クリスマスメッセージ 「究極の出来事としてのクリスマス」 賀来周一

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。 (ヨハネ1章14節)

福音とは出来事の伝達のニュースであって、教えではないとは、教会の説教を通してよく知るところです。このことがキリスト教をして道徳や人生論から一線を画すこととなりました。極論を言えば、キリスト教は宗教ではないとも言い得る論拠がそこにあるとも言えます。それはキリスト教の独善主義ではないかと批判を受けそうですが、この理解は極めて重要です。

最近、死の看取り現場や生命倫理の世界では宗教の出番が多くなってきました。死に行く人が問う切羽詰まった問いにどう答えるのか、あるいは人間の技術で命が操作される世界は、「死ぬこと」や「生きること」の価値や意味を曖昧にする危険を孕んでいることに科学者たちが気付き始めたからです。そこに求められることは、単なる「教え」ではないのです。「教え」は答えにならないのです。むしろ目で見て実証できない。考えても分からない「究極的なもの」、「絶対的なもの」、「永遠なるもの」が人間の世界にはどうしても必要だという要請がそこにあります。

聖書が持つ福音は、その要請への答えを提供し得るというので、今やキリスト教の出番が求められるようになってきました。その最初の糸口というべきものが最初のクリスマスのメッセージにあるのです。その視点でヨハネの使信を理解したいのです。

救い主降誕の出来事は、ヨハネにとっては「言が肉となる」出来事でありました。福音書の冒頭には、言は神であるとされます。言とは分かることを前提とし、また伝達されるものです。「言は神であった」(一節)とは、神は御自身を知らせるお方であることを明らかにしているのです。

しかしながら、神はその伝達については、考えて分かるという方法を取られませんでした。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とは、その伝達の形です。言は単なる概念としてあるのでなく、命ある存在となったと言い、その命ある存在は人間の中にあると宣言します。究極、永遠、絶対であるお方が命を持つ人となり、わたしたちの中にいます、それがクリスマスなのだとヨハネは言っているのです。

キリストを信じる信仰の世界を「教え」として受け止めれば事は簡単です。理解すればよいのですから。でもクリスマスは、このような仕方での信仰理解とは、ちがった方向から信仰の世界に目を注ぎます。わたしたちに求められていることは、何が起こったかを見ることなのです。考えるも、分かるもないのです。出来事を見るのです。そしてその出来事の中に究極、永遠、絶対であるお方の栄光を発見することから信仰は始まります。今の時代の要請への答えがここにあると言えないでしょうか。

(むさしのだより2006年12月号より)