【テキスト・音声 】4月19日(日)10:30  説 教:「信じる者の喜び 」浅野 直樹 牧師

復活節 第二主日礼拝

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聖書箇所:ヨハネによる福音書20章19~31節

今、私たちは、この未曾有の危機的な状況の中で、信仰が試されているのだと思います。あの3・11の時もそうでした。いろんなことを考えました。問いました。もちろん、今だにはっきりとした回答、解決には至っていないものも多くありますが、気づいたことも確かにありました。「当たり前」の大切さです。ごくごく普通の、当たり前の日常が(普段ならば不満の多い日常かもしれませんが…)、いかに守られていたものであったか。神さまの守りと祝福の元にあったことだったのか。まさに、これこそが「奇跡」といっていい日常であったことを、失ってはじめて気づかされました。少なくとも、私自身はそうでした。

今もまた、私たちは考え、問うています。ある国の指導者が言っていますように、今は戦時下にも似た状況です。世界で一日に何万人と病院に担ぎ込まれ、何千人と命を落としている。各地で『野戦病院』が建てられているのも、その証拠でしょう。明日は我が身でもある。「どうしてこんなことに」、「なぜあの人が」、「こんなにも懸命に働いてくれた医療従事者がなぜ」…。善人か悪人かで色分けできるならば簡単でしょうが、そうではないことに私たちはいろんな問いを持たざるを得ないのだと思います。特に、信仰者であるならば、そこに「神さまは一体何をしておられるのか」といった『神の沈黙』に対する問いも浮かんでくる。

もちろん、私自身は先の大戦を経験していませんが、それでも当時ナチスに抵抗した信仰者たちの物語を読んで参りました。過酷です。今以上に過酷です。そして、信仰の問いが生まれていった。神さまを見失うほどの信仰の問いが…。それが、人の歴史なのでしょう。そして、私たち個々人の人生においても、そうだと思う。

もう何度もお話ししていることですが、私は長男を亡くしました。それまでにも、人生の様々な局面で信仰が試されたことはありましたが、この時ほど試されたことはなかったと思います。次第に状態が悪くなり、耳も聞こえなくなり、一日のほとんどを寝て過ごすようになりました。手足もやせ細り、死を、息子の死を自覚せざるを得なくなりました。

恐ろしかった。目の前に迫ってくる死が恐ろしかった。死の現実が恐ろしかった。息子を奪われてしまうことが、いなくなってしまうことが、死んでしまうことが恐ろしかった。私は牧師でした。もちろん、神さまを信じています。牧師として、神さまの愛についても、救いについても、永遠の命についても、死後の祝福についても、死は決して終わりではないということも、再会の希望が確かにあるということも、信じ、語ってきた。しかし、正直、全然足りませんでした。太刀打ちできませんでした。打ちひしがれ、心引き裂かれ、問うことしかできなかった。なぜですか。なぜ救ってはくださらないのですか。なぜ私から奪おうとされるのですか、と。

 

今日、復活祭後、復活節第二主日に与えられた福音書の日課は、復活されたイエスさまと弟子たちとの出会い(再会と言ってもいいのかもしれません)の場面でした。この時もまた、弟子たちにとっては信仰が試された時だと思います。19節でこのように書かれています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。

ここで、復活のイエスさまと出会った弟子たちの様子が、非常にリアルに記されています。彼らは「家の戸に鍵をかけ」閉じこもっていました。なぜか。ユダヤ人を恐れていたからだ、と聖書は記します。これは、良く分かることです。なぜならば、イエスさまは犯罪者として殺されたからです。

つまり、イエスさまの弟子である自分たちにも、その手が及んでくるのではないか。イエスさまにしたように、不正な裁判をでっちあげ、不当な罪を背負わされて殺されてしまうのではないか。そう思い、ビクビクしている。これは、私たちにもすぐに想像がつくことです。しかし、それだけではないと思うのです。よく言われますように、このヨハネ福音書は複数の意味をその中に込めていると思われるからです。

象徴…。つまり、心を閉ざしている、ということです。心を閉ざしている。なぜか。イエスさまが死んでしまわれたからです。今まで抱いていた思い、希望、信仰、全てがイエスさまが死んでしまったことによって吹っ飛んでしまったからです。全てを無くしてしまった…。その現実を受け入れることができないでいる。処理することができないでいる。だから、心を閉ざす。何も考えないように、自分の殻の中に閉じこもってしまう。私たちにも良く分かることです。

ですから、ここで一つ屋根の下に弟子たちはいたようですが、本当は一人でいたかった。心閉ざす、殻の中に閉じこもるとは、そういうことでしょう。しかし、前述のように、ユダヤ人を恐れていた。一人でいるのも怖かった。だから、少しでも安心できるように、肩を寄せ合っていた。しかし、実際は、誰とも口をきかずに、ただ無言のまま銘銘が心を閉ざしながら集まっていただけではないか。そんなふうにも想像できる。そのただ中に、復活のイエスさまは入ってこられました。しかも、そんな弟子たちを叱責するどころか、聞き慣れたその声でシャローム、「あなたがたに平和があるように」とお語りになった。

全てを失い心閉ざしていた、閉じざるを得なかった弟子たちは、どんな思いでこの言葉を聞いたのでしょうか。嬉しかった。嬉しかったに違いない。「弟子たちは、主を見て喜んだ」と記されている通りです。復活の主に出会った弟子たちは、まさに復活しました。いいえ、もとの自分に戻った、甦ったというよりも、新しい自分に、新しい命が与えられた自分に変えられていったことを感じていったことでしょう。しかし、ここにトマスはいなかった。

レンブラント『トマスの不信』(1634年、プーシキン美術館所蔵)



ご存知のように、この12弟子の一人であるトマスは、後に『疑い深いトマス』との不名誉な呼び名で呼ばれる人物です。もちろん、それは今日の箇所から来ている訳です。しかし、私はいつも思う。このトマスこそ、私たちの姿ではないか、と。なぜトマスはあの時、弟子たちと一緒にいなかったのか。これは、誰もが抱く疑問でしょうが、よく分からない。聖書にはその理由が記されていないからです。

しかし、ある方は、方々をぶらぶらしていたのではないか、と想像しています。私も、そう思います。なぜか。トマスは他の弟子以上にショックを受けていたと思うからです。それこそ、心閉ざしていた。殻の中に閉じこもっていた。他の弟子たちは、それでもユダヤ人たちを恐れて相集っていたわけですが、トマスはそんなことも忘れたかのように、一人になりたかった。

そうではなかったか。イエスさまが死んでしまわれたからです。イエスさまが死んで、今まで抱いていた思いも、希望も、信仰も、そして己自身さえも全て吹っ飛んでしまったからです。神さま、どうしてですか。イエスさまこそ救い主ではなかったのですか。なぜイエスさまを助けてはくださらなかったのですか。イエスさま、なぜお逃げにならなかったのですか。無罪を主張されなかったのですか。なぜ十字架から降りて来られなかったのですか。なぜですか。閉ざされた心の中で、閉じこもっている殻の中で、尽きることのない問いを浮かべていたのかもしれません。

それだけでもなかったでしょう。どうしてイエスさまを救えなかったのか。なぜお引き止めをすることができなかったのか。どうして、一緒に死ねなかったのか。このトマスはラザロの復活物語の中でこう語った人物でもあります。「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」。

イエスさまがラザロを復活させるために敵対勢力渦巻くユダヤに行こうと言われたときに、語った言葉です。イエスさまに対するトマスの愛は本物でした。だからこそ、むしろ、自分が赦せなかったのだと思う。むざむざイエスさまを一人で、孤独に死なせてしまった自分が赦せなかったのだ思う。だから、彼は弟子たちに会おうともせず、心閉ざし、殻に閉じこもり、彷徨い歩いていたのではないか。そう思う。

そんなトマスを見つけ出した弟子たちは、こう語ったのでした。「わたしたちは主を見た」。面白いはずがありません。考えてもみてください。たまたま礼拝を休んだその時に、復活のイエスさまが現れた。私を差し置いて現れた。こんなに不愉快なことはないでしょう。なぜですか。なぜ私がいない時だったのですか。私がその間、どんな思いでいたか、あなたならご存知のはずではありませんか。だから、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と語ったのではなかったか。

私には、この言葉が、単に復活が信じられないということ以上の思いが込められているように思えてならないのです。私たちが信仰の試みに会う時、単に信じられない、といった思い以上の思いをもって叫ばざるを得ないように。

復活のイエスさまは来られました。このトマスに会うために、来られました。そして、トマスにもシャローム、「あなたがたに平和があるように」と語られました。そして、疑い深いトマスにこう語られました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。よく、トマスは果たしてイエスさまの傷痕に指や手を差し入れたのか、といった問いがなされますが、どうでもいいことです。そんなことは、どうでもいい。これだけで十分です。これだけで。これだけでトマスは救われたはずです。

そして、私も救われる。「わたしの主、わたしの神よ」。いつでも、そうです。イエスさまが来てくださる。八方塞がりで、まともに祈ることもできず、心閉ざし、殻に閉じこもってしまいそうになるとき、全てを失い、今までの信仰などどこに行ってしまったのかも分からなくなってしまうような時、イエスさまの方から入ってきてくださる。シャローム、「あなたがたに平和があるように」と語ってくださる。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と促してくださる。

全てが解決できた訳ではありません。全てに納得できた訳でもありません。でも、十分です。それで、それだけで十分。魂が救われ「わたしの主、わたしの神よ」と告白できる。ただ、それは、その時は、「思いがけない時」であることは忘れてはならないでしょう。弟子たちにとっても、トマスにとっても、それは思いがけない時だったからです。

最後に本書の目的としてこう記されています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。これは、私たちの人生、存在そのものの、また世界の目的でもあると思います。



『祈り』

新型コロナウイルスの国内感染者が、とうとう1万人を超えてしまいました。感染者の約2割が重症化すると言われていますので、本当に医療機関は大変厳しい状況の中に置かれていることでしょう。すでに、マスクや防護服などは底をつき、なかなか補充がされていないとも聞きます。看護師たちが手作りで対応している映像などもニュース等で流れてきます。また、全国のあちらこちらの病院では院内感染が起こっており、地域医療のダメージがより一層起きています。

また、感染が疑われる方々のたらい回しなども頻発し、中には重症化している方もいると聞きます。また、感染症対策に忙しく、従来の重篤な病気への対応も遅れてしまうのではないかと危惧されています。今、日本の医療機関が危機的な状況に陥っています。私たち国民一人一人の認識の甘さを認めます。また、政府、行政等の認識の甘さ、取り組みの遅さも覚えます。

そういった認識の甘さのしわ寄せが、何よりも医療従事者の方々にいってしまっていることに申し訳ない思いで一杯です。数ヶ月も前から、感染症の専門家たちが警鐘を鳴らしていたにも関わらず、甘く捉えてしまっていたことを懺悔します。

どうぞ、憐れんでください。医療に携わる方々が疲弊してしまわないように。マスク等の不足によって感染してしまわないように。命を落としてしまうような最悪の結果にならないように、どうぞお守りください。私たち市民一人ひとりの意識も、なお一層高めていくことができますように。どうぞ、この困難な状況を憐れみ、お助けください。

この新型コロナウイルスの流行のために、子どもたちもなかなか通常の生活に戻ることができていません。新入生にも関わらず、まだ学校の授業に出たことのない子どもたちもいるでしょう。勉強の進捗状況もまちまちかもしれません。また、給食がなく、家庭によっては栄養のバランスが取れていない子どもたちもいるかもしれません。ますます、格差が広がってしまうかもしれません。また、様々なストレスも感じているのかもしれません。

欧米では、外出自粛のために、虐待やDVの件数が飛躍的に多くなっていることが指摘されていますが、日本においても、目立たない中でそれらが起こっているのかもしれません。どうぞ、憐れんでください。子どもたちを。幼い者たちを。その母親たちを。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン