思っています。

今日は、イエスさまの昇天主日の礼拝です。ご存知のように、キリスト者が亡くなられた時、「召天された」という言い方がなされます。この「昇天」と「召天」は、「音」としては同じように聞こえますが、漢字の表記が違っているように、意味は全く異なるものです。キリスト者の「召天」の場合は、天に召されると書かれているように、死んだ者が天に…、つまり神さまのところに召されることを意味します。対して、イエスさまの「昇天」は、天に昇るとありますように、まさしく天に、つまり神さまのところに、神さまの領域に「生きたまま」で昇られたということです。

ですから、使徒信条などの信仰告白には「天に上り、神の右に座し」(神さまと共におられる)と告白されるわけです。ともかく、十字架で死なれ、三日目に復活されたイエスさまは、40日に渡って弟子たちと過ごされ後、「生きたまま」で天に昇って、帰っていかれました。このことは、福音書としては今日のルカ福音書だけに記されていることです。同じルカが著者だと考えられている使徒言行録(これは、ルカ福音書の続編と考えられていますが)1章9節にこう記されています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」。

改めてこの箇所を読んだとき、この時の弟子たちの気持ちはどうだったのだろう、と思いました。あまりのことに呆然と立ち尽くすようにして上を見上げていたのか。それとも、目を凝らして、この瞬間を一瞬たりとも見逃さまいとして凝視していたのか。
なぜならば、ここには悲しみがないからです。弟子たちの中に、悲しいそぶりが見えないからです。何故なんだろう。これは、今生の別れです。もう二度と、この世でイエスさまとお会いすることができない。

そんな別れであるはずなのに、悲しみが見えてこないのはなぜか。実は、この今生の別れという意味では、弟子たちは二度経験していることになります。一度目は、イエスさまがあの十字架の上で死んでしまい、墓に葬られたことによります。少なくとも、復活を信じることができなかった弟子たちにとっては、まさに今生の別れの時だったでしょう。それは、あまりにも突然で、衝撃的で、絶望的でした。全ての気力を失うほどに、彼らは失意のどん底を経験したのです。

もちろん、後悔もあったでしょう。特に、イエスさまのことを三度も否んでしまったペトロにおいては、どれほどのことだったでしょう。「死んでお詫びしたい」とでも思っていたのかもしれない。そんな彼らのところに、不意に、そう、まさに不意に復活のイエスさまが来られました。「あなたがたに平和があるように」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。



まさに、救いです。弟子たちは、その出会いで、どれほど救われたことか。そんなイエスさまと、再び別れなければならない。今生の別れをしなければならない。普通に考えれば、悲しんで当たり前でしょう。しかし、どうも様子が違う。そこに、何が起こったのだろうと思うのです。

昔、『いま、会いにゆきます』という映画を見ました。竹内結子と中村獅童が主演をした映画です。竹内結子が演じる女性が、幼い子どもを残して死んでしまいます。その出産が非常に難産だったようで、その影響もあってのことでした。そして、心無い大人たちのつぶやきを聞いたその子どもは、心に深い傷をもつことになります。中村獅童演じるお父さんは、ちょっと障害を持っているようで、残された父子の生活もなかなかうまくいかず、失敗と奮闘の毎日でした。

そんな中、一年が過ぎ、この親子は不思議と亡き妻、母と会うことになる。実は、亡くなった女性が現れたのではなく、その女性の若い頃の自分がタイムスリップをしてやってきたのでした。そんな女性は6週間後、将来がどうなるのかを知りながら、つまり、難産の上に命を落とすことを知りながら、彼女の現実世界に戻って行き、結婚をし、子どもを産むことを決意します。ともかく、そんな不思議な三人の出会いによって、お互いの心が少しづつ救われていく。今生の別れに備えられていく。自分のせいで命を落としてしまったのではないか、と恐れていた子どもの心が癒されていく。

自分の命と引き替えてもいいほどに愛されていたのだ、と気付かされていく。そういったストーリーだったと思います。同じように、とは言いませんが、弟子たちにとっても、あの40日間は、本当に素晴らしい、幸いな時だったのでしょう。少なくとも、今度の今生の別れは、突然でも、衝撃的でも、絶望的でもなかった。喜んで送ることができた。そんな、40日間だったと思うのです。

Transfiguration『キリストの変容』 ラファエロ・サンティ,Musei Vaticani



弟子たちは、天に昇られるイエスさまを見上げていました。自分たちの元を離れ、天に帰られるイエスさまを、じっと見上げていました。天に昇られ、見えなくなったのに、なおも、イエスさまが帰られた「天」をじっと見つめていました。その時の様子を、ルカ福
音書ではこのように記されています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。天に上げられたイエスさを、弟子たちは「伏し拝み」、「大喜び」でエルサレムに帰り、いつも神殿で神さまを褒め称えていた、と言います。それが、この度の今生の別れの結果なのです。

復活のイエスさまと出会い、弟子たちは本当に救われました。そして、その復活のイエスさまと共に過ごした40日間の歩みは、至福の時でした。なおもイエスさまから意味を教えていただき、イエスさまに赦され、愛されていることを常に実感して生きることがで
きたからです。そして、イエスさまは、お帰りになるべき天に昇っていかれた。そのお姿は、まさに神の子、メシア・救い主であることを、ますます確信させていったことでしょう。

だからこそ、弟子たちは喜べた。伏し拝んだ。常に神さまを賛美し続けられた。私たちも、そうではないか。イエスさまの十字架、復活、そして昇天。これらを通して、なおも確信に至っていくのではないか。もちろん、来主日祝う聖霊降臨祭を抜きにしては考えられないことですが、その上で、これらの事柄が私たちにますます信仰の確信を、喜びを与えてくれるものになるのではないか。そう思うのです。

 

「上を向いて歩こう」。それは、私たちにとっては、単に涙をこぼさないためのものではないなずです。上を向く。天を向く。その私たちの視線の先には、イエスさまがおられる。天に昇られ、今も神さまの右に座しておられるイエスさまを私たちは見上げる。だか
らこそ、涙がこぼれないのです。泣きたくなる時、イエスさまを見上げるからこそ、私たちの涙を拭ってくださる方を天に見いだすことができるからこそ、私たちは歩いていける。

悲しみの中にあっても、苦しみの中にあっても、失意の中にあっても、すぐにでもそれらが全て取っ払われてしまわなくとも、天には違ったものが、見えていなかったものが、幸いが見え出してくる。そうではないでしょうか。

その上で、この言葉も忘れてはいけないのだと思う。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あ
なたがたはこれらのことの証人となる」。この復活のイエスさまから託された宣教についても、私たちはしっかりと心に留めなければならないでしょう。

そのことは、次週お話しすることになるかと思いますが、ともかく、イエスさまが天に昇られた、ということは、私たちにとって幸いなことなのです。そのことをしっかりと胸に抱いて、天を(上を)見上げて、これからも歩んで行きたいと思います。

 
《祈り》
・首都圏、一都三県と北海道以外は非常事態宣言が解除されました。経済的な逼迫状況を考えると仕方がないことですが、制限が緩められ、人の行き来が戻ってくると、感染の広がりがやはり心配になります。これまで日本では欧米諸国とは比較にならないほど押さえ込めていますが、それには、手洗いうがいなどの衛生面などの意識の高さや、マスクの着用、また上からの指示に従うという国民性など、いろいろな要因によるとも言われています。

あるいは、単に運が良かっただけ、といった指摘もあります。確かに、気が緩めば、これまで以上の大きな波が来ないとも言えません。どうぞ、これからも一人一人が「うつらない。うつさない」といった意識をもって生活していけるようにお導きくださいますようお願いいたします。

また、医療体制の脆弱なアフリカ諸国やインド、あるいは南アメリカの国々などでも広がっていると懸念されています。もともと衛生面においても、また栄養面においても、十分とは言えない方々も多くいらっしゃいますので、どうぞ憐れんでくださり、必要な援助
も行われますようにお願いいたします。

あるいは、難民キャンプなどの感染リスクも非常に懸念されています。弱い立場の人々に、特にこういった疫病は襲っていきますので、どうぞお助けくださいますようにお願いいたします。また、そういった中で懸命に働いておられる方々もお守りくださり、遠く離
れた私たちですが、私たちにできることもしていけるように、お導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・ワクチンや薬の開発も待たれています。大国同士の覇権争いの道具になるのではなく、国際協力のもと、速やかに開発され、貧しい国々の人々にも届けられますようにお導きください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・コロナ鬱や虐待、DV被害者なども出ないようにもお助けください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

アーメン