【テキスト・音声 】2020年 5月10日(日)10:30  説 教:「イエスさまが示される道 」浅野 直樹 牧師

復活節第五主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書14章1~14節

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今日の福音書の日課の中で、イエスさまはこうおっしゃっておられました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。

最近、いろんなことを考えます。皆さんも恐らくそうではないか、と思います。その一つに、普段の何気ない生活・日常の大切さ、というのがあります。これは、以前にもお話したあの3・11の時にも経験しました「当たり前の日常生活の有り難さ」とは、ちょっと意味合いが違うものです。言い方を変えれば、「平時」の生活・日常の大切さ、ということです。

つまり、その「平時」が「いざ」というときと、どのように結びついているだろうか、ということです。例えるならば、普段から災害などにどのように備えているのか(備蓄とか訓練とか)といったことと同じようにです。今回、私たちは、世界規模の「いざ」(重大な局面)に直面している訳ですが、当然、私たちの人生には、この「いざ」ということがつきものでもあるからです。

私は、反省をしています。私たちは今、テレビのニュース等で「平時」にはあまり見られなかった嫌なものを見聞きすることが増えました。虐待、DV、自粛警察と言われる人々による嫌がらせ、差別的な発言、悪意に満ちた書き込み、コロナ鬱等々…。「平時」にはごく限られた人々の問題だと思っていたものが、不安や苛立ち、『心の騒ぎ』からより広がりを見せているように思います。そういった報道を見聞きするたびに、もっと伝道すべきだった、と反省する。

もちろん、伝道したからといって、これらの問題が綺麗さっぱりなくなるとは思っていません。一所懸命に伝道したって、聞き耳を立ててくれる人は本当にごくごく少数です。それでも、反省がない訳ではない。聞いてくれなくても、「いざ」という時のために、もっともっと伝道に励むべきだったと反省する。ともかく、この「いざ」という時のためにも、「平時」…、普段の何気ない生活・日常が大切なのだと、改めて噛み締めています。

しかし、同時に、この「いざ」という危機的な状況もまた大切な時なのであろう、と思うのです。なぜならば、この「いざ」という時でなければ開かれない扉があるからです。
使徒パウロは『コリントの信徒への手紙2』の中でこのように自身の経験を語っています。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これから
も救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。あのパウロでさえも、絶体絶命の危機的な状況の中でこそ神さまに頼ることを学んだ、と言っているかのようです。

以前、死の克服こそ聖書が語る最大のメッセージだと私自身は考えていると言いました。確かに、そうなのですが、実はちょっと不正確でもあります。もっと正確に言えば、神さまとの和解、神さまとの関係性こそ、あるべき正常な関係性の回復こそが真に受け止めるべき最大のメッセージだと考えているわけです。これを端的に言い表すならば、「私は神さまに愛されている。私も神さまを愛している」ということになるでしょうか。

これさえあれば、この理解さえ、信仰さえしっかりと自分のものになっていれば、他は何もいらない。これだけで人は生きていけるし、安んじて死んでいける。そう思っています。しかし、このことに気づけたのも、私なりの危機的な状況を経験したからです。


またまた自分の経験・体験をお話しするのをお許しいただきたいと思いますが、ご存知のように私自身は長男との死別を経験しているワケです。これは、私自身の命の危険ということではありませんでしたが、精神的な、霊的な、信仰的な、あるいは私自身の人生の危機だったといっても良いと思っています。

祈りました。これまでにないほど、真剣に祈りました。血が滴るほど、とまでは言いませんが、絞りきって涙が出なくなるほど、その痛みで目を開けておれなくなるほど、心の叫びを神さまにぶつけていました。あのダビデが神さまに同情を買うかのように。しかし、長男は死んでしまった。神さまは沈黙を貫かれたのです。恨みました。腹が立ちました。果たして、本当に神さまはいらっしゃるのか、と問いました。あらゆる意味で疲れ果て、しばらくの間は呆然と過ごしました。それでも、神さまは沈黙を貫かれていました。しかし、徐々に不思議なことに気づきだしました。心が燃えていたのです。はっきりとは気づけないほどの小さな灯でしたが、相変わらず疲れ果てて、呆然とした中ではありましたが、希望の火が灯っていることに気づいた。

私は、神さまをもっともっと信じたいと思っている、と。愛したいと願っている、と。それは、自分でもなかなか理解できないような不思議な感覚でした。願いが届かず、どこか失望していたのに、諦め、虚無のような思いさえも抱いていたのに、結局本当に自分が欲していたのは、神さまご自身なのだ、と気づかされたのです。もちろん、息子が生きていてくれた方がいいに決まっている。そのために、真剣に祈ってもきた。

しかし、それらがどこか霞んでしまうくらい、自分が本当に欲し、願っていたのは神さまご自身であった。自分では気づき得なかった、自覚し得なかったけれども、これまでの人生においても、ひたすらに願い追い求めて来たものは、神さまご自身のことだった。この方を本当に、心の底から信じ、愛することだった。もし、それが叶えば、他は何もいらないと思えた。息子のことも、この神さまに全てお任せすることができる。愛する者を助けることも救うことも愛し切ることもできない私なんかよりも、よほど息子のことを思い、愛してくださる方に委ねることができるのだから、これほど心強いことはない。

そう思えた。そうだ。私は不信仰だったのだ。不信仰だから「心を騒がせ」ていたのだ。この不信仰から、この神さまを信じ切れる信仰へと導かれるとすれば、なんと幸いなことだろうか。これらの出来事も、与えられたその一つの道筋ではなかったか。そう思えた。なんとこの信仰とは素晴らしいものか。まさに宝。全てを投げ捨ててでも手に入れたいもの。私自身はまだまだそんな境地には達し得ず、その途上にあることを深く自覚させられてもいますが、それでも、なんだか素敵な、素晴らしい予感がしたのです。私も、この幸を、信仰の幸を手に入れることができる。

私も、神さまに愛されていることを深く悟り、また神さまを愛する者へと変えていってくださるに違いない、と。だから、信仰生活は止められない。この幸いが待っている。その思い、気づきが私を立ち上がらせてくれたのだと思っています。ともかく、不幸が、危機的な状況が開いてくれる世界、見させてくれる、気づかせてくれる世界がきっとあるはずです。

「平時」の備え。「いざ」という時に開かれる世界、気づき。それらに基礎付けられた「平時」の新たな備え、そして「いざ」という時…。このような循環を通して、私たちは、個々人の生活においても、またこの社会においても、整えられていくのかもしれません。



イエスさまは語られます。今日、この状況下の中にある私たちに語られます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。今の、この状況下の中で心が騒がしくなるのも当然のことでしょう。神さまも、イエスさまも、そんなことは十分に分かっておられる。しかし、その上で語られるのです。「心を騒がせるな」と。なぜか。神さまを、イエスさまを信じられないところに、信じきることができないところに、心のざわつきは起こるからです。ですから、「信じろ」と招かれるのです。それでも、こ
のわたしを信じろ、と。

そして、この神さまを、イエスさまを信じる者には見えてくるものがある。それが、天の父なる神さまのおられるところに備えられている私たち一人一人の住まいです。これは、まさに、信仰の目でなければ見えてこない世界です。しかし、それは、私たちが生きるこの現実世界を無視することではないでしょう。私たちには天の住まいがあるから大丈夫と、この世の責任を放棄することではありません。今、この混迷の時代に、私たちがすべきこと、責任は確かにあります。新型コロナにかからないこと。うつさないこと。これは、最低限の私たちが努めていくことでしょう。それ以外にも私たちにできることがある。

いいえ、私たちにしかできないことがあります。祈ることです。イエスさまはこう約束してくださっています。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」。もちろん、それ以外にも、医療従事者の方々や私たちの生活を支えてくださっている方々に感謝することや、喜びと感謝の声をもっともっと多く発信していくこともできるかもしれません。もちろん、そうです。

しかし、どれほど注意をしていても、感染してしまうことだってあるでしょう。場合によっては命の危険さえも起こってくるのかもしれない。それでも、「心を騒がせ」ずにいられるのは、この信仰によって違う世界をも見ることができるからです。違う世界にも希望を見いだすことができるからです。そのためにも、イエスさまは神さまを、そして私をも信じなさい、と促しておられるのです。

そして、ここにはもう一つ非常に大切な言葉が記されていました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。以前にも指摘した通りですが、私はこの言葉の前半部分だけがなんだか切り取られ
てしまっているように思えて危惧しています。イエスさまがご自身のことを道であり真理であり命であるとおっしゃったのは、神さまのところに導くために他ならないからです。

この神さまとの関係、つながりを無視して、道、真理、命を取り出すことは間違いだと思います。ともかく、私たちはイエスさまを通して、はじめて父なる神さまへ至る道、真理、命をいただくことができるワケです。

イエスさまは「神を信じなさい」と言われます。しかし、見たことのない方をどうして信じることができるでしょうか。それに対してイエスさまはこう語られるのです。「わたしを見た者は、父を見たのだ」と。

神さまを信じるためには、イエスさまを信じるしかない。聖書を通して、じっくりイエスさまを観察し、そのイエスさまのお姿を通して、また十字架と復活のメッセージを通して、神さまのお姿を、私たちに向けられている愛の真実を、見いだすしかない。それが、道であり真理であり命であると言われていることでもあると思うのです。

私たちには、このイエスさまがいてくださるのです。「平時」においても、「いざ」という時にも、このイエスさまが神さまのことを示してくださる。だから、私たちは救われるのです。癒されるのです。立ち上がれるのです。希望をもって、全てを委ねていけるよ
うになる。そのことをもう一度心に刻んで、イエスさまを信じていきたいと思います。



《祈り》
・先日、私たちの仲間である敬愛する姉妹がお亡くなりになられたとの知らせがありました。大病を患い闘病されていたことは伺っていましたが、突然の知らせに衝撃を受けています。ご家族にとっても突然の出来事だったようで、また新型コロナの影響でご家族だけでのご葬儀となったと伺っています。本当にお辛いこととお察し致します。私たちにとっても大変悲しいことです。いつも笑顔で教会に来られていた姉妹と、この地上ではお会いすることができなくなりました。どうぞ、御約束の通りに、姉妹をあなたの懐に迎え入れてくださり、永遠の平安に与らせてくださいますようにお願いいたします。また、辛い思いをされておられるご家族をも憐れんでくださり、豊かな慰めを、またあなたにある希望をお与えくださいますようにお願いいたします。

・新型コロナの新規感染者が減ってきているようです。感謝いたします。しかし、まだまだ油断ができない状況ですので、自粛疲れが出ているとも言われていますが、一人一人がしっかりと自覚をして行動をすることができますようにお導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・緊急事態宣言の延長のために、まだ学校に行くことのできない学生、子どもたちが多くいます。どうぞ、それらの子どもたちの学ぶ機会が奪われませんように。将来に不安を抱えることがありませんように、どうぞお助けください。

・本当にこのコロナの問題で、人の悪感情が噴出しています。それにより、対立が起こったり、また傷つけ合うことが起こってしまっていますが、どうぞ憐れんでくださり、思いやりの心を取り戻すことができますようにお導きください。また、虐待やDV被害者など
もお救いくださいますようにお願いいたします。イエスさまのお名前によってお祈りいたします。

アーメン
*Carnation, Jacob Marrel (possibly), 1624 – 1681