【テキスト】2020年3月1日 説教:「神の子なら、自分の力で」 小山茂 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた
方にありますように。アーメン

《序:四旬節に入る》
今朝は鉢植えをひとつ持って参りました。この花をご存じでしょうか?クリスマス・ローズと呼ばれ、俳句では冬の季語になります。クリスマスの時期に咲くヘレボルス・ニゲルという種類で、冬に咲く花です。クリスマスという名が付いていますが、春先に咲く種類も多くあります。鉢植えにして育てている蕾が、春めいた気候になってこのように花開きました。園芸店で今売られているクリスマス・ローズは、同じ種類のレンテン・ローズが多いそうです。このレンテンの由来は、レント(四旬節)から来ています。灰の水曜日からイースターまでの季節に咲くことから、レンテン・ローズと名付けられています。この花についてひとつの物語があります。幼子イエスがお生まれになった時、貧しい一人の少女が母マリアの許に駆け付けました。お祝いの献げ物がなく嘆き悲しんでいると、少女の涙が落ちた土から真っ白いクリスマス・ローズが群れて咲き、それを花束にして母と幼子に献げたそうです。この教会の敷地(ステンドグラス裏の角)にも咲いていると、加藤喜久子姉より教えてもらいました。木陰に赤紫と白の二つの株があり、レントに相応しくひっそりと咲いています。

2月26日灰の水曜日の礼拝に来て、棕櫚の葉を焼きオリーブオイルで練った墨で、浅野先生から額に十字を記されました。レントは復活祭に洗礼を受ける方の準備期間であり、洗礼を受けた方は受洗を想い起す時でもあります。年を重ねられた女性で主の受難を覚えて、この季節に好きなお茶を絶っていた方がいました。悔い改めと償(つぐな)いの時期であり、典礼色はつつしみの紫が用いられます。

《2:パンのみで生きる者にあらず》
「人はパンのみで生きる者にあらず」という聖句を聞いて、私は戦争を知らない世代ですから、飢えという実感をなかなかもてません。団塊の世代の私が、その片鱗を覚えているのは、学校給食で出された脱脂粉乳の味です。アメリカから供与された粉ミルクで、美味しいとは思えない味を通して、食糧不足をかに感じました。それから60年以上経って、現代の食に関するこだわり、美味しいものを食べたい、飽食の時代と言われるがあります。もし食糧難になって、悪魔から食べ物を得られる誘惑を受けたら、私たちはどうするでしょうか?「人はパンのみで生きる者にあらず」と、拒絶するのは難しいと思います。私たちは魂を差し出し、代わりにパンをください、と言ってしまうのではないでしょうか。

《3:霊が導く荒れ野》
主イエスが40日40夜断食をされた後、新共同訳は空腹を覚えられたと訳しています。空腹を覚えられたというより、飢えられたという方が適切な訳ではないでしょうか。40日間もの永い間食べ物を口にしなければ、空腹を覚えるだけでは済みません、命にかかわることになります。元のギリシア語には、空腹になるという意味の他に、飢えるという意味もあります。岩波訳では、「彼は40日40夜断食して、その後飢えた」となっています。私たち人間が本当に飢えたなら、口にできるものを必死に探し求めます。主イエスは石を食べ物に変えることができます。悪魔はそこを巧みについてきます。人間となられたイエスには、飢えから食べたい欲求があっても不思議ではありません。神・イエス・悪魔、三者の関係から、御言葉に聴いて参りましょう。

キリスト者は主の受難が訪れるこの季節に、今朝の聖書日課から誘惑されるイエス・キリストに出会います。直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから、主イエスは洗礼を受けられました。霊が鳩のように天から降り、聞こえてきた声「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、と神から「神の子」であると宣言されました。

同じ霊が主イエスを荒れ野に導きます。悪魔から誘惑を受けるためです。悪魔はヘブライ語で『サタン』と言われます。サタンと聞くと悪者という先入観がありますが、サタンも神の被造物であり、最後に神の力に屈服します。ヨブ記に登場するサタンも神の使いたちが集まった中で、神の許しを得てヨブにいを下します。霊は神から遣わされたのに、悪魔と対決させようと、主イエスをに導くのです。

《4:神の子なら》
飢えのただ中にある主イエスに、悪魔が来て言います、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」主はお答えになります、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」書いてあるとは、旧約聖書に記されているものです。確かに申命記8:3「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって、生きることをあなたに知らせるためであった」と記されています。パンの誘惑は、私たち人間の考える誘惑とは全く違います。なぜなら主イエスは本気になれば、石をパンに変える力をお持ちだからです。できることをするようすのですから、悪魔のしは実に巧妙なものです。

次に悪魔は主イエスをエルサレム神殿に連れて行き、その屋根に立たせて言います、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」悪魔はが地面に激突することはない、と根拠を詩編91:11~12におきます。「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。」
主はやはり申命記の言葉から答えられます、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」《6:16》

神はご自分の意志で、悪魔に主イエスを誘惑させたのです。主は悪魔のしを拒絶しました。もし、私たちが主の立場になったら、どうしたでしょうか?私たちは善を選ぶ自由があり、同時に悪を選ぶ自由もあります。私たちは好きに判断することが、許されている被造物ですから。悪魔のしは神を頼りにしなくても、自分の力で何でもできる。あなたは独りでできる。だから、神に頼らなくてもいい、と巧妙にします。私たちは事が上手く運んでいると、神への祈りを忘れます。逆に一旦つまずいて不安になると、苦しい時の神頼みと変わります。神の支えなしでは、私たちはいずれ立ち行かなくなることでしょう。

《5:悪魔にひれ伏せ》
最後に悪魔は主イエスを高い山に連れて行き、この世のすべての国々と繁栄を見せて言います、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみな与えよう。」すると主は悪魔を一喝されます、「退け、サタン」その根拠も申命記におかれます。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」《6:13》主はいずれも、申命記の言葉を引用して答えられます。敬虔なユダヤ人なら、毎朝口にしている「シェーマ=聞け、イスラエルよ」と始まる信仰告白を思い起こします。「我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」《6:4∼5》悪魔は主である神を愛さないで、私を崇拝しなさい、と主イエスに要求しました。それゆえ、「退け、サタン!」とされました。悪魔は主イエスを神から、切り離そうとみました。人は神から愛されているのに、神の意志にいて離れようとします。今朝の旧約の日課・創世記には、アダムとエバが神のようになれると、蛇にされて神から離れる、人類最初の罪が語られています。

《結び:自らを荒野に置く》
申命記の引用がこれほど多くあると、イスラエルの民が経験した40年の荒れ野の旅を思い起こします。飲み水や食べ物に事欠いた40年間、彼らは約束の地まで苦難の旅をしました。エジプトで死んだほうがよかった、荒れ野で飢え死にしそうだ、と民は神に不平を漏らしました。それを聞かれた神は、岩から水を出し、天からパンを降らせ、民を養い続けました。それなのに民は金の子牛を作り、偶像礼拝の罪を犯し、神から離れました。その度に指導者モーセが熱情の神に執り成し、神のみを民につなぎとめました。

神はイスラエルの民に乳と蜜の流れる地を、与えると約束されました。モーセにピスガの山頂から、約束の地すべてを見せました。しかしモーセ自身は、その地に足を踏み入れることなく、死んでいきました。民の罪を彼が一人で背負ったからです。モーセは契約の石板を神から受け取るまで、山に40日40夜留まり断食をしました。何と彼はそれを二度も行いました。主イエスの荒れ野の40日とモーセの40日は、ぴたりと重なります。

主イエスは自ら奇跡を起こす力をお持ちでも、それを用いず神に素直に従います。十字架につけられた場面を思い起こしてください。通りかかった人々が主イエスをって言います、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」《27:40》その『神の子なら』は、悪魔が主イエスに言った言葉と同じです。人々は悪魔がした言葉で、十字架のイエスをめたのです。その直後に、主イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれ、父なる神の御旨のままに息を引き取られます。このように主イエスは、どこまでも神の御心に従順でした。そして、ご自分のために奇跡を用いることなく、神の力を利用することもされません。主イエスは相手の痛みに共感されれまれて、奇跡を起こされる方なのです。

悪魔は主イエスを高い山に連れて行き、世のすべての国々を見せました。
私たちもこの40日間、我身を荒れ野に置いてみてはいかがでしょうか。四旬節は私たちが主に立ち返る、気づきの時となります。イスラエルの民と同様に、荒れ野で私たちは神に向き合って、神との葛藤が生まれます。でも神は私たちの嘆きや祈りを聴かれ、受け止めてくださいます。荒れ野にあなた御自身を置いてみてください。主の前に今までと違う自分が、見えてくるのではないでしょうか。

《祈り》憐れみ深い主よ、私たちは四旬節を歩んでいます。でも私たちはあなたのみ言葉を聴こうとせず、自分の思いに固執します。十字架へ向かわれる主イエスの苦しみに、思い巡らすことができない私たちです。主の十字架に生かされているを知り、あなたにつながる者としてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げいたします。
アーメン

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守られますように。アーメン