説教
-週報- 4月12日(日)10:30 復活祭
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 苅谷 和子
前 奏 キリストは死の布に横たわった J.S.バッハ
初めの歌 153( わがたまよ、きけ )
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )
特別の祈り |
御独り子イエスによって死を征服し、永遠の生命の門を開かれた全能の神さま。み霊の息吹によって私たちを新しくし、私たちの思いと行いのすべてを祝福してください。 あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。 |
第1 の朗読 エレミヤ書 31:1-6( 旧約 1234 )
第2 の朗読 使徒言行録10:34-43( 新約 233頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マタイによる福音書 28:1-10( 新約 59頁 )
みことばのうた 249( われつみびとの )
説教 「 そこでわたしに会うことになる 」 浅野 直樹 牧師
感謝の歌 154( 地よ、声たかく )
信仰の告白 使徒信条
奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )
派遣の歌 225( すべてのひとに )
後奏 Festive Trumpet Tune デイヴィッド・ジャーマン
*前奏・後奏(今回自宅録音)
【テキスト】3月22日 10:30 礼拝説教「信仰の道筋」浅野直樹牧師
聖書箇所:ヨハネによる福音書9章1〜41節
今更、言うまでもないことですが、今私たちは四旬節(教会の暦として)の中を歩んでいます。もっとも、昨今の新型コロナウイルスの騒ぎで、毎日毎日ニュースに釘付けになったり、また、そこから来る現実に触れながら、心動かされながら、それどころではない、というのも正直なところかもしれませんが、この四旬節は悔い改めの季節でもある訳です。イエスさまの受難…、苦しみ、苦悩に心を向けながら、自らを省みていく…。しかし、正直、これはあくまでも私個人の感想でしかありませんが、これまでの四旬節の日課の中には、あまり「悔い改め」といった面が見えてこなかったようにも感じています。少なくとも直接的には、です。今日の日課も、そうかもしれない。生まれながらに目の不自由な人の癒しの物語です。しかし、あえて言えば、最後に出て来るこの言葉ではないか、とも思う。
41節「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」。
つまり、これを、私たち自身は「見えているのか」との問いとするならば、そこに、自ずと省みが必要となってくるからです。果たして、私は(私たちは)本当に見えているのか。そこで、もっと注目すべきことは、見えないこと自体は、決して悪いことではない、と言われていることです。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」と言われている通りです。
むしろ、見えていないにも関わらず、見えているかのように思っている、思い込んでいる、勘違いしていることが、つまり、見えていないといった事実・現実を受け入れない、受け入れないどころか、自分こそはしっかりと見えているのに、他の人たちは見えていない、と驕っていることにこそ過ちがある、罪がある、と言われていることです。
今日の箇所には、大きく分けると、二種類の人が登場して参ります。一人は、生まれつき目の見えない、目の不自由な「盲人」です。もう一人(一方)は、この癒された盲人を糾弾し、盲人が癒されたことを喜ばずに、自らの「見える」ということを誇っている人々、ここではファリサイ派として登場してくる人物です。
この両者を図式化すると、最初は見えなかったのに見えるようになった人と、見えているかのように思っていたのに、実は何も見えていなかった人、つまり、全く真逆の二つのタイプがここで描かれている訳です。そして、結論から言えば、おそらく私たちは、このどちらにも属するということでしょう。どちらか一方とは言い切れない。ここ何週間か、私たちは聖書の中の登場人物と私たちとを重ねて見て来ました。ニコデモの中に、サマリアの女性の中に、私たち自身の姿もあったからです。
つまり、これらの人々は私たちのモデルでもある訳です。今日の日課に登場してくる人物たちも、そうでしょう。これらの人々の中に、私たち自身の姿も見えてくる。もちろん、実際問題として、私たちは肉体的に言えば、盲人…、目の不自由な者ではないのかもしれない。しかし、この見える、見えない、ということは、では肉体的なことだけなのか、といえば、必ずしもそうではないからです。私たちは神さまの愛が見えているのか。人の善意が見えているのか。この世界のあるべき姿が見えているのか。自分自身が見えているのか。自分の周りに起こった出来事が見えているのか。果たして、見えている、と言い切れるのか、といえば、そうではないからです。
今日の福音書の日課は、先ほども言いましたように、一人の盲人の癒しの物語り、あるいは奇跡物語り、と言って良いと思います。しかし、単なる奇跡物語りではないことは、もう皆さんも良くお分かりでしょう。聖書には数々の奇跡物語りが収録されていますが、これほど長い奇跡物語りはないからです。ですから、この物語りは奇跡そのものよりも、その奇跡がこの人をどのように導いていったのか、といったことに関心があったのではないか、と思います。
この人は、生まれながらに目の不自由な人でした。生まれてこのかた、自分の目で何も見たことがなかったのです。何一つ、見たことがなかった。彼は色を知りません。光を知りません。この世界を知りません。私たちが知っている素晴らしい景色も、青く澄んだ大空も、風になびく新緑の緑も、春に咲き乱れる色鮮やかな花々の姿も、愛情深い人々の眼差しも、微笑みの表情も彼は知らない。見たことがない。それは、私たちには想像もできないことです。
私たちも目を閉じれば、確かに暗闇に閉ざされます。しかし、すぐにでも、あの大空を思い描くことができる。なぜならば、知っているからです。一度でも、その光景を見たことがあるからです。だから、再現できる。思い描くことができる。もちろん、鮮明とはいえないかもしれませんが、それでも、空が青いことを、その色を、輝きを知っている。しかし、一度も見たこともないこの人は、何も思い浮かべることすらできないのです。これは、辛いことです。しかも、その不幸は、神さまに呪われた結果だ、と言う。
弟子たちはこの人を見て、こう尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれか罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。信心の薄れた現代日本人でも、この感覚はよく分かると思います。いわゆる、罰(ばち)です。神さまの罰(ばち)に当たった。この不幸は、そうでも考えないと、納得できない。少なくとも、自分のせいではない(親、先祖のせい)、そう思いたい。そう思う。これは、もう変えられない定めです。神さま由来ならば、そう諦めるしかない。運命を呪いつつも、受け入れざるを得ない。しかも、おそらく、これが、そういった人々が抱える現実でもあるのでしょう。この人は、「物乞いであった」とある。彼の不幸は、目が見えないだけではない。そこから、雪だるま式に不幸が襲ってくるのです。それも、私たちがよく知る現実でもあります。
そんな彼の不幸の原因に対する問いかけに、イエスさまはこう答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。彼の不幸の原因は、神さま由来ではない、とおっしゃいます。むしろ、そこに神さまの深い憐れみと恵みの業が起こるためだ、とおっしゃる。今日は、このことについて詳しくお話しする時間はありませんが、ぜひ皆さん、キリスト者の証しの本を読まれると良いと思います。このイエスさまの言葉が真実であったという証しに多く出会われると思う。それは、決して改善した…、この人のように実際に目が見えるといった奇跡がおこった、ということだけでなく、不幸が不幸でなくなる奇跡が多く語られていると思います。
ともかく、彼はイエスさまによって目が見えるようになりました。生まれてはじめて見たのは、水面に映った自分の顔だったかもしれません。自分の顔がこんな姿だったとはじめて知ったのでしょう。何度も水面に映っている自分の顔を触りながら確認したのかもしれない。そして、あまりの出来事に少し呆然としつつも立ち上がって、周りをぐるりと見渡したのかもしれない。そして、空を見上げたのかもしれない。その空の眩しさに、光の眩しさに、はじめて目を細めたのかもしれない。
彼は見えるようになりました。生まれてこのかた、全く見えなかったものが、見えるようになった。知らなかったことが、分かるようになった。しかし、それは、どういうことか。つまり、見えるということは、見たいものだけでなく見たくないものまでも見えてしまう、ということでもあるからです。ある白内障の手術を受けた方が、シワまではっきりと見えるようになっちゃった、と苦笑いされていましたが、自分の好ましくないところも、他人の好ましくないところも、この世界の、世の好ましくないところも見えてしまうことになる。それが、「見える」ということです。
しかし、それでも、光の存在を全く知らなかった頃に比べれば、雲泥の差だと思う。嫌なところも見えるようになったその目は、その他のこともまた見えるようになるからです。神さまの愛も、人の善意も、世界のあるべき姿も、イエスさまの救いの業も、見えるようになるからです。
この男性が見えるようになったことを、なぜか素直に喜べない人々がいました。なぜか。イエスさまがその人の目を開けられたからです。そのことが、彼らにとっては由々しきことだったからです。彼は議会に引き出され、尋問されることになります。ただ見えなかった目が見えるようになった、ということだけで、尋問される。当初、彼は不安に怯えていたように思いますが、次第に力強さが感じられるようになっていきました。
30節「彼は答えて言った。『あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存知ないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです』」。
実に堂々としています。なぜか。自分の身に起こったことを、どうしても裏切ることができないからです。目の見えなかった事実。光を知らなかった現実。それが、今は見えている。知っている。それを、どうして否定することができるのか。その現実を、この私にもたらしてくれた方を否定することができようか。
彼にとってイエス・キリストとは、最初は自分とは関係のない、自分の人生の、世界の外にいたただの一人でした。しかし、自分の目を開いてくれたことによって、「イエスという方」(まだどこか他人行儀ですが)となった。そして、反対者とのやりとりの中で、自分の身に起こったことをもう一度よく吟味せざるを得なくなり、「預言者」、「神のもとから来られた方」、そして、最後に、「主よ、信じます」とひざまずくまでに、自分の身に奇跡を起こしてくれたイエス・キリストという存在が大きくなっていったのです。
それもまた、私たちが辿った信仰の道筋とも言えるのではないか。どうでしょうか。私たちもまた、イエスさまと出会って、見えるようになったのではないでしょうか。見たくない現実も、自分自身の真の、裸の、罪の姿も見えるようになった。だから、救いを必要とした。赦しを必要とした。希望を必要とした。神さまを、イエスさまを、光の存在を必要とした。この肉眼では見えていなかったものが見えるようになったからこそ、私たちは、求める者となったのです。この一人の盲人と同じように…。
最初に言いました。私たちの中には、この二種類の人が混在している、と。そうです。私たちも見えていなかったのに、見えるようになった。なのに、同時に、見えていなかった事実を、現実を忘れてしまい、あたかも自分自身の力で見えているかのように錯覚し、時には人を非難するほど傲慢になってしまっている。そうです。私たちは、見える者とされたのです。
しかし、それは、イエスさまによってもたらされたものに他ならない。それを、忘れてはいけない。だから、自己吟味を、省みを必要とするのです。そして、なおも、目が開かれたその事実に、心から感謝していきたいと思う。私たちは、今、見えています。おぼろげかもしれませんが、決して暗闇ではないのです。見えている。光の存在を、色とりどりの光に満ちたこの世界を造られた方を、私たちは知っている。そして、その方に、光である方に私たちは信頼と希望を置いている。
そのことを、もう一度心に覚える四旬節としていきたい思います。
祈ります。
「天の父なる神さま。今朝もこの礼拝の場に私たちを招き導いてくださったことを心より感謝いたします。また、共々に集うことのできなかった方々の上にも、豊かな祝福をお与えください。あなたは、私たちの心の、霊の目を開いてくださり、肉眼だけでは知ることのできなかった光の存在に気づかせてくださったことを心より感謝いたします。私たちは、見えていなかった事実を直ぐにでも忘れてしまい、あなたに感謝することを怠り、また他者に対して傲慢な態度に出てしまうことの多いものですが、この私たちのために、イエスさまが何をしてくださったかを、しっかりと心に留める四旬節でもありますように、弱い私たちを導いてくださいますようお願いいたします。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」
※音声バージョンはこちらから
【テキスト】3月15日(日)10:30 説 教:「 全てのことを教えてくださる方 」浅野 直樹 牧師
聖書箇所:ヨハネによる福音書4章5〜42節
私 の尊敬しております牧師・神学者の一人として故北森嘉蔵牧師がおられますが、北森先生はある書物の中で、このように語っておられました。「十字架の福音は、一度教えられたからには、永久に自動的に維持されてゆくものではない。すなわち自明的な真理ではない。十字架の福音は自明的ではない真理である。したがって、我々が自己の自然性に従って自動的に流されてゆくならば、十字架の福音は必ずや喪失されるであろう。十字架の福音を信仰しているキリスト者と、この福音を委ねられている教会は、絶えず新たに『心を定め』て、十字架の福音を仰がしめられねばならないのである」。
北森先生は、ここで十字架の福音、つまりイエスさまの十字架の死によって示された福音(良き知らせ)とは、決して自明的な、誰もが直ぐにでも分かるような、了解できるような真理ではなく、自明的ではない真理だと言います。ですから、一度教えられただけではダメで、直ぐにでもこの真理から逸れていってしまうのですから、キリスト者たちは、あるいは教会は常に学び続けなければならない、と言われます。本当にそうだと思います。それは、「十字架の福音」に限定されるものでもない。私たちは直ぐにも忘れてしまう。「喉元を過ぎれば」とは良く言ったものです。
私自身も、様々な苦境から神さまを求めずには、問わずにはいられませんでした。そこで、様々なことを教えられた。また、気付かされてきた。そのことによって、何度救われ、助けられ、励まされ、癒され、立ち上がらされてきたことか…。しかし、忘れてしまう。いいえ、記憶が綺麗さっぱりになくなっているのではありません。覚えています。鮮明に、とは言えませんが、それでもしっかりと覚えている。
それなのに、忘れてしまっています。忘れたように生活をしてしまい、また同じような問題、課題に右往左往してしまう。まったく学習能力がない、と呆れるほどに、です。程度の差はあれ、私たちは恐らく、誰もがそういった経験を積み重ねているのではないでしょうか。だからこそ、北森先生も、「絶えず新たに『心を定めて』」とおしゃっておられるのだと思うのです。
本 日の福音書の日課は、小見出しでは「イエスとサマリアの女」とありますが、これも良く知られたサマリアの女(女性)との対話の物語りです。少々長い物語ですし、内容も非常に豊富ですので、今朝は25節、「女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである』」という言葉にポイントを絞って考えてみたいと思っています。
皆さんは「求道者」だったでしょうか。もっと言えば、熱心な求道者だったか。神さまを求めて止まない、イエスさまを求めて止まない、御言葉の、聖書の探究者だったか。もちろん、そういった方々もこの中にもいらっしゃるでしょうが、そうではない、なかった方も少なくはないでしょう。いろんなきっかけで、気づいたら…、といった方もいらっしゃるかもしれない。先週はニコデモといったファリサイ派の議員が私たちを代表するような形で登場してきましたが、今日のサマリアの女性(名前は明らかではありませんが)もそういった方々の、私たちの代表なのかもしれません。
彼女はただ水を汲みにきただけです。昼間、炎天下の中で水を汲みにきたのにも、いろいろと意味があるようですが、ともかく、日常の必要に迫られて、暑い中を1キロ以上も離れた井戸に水を汲みにやってきた。そこで、イエスさまと出会った。
もっと正確に言えば、それだけでは、ただ「見かけない変な男の人がいるな」といった記憶にも残らないような出会いでしかなかったかもしれませんが、イエスさまが声を掛けられたことによって、忘れ難い出会いとなったわけです。それは、熱心な求道者であろうが、なかろうが、私たちにも共通していることです。イエスさまの方から、私たちと出会ってくださった。出会いを造ってくださった。だからこそ、今の私たちがある。そう思う。
そんなサマリアの女性とイエスさまとの出会いでしたが、ここでも、あの先週のニコデモと同様に、まったく噛み合わない会話が繰り返されていきました。なぜならば、先週もお話ししましたように、イエスさまは天上のことを、つまり、信仰的な事柄を、信仰をもって信じ、受け止めることでしかない事柄を話されているのに対して、このサマリアの女性は、地上のこと、この世のこと、自分の経験、理解、感覚・感性で分かる、納得できる事柄にしか思いが向かわないでいたからです。それが、ちぐはぐな会話を生み出していた。
実 は、以前のわたしは、このちぐはぐさは、イエスさまの方に原因があるのではないか、と思っていました。なぜイエスさまはその問いに対して、突拍子もないことを話されるのか。なぜ的外れとも受け取れるようなことを言われるのか。これでは、会話は成立しないではないか。そう思っていました。今日の箇所でもそうです。この女性は、水を求めるイエスさまにこう尋ねます。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。現代日本に生きる私たちには、この問い自体ちょっと不思議な感じがしますが、当時の女性ならば、誰もが同じような思いを持ったでしょう。
当時の社会は、差別的とも言える女性軽視の社会です。しかも、歴史的な経緯でユダヤ人とサマリア人とは犬猿の中でした。もともとは同じ国民でしたが、今ではユダヤ人たちはサマリア人の地域を避けて通るほど、徹底的に断絶(断交)していたわけです。ですから、このサマリア人の女性としては、ユダヤ人であるイエスさまがここにいること自体、不思議でならなかったでしょう。しかも、そのユダヤ人男性であるイエスさまが、サマリア人の女にものを頼むとは…。当然の問いです。
し かし、イエスさまはこう答えられる。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。
えっ、です。何言ってるの、そんなことを聞いているんじゃない。変な人、もう関わらないでおこ…。そう思ってさっさとその場を離れるのが落ちでしょう。そういう意味では、この女性はすごい。ともかく、会話を成立させていないのは、ちぐはぐな、滑稽なやり取りにしているのは、イエスさまの方ではないか。私は、そう思っていた。しかし、今では、なんと巧みなのだろう、と思っています。イエスさまの対話の目的は、会話を楽しむことではないからです。
旅行先で現地の人と話をして、その土地の生活をよく知るためのものでもない。もちろん、四方山話をするためでもない。彼女を救うため。イエスさまを信じて、命を得るためです。それが、イエスさまの目的。こう書かれている。「イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである』」。イエスさまは、この女性とのちぐはぐなやりとりが、神さまの御心を行うためだったのだ。そうおっしゃるのです。
こ の女性は、イエスさまと出会った。期せずして、イエスさまの方から出会ってくださった。そして、天上のことを、救いのことを、まことの命(永遠の命)のことを、話してくださった。しかし、この女性は、先ほどから言っていますように、なかなかそれらを受け止めることができないでいました。地上のことから、現実感覚からなかなか抜け出れないでいたからです。では、イエスさまは、そんな無理解なこの女性を、見込みなし、才能なし、と見限られたのか、と言えば、そうではないのです。この女性にも分かる、地上の事柄に、彼女が抱えていた現実の、目の前の事柄に降りてこられて、徐々に天上の事柄へと思いを向けさせていかれた。最初は、まったく関心のなかった信仰の事柄、楽して水を手に入れたいといった現実的な事柄にしか興味のなかった彼女が、「礼拝」といった至極信仰的な事柄へと思いが向けられていったのです。
これは、非常に興味深いことです。そして、それは、私たちにも言えることではないか、と思う。最初っからイエスさまが語る、聖書が語る天上の事柄がすんなりと分かったわけではない。むしろ、反発し、煙たがってもきたのかもしれない。私たちが本当に欲していたのは、地上のこと、この地上の生(生活・人生)で役立つことだけだったのかもしれない。しかし、気付けば、天上の事柄、信仰の事柄にも心が向けられてきました。この女性のように、まだはっきりではなくとも、メシア・イエスさまが教えてくださるに違いない、と思えてきた。そして、このことも興味深いと思います。
42節「彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです』」。恐らく、誰にでも信仰の先達、友、恩師がいるでしょう。誘ってくれた、導いてくれた存在が…。それは、もちろん大切に違いないのですが、この言葉は、非常に大切なメッセージにもなっていると思います。
ともかく、私たちは、イエスさまから聞くしかないのです。学ぶしかないのです。天上のことは。救いのことは。命のことは。
そ のイエスさまは、このサマリアの女性を救うために、このように語られました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。素晴らしい言葉、約束です。私たちも、この言葉を信じている。しかし、どうでしょうか。私たちの現実の感覚は、果たしてこの言葉の通りでしょうか。やはり、天上の言葉は、確かに素晴らしいかもしれないが、幻想にしか過ぎない、ということなのでしょうか。
確 かに、キリスト者だからといって、常に平和(平安)である訳ではありません。今ある幸せが永遠に続く訳でもないのかもしれない。病気にもなります。明日を見通せなくなるような出来事にも遭遇します。愛する家族を亡くします。どうして…、と思うことばかりです。祈っても、何も変わらない。この苦しみは、不安は続くばかり。本当に尽きない泉などあるのか。そう思う。思えてくる。私たちは渇きます。信仰を持っていても、いいえ、もっているがゆえに渇くこともある。水を、命を、救いを欲する。しかし、渇き切ったことはなかったはずです。枯れてしまったことはなかった。
確かに、わたしたちが望むような勢いある泉ではなかったかもしれない。本当にちょろちょろとした水流でしかなかったかもしれない。渇いていたときに、求めていたときに、十分に癒されるほどの、満たされるほどのものではなかったかもしれない。
しかし、イエスさまの言葉の通りに、約束の通りに、尽きない泉は確かにあった。そう思う。私自身、それを体験してきました。尽きない、枯れない泉を…。そして、この泉は、確かに、緑を、命をもたらす。それを育む。それが、その水源がいくつもあつまり、流れ出れば、大地を潤す大河にさえなれる。イエスさまから天上のことを、信仰の事柄を知らされた教会は、そういうものではないか。そうも思う。ともかく、諦めずに私たちとの対話を繰り広げてくださっているイエスさまに、心を開いていきたい。そう願います。
祈ります。
天の父なる神さま。今朝も新型コロナウイルス流行の最中ですが、このように私たちを守り支えてくださり、礼拝の場に呼び集めてくださいましたことを心より感謝いたします。また、自粛されておられる方々も多いですが、祈りを合わせておられるお一人お一人の上にも、どうぞ豊かな恵みと祝福をお与えください。私たちからではなく、イエスさまの方から働きかけてくださったが故に、私たちは信仰と希望と愛とに生きることができることを心より感謝しています。しかし、この恵み、ご恩を忘れやすい私たちですので、常に、御前に立ち、イエスさまに心を開いて、その言葉を、約束を受け取っていくことができますように、弱い私たちを導いてください。この混乱した最中ですが、20日に時間短縮で教区総会が行われます。十分に理解を深め合うことが難しい中ですが、東教区にとっても、東教区ばかりでなく、すべての教区にとっても、大きな節目の時に来ているのかもしれません。どうぞ、思いを一つにして、御心に沿っていくことができますようにお助けください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン
【テキスト】3月8日(日)10:30 説 教:「永遠の命を得る」 浅野直樹 牧師
聖書箇所:ヨハネによる福音書3章1〜17節
ご存知のように、新型コロナウイルスが流行し、いくつかクラスター(集団感染)も発生していると報じられています。そのような危惧からか、礼拝自体を自粛する教会もあると聞いていますが、私たちむさしの教会では…、もちろん細心の注意は必要ですが、通常の礼拝は守っていくことに致しました。これは、私個人の考えですが、たとえ少数の者しか集まれなくとも…、これも、もちろん無理をする必要はありません。公共交通機関等の不安もありますので、自衛的に礼拝を休むといった選択も尊重していきたい。いいえ、危惧のある方々にはお勧めもしていきたい、そう思っています。
しかし、たとえ戦争が起ころうとも、不測の大惨事、自然災害が起ころうとも、集える人だけで良い、礼拝は守られるものであってほしい、そう願うからです。なぜならば、私たちのこの礼拝は、私たちのためだけの礼拝ではないからです。礼拝に来ることのできない人々に代わって、代表して、それらの方々を担っての礼拝でもあるからです。
ルーテル教会の礼拝理解は、私たちが神さまに仕える・奉仕するのではなくて、神さまが私たちにお仕えくださる・奉仕してくださるもの、その場として受け止められています。他教派出身の私にとっては、そのような礼拝理解は新鮮で、心震えるものでした。なぜならば、礼拝とは、神さまに奉仕する場だと教えられる、また受け止めてきたからです。ここにもルターの受動的信仰の真髄が現されていると思います。確かにそれは、ルーテル教会が誇って良い大切な礼拝理解だと思いますし、また、守るべき伝統だとも思いますが、しかし、ルターの理解は、受動一辺倒ではなかったことも思うのです。受動…、つまり、神さまから頂いた者たちは、今度は主体的に、能動的に動き出すこともルターは主張しているからです。礼拝で恵みを受けた者たちは、今度は自ら進んで他者を担って礼拝する。礼拝を捧げる。なぜならば、私たちの住むこの世界では、神さまを礼拝する人々は決して多くはないからです。
礼拝したいのに、様々な事情で、体調の問題で礼拝に集えない人々はもちろんのこと、神さまを礼拝しようともしていない人々のためにも、私たちが代わって、代表して、担って礼拝していく。だから、いかなる事情があろうとも、私たちは礼拝を止めるわけにはいかない。たとい、一人、二人となったとしても…。なぜならば、私たちこそが、礼拝の砦だからです。このような時だからこそ、改めてそのことにも思いを向けて行きたいと思っています。
今朝の福音書の日課には、聖書を代表する言葉が登場してまいりました。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。あまりに有名な言葉です。いうまでもなく、神さまの愛を、私たちに向けられた愛を表しているものです。ですから、皆さんもお聞きになられたことがあるかもしれませんが、ここに記されている「世」を自分に(自分の名前に)置き換えて読んだら良い、とも言われてきました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、『浅野直樹』を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。…そのようにです。
確かに、一人一人が自覚的に神さまに愛されていることを受け止めるためには有効かもしれませんが、しかし、それでは、この聖書が言わんとしていることを見落としてしまうことにもなりかねません。神さまが愛されたのは「世」です。私一人ではないのです。いいえ、私たちだけでもない。つまり、ある特定の一部の人々、信仰者(キリスト者)、教会員でもないのです。むしろ、このヨハネ福音書が語る世とは、不信仰な世です。イエスさまを拒絶する、神さまの御心に従おうとしない罪の世です。既に1章にそのことが記されている。
10節「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。ここで「認めなかった」「受け入れなかった」とありますが、これは単に「認めない」「受け入れない」ではなく、イエスさまを十字架の死へと追い込んだのです。そんな「世」を、神さまは放っておくことができず、滅ぼすことができず、「独り子」イエス・キリストを与えるほどに愛された。善良な信仰深い世ではなく、罪深い世を愛された、というのが、このヨハネ3章16節が意味するところなのです。
ですから、続けてこうも語られています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。神さまの目的は、あくまでも世の救いにあります。世界中の人々が、イエスさまによって、イエスさまを信じることによって救われることです。そのために、神さまはイエスさまを世に与えられた。もっと言えば、十字架の死にも至らせられた。世を愛するが故に。
しかし、残念なことに、では全ての人々が救われるのか、といえば、そうではないこともヨハネは伝えます。神さまはあくまでも世を救いたいと願っておられる。それにも関わらず、救われない人々も生まれてしまう。なぜか。イエスさまを信じることができないからです。もっと言えば、イエスさまに心を開くことができないでいるからです。その代表として、ニコデモという人が登場しているようにも思います。
このニコデモ、「ファリサイ派」に属する「ユダヤ人たちの議員」であったと記されています。この「ファリサイ派」というのも福音書には度々出てきますが、ご存知のように非常に信仰的に熱心な人々です。特に、律法を守ることに熱心だった。当然、旧約聖書にも精通していたでしょう。そういう意味では、熱心・真面目で宗教的な知識に長けた人たちの代表と言ってもいいのかもしれません。議員の一人であったということは、社会的な立場を持った人たちの代表とも言えるでしょう。そんな彼は夜にイエスさまを訪ねた、とあります。そこからも、いろいろなことが推測されるようですが、その一つは、人の目を気にして、ということではないか、と言われます。立場のある人がイエスを尋ねたことによる評判を気にした、ということです。これは、キリスト者「あるある」でもあると思う。あるいは、イエスさまとの会話の中で「年をとった者が」と語ったことから、ニコデモはかなり年配ではなかったか、とも考えられています。歳を取るということは、経験を積み重ねることにもなる。そして、その積み上げた経験則から合理的な解釈を導こうとするようになります。
歳を重ねるごとに、「驚き」が少なくなると言われる通りです。余談ですが、聖書を読む時に大切なことは「驚き」だと良く言われます。これは、私自身の経験でもありますが、確かに、驚くことが少なくなりました。言い方を変えると、躓くことが、問うことが、反発することが少なくなった。若い頃は、それこそ新鮮で、驚き、躓(つまず)き、怪しみ、反発することも多かったですが、それがかえって充実した聖書との時間だったようにも思います。ともかく、そういった年配者…、経験則から合理的に(無難に)解釈する人々の代表でもあるのかもしれない。あるいは、それでも、わざわざイエスさまを訪ねるのですから、イエスさまに何かしら惹かれるものを感じた人々の代表とも言えるのかもしれませんし、あるいは、年齢も経験も積み重ね、それなりの立場にあったにも関わらず、ニコデモからすればあきらかに年少者であった、しかも素性もよく分からないイエスさまに教えを請いに来たということは、非常に謙遜な人と言えるのかもしれません。つまり、求道者の姿です。そういった人々の代表と言っても良いのかもしれません。つまり、彼は私たちの代表ということです。このニコデモの中に、私たちの姿もある。
そのニコデモとイエスさまとのやり取りは、一向に噛み合いません。あまりのニコデモの無理解さに、イエスさまが痺れを切らして、苛立たれるほどです。しかし、この両者のやり取りをご覧ください。私たちにとっては、イエスさまの言動の方が不可解です。むしろ、ニコデモの方に近さを感じる。それが、私たちの代表の所以でもあるのでしょう。しかし、それでは、やはりダメなのです。ニコデモは救いの真理に到達できなかった。なぜか。イエスさまはこうおっしゃる。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろうか」。
つまり、どうあっても、この信仰の事柄は、私たちの理解を超えたところにあるからです。経験則から分かる、想像がつく、合理化できるような地上のことではない。これは天上のこと。御子を与えるほどに世を愛される神さまの愛も、永遠の命も、結局の所、私たちにとっては理解不能なことです。ニコデモのように、そんなことはあり得ないと思うのが落ちです。ですから、天上のことは、天上のことを知っておられる方から、聞くしかない。学ぶしかない。受け取るしかない。私たちの宗教的な知識も、あるいは熱心さ・センスも、無用とは言わない、必要な、大切なことには違いないでしょうが、それよりも、いいえ、それ以前に、イエスさまの前に開かれた心が、イエスさまを信じて、信頼して、天上のこととして受け取っていくことが大切なのではないか…。そう思うのです。
先ほどは、救われる者と、そうでない者が生まれてしまう、と言いました。確かに、ヨハネはそう語ります。それは、事実として、致し方ないこととして語っているのかもしれませんし、あるいは、警笛・警告として語っているのかもしれません。しかし、それでは、このニコデモは救われない者として扱われているのか、といえば、必ずしもそうではないのです。確かに、救われた人として明確には記されていませんが、このニコデモはヨハネ福音書の中で、これ以外にも二つの場面で取り上げられていることは注目に値するでしょう。一つは、7章50節。イスラエルの指導者層がイエスさまを逮捕しようとした際に、唯一弁護した人物として登場してきます。
また、19章30節では、十字架で死なれたイエスさまを葬る際に、丁重な葬りに欠かせない香料を持ってきた人物として登場しています。これらをどう評価するか。確かに、先ほども言いましたように、明確に弟子になった、信仰者、教会員になったとは記されていませんし、また、最後まで優柔不断だったと辛辣な評価をする人々もいますが、わたし自身は、それでも、ここにも「世」を愛された神さまのお姿があるようにも思うのです。諦めきれない、捨てきれない、どうしても救われてほしいと願っておられる神さまのお姿が、です。確かに、救われているのか、いないのか…、気にはなるかもしれませんが、もっと大切なことは、イエスさまを与えるほどに世を愛された神さまのお姿なのです。
また、その神さまの御心をもらすことなく示された、証しされた、教えてくださったイエスさまのお姿です。それに、私たちは心を開きたい。命を与え救うことに情熱を傾けてくださっている神さまに、イエスさまに、心を開く者でありたい。そして、そんな神さまの思いを受けて、受け止めて、世の人々のためにも礼拝を捧げる者でありたい。そう思うのです。
祈ります。
「天の父なる神さま。このような社会情勢の中でも礼拝を守ることができましたことを心より感謝いたします。また、どうぞ、ここに集うことのできなかった方々の上にも、豊かな祝福を注いでください。今日学んだニコデモの姿は私たちの姿でもありますし、そのニコデモを、世…、世界を愛してくださり、なんとしてでも救い出し、永遠の命に預からせようと懸命になってくださっているあなたに、心から感謝をいたします。信仰の事柄は、確かに私たちの理解を超えたものですが、どうぞ私たちの心をますます開いてくださり、イエスさまから天上の事柄をしっかりと受け取り、信仰と希望と愛とに満たしていってくださいますように、心からお願いいたします。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」
礼拝説教 「御言葉が教える平和」 浅野 直樹
ヨハネによる福音書15章9〜12節(ミカ書4章1〜5節)
8月に入りましたが、この8月は私たち日本人にとりましては、非常に感慨深いときではないか、と思います。昨日の6日は広島に原爆が投下されて71年目の日でしたし、9日には長崎に…、15日には71回目の終戦の日(敗戦の日)を迎えるからです。今年は、リオデジャネイロ・オリンピックもあり、NHKなどでもあまり戦争関連の特番は組まれていないようですが、それでも(オリンピックを楽しむことはいいことですが)、私たちにとっては決して忘れてはならない日々だと思うのです。明日、8日から恒例のルーテルこどもキャンプが広島で行われますが(むさしの教会からも2名参加)、是非、この平和ということについても学んできていただきたいと願っています。
そういう訳ですので、私が牧師になりましてから8月の第1主日は「平和の主日」として守ってまいりました。そして、これからも余程のことがない限り、この8月の第1主日は「平和の主日」として、ご一緒に「平和」について考えるときをもっていきたいと願っています。
そのように考えまして、今回も説教の準備をしていた訳ですが、インターネットで面白いものを見つけましたので、ぜひ皆さんにご紹介したいと思いました。東郷潤という方が書かれた『終わりのない物語』という絵本です。
【『終わりのない物語』を読む】
(インターネットで簡単に見られますので、興味のある方はお調べになってください)
いかがだったでしょうか。絵はちょっと…、と思わない訳ではありませんが、いろいろと考えさせられるところがあったのではないでしょうか。
作者の東郷さんは「あとがき」で次のように書いておられます。「絵本『終わりのない物語』は、善悪の錯覚が引き起こす憎しみの連鎖/暴力の連鎖をテーマとしています。善悪という考え方を巡っては、これ以外にも、本当に多くの錯覚が存在しています。そして、それらの錯覚は様々な悲劇を生む土壌となり、結果的に、億単位の人々が犠牲になっているのです。そうした悲劇を地球上から少しでも減らすことを目的に、絵本『終わりのない物語』を執筆しました」。私は、ここに重要なキーワードが二つあるように思いました。一つは「善悪の錯覚」という言葉です。この物語の面白さ(ユニークさ)は、悪人がいないということです。登場してくるお猿さんも、猫さんも、象さんも、みんな正義を愛する立派な人(ではないですね、動物)たちでした。そんな彼らですから、人殺しという悪を見逃すことができなかったのです。その悪を絶つために、正義の名の下悪人たちを殺す。しかし、その殺した悪人たちは、実は悪人たちではなかった。彼らもまた自分たちの正義のために悪を懲らしめている者に過ぎなかった。正義のために戦った人々を、正義の名の下に殺していく。そんなおかしなことが起こっている、というのです。確かに、そうです。みんな自分たちの大切なものを守るために殺しあっていく。国を守るために、愛する者を守るために、家族を…、子どもたちを守るために、自分たちを脅かす悪者どもを殺す。そうでないと大切なものが守れないから、と殺していく。しかし、自分たちの目から見れば悪者と思えるような人々も、大切なものを…、国を…、愛する者を…、家族を…、子どもたちを守るために、自分たちを脅かしている悪者どもに立ち向かっているだけに過ぎないのかもしれない…。
絵本に登場してまいります猿、猫、象を、アメリカ、ロシア、ISなどと置き換えてみたらいいと思います。この世の中で、そんな単純な善悪など果たして存在しているのだろうか。単純に、こちらは正義でこちらは悪と言い切ってしまえるようなものなんだろうか、そんな問いをこの物語は私たちに投げかけているように感じるのです。
そして、もう一つは「連鎖」(憎しみの連鎖/暴力の連鎖)という言葉です。もちろん、この連鎖は断ち切らなければならないはずです。
皆さんは新約聖書の書き出しが何であるかをご存知だと思います。そう、系図です。マタイによる福音書1章1節からイエスさまの系図が記されていきます。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。皆さんもおそらくそうだったと思いますが、聖書をこれから読もうと思って開くのがこの箇所でしょう。そして、いくぶんうんざりする…。よく知らないカタカナの名前がずらっと出てくるからです。そして、聖書を読むのに少し慣れてくると、ここはもう読む必要もない、と飛ばしてしまうかもしれない…。そんな系図です。私も、そうでした。しかし、聖書を…、特に旧約聖書を理解するようになってくると、なぜイエス・キリストの福音を伝える新約聖書がこの系図から始められているのか、得心がいったように思いました。イスラエル民族の系図は通常男系なのですが、このイエスさまの系図には数名の女性が名を連ねています。しかも、いわゆる曰く付きの女性たちです。3節のタマルはユダの息子の嫁です。つまり、ユダは息子の嫁によって子どもをもうけた、ということです。
5節のラハブは遊女ラハブと言われる女性ですし、その後のルツは異邦人です。そして、極め付けは6節の「ウリヤの妻」…、これはバト・シェバのことですが、名前すら載せず、サムエル記の出来事を想起させるかのように「ウリヤの妻」とだけ記されています。詳しくお話しする時間はありませんが、ダビデはウリヤの妻を寝取り、不倫がばれそうになると、夫のウリヤを戦場の最前線に送り出して殺してしまうのです。そして、いけしゃあしゃあと未亡人のバト・シェバを妻として迎える。本当にとんでもない悪事を働いたわけです。それが、イエス・キリストの系図だ、という。本来ならば隠せばいい汚点をさらけ出しながら、これこそがメシア(救い主)の系図だと示すのです。私は、ここに救い主の意味を見たような気がしました。イエスさまの誕生によって、この血塗られた血筋に楔が打たれた…、連綿と続いてきた罪と過ちの歴史、その呪いが断たれた…、新しい救いの時代が到来した…、そう思ったからです。
憎しみの連鎖、暴力の連鎖は、このイエスさまによって断たれるのではないでしょうか。イエス・キリストという存在こそが、人類の英知によっては断ち切ることのできなかったこの「連鎖」を、断ち切ってくださるのではないか…、そう思うのです。
私は最近、このイエスさまの弟子に「熱心党のシモン」がいたことの意味をつくづく考えるようになりました。この「熱心党」…、ある辞書には次のように記されていました。「熱心党は狂信的な愛国グループで、ゲリラ活動によりローマ占領軍を追い払うことを目的としたが、実際にはさまざまな血なまぐさい報復事件を引き起こしていた」。現代でいえば、テロリズムの考え方を持っていたと言ってもいいのかもしれません。そんなシモンが、ペトロやヤコブ、ヨハネなどと並んでイエスさまの弟子となっていた。目的のためならば、人を殺すことも厭わなかったシモンが、全く別の方法で世界を、社会を変えようとしていった…。ここにも、私たちが注意を払うべきイエスさまのお姿があるように思うからです。
「平和学」という学問分野があることをご存知でしょうか。簡単に言ってしまえば「平和を追求する学問」と言えるのかもしれません。そんな「平和学」の本に、こんなことが書いてありました。「平和学は極めて学際的な学問であり、国際政治学や国際関係論以外にも、経済学、法学、社会学、心理学、人類学、教育学、宗教学、倫理学、哲学など、多くの分野の学問を含んでいる」。つまり、平和の問題というのは、単に軍事や政治の問題に限らず、非常に複雑で難しい課題が絡み合っているということでしょう。確かに、誰もが平和を望んでいるはずなのに、現実にはなかなか難しいわけです。そうであっても、私たちは一市民として、この平和のためにも政治にも選挙などを通して積極的に参加すべきだし、自分たちの暮らしぶりや経済活動が、果たして貧しい国々の構造的暴力に加担することになってはいまいか、と反省することはもちろん大切ですが、ではキリスト者として一体何ができるのだろうか、といった問いも非常に大切になるのではないか、と思うのです。キリスト者だからこそ…、いいえ、キリスト者にしかできないことがあるはずです。それは、もちろんイエス・キリストです。今日の旧約の日課、ミカ書にはこのように書かれていました。「主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」。
私たちは、この旧約の言葉がイエスさまによって実現すると信じます。イエスさまがこの地上に来られたのは…、お生まれになったのも、その人生を人々への宣教…、弟子たちへの教育に費やされたのも、十字架に死に復活されたのも、平和のためだったと信じるからです。私たちの主イエス・キリストは「平和の主」です。私たちは、この平和の主を「信じる」ところからまず始めるのです。それが、私たちの生き方にもなっていくからです。
戦後71年。これまで続いてきた平和が案外脆いものであることに私たちは気づき始めました。平和だと思っていた時代にあっても、平和ではなかった人々が数多くいたことも知りました。戦争がないことだけが平和なのではない、ということについても考え始めています。だからこそ…、そんな時代、現代だからこそ、平和を作られたイエス・キリストに…、熱心党のシモンでさえも弟子とされたイエス・キリストに思いをむけていきたいと思うのです。そして、このキリストの平和の輪をもっと広げていきたい、そんな仲間をもっと増やしていきたい、そう願わされます。2016年8月7日
平和の主日礼拝説教(むさしの教会)
むさしの便り10月号より
「幸いを得なさい」 浅野 直樹
ルカによる福音書18章9~14節
はじめまして。浅野直樹です。一応、「ジュニア」という扱いになっています。
いや~、面倒なことになってしまいました。浅野先生(シニア)には随分とご迷惑をおかけしていると思っています。
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、私は他教派で10年ほど牧師をしておりまして、その頃からルーテル教会に同姓同名の先生がいらっしゃることは知っていました(岡崎教会の頃だったと思います)。でもその頃は、自分がまさかルーテルに来るとは思ってもいませんでしたので、「へ~、そうなんだ。珍しいこともあるもんだな」くらいにしか受け止めていませんでしたが、縁あってルーテルに来ることになったために、こんなことになってしまいました。それでも、以前は教区も違っていましたので、お互いに不都合もそれほど感じていなかったと思いますが、この度、誰の陰謀なのか、はたまた神さまのユーモアなのかは分かりませんが、同じ教区に、しかも同じ教会共同体、お隣の教会に来ることになりまして、浅野先生(シニア)も複雑な思いをもっておられるのではないか、と想像しています。先日もこんな電話がありました。以前、電話で相談を受けた方のようで、どうやらインターネットで私のことを探されたようですが、するとHP(むさしの教会の)の写真と違っていたそうです。混乱気味に、一体どうなっているのか、というのです。もちろん、丁寧に説明させて頂きました。私の記憶が正しければ、浅野先生とは一回り違いますが同じひつじ年です。星座も同じしし座。同姓同名、漢字も一緒。二人で占ってもらったら、ほとんど同じ結果になると思いますが(ですから占いもあてにならないのでしょうね)、性格も、また、これまでたどってきた人生も全く違っているでしょう。浅野先生はまじめ、と聞きますが、私はちゃらんぽらんのいい加減な人間ですから。せめて、浅野先生が私と間違えられて悪い印象で見られるようなことにはならないように、謹んで励んでいきたいと思っています。
変な話を長々としてしまいましたが、「初顔合わせ」ということですので、お許し頂きたいと思います。
さて、本題ですが、今日の箇所はお分かりのように、イエスさまが語られた譬え話の一つです。この譬え話は、数ある譬え話の中でも非常に分かりやすい譬え話の一つだと思いますが、少し注意が必要ではないかと思っています。それは、『安易な評価』ということです。ここではファリサイ派と徴税人が登場して参ります。聖書を読んでいきますと、このファリサイ派の人々は常にイエスさまと衝突する人々として描かれていますので、私たちにとっては印象の良くない人々として映っているのかもしれません。それに対して徴税人はマタイやザアカイに代表されるように、確かに当時においては否定的な見方がされていたのかもしれませんが、どことなく憎めない人…、むしろ律法、律法という堅苦しい社会の中で彼らこそ犠牲者だったのではないか。社会から差別され、蔑まれてきた可哀そうな人たちなのではなかったか。だから、イエスさまはそんな彼らの隣人となり、彼らを救い、自由にされたのではなかったか…と、どちらかと言えば好意的な印象を受けているようにも思います。「逆差別」というのも言い過ぎかもしれませんが、どうしても弱い立場だった人々の肩を持ちたくなるような感情も湧いてくるからです。そんなこともあってか、私たちにとっては、この譬え話はむしろ何の抵抗感もなくすらっと読めてしまうのかもしれない。そうだ、そうだ、その通りだ、と共感できるのかもしれない。確かに、そうだと思います。しかし、単純に両者をそのように色分けできるのか、とも思う。律法を一生懸命守ろうとした人々が悪者で、律法も守らず、自分勝手にいい加減に生きてきた人々が、果たして本当に善人なんだろうか。かえって、後者(徴税人)に好意的な私たちは、どこかでこの徴税人や罪人と言われている人々を隠れ蓑にしながら、律法を守ろうとしない、律法を蔑ろにしている自分を正当化し、罪人であることに安住するために、都合よく利用しようとしているところがあるのではないか。そんなふうにも思う…。
皆さん、考えてみてください。身なりもしっかりしていて、まじめで間違ったこともせず(倫理・道徳面にもしっかりしている)、神さまの戒めに一生懸命に生きようとしている人と、権力を傘に、不当な取り立てをしては私腹を肥やし、贅沢な羽目を外した生活をしている人と、どちらと付き合いたいか。どちらに好感が持てるか。おそらく、私たちの目の前にこの二種類の人が現れたのなら、断然前者の方に好意が向くのではないでしょうか。ですから、単純にファリサイ派のような人がだめで、徴税人のような人が良いということではないはずです。逆に徴税人の方が高ぶっていれば低くされるでしょうし、ファリサイ派の人々がへりくだっていれば高められるでしょう。当然、逆もありうるということです。問題は「高ぶっているか」「へりくだっているか」だからです。しかし、それでも、やはりこの譬え話に「問題あり」としてファリサイ派が登場してくるには意味があるのです。9節でこのように書かれているからです。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても」。これが、ファリサイ派の人々の問題なのです。
まじめで、努力家で、戒めを守ることに一生懸命でも、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下」すようでは、やはり本質がズレてしまっているからです。しかも、この「うぬぼれ」と訳されている言葉は、「自分自身を頼りにしている」と訳した方が良い、と言われます。もともとの意味がそうだからです。ですから、この譬え話に登場してくる、いいえ、実際にイエスさまがこれまで接してきたファリサイ派の人々の問題点とは「自分の正しさにこそより頼んでいる」ということなのです。だからこそ、彼らの祈りは自分の正しさを羅列するものになるのです。「他人を見下す」ことも非常に問題ではありますが、しかし、それは、「自分の正しさに頼る」結果でしかありません。その問題の本質は、「自分の正しさこそ(自分の努力、頑張り、熱意の結果)頼りになるものなのだ(結局、「自分を頼る」ということでしょう)」との信仰理解なのです。
先ほど、この徴税人たちを律法を守れない自分たち、私たちの正当化のための隠れ蓑にしてはいまいか、と問いました。つまり、恵みがあるのだから律法などどうでもよい、という言い訳にしていないか、ということです。それに対して律法を守ることの大切さを説いているのが、今朝の旧約の日課でした。神さまは戒め、律法を守ることを求めておられます。それは、今日においても、尚そうでしょう。それが、神さまの思い、心です。しかし、今日の日課では、その先の思い、心が記されていました。申命記10章13節:わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。神さまは単に、闇雲に、戒め・律法を守ることを求めておられるのではないのです。私たちの幸せのためです。私たちが幸せになるために、幸いを得るために、戒め・律法を守ることを求めておられるのです。
では、その戒め・律法とは何か。一言でいえば、「愛に生きる」ということでしょう。神さまが人を、私たちを愛されたように、私たちもまた愛に生きてほしい。愛に生きることによって幸いを得てほしい。幸せになってほしい。これが、神さまが戒め・律法に込められた思いでした。しかし、残念ながらファリサイ派の人々は、そんな神さまの思いを掴みとれなかった。かえって、律法を守ることを、自分の正しさを打ち立てるために利用しようとした。自分の正しさこそが、神さまの恵みを引き出す、愛を引き出す「頼るべきもの」と考えたからです。しかし、そうではないのです。そもそも、神さまは恵みを、その愛を注いでくださっているのです。幸せを願うのが、まさにそうです。だからこその、戒め・律法なのです。もし、そのことをしっかりと受け止めてさえいれば、彼らは自分の正しさに頼ることもなかったし、自分よりも未熟な、不熱心な、欠けの多い人々をことさら見下すこともなかったはずです。この神さまの思い、心をはき違えてしまった熱心さが、彼らの罪となってしまいました。
しかし、私はこうも思うのです。私たち日本人キリスト者にとっての問題は、実は前者よりも後者、この徴税人の姿をはき違えていることにあるのではないか、と。一見すると、日本人キリスト者は、前者のファリサイ派の人々よりも、後者の徴税人に近いように思います。よくこんな言葉を聞くからです。「わたしは罪深い者です」「私なんて全然だめです」「自分が救われているなどとは思えません」「不信仰者の私なんか天国には行けないでしょう」。うつむきながら、自信なさげに言われる…。これらは果たして、ここで言われている「へりくだり」なのでしょうか。何度も言いますが、ここでの問題は「自分(の正しさ)を頼る」ということです。
つまり、何を頼るべきか、ということです。ファリサイ派は何度も言っているように「自分」でしたが、この徴税人にとっては、頼るべきは「神さまの憐み」でした。この神さまの憐みに一心により頼んだ徴税人が「義」とされたのです。つまり、先ほどのように、自分はダメだ、罪人だ、自信がない、といっている私たちは、では、本当に神さまに依り頼んでいるのか、ということです。私はどうも、そうではないように思えてならないのです。結局は、私たち(日本人キリスト者たち)も自分を頼りにしているに過ぎないのではないか。だから、相変わらず自信なさげに、自分はダメだなどと言っているのではないか。結局、へりくだっているようには見えるけれども、その本質は、むしろこのファリサイ派の方に近いのではないか。そんなふうにも思えるのです。
ある解説を読みますと、イエスさまはここに登場してくる徴税人や罪人、娼婦などを自らの罪を悟り、へりくだった者として、高く評価していたとありました。確かに、そうかもしれません。しかし、もっと大切なことは、イエスさまを受け入れたかどうかです。この両者の決定的な違いは、そこにこそあるからです。何よりもイエスさまを頼りにする。ここに正しい「へりくだり」の姿勢があるのではないでしょうか。
もっと自信をもったらいい。私たちの幸せを願うイエスさまが必ず救ってくださるから…。罪を赦し、罪の縄目から解放してくださるから…。そして、私たちの幸せを願う神さまの戒めに従ったらいい。愛に生きたらいい。そして、愛に生きられない自分を知ったら、また神さまの前に、素直に悔い改めていったらいい。どうぞ、あなたの愛に生きられないこの私を憐れんでください、と神さまを頼ったらいい。そして、またイエスさまの恵みをいただいて、晴れやかに、どうどうと、赦されているとイエスさまを頼って生きたらいい。また…、何度も…。それが、私たちの「へりくだった」人生なのです。
2016年10月23日 聖霊降臨後第二十三主日
礼拝説教(市ヶ谷教会—講壇交換)
むさしの便り12月号より
礼拝説教 「天の父のように」 浅野 直樹
ルカによる福音書6章27〜36節
一昨日…、5月27日(金)の午後に、アメリカのバラク・オバマ大統領が現職大統領としては初めて広島の平和記念公園を訪ね、原爆慰霊碑に献花をされました。これは歴史的な出来事でした。任期も終盤にかかり、大統領としてのレジェンドのため、といった意見もあるようですが、国際的にも様々な緊張関係が生まれている中で大切な一歩が刻まれたのではないか、と私は思っています。
今日の福音書の日課は、小見出しにもありますように、ひとことで言えば「敵を愛する」ということでしょう。これは言うまでもなく、世界の平和、和解ということにおいても、最も大切なことのように思われます。しかし同時に、そんな簡単なことではない、ということも私たちは痛感してきました。先ほどのことでいえば、最初の一歩が「71年」もかかったというところに、事の難しさ、深刻さが物語られているのでしょう。原爆や戦争が非人道的なものであるということは、両国民の多くが感じていることだと思います。しかし、かつて敵同士であった、ということが71年の歳月を費やしてしまった。いいえ、今でも「謝罪できない」「赦せない」「自分たちは正しい」と、それぞれに看過できない言い分があるわけです。それはなにも、当然、国と国といった大きなことばかりではないはずです。私たち個々人の生活の中でも「敵を愛する」ことができたならばどれほど幸いだろうか、と思うのですが、その難しさも経験してきているからです。
この「敵を愛する」ということにおいて、今日の旧約の物語は非常に参考になるのではないか、と私は思っています。これは、いわゆる「ヨセフ物語」と言われるものです。もう皆さんもよく知っておられる物語だと思います。ヨセフのお父さんはヤコブと言いました。このヤコブには「イスラエル」という別名が与えられていましたが、イスラエル12部族の祖となる人物です。つまり、イスラエル12部族とはこのヤコブの十二人の息子たち(正確にはちょっと違うのですが)ということで、ヨセフもその一人だったのです。
当時は一夫多妻が当たり前の世界でしたから、ヤコブにも二人の正妻と二人の側室がおりまして、この十二人は異母兄弟(全員母親が違うということではないのですが)だったわけです。もう、これだけでも兄弟仲があまり良くないことは想像できます。正妻同士、側室同士、あるいは正妻と側室との間で様々な駆け引きもあったのでしょう。そういった母親同士の関係(反目)が子供同士に波及していってもおかしくないわけです。しかも、ヨセフはヤコブが特に愛していた正妻の一人ラケルの息子でした。ラケルはヨセフの弟ベニヤミンを産んでからすぐに亡くなっていましたので、よせばいいのにラケルの忘れ形見を溺愛してしまっていたようなのです。そりゃ〜、他の兄弟たちからすれば面白くないわけです。しかも、そんな父の寵愛で天狗になっていたのか、年少者にもかかわらず兄たちに対してどことなく横柄なところがあったようで、ますます兄たちからは反感をかっていきました。そして、ついにヨセフ17歳のとき、苦々しく思っていた兄たちによってエジプトに奴隷として売られてしまったのでした。なんだか韓流ドラマの脚本になりそうな物語です。
詳しくはお話しませんが、随分と苦労したと思います。しかし、彼は、エジプトの宰相にまで上り詰めたのでした。
ヨセフは兄たちのことを随分と恨んだと思います。17で奴隷として全く見知らぬ世界に放り込まれたのです。しかも、無実の罪で何年もの間、牢獄に閉じ込められもした…。来る日も来る日も牢獄の中で、なんで自分がこんな目にあうのか、と問うたに違いないと思う。その度に、兄たちの薄ら笑うような顔が思い起こされ、怒りが、憎しみが、こみ上げてきたのではないか、と思うのです。復讐心が、殺意が湧き上がっていたのかもしれません。その怒りのパワーが彼を支えていたのかもしれません。しかし、彼に転機が訪れました。夢の解き明かしで牢獄から解放されただけでなく、宰相にまで起用されたからです。しかし、ここで大切なことは、単なるサクセス・ストーリーではない、ということです。
彼はこのことによって、意味の再構築に迫られていったからです。今日の旧約の日課に、こんな言葉が記されていました。創世記45章4節以下「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちよりも先にお遣わしになったのです。」ヨセフは自分がエジプトに来た、送られた意味を、このように再構築したのです。もちろん、すぐにそう思えたのではないでしょう。時間をかけて、あるいは葛藤の中で、そのような理解に至っていったのかもしれません。しかし、この理解が徐々に兄たちに対する恨みつらみからも解き放っていきました。もちろん、神さまがそう働いてくださったからです。神さまの恵みの御業(それがヨセフの場合は夢の解き明かしであり、思いがけない宰相への抜擢ということでしょうが)を経験していったからです。ここに敵意を打ち破る一つのキーがあるように思います。
もう一つは「和解のプロセス」ということです。確かにヨセフは意味の再構築によって、現在の境遇を喜んで受け止められるようになったと思います。そして、普段の日常の中では兄たちに対する負(マイナス)の思いも感じることなく生活していけたことでしょう。しかし、兄たちと再会する機会がやってきたのでした。兄たちが住んでいるパレスチナでもひどい飢饉だったので、ヨセフのいるエジプトに食料を買いにきたからです。あれから随分と年月が経っています。エジプト特有の衣装ということもあったのでしょう。まして、自分たちが奴隷として売った弟がエジプトの宰相になっているなど夢にも思わなかったでしょうから、兄たちにはそれがヨセフだとは気づかなかったのですが、ヨセフには分かっていました。そこでヨセフはどうしたか。意地悪をしました。いろんな難題や難癖をつけては、兄たちを困らせ、窮地に陥らせたのです。ここにも、人間臭さが溢れていると思います。確かに神さまによって意味の再構築も果たし、自分なりに整理をつけていたつもりでしたが、いざ本人たちを前にして、かつての思いが甦ってきたのでしょう。
あんな目に合わせて「殺してやる」とまではいかなくても、なんらかの復讐心がふつふつと湧いたのだと思います。それが人間です。彼は何度も兄たちを苦しめました。そして、ついに(非常にドラマチックなので、ぜひお読みいただきたいと思いますが)兄たちの悲痛な叫びを前にして、彼は感情を抑えることができず、感極まって泣き出し、兄たちに自分の身を明かした、と言います。兄たちの苦しむ姿を前にして心が弾けたのでしょう。
ここに、神さまが与えてくださる和解のプロセスがあると思うのです。赦す、和解する、愛する、というのは机上のことではありません。相手あってのことです。赦しているつもりでも、和解しているつもりでも、愛しているつもりでも、いざ相手が自分の眼の前に現れると、そうは言っていられない私たちの現実があるからです。そのために、神さまはまず私たちの目を開いて相手を見せようとされます。憎しみや怒り、負の感情があるときには、相手の姿をまっすぐ見られなくなってしまうからです。
ですから、ことさら相手を悪く思い、憎んで当然、怒って当然、恨んで当然と思ってしまうところがある。しかし、本当にそうでしょうか。もちろん、敵です。自分に対して敵対するような人物です。当然、相手だって自分に良い感情を抱いてはいないでしょう。でも、本当にその人は極悪で、どうにもならないような敵、モンスターなのか、といえば、大抵はそうではないはずです。相手も人間であることがわかってくる。弱く、過ちを犯す、私たちと同様罪ある、欠けのある人間だということが分かってくる。分かってくるところに、単なる敵意や憎しみだけではない思い、同情、憐れみ、共感も起こってくるのではないか、と思うのです。
もちろん、これで全ての問題が解決できるとは思っていませんが、兄たちに捨てられ、敵となったヨセフが、兄たちと和解していったプロセスから、私たちも何か考えることができるのではないか、と思うのです。
ともかく、福音書に戻りますが、「敵を愛する」ということは、このことに尽きるのだと思います。」「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい」。憐れみ深い、敵をも愛してくださる神さまからしかこの愛は学べないのです。憐れみ深い神さまの子どもだからこそ、その生き方に向かっていけるのです。
イエスさまは語られました。「あなたがたの敵を愛しなさい」。これは命令です。命じられていることです。もちろん、私たちは福音を信じています。福音とは恵みです。ですから、この命令を守れないからといって見捨てられるようなことはないのです。しかし、いいえ、だからこそ、この「命じられている」ということに思いを向けたいのです。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。それは、ある意味、馬鹿を見る生き方なのかもしれない。理不尽な目にあう不器用な生き方なのかもしれない。しかし、私はここにキリスト教の魅力を感じるのです。憧れを抱くのです。現実の自分はもちろん、そうではありませんが、それでも、馬鹿を見るほど愛に生きる者になりたい、と思う…。イエスさまがそうだから…。
神さまの憐れみに生かされて、その愛に気づかされて、教えられて、また私たちも、そんな憐れみ深い生き方を、愛をほんの少しずつでも見習っていきたい…。そう思います。
2016年5月29日 聖霊降臨後第二主日礼拝説教(むさしの教会)
むさしの教会だより7月号より:2016年7月 31日発行
|折々の信仰随想| 信仰による明快さ 賀来 周一
「あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい」—ヨハネの黙示録3章15節
来年は宗教改革500年。改めてルターの信仰を振り返る、よい機会となりました。ルーテル教会はもちろんのこと、他の教会にあっても、ルターに魅せられたという声をよく聞きます。人によって、ルターが見せる魅力は異なるでしょう。ある人にとっては、強大な敵に敢然と立ち向かう勇気に魅せられることがあるでしょうし、また内面へ沈潜する思索の深さに共鳴する人もいるでしょう。私にとってのルターの魅力は、彼の言い分にはあいまいさがないということなのです。
通常わたしたちは、自らの生活を取り巻くさまざまな事象を説明しようとする時には、まず自分の知惠を駆使して、何らかの結論を得ようとするものです。けれども事が信仰の世界に及ぶとなると、いくら知惠を尽くしても、思索の片隅に何かしらあいまいさが残るものです。平たく言えば、考えたあげくに、その先をはっきりさせたいのだけれども、何かしら靄がかかったような状態から抜けられないといってよいかもしれません。「あなたは、冷たくも熱くもない」とは、そのようなあいまいな状態を指すと思われます。
冒頭にあげた聖書の言葉は、ラオディキアの教会の信徒に宛てられていることを考えれば、すでに信仰を得ている者として、信仰の世界にあいまいさを残してはならないとする警告を投げかけていると受け取るのが、聖書が持つ本来の意図に添うと思われます。ですから、それを受けて「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい」と言っているのです。別の言い方をすれば、信仰の世界には、あいまいさを断ち切る明快さが必要であるということです。その意味では、ルターの言葉には信仰による明快さに溢れています。たとえば—
洗礼を受けたが、こんな自分でよいのかとぐらついている時「キリスト者は罪人であって、同時に義人である」にうなずくでしょう。心にいつも黒い影が差し込んでいて、こんなクリスチャンでよいのかと訝しんでいる時「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ、大胆に悔い改め、大胆に祈れ」にハッとします。どろどろした罪の世界から抜け出すことができません。どうすれば罪から逃れることができるだろうかと煩悶する時「わたしが罪人であるというとき、わたしの罪はわたしにはない。わたしの罪はキリストにある」との言葉に、「そうか、キリストは私のために死んでくださったのだ」との確信が生まれるのではないでしょうか。
こうしたルターの言葉は枚挙にいとまがありません。でも、こんなことがありました。私の神学校時代(鷺宮)、何かの拍子に「ルターと聖書」とつい言ったところ、当時神学校長だった岸千年先生から「ルターは、それらの言葉を聖書から学んで自分の信仰の言葉にしたのだ。だから『ルターと聖書』と言うべきでない」と言われたのでした。つまり、ルターの言葉を聖書と同列にして、ルターを神格化するなという意味なのです。これも信仰的明快さと言えましょう。
元むさしの教会牧師(定年牧師)
むさしの教会だより7月号より:2016年7月 31日発行