【テキスト・音声 】4月26日(日)10:30  説 教:「共に歩む幸い 」浅野 直樹 牧師

復活節第三主日礼拝説教
ルカによる福音書 24:13-35

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今、私たちは、「独り」になることが求められています。自分を守るために、愛する大切な人たちを守るために、です。これは、恐らく、これまで私たちが経験して来なかったことでしょう。人は「独り」では生きられないことを聞かされてきました。人は常に他者と生きるために存在しています。聖書の創造物語の中に、「人が独りでいるのは良くない」(創世記2章18節)とある通りです。これまでも人類は、様々な危機的な状況に遭
遇してきました。大きな戦争も、途方も無い自然災害も経験してきました。その度に、私たちは寄り添ってきました。たとえわずかな人数でも集まってきました。むしろ、「独り」になっている人を探し当て、その輪の中に迎え入れてきました。「独り」にさせない
ことに取り組んできました。

現代社会では、「独り」とは負け組の象徴のようにも考えられてきたように思います。小学校に入学するときには「100人の友達」ができることが理想とされました。友達が多い方がより優れた人格者だと見なされてきました。逆に、友達がいないと、どこか欠陥があるように考えられてきました。だから、『無理をして』その集団に居続ける若者が増えたと思います。別に趣味・嗜好も合わないのに、話も合わないのに、居心地も決して良くないのに、けれども「ぼっち」にはなりたくない、思われたくないと、本当はその集団にいるのが辛いのに、離れられないでいた若者たちが多くいました。また、「孤食」がバレないようにとトイレの個室の中で食事を取っていたということも話題になりました。

今は、「おひとり様」が随分と認知されているように変わってきたと思いますが、それでも、やはり「独り」を決して良しとはしていないように思います。無理をするのも嫌だけれども、「独り」が決して良いとも思っていない。無理のない適当な付き合いを求めている。ずっと「独り」でいるのは嫌だと思っている。

しかし、今は「独り」が求められています。自他ともに守るためです。いいえ、「独り」にならざるを得ない、と言った方が良いでしょうか。新型コロナによる日本の死者数も300名を超えました。その中には、人気者の有名人も含まれています。彼らは、ファンに囲まれながら命を引き取ったのではありませんでした。家族でさえも、ごくごく親しい人でさえも、見送ることができませんでした。みな「独り」で旅立っていきました。もちろん、医療従事者の方々が懸命に治療に当たってくれました。

旅立つときにも、一緒にいてくれました。そういう意味では、決して「独り」であったとは言えないでしょう。しかし、家族にも、愛する者たちにも会えず、言葉も交わせず、肌に触れ合うこともできなかった旅立ちは、やはり「独り」だったように思えるのです。それが…、「独り」で送り出さなければならない現実がこの感染症の恐ろしさなのだと、そんな死別を経験された方々が口々におっしゃっておられます。「独り」であってはならないのに、「独り」で逝かざるをえない。本当に悲しいことです。辛いことです。

しかし、考えてみれば、「死」とは本来そうだったのかもしれない。確かに、「独り」でないことは心強いに違いない。愛する者たちに看取られながら、言葉を交わし、触れ合いながらの旅立ちは、大いなる助け、救いになるのだと思います。しかし、その先は「独り」でしかない。未知なる世界へと「独り」で向かうしかないのも事実でしょう。この感染症は、そんな「独り」の現実に、問題に、改めて気づかせてくれたのかもしれません。私たちは、必ず「独り」の時を迎える。そんな問題提起に、です。

Robert Zund「The Road to Emmaus(エマオへの道)」1877年作、museum in St. Gallen(スイス)


今日の福音書、『エマオ途上』とも言われる物語には二人の人物が登場してまいります。一人はクレオパといい、もう一人は名前も分かっていません。大方の人々は、この二人は男性だと考えているようです。そういった絵画は幾つもあります。しかし、ある方は、この一人(名前の知られていない方)は女性だったのではないか。あるいは、この二人は夫婦だったのではないか、と言います。いずれにしても、この二人はイエスさまの弟
子でした。そして、特別な間柄でもあったのでしょう。二人で同じ目的地を目指していたのですから。ともかく、ここには二人の人がいました。しかも、この二人は夫婦だったかもしれません。「独り」ではなかったのです。しかし、果たして、二人いたからといって、夫婦だからといって、「独り」ではなかったと言い切れるでしょうか。人はたとえ複数の人々に囲まれていたとしても、「独り」の思いを持つこともあるからです。

息子の葬儀には、本当に多くの方々が来てくださいました。50~60人も入れば一杯になってしまうような小さな礼拝堂に、200人以上の人々が集まってくれました。教会の方々、同僚牧師たち、学校の先生方、クラスメイト、ママ友、医療関係者、近所の人たち…。つくづく息子はみんなに愛された幸せな子だったと思いました。本当に感謝でした。そして、代わる代わる遺族の私たちにも慰めの言葉をかけてくださいました。それは本当にありがたいことでした。しかし、大変申し訳ない言い方になってしまいますが、その時の私は「独り」でした。

葬儀の対応に追われ、2月の寒い時期にも関わらず駆けつけ、慰めてくださる皆さんに本当に感謝していましたが、そのような感謝する意識、ありがたいと思う意識の裏腹に、悲しみで心が閉ざされていたからです。「今のこの私の辛さは誰も分かってはくれないのだ」と。善意であることは痛いほど分かってはいても、どうしようもなく心が閉ざされてしまい、本来慰めの場でありながらも、私は「独り」だったのです。

普段ならば、互いに良い相手だったのでしょう。仲睦まじい夫婦だったのかもしれない。しかし、この時には違っていたかもしれません。イエスさまが死んでしまわれたからです。信じ、信頼し、愛し、希望を託していたイエスさまが、この世からいなくなってしまった。突然に。この途方も無い大きな衝撃の前に、彼らは「独り」になっていたのかもしれません。道中、互いにこのことについて話をしていたようです。

しかし、恐らく、解決にも慰めにもならなかったでしょう。問いばかりが浮かんでくる。どうして…、と。この時、二人でいることが、この二人にとっては力にならなかったのではないか。「独り」という思いを打ち破るものになれなかったのではないか、そう思うのです。そこに、銘々がそんな「独り」を抱え込んでいた二人のところに、復活のイエスさまは来られた。しかし、当初は、それが復活のイエスさまだとは気づかなかったようです。見知らぬ一人の男性が近づいて来たようにしか思えなかった。

では、ここで彼らは3人になったのか、と言えば、違うでしょう。人は何人集まろうとも、その人との関係が生まれなければ、結局は「独り」だからです。毎日、同じ満員電車に揺られていても、そこに見知った顔を認めても、それだけでは出会いにならないからです。人は関係して、はじめて「出会い」になる。

イエスさまはこの二人に声をかけられました。まるで、二人の「独り」を打ち破るかのように、ご自身の方から「出会い」を起こさんがために声をかけられた。「イエスは『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた」。急所の問いです。彼らを「独り」にしている急所を、問題とされました。彼らは堰を切ったように話し始めます。まるで、自分たち以外の誰かに聞いてもらいたいかのように。自分たちがこんなにも悲しく困惑していることを分かってもらいたいかのように。

しかし、二人の話を聞かれたイエスさまはこう応えられました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。言ってしまえば、叱責です。慰められるどころか、見知らぬ人に怒られてしまう。でも、ここに何かが生まれたのです。後に、彼らは思い返して、こう語ります。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。この二人の「心は燃えて」いたのです。悲しみと辛さの中で、二人でいながらもあたかも「独り」でいるかのように心閉ざして、慰めも、励ましも見いだせなかった、受け付けようともしなかったこの二人の心が燃えていた。

「エマオのキリスト」レンブラント1648年ルーヴル美.


しかし、ある方が指摘されているように、この炎は決してかっかと燃え上がるような、勢い激しい炎ではありませんでした。むしろ、この時まで気づかないような、振り返って見なければ分からない、気づけないような小さな炎でしかありませんでした。劇的な燃え上がりではなかった。しかし、たとえ無自覚であったとしても、確かにこの炎はこの二人の中に燃えていた。だからこそ、この二人はイエスさまを引き止めたのでしょう。自分たちでも気づけないような、自覚が持てないような小さな変化、動きであったかもしれませんが、このイエスさまとの出会いによって、この二人は確かに変わっていったのです。心が燃やされていったのです。

これは、まさしく私たちの姿でもあると思う。そして、復活のイエスさまが私たちのところに来てくださるとは、こういうことでもあるのではないか、と思うのです。私たちもまた、復活のイエスさまが来てくださっていることに気づかないのです。気づかずに、共に歩んでいる。しかし、そこにはすでにしっかりとした出会いが起こっているのです。イエスさまの方から歩み寄り、私たちと関わってくださっているからです。そして、私たちは自分たちの不信仰にも気づかされる。なぜ私たちは「独り」になってしまうのか。なぜ心閉ざし閉じこもってしまうのか。なぜ「独り」でいることに、「独り」で歩むことに恐れてしまうのか。それは、聖書を悟っていないからだ、という。

聖書に記されている、約束されているとてつもない恵みを、約束を、真実を、愛を、私たち自身のものにしていないからだ、とおっしゃる。そして、悟るようにと、受け取るようにと、信じ救われるようにと、縷々熱心に教え導いてくださる。それが、復活のイエスさまの姿なのではないか。復活のイエスさまが私たちと共に歩んでくださるという姿なのではないか。そう思うのです。

私たちの人生に「独り」はつきものなのです。いやがおうにも「独り」にならざるを得ない時も起こってくる。多くの人々に囲まれていても「独り」の思いになってしまうことだってある。しかし、復活のイエスさまは、そんな時にも私たちと共に歩んでくださるはずです。気づこうと気づかなかろうと共に歩み、聖書を、恵みを、救いを、希望を、悟らせようとしてくださる。たとえ激しいとは言えなくとも、消えることのない炎を私たちの心に灯してくださる。それは、究極的な「独り」の時にも、決して変わらないことなのです。私たちは、今、それを深く心に覚えなければならない。

しかし、聖書はこうも記します。復活のイエスさまと共に歩んだこの二人は急いで弟子たちのところに行きました。そして、今度は多くの弟子たちと共に集う中で復活のイエスさまと出会うことになりました。「独り」も「仲間たち」も、もちろん、どちらともが大切なのです。特に、今のような状況の中では、仲間たちのありがたさもひとしおですし、一日も早い仲間たちとの再会も待ち望んでいます。それは当然のことです。しかし、このような時だからこそ「独り」ということもいやがおうにも無視できなくなっていることを、改めて重く受け止めていきたいと思う。そこにも、イエスさまだけは常に変わらず共にいてくださるからです。

 

『祈り』

日本においても、新型コロナの患者さんが増えています。お亡くなりになられた方々も多くおられます。どうぞ憐れんでください。治療されておられる方には癒しを、お亡くなりになられたご家族の方々には慰めをお与えください。医療現場も大変な状況になっています。どうぞ憐れんでください。医療に当たっておられるお一人お一人の上に、あなたの守りと助けが豊かにありますように。

医療に必要な物品も不足しています。どうぞ、速やかに供給がなされますように。いくつかの企業がすでに取り組んでいるようですが、このような時ですから、利益を二の次にして多くの企業が協力していくことができますようにお導きください。

このような状況下の中で、市民の社会生活を支えるために懸命に働いておられる方々も多くおられます。スーパーの店員さん、物流の方々、銀行職員、郵便局の方々、公務員の方々等、ご自身たちも感染のリスクに不安を抱えながらの働きだと思いますので、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。

経済的に厳しい状況に陥っておられる方々のために、速やかに援助の手が伸ばされるようにお願いいたします。
ご自宅で余儀なく療養されていた方々が次々とお亡くなりになられました。どうぞ、速やかなる改善がなされますように。外出自粛のために潜在化していた問題が、次々と顕在化しているとも言われています。特に、虐待、DVの問題は深刻です。

どうぞ、必要な逃れ場が与えられますように。人々の心が荒んでしまうこの状況が、少しでも改善されていきますように、どうぞお助けください。

他教会員(保谷教会の木村兄)ではありますが、敬愛する兄弟があなたの元に召されたと伺いました。突然のことで、正直、衝撃を受けています。どうぞ、み約束の通りに、兄をあなたの永遠の祝福で包み、御許で憩わせてください。

兄を送ったご家族の方々、また教会の兄弟姉妹方に、どうぞ豊かな慰めをお与えくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン