【テキスト・音声 】4月12日(日)10:30 復活祭  説 教:「そこでわたしに会うことになる 」浅野 直樹 牧師

聖書箇所:マタイによる福音書28章1~10節

※《ライブ版》は、こちらからご覧ください。



復活祭、おめでとうございます。このような大変厳しい情勢下の中で、別々の場所ではありますが、共々に復活祭の恵みを覚え、祝えることは幸いなことだと思っています。
私たちの救い主イエス・キリストは復活されました。私たちの罪を背負い、十字架によって贖いの死を遂げられたイエスさまは、三日目に復活されたのです。そのことに、心より感謝し、また祝いたいと思います。

先程来から、私たちは主の復活を祝う、と言ってきました。それは、とりもなおさず私たちの救い主は復活の主に他ならない、ということです。これは、あまりにも当たり前のことのように思われますが、しかし、よくよく考えてみる必要があるようにも思います。なぜならば、救い主のイメージは、私たちが何からの救いを求めているかによって随分と変わってきてしまうからです。例えば、経済的に困窮している人たちが求める救い主は、おそらくその困窮から救ってくれる人たち、あるいは組織でしょう。

つまり、経済力(財力)が救い主の条件になる。政治的な困窮に対しては政治力、不当な扱いに対しては自分の正当な権利を保障してくれる法的な力、孤独感などに苛まれている人にとっては良き隣人なのかもしれません。あるいは、病に対しては医療従事者…、スーパードクターでしょう。しかし、私たちは、教会は、そういった救い主を喜び祝っているのではないのです。
そうではなくて、—– もっともそれらも十分に必要に違いないのですが —– 私たちは、私たちの救い主の復活を喜ぶ。復活の主こそ私たちの救い主なのだ、と喜び祝うわけです。

では、「復活」とは一体何なのか。第一は死に対しての勝利ということでしょう。つまり、私たち教会は、死に対しての勝利を救い主の最大条件としているわけです。私たちを死という根本問題から救ってくれる存在こそが、私たちの救い主である。イエスさまが生きられた2000年前と今日とでは、当然違います。雲泥の差、天地ほどの開き、と言ってもいいのかもしれません。

2000年前の人々からすれば、大空を飛び回り、時速何百キロで地上を走り、スマホを操りながら世界中の情報を瞬時に手に入れることができる現代人の私たちは、異次元の人々、人類を超越した存在、ひょっとして神々として拝まれるような存在と見えるのかもしれません。信じられないような変化です。まさに、奇跡です。

では、あれから2000年を隔てた私たちは、死を超越しているのか、といえば、もちろん、そうではありません。確かに、死は縁遠くなりました。嬰児死亡率も格段に下がりました。子どもが大人になるのは当たり前のことです。平均寿命も何十年と伸びました。おかげで、身近に死を感じなくなった。しかし、ただ、それだけのことです。ある時、突然に、死という現実が私たちの前に現れます。今、まさに、世界はそのような2000年前以上の状態に陥っているのかもしれません。

人は本当に復活することができるのか。死は終わりではなく、その先にもあるいのちが本当にあるのか。私には、分かりません。しかし、イエスさまは復活されたのです。十字架で死なれたのに、復活なさったのです。その一つの、たった一つの事実で人は変われるのだと思うのです。

言うまでもなく、現在は世界中が未曾有の危機に瀕しています。世界規模の感染症の広がりで、一日で何千人もの人々が命を落としています。累計で10万人近い人々が亡くなっている。埋葬が追いつかないほどです。もちろん、その背後にはご遺族の方々もい
らっしゃるわけです。大変厳しい、辛いことです。そして、危惧していたことが現実ともなっていました。こういったときに、いつも真っ先にしわ寄せがいくのが社会的弱者と言われる人々です。アメリカでは比較的に経済力の乏しいヒスパニック系の人々や黒人の人々の死亡率が高いことが指摘され、問題となっています。

アメリカ社会の中に巣食っていた格差という構造的な問題が、このコロナ騒動の中で改めて浮き彫りになった。本当にやるせない思いが致します。どうして、いつも弱い人々が、貧しい人々がとばっちりを受けるのか。貧しい人々を顧みてくださる神さまの愛はどこにあるのか。そんな憤りにも似た思いが浮かんできてしまう。信仰が揺らされる。そんな悶々とした中で、ふと聖書のある物語を思い出しました。ルカによる福音書に記されている「金持ちとラザロ」の物語です。

これは、イエスさまが語られた譬え話ですが、大変貧しいラザロと金持ちが登場してまいります。先にラザロが死に、そして、金持ちも死んだ。後に死んだ金持ちは、どうやら陰府の世界にいるらしい。そこは、地獄のような苦しみの場所として描かれています。その中で苦しみ喘いでいる金持ちは、目を上げてみた。すると、よく知ったあの貧しいラザロがアブラハムの懐に抱かれているのが見えたと言います。これは、パラダイス(楽園)と言って良いでしょう。なぜ、死後において、この両者はそんなにも違いが生まれてしまったのか。聖書はこう語ります。「子よ、思い出してみるが良い。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(ルカ16章25節)。

もちろん、ここから単純に、生前貧しかった者が天国に行って、金持ちは地獄に行くことになる、といった結論を導き出すのは危険ですが、しかし、生前の貧しさを、弱さを憐んでくださる神さまの優しさは十分に伝わってくるのだと思うのです。つまり、貧しさゆえに、速かに適切な治療を受けることが出来ず、残念ながら命を落とすことになってしまった人々も、今、神さまの懐に抱かれている。そう思える。そう思えた。もっと言えば、今回の感染症で命を落とされた全ての人々についても、そう考えられるのではないか。感染した人々が、必ずしも命を落とすわけではないからです。

もっとも、高齢と基礎疾患が重症化し易いと言われる。確かに、それは、身から出た錆的な要素もあるでしょう。糖尿病と狭心症という基礎疾患を持つ私は他人事ではない。では、そういった人たちは一律に、必ず命を落とすことになるのか、と言えば、そうではありません。同じ年齢の人でも、命を落とす人と、そうでない人がいる。同じ基礎疾患を持っていても、命を落とす人と、そうでない人がいる。若年層で、基礎疾患もないのに、命を落とす人たちもいる。

なぜか。どうしてそんな違いが生じてしまうのか。善人と悪人の違いなのか。そうでないことは、誰もが分かることです。むしろ、そうであったならば、私たちは変に悩まないで済んだのかもしれない。そうではない。同じ疫病に罹って、年齢も同じで、基礎疾患も同じで、ほぼ全ての条件が同じなのに、命を落とす人と、そうでない人が生まれてしまう。こんな理不尽なことはありません。しかし、そういった理不尽としか思えない状況の中で命を落とさざるを得なかった人々もまた、今、神さまの懐に抱かれている。パラダイスにいる。あのラザロのように。そう思える。思い描くことができる。

それは、単なる詭弁だ、と思われるかもしれません。誤魔化し、まやかしに過ぎない、と思われるかもしれない。不誠実極まりない、偽善だ、と思われるかもしれない。私自身、そう思わないわけではありません。単なる誤魔化しでしかないのではないか、偽善でしかないのではないか、と。あるいは、自分の無力さに、罪深さに、忸怩たる思いもしている。それでも、あえて言いたいと思う。見る目を持てば、眼前に広がる風景が変わるのです。地獄しか見えなかった現実の風景から、天国さえも見えるようになる。なぜか。イエスさまが復活されたからです。復活して、死に勝利されたからです。それを、私たちは目撃し、信じることができるからです。だから、絶望の風景から、希望の風景へと変えられていくのです。

《イーゼンハイムの祭壇画》第2面 1512年 :グリューネバルト



復活は死に対しての勝利だと言いました。しかし、それだけではないことは、もう皆さんもご存知の通りだと思います。私たちの死の問題が罪から来ているとすれば、死に対しての勝利は、罪に対しての勝利にもなるからです。罪とは、本来あるべき姿からずれてしまうこと。ですから、罪に対しての勝利とは、神さまとの関係、人との関係、自分との関係、この世・被造物との関係が調和に満ちた状態に戻らされることです。ですから、パウロが語ったように、こう言えるわけです。

「わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章38~39節)。

イエスさまは復活されました。私たちに死に対する勝利をもたらすために、罪に対する勝利をもたらすために、イエスさまは復活されました。しかし、果たして、信じることができるのでしょうか。いいえ、あの弟子たちでさえ信じられなかったのに、私たちが信じられないのも無理からぬことです。しかし、果たして、誰も彼もがいとも簡単に信じられるようなことを、わざわざ信じる必要が、信仰する必要があるでしょうか。そうではないでしょう。信じるしかない世界があるからこそ、信じるのです。そして、信仰によらなければ見えてこない、開かれてこない世界があるはずです。

今日の福音書の日課で、不思議な言葉が記されていました。しかも、二度です。一度は御使い(天使)が、そして、復活のイエスさまが念を押すかのように、こうおっしゃいました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。不思議です。女性たちには、すぐにご自身を現されたのに、なぜ弟子たちにはわざわざガリラヤへ行くように命じられたのか。ご存知のように、ガリラヤは弟子たちにとっては、全ての始まりの場所です。イエスさまと運命的な出会いをし、弟子となり、寝食を共にし、教えを受け、奇跡に立ち会い、一緒に宣教していった。弟子たちにとっては、忘れがたい地。しかし、それでも、弟子たちはイエスさまの全てを、真の姿を理解することはできなかったのです。十字架も、復活も。

つまり救いの出来事が弟子たちにとっては自分とは無関係な出来事に過ぎなかった。いいえ、むしろ、恐れ、惑い、信じがたい、受け入れがたい出来事でしかなかったのです。しかし、今度は違う。始まりの地であるガリラヤで復活のイエスさまとお会いすることができる。そこから、もう一度はじめることができる。もし、ここから福音書の物語が再スタートしたならば、弟子たちにとっての福音書の出来事は、きっと違って見えてきたことでしょう。

そして、幸いにして、私たちには、そのような再スタートが許されているのです。不理解から、不信仰から、失敗に失敗を重ねても、復活のイエスさまとガリラヤで出会うことによって、もう一度はじめていくことができる。違った目で、視線・眼差しで、福音書の出来事の中を歩んでいくことができる。そして、ますますイエスさまの愛に、その真実に向き合わされていくようになる。そうではないでしょうか。
イエスさまは復活されました。死と罪とに勝利するために復活されました。そして、何度でもやり直せるように、見えなくなっていた世界が再び見えるようになるために、絶望にではなく希望に生きるようになるために、復活の主は私たちを招いていてくださいます。ガリラヤへ、原点へ帰りなさい。「そこで、わたしに会うことになる」。

 

『祈り』

神さま。今日はイエスさまの復活を祝う復活祭ですが、新型コロナウイルスの影響で共々に礼拝堂に集うことができなくなり、私たちの信仰にとって一番大切な日をこのように迎えなければならなかったことは大変残念ですが、それでも、それぞれの場所で、同じみ言葉を味わい、共に主の復活を祝うことができましたことを心より感謝しています。イエスさまは私たちのために十字架に死に、私たちを生かすために復活してくださいました。ここに、私たちに対する、人類に対する、世界に対するあなたの、イエスさまが愛が溢れています。

ともすると、私たちの内外に迫り来るさまざまな現実を前に、その信仰が揺らいでしまうことがありますが、どうぞ十字架と復活の主を見上げて、この愛を見失うことなく歩み続ける私たちとしていってくださいますようにお願いいたします。また、このような時代だからこそ、この恵みの証人として、冷静な判断と行動を共にし、少しでも愛の業を行っていくことができますように、弱い私たちを助け導いてくださいますようお願いいたします。

今、社会ももちろんそうですが、教会も大変厳しい状況の中にあります。しかし、その中で主体的に教会のために、教会員のために出来る取り組みをしようといった動きが起こっていることに感謝しています。そういった一人一人の主体的な取り組みが、大きな活きた力になっていくのでしょう。まさに、今年の主題である「パートナーシップを考えよう」の実践のように思えます。厳しい状況をも益としてくださるあなたの御名を賛美いたします。

とうとう日本でも非常事態宣言が出される状況となりました。感染拡大はもちろんのこと、経済的弱者が生まれていることに心痛めます。政府もさまざまな取り組みを検討しているようですが、規模やスピード感など、様々な問題点も指摘されています。どうぞ、速やかに、それらの方々に援助の手が伸べられますように行政に関わる人々をお導きください。

また、医療関係者の困窮が極めて深刻になっています。どうぞ、憐れんでくださいまして、感染のスピードも落ち着き、少しでも心身に休息を取ることができるようにお助けください。また、感染された方々、重篤な状態にある方々に癒しをお与えください。残念ながら命を落とされた方々のご家族の上に天来の慰めをお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン