説教

【Live配信:音声修正版】2023年3月19日(日)10:30 四旬節第4主日 説 教「 イエスに救われた人 」浅野 直樹 牧師


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【説教・音声版】2023年1月8日(日)10:30 主の洗礼主日礼拝  説 教 「 天の声 」浅野 直樹 牧師


聖書箇所:マタイによる福音書3章13~17節

本日は「主の洗礼」主日の礼拝ですので、イエスさまの洗礼の場面が日課として取り上げられていた訳ですが、その冒頭に出てくる言葉、「そのとき」とは、いったいどんな
「時」を指すのでしょうか。もうお分かりのように、直前に出てきます洗礼者ヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けていた場面が、その「時」です。ご存知のように、当時行われていた洗礼とは、全身を水の中に沈める(浸ける)というものでした。「バプテスマ」という言葉の意味も、もともとはそういう意味です。では、そんなバプテスマ・洗礼にはどんな意図があったのか。ひとことで言えば「悔い改め」です。罪の「悔い改めのバプテスマ・洗礼」です。3章1節でこう記されているからです。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」。

あるいは、その後の5節では、「そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」と記されている通りです。しかも、生半可な覚悟
では許されなかったようです。洗礼を受けにやってきたファリサイ派やサドカイ派の人たちに対して、こう言われているからです。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と。

これは、大変厳しい言葉です。このように、人々に徹底的に罪の自覚を持たせて、真剣な悔い改めを求めていったのが、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼(バプテスマ)でした。そこに、その洗礼の現場に、イエスさまが来られたのです。罪の自覚に悩まされて、悔い改めを、赦しを求めてやってきた多くの人々の列に連なって、イエスさまは順番を待って、来られた…。このヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けるために。だから、ヨハネは困惑したのです。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られるのですか。』」と。

キリストの洗礼:アンドレア・デル・ヴェロッキオ (1435–1488) レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452–1519) ウフィツィ美術館



何週間か前、去年のことですが、待降節の中で何度かこの洗礼者ヨハネを取り上げた時がありました。ヨハネは神さまによって遣わされたイエスさまの先駆者だからです。しかし、そのヨハネでさえも、十二分にはイエスさまのことを理解できていなかったこともお話ししたと思います。11章にこうあるからです。2節以下、「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」。自分が証しすべきメシアが本当にイエスさまなのかどうか、揺れる心の内が見事に描写されていると思います。そんな困惑は、実はすでに、この洗礼の時に芽生えていたようにも思うのです。なぜなら、洗礼者ヨハネが思い描いていた、待ち望んでいたメシアとは、このような方だったからです。

「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。洗礼者ヨハネが思い描いていたメシア・救い主とは、まさに終末の審判者メシアでした。神さまの厳正な正義のもとで人々を裁き、救いに至る者と滅びへと向かう者とを審判される、そんな自分なんか足元にも及ばないほどの遥かに優れた方だったのです。だからこそヨハネは、とんでもない、私こそがあなたから悔い改めの洗礼を受けるべき者です、というほどだった訳です。

そうです。これは何も、洗礼者ヨハネだけの特異な理解ではなかったはずです。神さまから遣わされるメシア・救い主とは、本来そういうもの。罪などない、少なくとも悔い改めの洗礼など全く必要としない、神さまの「聖」に与る存在。それがメシア。誰だって、そう思うはずです。現に、それが私たちの信仰でもある。ヘブライ人への手紙にもこうある通りです。「この大祭司は(これはイエスさまのことですが)、…罪を犯されなかったが、」。

そうです。私たちのメシア・イエスさまは罪を犯されなかったのです。罪の全くないお方です。そういう意味では、私たちとは根本的に違う。罪を犯さざるを得ない私たちとは違うのです。しかし、先ほどのヘブル書はこう語っていきます。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。

そうです。イエスさまは私たちとは違うのです。罪を犯されなかったのです。それにも関わらず、私たちと同じようになられたと語られている。だから、イエスさまは本来必要でもないのに、むしろ、私たちと同じになるために、悔い改めの洗礼を受けてくださった。それを拒もうとするヨハネを無理矢理に説き伏せるようにして、私たちと等しく赦しを必要とする罪人となってくださった。だからこそ、イエスさまは十字架の道を歩まれたのです。この洗礼の出来事自体が、既にその始まりを予告していると言っても良いのかもしれません。

イエスさまの洗礼は、ひとことで言えば「連帯」です。私たちと、しかも赦しを必要とする罪人である私たちと「連帯」するために、不必要な洗礼さえもあえて受けてくださいました。その「連帯」…、北森嘉蔵氏は「連帯保証人」とも表現しておられます。これは非常に面白い、また意味深長なご意見だと思っています。私は母親から口酸っぱく、いくら親しい仲だとしても、決して保証人・連帯保証人にはなるな、と言われてきました。ご承知のように、借金した人が返せなくなった場合は、肩代わりをしなければならないからです。これが、ある意味普通の感覚でしょう。なのに、イエスさまは、そもそも借金だらけの私たちと、しかもその借金を返すあてもないような私たちと、むしろ積極的に連帯してくださり、あまつさえ「連帯保証人」にさえなってくださっている。イエスさまの十字架を想う時、これはグッときてしまいます。

あるいは、ルターは結婚・婚姻関係と表現しています。現代では夫婦であっても財布は別々、といった感覚が主流になりつつあるのかもしれませんが、ルターの時代はもちろんそうではなく、夫婦とは全てのものを共有する存在でした。ですから、新妻である私たちの一切の負債を新郎であるイエスさまが自分のものとして丸ごと抱えてくださり、新郎であるイエスさまの豊かな富・祝福が、新妻である私たちにそのまま与えられる。そう表現したのです。いずれにしましても、この連帯は決してギブアンドテイクなどではありません。利害が一致するからではないのです。一方的にイエスさまが損をするだけです。ご自分の命を落とすほどに。それでも、イエスさまは私たちと連帯してくださる。私たちと共有したいと願ってくださっている。たとえ、悔い改めの洗礼であったとしても。それは、どれほど大きな恵みでしょうか。

しかも、それだけではないのです。洗礼を受けられた後、天からこのような声が聞こえてきたからです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。イエスさまは悔い改めの洗礼を受けられた後でも、いいえ、悔い改めの洗礼を受けてくださったからこそ、やはり「神さまの愛する子」なのです。私たちにとって連帯はありがたい。私たちのために罪人にまで降ってきてくださったことには感謝に堪えません。しかし、それでも、その上でも、イエスさまは神さまの愛する子、圧倒的な神さまの力を持つひとり子でもあられるのです。ですから、「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」とあるのです。イエスさまは神さまの霊を一身に受けられた力ある方でもあられる。

今日、旧約の日課としてイザヤ書42章が取り上げられていたのは、先ほどの天からの声、後半の「わたしの心に適う者」がこのイザヤ書42章からの引用だと考えられているからです。ちなみに、前半の「これはわたしの愛する子」は、詩編2編7節からの引用だと考えられています。ところで、このイザヤ書42章は、「主の僕の歌」と言われるものの一つで、有名なイザヤ書53章に代表されますように、イエスさまのことが語られていると受け止められてきました。その中に、こんな言葉があります。42章7節、「見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために」。神の子、主の僕であるイエスさまはそんな方でもある。

先ほど代表的と言いましたイザヤ書53章に「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」と記されていますように、私たちの現実は「迷える羊」なのだと思うのです。神さまから迷い出てしまった憐れな羊。それが、見るべきものが見えずに、捕らわれて不自由とされ、闇の牢獄の中に住んでいる状態なのだとも思う。旧約聖書には、たびたび神さまから離れてしまった当時のイスラエルの民たちの姿が描かれていますが、そこでは不正が蔓延り、弱者が虐げられ、貧富の差が開き、無実の人の血が流されている現実がありました。

まさに、今の世界です。今の世界もまた、人々は神さまから離れてしまい、見るべきものが見えなくなり、自分の欲望に捕らわれ、気付かぬうちにも闇の牢獄の中に住んでしまっているような状態。格差が広がり、貧富の差が広がり、人としての尊厳が無視され、無実の人の血が多く流されている。

そんな世界に、私たちと連帯するために、連帯のみならず、力ある神の子として、私たちを正しき、あるべき道へ、姿へと引き戻すために、もう迷える羊とはしないために、イエスさまは生まれ、洗礼を受けられ、十字架に命を捨て、復活してくださった。それが、あの洗礼者ヨハネですら掴みきれなかった、困惑してしまったメシア、イエスさまの姿なのです。

私たちは幸いにして、そんなイエスさまと結び付けられるために洗礼の恵みに与ることができました。また、そんな恵みを一人でも多くの人々に味わって欲しくて、宣教の業に励んでいきます。この新たな一年、2023年も、そんな年でありたい、と思っています。

【週報:司式部分】2022年11月13日(日)10:30 聖霊降臨後第23主日礼拝



司 式  坂本 千歳
聖書朗読 猿田 幸雄 坂本 千歳
説 教  坂本 千歳
奏 楽  上村 朋子

開会の部
前  奏 わが心の底より F.Metzler

初めの歌

1.空も地をも あまねく統(す)べ
愛と力 満(み)つる神に
ものみな 感謝のほめうた捧(ささ)げよ。 アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
神様。あなたは、依り頼むすべての者を守ってくださいます。あなたなしには聖も力もありえません。
あなたのご支配と導きによって、永遠のものを失うことなく、過ぎ行く今を生きることができるように、
私たちを憐れんでください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 マラキ書 3:19-20a( 旧約 1501 頁 )
第2の朗読 テサロニケの信徒への手紙II 3:6-13( 新約 382 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 21:5-19( 新約 151 頁 )

みことばの歌 教会238番(1節) いのちのかて

1.いのちのかて 主よいま  与えたまえ この身に。
聖書(みふみ)学ぶ わがたま 生けることば あこがる。 アーメン

説 教 「始めの時にも終わりの日にも 」 坂本 千歳 牧師

感謝の歌 教会337番(2節) やすかれ

2.やすかれ わがこころよ、 なみかぜ 猛(たけ)るときも、
恐(おそ)れも 悲しみをも  みむねに すべてゆだねん。
み手もて みちびきたもぅ  のぞみの 岸はちかし。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会351番(4節) われをとらえたもう

4.きみの十字架(じゅうじか)にぞ われはすがりまつる
ちりにかえる身にも つきぬいのちをば
あたえたまわん。

後  奏 おおイエス.キリストよ、わが生命の光 G.Waag

【ライブ配信】2022年11月06日(日)10:30 全聖徒主日(召天者記念)礼拝 説 教 「神の国はあなたがたのもの 」 浅野 直樹 牧師



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【説教テキスト・音声】2022年10月30日(日)10:30 宗教改革記念主日礼拝 説 教 「 御言葉を受け入れる自由 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書8章31~36節


※特別編集 1)聖書朗読 00:02~ 2)説教 06:48~ 3)派遣の歌 29:19~

悔い改めが先か、愛を知ることが先か。まだ若かった頃(20代半ばだったと思いますが)、神学らしき事をかじったばかりの若き神学生二人、家内と私とで熱く論争を戦わせていたテーマです。

キリスト者一代目である私は、自身の経験・体験から、また書物などを通して、まずは罪の自覚が生まれ、悔い改めへと導かれていき、福音に触れることによって神さまの愛を知っていく道筋がキリスト者としての基本的な筋道ではないか、と主張していました。対して、私よりも優秀な神学生であった家内は二代目ということもあり、生まれながらに教会に行っていて、神さまの愛も知らされて来ました。

だからなのか、そんな神さまの愛を、犠牲的な愛を自分事として知ったからこそ、罪の自覚が生まれるのだ(これも家内の体験でもあったのでしょう)と主張していた。

私からすると、全く逆方向と思えたのです。当時、結婚の約束をしていた私たちは、時折車を借りては愛知県の実家にいくことがあったのですが、道中私が眠気に襲われると、家内は決まってこの話題をふりました。すると、私が急に勢いづいて持論を展開するもんですから、眠気が吹っ飛ぶわけです。
よくも心えたものです。ともかく、今となってはどうでも良い議論だったと思います。どちらが先でも構わない。神さまの御業は多様である。いちいち目くじらを立てる必要もない。

そう思う。しかし、そんなことで眠気が吹っ飛んでしまうくらいに熱くなれたことにも意味があったのだと思っています。互いに、譲れないほどの大切な、ある意味自分にとって決定的な出来事・体験があった、ということです。

今日は宗教改革主日です。ですので、先ほどはそのために特別に定められた日課を読みました(ヨハネ8章31節以下です)。しかし、通常の日課、聖霊降臨後第21主日の日課も捨て難いと思いましたので、手短に触れたいとも思っています。皆さんもよくご存知の「徴税人ザアカイ」の物語(ルカ19章1節以下)です。イエスさまがエリサレムに向かわれる途中でエリコの町に寄られたとき、おそらくその町の住人であったザアカイが一目イエスさまを見たいと思うわけですが、背が低いがために、人混みの中では見ることができないでいました。

そこで、先回りして、いちじく桑の木の上に登って一目見ようとした。どんな興味関心でそうしたかは分かりませんが、ザアカイが期待したのは、それだけです。一目どんな人かと見ることだけ。それだけだった。なのに、木の上のザアカイをイエスさまは見つけられて、声をかけられた。しかも、今日はあなたのところに泊まることにしている、なんて言われてしまった。ザアカイはどう思っただろうか。私たちには、その詳細は分かりません。

しかし、ザアカイの中で何かが起こったことは事実です。彼はこう語っているからです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。ザアカイが貪欲な人物だったのか、金に汚い人だったのかは分かりません。しかし、彼は「徴税人の頭」でした。金を儲けることに一所懸命な人生であったことは間違いないでしょう。その彼が、変わった。金を、財産をいくらか手放しても良いと思えるほどに変えられた。そんなことが、このザアカイの身に起こったのは確か。それを、イエスさまはこう言われたのです。

「今日、救いがこの家を訪れた」と。このザアカイの変化は、私たちの考えるような「救いの出来事」とは違っているように思えるのかもしれません。彼は私たちの言うところの罪の自覚や悔い改め、福音の受容などをしているようには思えないかもしれない。しかし、イエスさまは、そんなザアカイに対して「救いが来た」と言われたのです。それが、彼の変化として示された。私たちは、そのことも覚えて良いのだと思います。

言わずと知れた宗教改革の立役者は、私たちルーテル教会の先達であるマルティン・ルターです。しかし、これもよく指摘されていますように、彼は宗教改革を起こそうとして何かを行ってきたのではありませんでした。むしろ、自分自身の救いへの関心が、結果的に多くの人々を巻き込み、歴史を大きく動かすことになっていったのです。

彼の父の名は、ハンス・ルダー。この父ハンスも世襲制が慣習であった当時としては、非常に珍しい一代で財を成した努力家、今で言えばスタートアッパー・起業家でした。そんな父ハンスのことを、徳善先生は著書で「上昇志向の生き方」の人と言っておられます。そんな父ハンスの長男として生まれ期待されていたルターにも、その影響は色濃くありました。ルターもまた努力の人でした。あの有名な落雷事件で修道院入りを果たしたルターについても、徳善先生はこのように書いておられます。「『修道院に入ったとき、私は「いかにして恵みの神を獲得するのか」という問いを抱いていた』と晩年のルター回顧している。なにものかを獲得したいと強い意志を抱き、自らの能力の限りを尽くし、なんとかしてこれを得ようと努力すること。

これは父ハンスの人生の大命題であり、生きる上での信条でもあった。父の望んだ人生の階段を上ることを止めたルターであったが、しかしやはり、別の人生の階段を上りはじめたのである」。そんな父から受け継いだ人生訓、また当時の神学の潮流も相まって、ルターは完璧な修道士になるべく努力に努力を積み重ねていったわけです。しかし、その結果はもうお分かりでしょう。努力をすればするほど、どうしようもない自分の傲慢さ、罪深さに気付かされ、救いの確信、心の平安を得ることができませんでした。後の学者が指摘していますように、ある意味、半ば精神疾患に陥っていたのかも知れません。

しかし、彼は、聖書から福音に、恵みに触れることになった。自分の力、努力で救いを勝ち取るのではなくて、神さまの一方的な恵みとして、イエス・キリストのゆえに、救いは私たちの前に差し出されているのだ、と気付かされた。それが、彼自身の救いの体験となり、また、それが宗教改革の原動力にもなっていったわけです。それは、その喜びを自分自身にだけにとどめておけなかったからでもあるでしょう。

今から500年以上も前のことです。「宗教改革」「宗教改革」と言われても、今日の私たちにとってはなかなか馴染まないのも正直なところだと思います。私自身、宗教改革期のルターの著作を改めて読みましたが、違和感を感じました。あまりに、当時の状況と現在の私たちの状況とが違うからです。違いすぎるからです。それでも、一人の人が、一人の悩める修道士が救われたという事実は重いと思います。闇の中に閉ざされてしまっていた一人の人に、救いという光が差し込んできた事実は重いと思います。その重い事実が、隔世の感を禁じ得ない現代に生きる私たちの心も熱くする。

そして、それが、たった一人の出来事で終わらなかったという事実も、大変重いのだ、と思うのです。もし、ルターが単に自身の研鑽から生じた神学の、学問の問題として、新たな神学を提唱したに過ぎなかったとしたら、もし、ルターが当時の教会の腐敗撲滅運動を展開しただけだとしたら、これほど民衆を動かす、世界を、歴史を動かす運動になっただろうか。一人の人の救いの出来事だったからこそ、一人の人の闇の中に光が差し込んできた出来事だったからこそ、同じように救いを求める、光を求める多くの人々に共感を、信頼を、希望を生んだのではなかったか。そう思う。それもまた、重い事実ではないだろうか。

2000年前であろうと、500年前であろうと、現代であろうと、世界が全く異なろうとも、人は救われるのです。罪理解が先か、愛が先か、救われるための道筋は正しいのか、そんなことはどうでもいい。いいえ、どうでもよい訳ではないかも知れませんが(それを正したのが宗教改革ですから)、

それよりももっと大切なことがあるはずです。それは、何かが起こる、ということです。その人の内に、何かを起こす力が、イエスさまにはある。イエスさまを語る聖書にはある。時代も文化も超えて、確かにある。その事実を、まず重く受け止めたいと思うのです。

その事実に気づかせ、問い直させてくれるのが、宗教改革を覚えて記念していく一つの意味ではないか、と思います。

【 説教・音声版】2022年2月13日(日)10:30  顕現後第6主日礼拝  説教 「 貧しい人々は幸い 」 三浦慎里子 神学生

顕現後第6主日礼拝

エレ17:5-10  Ⅰコリ15:12-20  ルカ6:17-26

「基本に立ち返ることが大切だ」とよく聞きます。道を極めた人ほど、基本を大切にしているという印象があります。今、中国でオリンピックが開催されていますが、出場する一流の選手たちが素晴らしいパフォーマンスを披露していますね。先日テレビを観ていましたら、この一流選手たちも、ジャンプやスピンの基本的な形をもう一度追求して試合に臨んでいるのだというエピソードが放送されていました。基本がしっかりしている人は、簡単にぶれないし、そこから更に大きく発展することができるんですね。本日与えられたみことばも、私たちクリスチャンを基本に立ち返らせるものではないかと思います。

私たちクリスチャンが信仰するキリスト教。その中心とは一体何でしょうか。先週の使徒書の中で、パウロはこう言っています。「最も大切なこととしてわたしがあなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」パウロはこのように前置きした上で、本日の使徒書に書かれている内容に入っていきます。


どうやら、この時コリントの教会の中には、死者の復活を疑う人々がいたようです。死体の甦りに懐疑的な人々の多くは、文化的な水準が高く、哲学的な知識が豊富で賢い人々でした。彼らは肉体を墓として軽視し、死は魂を肉体の墓から解放するものと捉えていました。キリストの復活は霊的な甦りのことを言うのだ。死体が生き返るはずがない。そう考えていたのでしょう。でもこのような考え方は、現代の私たちにも思い当たるところがあるのではないでしょうか。

私たちは実際にイエス様が復活された様子を見たことはありませんし、死者が生き返るところも見たことがありません。世間の常識では、死者が生き返るなんてことを言ったら変な人だと思われるでしょう。復活というのは、霊的なものなのであって、肉体が生き返るってことじゃない。私たちもそう思いがちではないでしょうか。その方が理性的だし、この世界で批判も受けず生きていきやすいです。
しかしパウロは、死者の復活はあるのだと言っています。死者の復活が無いとすれば、イエス様は復活しなかったことになる。イエス様が復活しなかったのなら、自分が宣教していることも私たちが信じている信仰もすべて無駄なものになってしまうではないかと。「この世の生活の中で、わたしたちがキリストに望みをかけているだけなら、わたしたちはすべての人の中でもっともみじめな者です。」
パウロはユダヤ人で、最初はキリスト教を迫害していましたが、回心して、キリストを信じるようになった人です。当然、仲間だったユダヤ人たちからは妬まれ、嘲笑され、受け入れられず、何度も殺されそうになりました。もし、キリストが死者の中から復活しなかったのなら、こんなに危なく辛い思いをしてまで、キリストを宣べ伝える必要はないではないか。

キリストを信じて、自分を律し、世間からの批判と無理解にさらされながら生きるクリスチャンも同じです。もし私たちが、苦しみや痛みに耐えながら、キリストというただの立派な人物に望みをかけているだけだとしたら、私たちには一体何の救いがあるのか。それなら、いっそ多くの人がしているように、欲望に身を任せ、今を楽しみ暮らして生きる方がいいに決まっている。しかし、パウロは言います。「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」と。神の子であるイエス様は、地上に人として生まれ、人として私たちと同じように歩まれ、私たちの罪を背負って死人となられ、神によって復活させられた。そして今も私たちの中で生きておられるのです。

罪人として無残に死なれた方が甦り、死に打ち勝たれたこと。その方と結ばれた者であるという救いの約束として、洗礼を受け取っていること。このことに、私たちは新しい命の望みをかけるのです。「眠りについた人たちの初穂」という言葉があります。旧約では、収穫した果実の最初のもの、最上のものを神様に捧げていました。この世の全ての実りを所有する神様を讃えると同時に、神様に創造された全てのものが神様の祝福のもとに置かれることを意味しています。だから、キリストが「眠りについた人たちの初穂」と呼ばれる時、キリストを信じる私たちキリスト者もそこにつながっています。

たとえ、世間からは理解を得られないものだとしても、私たちは死人の内から復活されたイエス・キリストを通して、すべてを支配される全能の神様を信じている信仰共同体なのです。パウロの言葉は、私たちを、私たちの教会が信仰の先人たちから脈々と受け継ぎ、今も信じているものの中心へと立ち帰らせてくれる言葉ではないでしょうか。

さて、ここからは本日の福音書のみことばに聞いていきたいと思います。「貧しい人々は幸いである」というフレーズは皆さんも何度も聴いて馴染みのあるものですね。マタイ福音書にも並行箇所があって、山上の説教と呼ばれています。これに対し、ルカのこの箇所は、イエス様が話された場所が山上ではなく平らなところであることから、「平地の説教」と呼ばれています。

弟子たちの他にも、周辺の様々な地方から、イエス様の話を聴くため、また病を癒してもらうため、そして悪霊を追い出してもらうために大勢の人が集まっていました。イエス様から力が出ていたということは、神様の力がイエス様の中で働いていたということです。多くの群衆が周りにいる状況なので、イエス様がこの群衆に語ったと勘違いしやすいですが、イエス様は「弟子たちを見て」語られたと書かれています。この箇所は、弟子たちに向かって、イエス様の弟子としての生き方、覚悟について語っている箇所なのです。四つの幸いのことばがあります。

聖書の原文を読みますと、マタイではこの箇所は三人称ですが、ルカでは二人称で書かれています。直訳すると、「幸いだ、貧しい人たち。神の国はあなたがたのものなのだから。」といったところでしょうか。なんだかイエス様の言葉に血が通った人間味のある温かさが感じられますね。イエス様と弟子たちの絆も感じられます。大切な弟子たちを慈しまれるように、イエス様は語りかけておられます。でもその内容は、なかなかに厳しく驚きに満ちたものです。貧しいことが、飢えていることが、泣いていることが、ののしられることが幸せだとは普通は思えません。

The Sermon on the Mount
Carl Bloch, 1890



しかし数千人の人々に食べさせ、満腹させられたイエス様ですから、これは、貧しさ自体を、そして飢えること自体を良しとしておられるのではありません。イエス様は「人の子のために」と言われます。イエス様のために、弟子たちが貧しくなり、飢え、泣き、ののしられるとき、それは幸いなことだと言われるのです。神の国は既にあなたがたのものだと。この箇所のすぐ前の場面で、イエス様は弟子たちを集め、その中から12人を選び、使徒と名付けられています。

これから神の国を宣べ伝えるために旅に出る弟子たちを、どんなに困難な道が待ち受けているか、イエス様は既にご存知だったに違いありません。だからこそ、イエス様は弟子たちにこの言葉をかけられたのだと思います。忌まわしい処刑の道具である十字架が救いのシンボルであるように、イエス様のこの世での敗北が本当の勝利であるように、神の国ではすべてが逆転するのです。マタイ福音書の山上の説教には書かれていないのが、後半の不幸のことばです。

前半の幸いの言葉と対比させた書き方になっています。富んでいる人、今満腹している人、今笑っている人、人から褒められている人。これらの人々は不幸であると書かれています。なぜなら、この世で欲しいものを既に手に入れ、満足し、慰められているからです。そのような人たちは、この世の基準や自分が持っているものに頼って生きるので、神様の助けを必要としません。神様を信頼しない人たちは、神の国が来る時飢え乾きます。本日の旧約聖書の表現を用いるなら、炎暑の荒野を住まいとする裸の木のようになるのです。

私はクリスチャンではない家庭で育ちました。周囲にキリスト教についての理解はほとんどありませんでした。そんな環境の中で、私が神学校に行くと決めたとき、喜んでくれた人も多くいましたが、理解を得られないこともありました。「そっち(宗教)の方にいっちゃうんだ」と変人扱いされたこともあるし、「牧師になるのは別に今じゃなくてもいいでしょ」と召命を軽視されたこともあります。神様からいただいた召命は私にとって一番大切なもので、人から何と言われようと神様に従いたいという思いがあります。それでも、周囲の人から異質なものとして自分が扱われた時、やはり心が痛みました。普通の人でいたいし、良く思われたいという気持ちがあるからです。何の保証もない自己責任の世の中で、無防備でいるのは不安ですね。

私たちはいつも不測の事態に備えておきたいし、身を守る何かを持ちたいと思うものです。自分の力で何とかしたいと思ってしまいます。しかし、神の国では、この世の基準や価値観や人間の力は意味をなさないことを、私たちは理解しなければなりません。私たちは、信仰を与えられた時、新しい命を約束されたのと同時に、理性では捕らえられない神様の業を受け入れる決断をしました。それは、自分の分別には頼らず、神様にすべてをお委ねするということです。

神様の前に何も持たない貧しい自分を認めることです。イエス様の弟子であるということは、この世と神の国の狭間で痛みと葛藤を感じながら生きることであると言えるでしょう。死者の復活を信じることもそうです。イエス様が十字架の上で経験された痛みの上に立っている私たちも、その痛みを共有します。私たちは、この葛藤や痛みを一人で抱えていかねばならないのでしょうか?それは違います。本日の旧約聖書にもあるように、神様はご自分がお創りになった人間のことを誰よりも良くご存知です。私たちが弱いことも、心の中の不安も、醜さも全部。だからこそ私たちにはイエス様が与えられているのです。

そして、信仰を同じくする仲間たちと共に、教会に集い、毎週の礼拝の中で神様の憐みと恵みを受け取り、私たちを死から引き上げ、新しくしてくださるイエス様が共におられることを思い起こすことができます。そのイエス様は、高いところではなく、平なところに降りてこられ、私たちと同じ目線に立ち、私たちに温かく語りかけてくださっています。「幸いだ、貧しい人たち。神の国はあなたがたのものなのだから。」イエス様の隣にしっかりと根を張り、実を結び続ける木として、生かされるものでありたいと思います。アーメン。

【 説教・音声版 】2022年2月6日(日)10:30  顕現後第5主日礼拝  説教 「 人間をとる漁師にしよう 」 浅野 直樹牧師

聖書箇所:ルカによる福音書5章1~11節



今日の福音書の日課は、皆さんもよくご存知の「弟子の召命物語」です。

先ほどは、「良く知っている」と言いましたが、しかし、案外、この「良く知っている」というものは、「思い込み」も多いものです。「良く知っている」と「思い込ん」で、大切なことを見落としてしまうことにもなりかねません。そういう意味でも、今朝の御言葉を少し丁寧に見ていきたいと思っています。

今日の箇所には、「漁師を弟子にする」との小見出しが出ていますが、その下に並行箇所が記されています。

マタイによる福音書4章18節以下と、マルコによる福音書1章1
6節以下です。これらは、並行箇所と言われますように、ガリラヤ湖で漁師たち…、ペトロと、その兄弟アンデレ(このアンデレの名前はルカには出てきません)、そしてゼベダイの子たちであるヤコブとヨハネ、この4人の漁師たちがイエスさまの弟子となることは共通しています。しかし、このルカ福音書と他の二つの福音書とでは、随分と印象が違うように感じます。マタイ、マルコでは、先ほどの4人の漁師たちに、直接招きの言葉がかけられました。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。唐突のようにも思えるこの呼びかけに、四人は即座に反応し、従っていきました。おそらく、私たち は、弟子の召命物語といえば、その印象が強いように思います。しかし、このルカ福音書には、そういった招きの言葉は出てきません。そうではなく、ある出来事を通して、弟子への道が開かれていきました。ここに、このルカ福音書の一つの特徴があるように思います。

そして、もう一つ。マタイもマルコも、弟子の召命は、イエスさまの宣教活動のわりと初期に、むしろ宣教活動をはじめられてからすぐに、といった印象を受けます。しかし、ルカは違います。ルカでは、この時点ではある程度すでに成功を収めていた印象を受けます。先々週から、イエスさまの郷里であるナザレでの宣教活動の様子を見ていきました が、そこでもすでにカファルナウムという町で宣教活動が行われていたことが分かりますし、31節からは、再びカファルナウムに戻られた後の宣教活動が報告されています。また、今朝の箇所では、イエスさまの元に群衆が押し寄せて来た、と記されていますが、これは安息日ごとに行われていたであろう会堂(シナゴーグ)でのお話(説教)だけでは飽き足りず、平日にも関わらずイエスさまの話を聴きたいと多くの群衆たちが集まっていたことを物語ってもいるのでしょう。

あるいは、今日の弟子・シモンの召命物語の前に、次の物語が挿入されていることも非常に興味深いと思います。これもルカだけです。4章38節以下です。ここでは、イエスさまはシモンの家を訪ね、その姑の病を癒やされた出来事が記されていました。つまり、イエスさまと少なくともシモンとの出会いは、この召命物語が最初ではなかった、ということです。しかも、挨拶を交わした程度、でもなかったでしょう。シモンの家を訪ねるくらいですから、ある程度の親しさはあったのかもしれません。

以上、見てきましたように、同じ弟子の召命物語を取り扱っているにも関わらず、随分と印象が違うものです。少なくとも、このルカの召命物語からは、あまり唐突感は感じません。むしろ、じっくりと…、ある意味弟子となるための準備期間といいますか、イエスさまとの関係の熟成のために時間をとり、そして、ある出来事をきっかけにそれが大きく動き出した、と言えるのかもしれない。これは、どちらかといえば、マタイやマルコの記述よりも、私たちにもよく分かる変化だと思います。ともかく、これらの大きな違い、特徴について、ある方はこのようにいいます。

ルカの召命物語では、イエスさまの宣教の業が進展して、人手不足解消のためといった印象が強い、と。これは、案外的を得ているようにも思います。そして、それは今日の私たちにも言えることなのかもしれません。

彼ら弟子たちが大きく動き出したのは、大漁の奇跡を経験したからです。それについては、いちいち細かく説明する必要もないかもしれません。群衆に向けての話を終えられた後、シモン・ペトロに沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をするようにと言われます。まさに数時間前まで、一晩中漁をしましたが、その日に限っては一匹もとれなかったのです。不漁ということは度々あったとしても、一匹も、というのは、彼らにとっても珍しかったに違いありません。

彼らは、その徒労感に肉体的にも精神的にも疲れ切っていました。しかも、今は昼間です。セオリーじゃない。魚からは丸見えだからです。とれっこない。プロであるシモンにはよく分かっていた。しかし、シモン・ペトロはこう答えます。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。これも、なかなかに考えさせられる言葉です。おそらく、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでし た。」と「しかし」の間にはしばらくの「間」があったのではないか、と思います。苦笑いというか、深くため息をついていたのかもしれません。「無理だとは思いますが、せっかくあなたがおっしゃるのですから、一応網だけは降ろしてみましょう」といった心の声と一緒に…。すると、予想もしなかった出来事が起こります。良くても数匹どころか、あまりの大漁に自分達だけでは引き上げることができません。

仲間の舟、ヤコブとヨハネにも手助けを求めて、ようやく引き上げることができた。今までに経験したことのない大漁です。しかも、数時間前までの徒労感も相まって、彼らは無我夢中で魚を引き上げていたことでしょう。しかし、しばらくして、目の前に広がっている光景、舟が沈まんばかりに山積みされた魚の量を見て、ペトロは我にかえり、恐ろしくなりました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。

今日の旧約聖書の日課も、良く知られた預言者イザヤの召命物語でした。この両者にはいくつか共通するところがありますが、特に、両者ともに「恐れた」ということです。自分の罪深さに気付かされ、恐れた。
雄大な大自然の風景、あるいは荘厳な建築物…、神社仏閣などもそうですが、そういったものに触れるとき、私たちはどことなく襟を正されるといいますか、厳かな気持ちにさせられるものです。しかし、それだけでは罪の自覚は生まれません。そうではなくて、より天的なものに触れる時、あるいは圧倒的な力の前では、人は己の罪深さを自覚せざるを得なくなるのだと思います。あのイザヤやシモン・ペトロのように。彼らは、ことさら罪深い人ではなかったでしょう。ペトロに関して言えば、やや直情的で喧嘩っ早いところはあったかもしれませんが、むしろ好人物だったと思います。ですから、ここでいう罪の自覚とは、ああいった罪、こういった罪ということではないのです。もっと根源的な、聖なるものに触れた時の圧倒的な自己理解。それが、「恐れ」という形で現れてくる。

ともかく、神さまの臨在に触れたイザヤも、イエスさまの圧倒的な力の前に立たされたペトロも、共にそのような恐れを抱いた訳です。しかし、それだけではなかった。赦し が、清めが与えられたからです。「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」。ペトロにはあのイザヤのように、直接的には赦しの言葉、清めの言葉は語られていませんが、しかし、この言葉の中に、それら全てが含まれていたと思います。「恐れることはない」。イエスさまはペトロに、もう恐れることはない、と言ってくださいました。だからこそ、弟子としての歩みをはじめることができるのです。弟子として、イエスさまの宣教の業に加わっていくことができるのです。

ラファエロ・サンティ「奇跡の漁り」(1515年) ※ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂に飾るためのタペストリー用下絵



イエスさまはペトロに、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃってくださいました。まさに、ここからペトロの人生は変えられたのです。しかし、これは、ただペトロだけへの呼びかけでもないと思うのです。なぜなら、この言葉を傍で聞いていた、直接的には語られていなかったヤコブもヨハネもペトロと共にイエスさまに従って いったからです。つまり、ペトロに連なる私たちにも̶̶ペトロは教会の礎と言われているのですから̶̶呼びかけられていると言っても良いのではないでしょうか。

では、私たちは何をもって人々を漁っていくのか。今朝の使徒書の日課は、第一コリント15章1節以下でしたが、これは一つの立派な説教だと思います。じっくりと味わって読んでいただきたいと思いますが、ここで使徒パウロは、この十字架と復活の福音を、「わたしも受けた」と伝えていることにも注意したいのです。パウロ自身、福音を伝えられた一人です。そのパウロが、今度はその福音を人々に伝えていくようになった。この福音が自分を、そして人々を救う力があることを知ったからです。

先ほどの「人間をとる漁師」とは、直訳的にいいますと「人間を捕らえて生かす者」という意味になると言われます。つまり、人を真に生かす働きということです。しかし、私たちは、この福音に人を生かす力など本当にあるのか、といった心をどこかで持ってし まっているのかもしれません。

先日、ある本を読んでいますと、こんな言葉が目に飛び込んできました。ある医師の言葉だということですが、「宗教心のない人間が末期医療の段階を迎えるとパニックになる人が少なくない。宗教心が無いということは死生観が無いということで、自分を制御する魂の基軸が無い。医療現場に臨床宗教師が必要な時代になった」。

今の時代、ますます働き手は少なくなっています。マタイ、マルコのような呼びかけでは躊躇してしまうかもしれませんが、ルカが描くやり方なら、私たちも応えていけるのかもしれない。どうぞ、みなさんお一人お一人にも語りかけられている御言葉として、今朝の呼びかけを聞いていただければと願っています。

【 Live配信 】2022年1月2日(日)10:30  主の顕現主日聖餐礼拝  説教 「 不思議な星の導き 」 浅野 直樹牧師



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【週報:司式部分】 2021年11月14日 全聖徒主日礼拝


聖霊降臨後第25主日 子ども祝福式礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

開会の部
前 奏 ガリラヤの村を こどもさんびか改訂版61番から H.W. Davies=髙浪晋一編曲

子ども祝福式礼拝

初めの歌 こどもさんびか5番(こどもをまねく)1節、3節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り

全能の神さま。
昔、サレプタのやもめは預言者エリヤを最後の粉で養い、
貧しいやもめは神殿で最後のレプトンを献げました。
私たちもいのちの糧、主イエス・キリストに与るため、
自分のすべてをあなたに喜んで献げることができるように助けてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

第1の朗読 ダニエル書 12:1-3( 旧約 1401頁 )
第2の朗読 ヘブライ人への手紙 10:11-14、19-25( 新約 413頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 13:1-8( 新約 89頁 )

みことばの歌 教会讃美歌290(ガリラヤの風) 2節

説 教 「 忘れた頃にやってくる 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会讃美歌298 (こころまよいゆくを) 1節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌 350 —I (わがたましいを) 1節

後 奏 後奏曲 Jan Bender

【 説教・音声版】2021年8月8日(日)10:30 聖霊降臨後第十一主日礼拝  説教 「 世を生かすもの 」 浅野 直樹 牧師

2021年8月8日 聖霊降臨後第十一主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章35、41~51節

今日の日課は、新共同訳(聖書)の小見出しである「イエスは命のパン」とまとめられているものの中にある箇所になります。先々週の「五千人の供食」の出来事と繋がっているものです。ちなみに、先週は「平和主日」として特別な礼拝を行いましたが、教会手帳を見てみますと、聖霊降臨後第十主日としての福音書の日課は、ヨハネによる福音書6章24~35節が指定されていました。「五千人の供食」の後、今日の日課の前、と言うことになります。つまり、来週以降もしばらくは繋がっていくことになりますので、ここ数週間は連続してここから学ぶように、と言うことでしょう。

先ほども言いましたように、先々週は「五千人の供食」の出来事から学んでいきました。そして、この箇所は「聖餐式」と強く結び付けられている箇所だ、とも言われています。昨年からの新型コロナウィルスの流行によって、私たちの教会も大きく変化せざるを得ませんでした。かつて経験したことのないような危機と言っても良いでしょう。共に礼拝に集うことが難しくなったからです。これについては、さまざまな方々の尽力もあって、代替ということではありませんが、ライブ配信等によってある程度は補うことができました。しかし、聖餐式は違います。聖餐式は実際に「飲食」という体験が伴うものです。ですから、なかなか替えがききません。感染症の対策をしっかりと講じた上で、なんとか特別な祝祭日であるクリスマスとイースターにできたくらいです。私たちの教会ばかりでなく、このことについては多くの教会が頭を悩ませていることでしょう。感染症が落ち着いて、一日も早く共に礼拝し、聖餐の恵みに与る日が来るようにと願っています。

「五千人の供食」の出来事では、男性だけで五千人、女性や子どもたちも含めると一万人以上となるでしょうか、ある奇跡を体験いたしました。食事で満たされるという体験…、奇跡です。ですから、彼らはイエスさまを王として立てようとします。「イエスは、人々が来て、自分を王とするために連れて行こうとしているのを知り」とある通りです。王様とは、政治的力をも表すのでしょう。安心・安全を与え、生活を豊かにしてくれる存在。そんな力を群衆はイエスさまに認め、自分たちの王となって欲しいと願ったのです。それは、私たちにもよく分かることです。今で言えば、新型コロナの脅威から人々を守り、経済的にも立て直してくれるような政治的指導者を人々は、私たちは求めています。逆に言えば、そうでないと失望してしまう。

政治家一人でできることなど限られていると思いますが、そういった空気感も漂う今日です。当時の人たちにも、自分たちの政治的指導者たちはいたはずです。ガリラヤ地方で言えば、ヘロデ・アンティパスという王様がいた(実際は領主に過ぎませんでしたが)。しかし、民衆は失望していたのでしょう。

一向に、安心・安全が手に入らず、自分たちの生活も改善されなかったからです。ですから、そんな思い、願いを、奇跡の力で五千人を、一万人を養うことができたイエスさまに向けたのも無理からぬことだと思うのです。しかし、そんな民衆の期待に対するイエスさまの反応はどうだったのか、と言えば、「ひとりでまた山に退かれた」と記されていることからも分かると思います。「よろしい、あい分かった。そう願わずにはいられないお前たちの窮状もわたしは良く知っている。だから、お前たちが望むような安心・安全を与える、お前たちの生活を今よりもずっと豊かにする王にわたしはなろう」とは、ならなかった。そんな民衆の期待に応える王になれる自信がなかったからではありません。こう記されているからです。26節「はっきり言っておく。

あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」。そして、こう言われた。「わたしが命のパンである」と。私は、これらを読んだときに、「荒野の誘惑」の場面で語られたイエスさまの言葉を思い出しました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。

以前、国際援助の働きをされておられた方からこんな話を聞いたことがあります。飢饉などに際して食料援助などをする訳ですが、それだけでは本当の解決にはならない、というのです。援助を受ける人たちは、それが当たり前になってしまうというのです。働かなくても、食べていけることが当たり前になる。つまり、無気力です。

言葉としては適切ではないのかも知れませんが、いわゆる「飼い殺し」の状態になってしまう。善意でのパンの援助が、かえって現地の人たちを悪くしてしまうこともある。そんな現場をよく見たと言います。ですから、援助の方法を変えることした。単に食料を与えるのではなくて、自立を促していく、しかも持続的な自立を促す方法に変えたと言います。しかし、これがなかなか骨が折れることだったようです。

なぜなら、なかなか言うことを聞いてくれないからです。その方法ではダメだ。それでは気候にあまりに左右されすぎるので、こういった方法にしなくてはダメだ。そんなふうに、ある意味先端的な技術支援をしようとするのですが、自分たちはずっと代々こういった方法をとって生きてきたから、今更変えるつもりなどない、と突っぱねられる。それでも、地道に、時間をかけて説得していくと、一人二人は興味を持ってくるようです。大抵は若い人のようですが…。そういった興味を持ってくれた人たちを手取り足取り指導していく。すると、みるみる違いが出てくる訳です。従来型では、あまり収穫できないのに、新しい方法で取り組むと市場に売りに行けるほどの収穫量になる。そんな様子を間近に見ると、流石に考えを変えざるを得ないのでしょう。次々とその支援を受ける人々が出てくる。

そして、自分たちで技術支援ができるようにと現地の人を指導者として教育することも大切だと言います。いつまでも、そこに残ることができないからです。私は、それらの一連の話を興味深く聞かせていただきました。先ほどの話でもお分かりのように、意識を変えることが非常に大切になってくるのです。そんなことは言われるまでもない、と思われるかも知れません。その通りです。みんな分かっている。でも、現実はそれほど簡単ではありません。頑なに大切な技術を拒んできた現地の人を私たちも笑えないでしょう。私たちは、どうしても目の前にある現実、そう信じている現実に、また私たちの体験・経験に囚われて頑なになってしまうからです。確かに、人類は進歩しています。技術だけじゃない、仕組みも思想…、人格、人権理解も良くなっている。安心・安全、生活の向上を目指してきた結果です。

それらを実現させていった偉大な指導者たちも多く出てきたのかも知れません。しかし、人類はいまだに、平和の問題、差別の問題、格差・貧困の問題等、乗り越えることができていないものも数多くあるのです。本当に私たちの幸せ、あるべき姿は、これらの延長線上だけにあるのでしょうか。それとも、もっと別に、別の次元に飛躍すべきなのでしょうか。いずれにしても、その道筋を、私たちの必要を本当の意味で知っている者だけが(あの援助者たちのように)、その人々を救いへと導いていけるはずです。

今日の日課でイエスさまはこうも語っておられます。「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」。この言葉は、あのニコデモとのやりとりを連想させるものでもあると思います。なぜなら、こう記されていたからです。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」。ニコデモもなかなか自分自身を抜け出せないでいた中で語られた言葉です。

神さまだけが、この世界の、私たちの救い主であり解決者である。少なくともキリスト者である私たちはそう信じている。考えてみてください。もし、全ての人が心から神さまの御心に、イエスさまの教えに従えたのなら、この世界がどうなるのかを。パンどころの話ではないはずです。しかし、現実の私たちには、途方もなく難しいのです。理解さえ及ばまい。超えられない。求めることさえもできない。だから、イエスさまが来てくださった。真に向かうべき道を示すために。そして、神さまもそんな私たちを引き寄せてくださった。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言われている通りです。それらのことを身をもって体験するためにも聖餐式がある。

残念ながら、今しばらくは共々に聖餐式に与ることはできないかも知れませんが、しかし、それらがなくなってしまうことはないはずです。本当の道を示してくださるイエスさまがいてくださる。神さまも、私たちをイエスさまへと引き寄せてくださっている。だからこそ、信じて生きることができる。希望を失わずに済む。自分を超えて進んでいける。そうではないでしょうか。

【週報:司式部分】 2021年5月2日  復活節第5主日礼拝



復活節第5主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

前  奏  教会讃美歌307番のメロデイによる前奏曲 -土屋知明

初めの歌 教会93( 喜びつどいて )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

– 特別の祈り –
すべての良きものの源である神さま。
あなたの聖なる息吹を与えて、正しいことを考え、
それを実行できるように導いてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 8:26-40(新約 228頁)
第2の朗読 ヨハネの手紙一 4:7-21(新約 445頁)
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 15:1-8(新約 198頁)

みことばのうた 教会307( まぶねの中に )3節

説  教 「 豊かに実を結ぶ 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会374( たよりまつる )2節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会391( 主よわがいのち )2 節

後  奏 イエスは人の望みの喜びよ J.S.バッハ -園部順夫

 

【説教・音声版】 2021年3月7日 「主イエスの実力行使 」 小山 茂 牧師

四旬節第3主日


出エジ20:1~17 Iコリ1:18~25 ヨハネ2:13~22

エルサレム神殿

福音書の舞台はエルサレム神殿です。説教黙想をしていて、神殿がどのようなものであったか、調べてみました。神殿は3000年前に建てられ、紀元70年に破壊されました。神殿の始まりはダビデの子ソロモンが、紀元前950年頃に第一神殿を建立しました。しかし、南ユダ王国のバビロン捕囚のあった折、バビロニアのネブカドネザル王により紀元前586年に破壊されました。紀元前515年以降ネヘミヤやエズラにより新たに第二神殿が完成され、主イエスと同時代のヘロデ大王によって改築されました。その神殿も70年にローマによって破壊されました。取り壊された神殿の上に現在は、金色の丸屋根をもつ「岩のドーム」があり、イスラム教が大切にしています。残された神殿の城壁の一部が「嘆きの壁」として、ユダヤ教徒の巡礼地となりました。宜しければウェブサイトで、「エルサレム神殿」と検索してみてください。3D画像で神殿を散策するように見ることができます。ヨハネ福音書に過越祭が3度登場することから、主イエスが宣教活動された3年間、西暦30年頃に第二神殿は未だ残されていました。

神殿の礼拝

神殿での献げ物の調達方法を知ると、福音物語が分かり易くなります。旧約の申命記14:24~26に記されています。「あなたの神、主があなたを祝福されても、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が遠く離れ、その道のりが長いため、収穫物を携えて行くことができないならば、それを銀に換えて、しっかりと持ち、あなたの神、主の選ばれる場所に携え、銀で望みのもの、すなわち、牛、羊、ぶどう酒、濃い酒、その他何でも必要なものを買い、あなたの神、主のみ前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい。」神に献げ物をして、家族が共に祝う様子が描かれています。

エル・グレコ El Greco (1541–1614) 神殿を清めるキリスト Christ cleansing the Temple ナショナル・ギャラリー・オブ・アート National Gallery of Art, Washington DC



ユダヤ人には、エルサレム神殿に巡礼する祭りが年に3つありました。その中で最も盛大なものが過越祭で、イスラエルの民が神の助けにより、エジプトを脱出したことを記念するものです。その過越祭が近づいたので、主イエス一行はエルサレムに上られます。神殿は異邦人の庭まで、誰もが入ることを許されています。ディアスポラ〔離散〕のユダヤ人は、遠方からエルサレムにやって来ます。神殿に献げる犠牲の動物を、遠くから連れて来るのは大変なことです。そこで境内には犠牲の動物を売る者、神殿税の支払いのためユダヤ貨幣に両替する者がいます。遠くから来るユダヤ人が通常使う、ローマやギリシア貨幣を神殿では使えません。皇帝の顔や銘が刻まれていたからです。神殿ではユダヤのシュケル銀貨が必要です。過越祭の神殿礼拝には、生贄動物の売買と両替は必要不可欠なことでした。

主イエスが神殿の境内に入って来られると、生贄を売る商人と両替商人が目に入ります。主は縄で鞭を作り、牛や羊を境内から追い出し、両替商の台をひっくり返されます。神殿の前庭はかなり広く、主お一人での商売の邪魔を止められなかったのでしょうか。神殿警備隊が介入したり、ローマの駐屯兵が気づいたりしなかったのでしょうか。周りの人たちから見れば、突然の過激な実力行使でした。しかし、境内での商売を慣例として、神殿当局は許可していました。

熱情に食い潰される

鳩の商いをする者たちに、主イエスは言われます。「このような物は、ここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」神殿は神が住む家であり、神は主イエスの父ですから、神殿は「わたしの父の家」に間違いありません。弟子たちは主の豹変に驚き、その訳を詩編69編10節から思い起します。「あなたの神殿に対する熱情が、わたしを食い尽くしている。」ヨハネ福音書では熱意と訳され、詩編では熱情とあります。旧約の日課は出エジプト記20章で、神がイスラエルのリーダーであるモーセに、十戒を授ける物語です。

その中に神ご自身が「わたしは熱情の神である」と言われます。さらに、「わたしを否(いな)む者には、父祖の罪を子孫に3代、4代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」神を拒む者には何代に渡り懲らしめがあり、神を愛する者には何代に及ぶ慈しみがあります。それも、当人だけならまだしも、子や孫何代にも及ぶとあります。旧約の神はイスラエルの民を愛されるあまり、神を拒む者に妬(ねた)みさえされます。私たち人間ならそれもあるでしょうが、ちょっと失礼な言い方になりますが、神の執念深さには驚かされます。

また食い尽くすと訳されたギリシア語は、滅ぼすと言う意味もあります。自らを滅ぼすとは、主イエスの十字架を指しています。自ら動物の犠牲の代わりとなられ、人間の罪を一人で背負われます。それゆえ神殿礼拝における、犠牲の動物は必要なくなります。主イエスこそが羊や牛の代わりに、私たち人間のため生贄となられます。境内の動物をあれほど激しく追い出された、過激な実力行使には主の御心がありました。

福音書の小見出しは「神殿から商人を追い出す」とありますが、短く「宮清め」とも言われます。この物語は4つの福音書すべてにあります。ヨハネ福音書では2章「カナの婚礼」の直後、主イエスの宣教活動の初期にあり、十字架に向かわれる伏線となります。共観福音書マタイ・マルコ・ルカでは、エルサレム入城に続き宮清めがあり、主は十字架に向かわれます。

主イエスの根拠

ユダヤ人たちは、主イエスの実力行使を非難します。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか。」主の無礼な行いが正当である根拠を、自分たちに見せてくれと要求します。主イエスは答えられます、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」主は敢えて、誤解される言い方をされます。主の言われる神殿はご自分の体のことであり、ユダヤ人の言う神殿は目の前にある構造物です。両者の会話はすれ違い、全く噛み合いません。その行き違いを解く鍵は「建て直す」と訳された、ギリシア語動詞にあります。「呼び起こす、目覚めさせる」と言う意味もあり、主イエスは自らの甦りについて言われ、十字架から三日後に復活すると語られたのです。しかし、ユダヤ人の言う神殿は建造物であり、三日で建て直すと理解したのです。

ジョット・ディ・ボンドーネ (–1337) Expulsion of the Money-changers from the Temple  スクロヴェーニ礼拝堂



彼らは主イエスに呆れたように言います。「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか。」

ユダヤ人の無理解、それは弟子たちも同様です。福音の結びに語られています。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」ユダヤ人と主イエスの会話を聞いていた彼らも、主の言葉をその時は理解できません。弟子たちは復活された主イエスに出会って、初めて本当の意味が分かります。ヨハネ福音書14:26に記されています、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」弟子たちが主イエスは救い主と分かるまで、復活後に送られる聖霊の助けを待たなければなりません。

ルターも宮清め

主イエスのお言葉、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」、それにルターの宗教改革が重なります。1517年10月31日にルターが、95か条の提題をウィッテンベルクの城教会に張り出しました。当時のヨーロッパはペストの流行から、四人に一人が亡くなり、人々は死と隣り合わせでした。贖宥状〔免罪符〕というお札をお金で買えば、罪からの償いを免除され、亡くなった方にも及ぶとされました。教会が商売の家とされ、莫大な金銭を得る場所になりました。ルターは強く抗議して、イエス・キリストへの信仰によってのみ救われると、命の危険を顧みず一歩も引きませんでした。その百年前にチェコの神学者ヤン・フスは、宗教改革の先駆者として登場し、異端者とされ火あぶりの刑に処せられました。もしザクセン選帝侯の庇護がなければ、間違いなくルターも異端者として殺されていたでしょう。

ルターはヨハネ福音書2章から、コメントしていました。教会のサクラメントが牛や羊の代わりに売られるなら、商取引となるから邪悪になる。贖宥状やミサやその他のインチキなものをお金で売るのでなく、こう言うべきである。「愛する友よ、私はあなた方に、我々の主イエス・キリストの福音を説教しましょう。福音を通して我々は、恵みにより罪の赦しを得るのです。あなた方が、キリストを信じるためです。私は神のために、あなた方の救いのために、私の説教によって奉仕しましょう。求められれば赦免によりただで、あなた方の罪を赦しましょう。

私はそれをあなた方にお金で売るつもりはありません。」いかにもルターらしいメッセージではありませんか。ルターも「わたしの父の家を、商売の家としてはならない」と、主イエスから1500年後に語りました。宗教改革は「ルターの宮清め」とも言えるのではないでしょうか。でもそんなことを言ったら、きっと恐れ多いとルターに怒られることでしょう。

【 テキスト・音声版】2020年12月20日 説教「 驚きの知らせ 」 浅野 直樹 牧師

2020年12月20日 待降節第四(降誕)主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書1章26~38節

これは毎年お話していることのようにも思いますが、今日は教会の暦としては待降節の第四主日になりますが、私たちのこの日本では、社会的な事情から大方のプロテスタント教会ではこの第四主日の日曜日にクリスマスを祝う礼拝をしている実情がある訳です。ですので、与えられた聖書の言葉(日課)も、なんだかクリスマスっぽくない感じがするのかもしれません。しかし、私は、こう思うのです。これこそ、クリスマスに相応しいみ言葉ではないか、と。

フラ・アンジェリコ Fra Angelico (circa 1395 –1455) 受胎告知 The Annunciation サンマルコ修道院 Basilica di San Marco



なぜならば、クリスマスとは、私たち一人一人がマリアとなる出来事でもあると思うからです。私たちも、マリアになる。私たち一人一人のうちに、イエスさまが宿ってくださるのだから。それが、クリスマス…。「おめでとう、恵まれた方」。この突然の天使の呼びかけに、マリアは当惑します。天使の声を直に聞いたからではありません。なぜそのような言葉がかけられたのか、理由が全く分からなかったからです。

「おめでとう、恵まれた方」。私たちにもまた、この言葉が語られている。なぜか。私たちにもイエスさまが与えられているからです。神の子が与えられている。この罪深い私に。これは、信じられないような出来事です。神の子が与えられるということは、私たちは神さまから最上級のもてなしを、待遇を、扱いを受けている、ということでしょう。ならば、なおさら信じられない。そうされる、そのように扱われる理由が分からないからです。ですから、私たちも当惑するしかないのかもしれない。あのマリアのように。それに対して、天使は理由を聞かせてくれました。あなたは神の子を宿すから「恵まれた」存在なのだ、と。しかし、マリアは納得できませんでした。信じられなかった。実感が湧かなかった。

ですから、マリアはこう尋ねます。「どうして、そのようなことがありえましょうか」と。不可能なのです。ありえないことです。何より、私にはそんな資格があるとも思えない。私は特別な人間じゃない。優れたところも、特にない。普通の、むしろ平凡すぎるほどの、どこにでもいる一人の田舎の娘でしかない。これまでだって、それほど神さまに喜んでいただけるような歩みを送って来たわけではなかった。むしろ、罪深ささえも自覚している…。なのに、どうして…。

「神にできないことは何一つない」。天使の答えは明瞭です。あなたがどうであるか、ではない。それは、神さまが為さることなのだ。たとえ、あなたが言うように、感じているように、それが不可能だとしても、神さまにはお出来になる。なぜならば、「神にできないことは何一つない」のだから。



マリアがそうだったように、神さまが「それを」為さるのです。神さまがされるのです。だからこそ、私たちの中にもイエスさまが宿られている。光が住んでくださっている。それだけが理由なのです。だからこその「恵まれた方」なのです。しかし、そのはじまりは、何の変化もないように思われるのです。今日は第3部で洗礼式を行いますが、その洗礼を受けられる方も、洗礼後も何も変わっていない、相変わらずの自分自身だと思われるかもしれない。しかし、すでに命は芽生えているのです。

気づかないほどの小さな、かすかな音かもしれませんが、命の鼓動がはじまっている。そして、それがだんだんと力強いものとなり、実感となり、誰が見ても明らかなような成長を遂げていくのです。しかも、それは、私たちの内に宿る命そのものの、イエスさまの力がそうさせていくのです。このマリアと私たちとの違いは、十月十日だけの出来事ではなくて、一生の間続いていく命の出来事ということではないでしょうか。

この受胎告知の出来事から見えてくるマリアと私たちとの違いは、おそらくこのことでしょう。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。マリアは有り得そうもない天使のお告げに、こう答えていきました。ですから、やはりマリアは私たちの模範なのです。神の子をみごもった聖人だからではありません。そうではなくて、私たちの模範となる信仰の人だったからです。だからこそ、私たちも今日、このマリアに倣ってこう言いたいと思う。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と。

新カリスとパテナ(錫製)



野上信雄兄作(秋田杉、中央の十字架は教会の桜)



祈 り
・今日、新たに二人の仲間を迎えることができましたことを心より感謝いたします。洗礼を受けられた古川ひろみ姉、八王子教会から転入された立石節子姉。どうぞ、このお二人のこれからのむさしの教会における信仰の歩みを豊かに祝してくださり、お導きください
ますようお願いいたします。また、兄弟姉妹としての交わりを、なおも豊かに祝してください。

・非常に新型コロナの感染が広がっている中ですが、このように守られてクリスマスを祝う礼拝を持つことができましたことを心より感謝いたします。また、聖餐の恵みにも与ることができましたことも大変嬉しく思っています。しかし、共々に集うことのできなかった兄弟姉妹方も多くおられます。どうぞ、私たちと等しい豊かな恵みをお一人お一人のお与えください。

また、このような幸いなクリスマスの時期にあっても、困難を覚えておられる方々が多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、そのお一人お一人の上にも闇を照らす光をお与えください。また、必要な援助の手も速やかに与えられますように。また、私たちも、出来うることを怠ることなくしていくことができますよう導いてください。

・この新型コロナの感染拡大で医療現場が大変なことになっています。特に、医療従事者の方々を顧みてくださいますようにお願いいたします。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

-週報- 2020年11月1日 全聖徒主日礼拝



 

司 式   浅野 直樹
聖書朗読  浅野 直樹
奏 楽   中山 康子

前 奏   慰め – 無言歌集より       Felix Mendelssohn

初めの歌   教会142( この世に あかしをたて )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

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特別の祈り
あなたは信じる者を主キリストのからだ、唯一の聖なる教会に結び合わされました。恵みを注いで、私たちを聖徒たちの信仰と献身の生涯に倣わせてください。あなたの民のために備えられた喜びで満たしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。


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第1の朗読  ヨハネの黙示録 7:9-17( 新約 460頁 )
第2の朗読  ヨハネの手紙一 3:1-3( 新約 443頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読  マタイによる福音書 5:1-12( 新約 6頁 )

みことばのうた  教会170( 主をあがめたたえよ )

説教      「 私たちは、神の子です 」 小山 茂 牧師

感謝の歌    教会337( やすかれ わがこころよ )

信仰の告白  使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌   教会418( みくにのわざこそ )

後 奏    エルサレム、美しく気高いあなたの都   James Engel

【 テキスト・音声版】2020年9月27日 説教「 どっちが正しい?」 浅野 直樹 牧師

2020年9月27日 聖霊降臨後第十七主日礼拝説教



聖書箇所:マタイによる福音書21章23~32節

今日の福音書の日課にも譬え話が出てきましたが、この譬え話は聖書の中に記されています数多くの譬え話の中でも、珍しくすぐにでも共感を覚えることができるものの一つではないか、と思います。なぜならば、私たちの道徳律と非常に親和性があるからです。

恐らく、その父親はぶどう園を所有し経営していたのでしょう。繁忙期で忙しくなる。猫の手も借りたい。そこで二人の息子に手伝ってもらおうとしました。始めに、兄の方に話しかけます。「今、とても忙しい時期だから、お前もぶどう園を手伝ってくれないか」。

もうすでに就職していたのでしょうか。それとも、まだ学生だったでしょうか。「嫌だよ、父さん。僕にだって予定があるんだから」。弟の方にも声をかけました。「お前もぶどう園を手伝ってくれないか」。「いいよ、父さん。特に予定もないし、手伝ってあげるよ」。父親は先にぶどう園に行き、忙しく働きながらも息子たちが来るのを待っていました。しばらくすると兄の方がやってきた。「お前、どうしたんだ。さっき予定があるから嫌だって言っていたじゃないか」。「いや、そうだけど、なんだか気になっちゃってさ。

父さんも大変だと思ったから引き返してきたんだ」。そういって兄は父の手伝いを始めました。しかし、弟の方は待てど暮らせど来ません。父親も、「おかしいな。そろそろ来ても良い頃なんだが。確かに来ると言っていたよな」。その頃、弟の方は友達と遊びに出かけていました。「確かお前ん家、ぶどう園やっていたよな。いいのか手伝わなくて。確か今が一番忙しい時期じゃなかったか」。



「いいの、いいの。あんなの親父にやらせておけば。どうせたいしてバイト代もくれないしさ」。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」。子どもでも分かることです。私たちもそう親たちから教わって来ましたし、また子どもたちにもそんなことをしてはいけない、人の道ではないと躾けて来ました。そう、だから、この譬え話は何の違和感もなくすんなりと入って来るし、そんなの当たり前ではないか、とも思える。しかし、今日のこの譬え話を、そんな単なる教訓的な、あるいは倫理道徳的な話として読んでしまうと肝心なところが見落とされてしまうということは、もう皆さんもお分かりのことでしょう。

今日の箇所の前半部分では、「権威」についてのやりとりの様子が記されていました。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか』」。当時の宗教的、あるいは社会的指導者たちが腹立たしげにイエスさまを問い詰めていった訳です。ここに到るまでの物語があります。12節以下に記されていますいわゆる「宮清め」の出来事です。当時、犠牲として捧げられる動物の売り買いや神殿税を納めるための両替の場所などが神殿の境内に設けられていたわけですが、それらをひっくり返したり追い出したりして、少々乱暴な振る舞いをされたのが他ならぬイエスさまでした。

もちろん、イエスさまにはそうせざるを得なかった理由がありました。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。確かに、問題性もなかった訳ではないでしょうが、当時の宗教的利便性から、あるいはその必要性から生まれた制度でもあったわけです。そして、それらを決めていったのが、それらを決める、あるいは指導する権威を持っていた先ほどの祭司長や民の長老だったわけです。つまり、イエスさまのその行動は、彼らの権威を全否定することにも等しかったわけです。彼らにとっては面目丸つぶれです。ですから、彼らからしたら、先ほどの詰問は当然の思いだったのかもしれません。私たちの面子を潰すからには、相応の権威を持っているはずだろうな、と。

そんなやりとりの中から生まれたのが、先ほどから言っています今日の譬え話でした。つまり、イエスさまからすれば、彼らは譬え話の弟のように映っていたわけです。もっとも、当然彼らはそうは思っていなかったでしょう。自分たちこそが宗教的な重要な事柄を決める権威があるのだ、と。つまり、自分たちの信仰のあり方は神さまからお墨付きをいただいているのだ、と。しかし、イエスさまからすれば、それは表面的な面に過ぎなくて、譬えで言えば、あの弟のようにあたかも父親の意に添うかのように空返事をしているにすぎなくて、本質では何も父親の、つまり神さまの思いには応えてはいないのだ、と思えてならなかった。

むしろ、逆に、彼らが忌み嫌って軽蔑していた、つまり彼らからすれば神さまから遠く離れて裁きを受けざるを得ないような人間だと映っていた徴税人や娼婦たちの方が、実は譬え話で言えば兄の方であって、当初は神さまの御心から外れて神さまを悲しませては来たけれども、そんな彼らも立ち返って、後で考え直して神さまの思いに答えていくようになったと見られている訳です。そして、その両者の決定的な違いを生み出したのが、洗礼者ヨハネのメッセージに動かされたかどうか、でした。

洗礼者ヨハネのメッセージとは、罪を指摘し、悔い改めを説くことでした。罪の赦し、罪からの救いの必要性を訴えることでした。弟の方だと指摘された祭司長や民の長老たちは、このヨハネのメッセージに心が動かされなかった。逆に言えば、兄の方だと指摘された徴税人や娼婦たちはヨハネのメッセージに心が動かされたのです。彼らが自らの罪の自覚をしっかりと持っていたかどうかは分かりません。神さまからの罪の裁きを恐れていたのかどうかも分からない。罪の赦し、救いの必要性を感じていたかどうかも。むしろ、そんなことは考えないようにしていたのではないか。現実と割り切っていたのではないか。

ろくな家庭で育たなかったのだ。まともな仕事では食っていけなかったのだ。生きるためにはしかたがないではないか。社会が悪い、環境が悪い、貧乏が悪い、と自己弁護を繰り返してきたのかもしれない。しかし、どこかで問いが消えなかった。「本当にこれで良かったのだろうか」と。普段は、そんな問いは生きるための邪魔になるとして心の深いところに押し込んでいたのかもしれませんが、決して消え去ってしまうことはなかったと思います。それが、洗礼者ヨハネのメッセージによって浮き彫りになっていった。「救われるためには、どうすれば良いのだろう」と。

ここでイエスさまは洗礼者ヨハネとの向き合い方を問われています。罪を指摘し、悔い改めの必要性を説いた、罪の赦しの可能性を教え続けていった洗礼者ヨハネとの向き合い方を。そして、それは、イエスさまとの関係性にも結びついていくことになるのです。洗礼者ヨハネのメッセージに心動かされた者たちは、イエスさまのところにもやってくる。逆に、洗礼者ヨハネのメッセージに心動かされない者たちは、イエスさまとの距離もとってしまうことになる。これも、兄と、弟と指摘された者たちの中にみられるものです。

ニコラ・プッサン Nicolas Poussin「ヨルダン川の洗礼者ヨハネ」(1630)



今朝の旧約聖書の言葉も私たちは肝に命じていかなければならないと思います。「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」。神さまの御心は、誰もが罪を赦されて生きることです。一人として滅んで欲しくない。悔い改めて、立ち返って生きて欲しいと願っておられる。「最初」が問題なのではありません。結果的に父の元に、
神さまの元に行かなければ、戻らなければ意味がないのです。たとえ「最初」がどうであろうと、そこに神さまの御心がある。そのことを深く覚えて行きたいと思います。

《 祈り 》
・最近の新型コロナの問題は落ち着いているように見えますが、先日のシルバーウイークでは各地で多くの賑わいを見せ、経済活動が加速されているようにも見受けられます。そのために、また感染の拡大が危惧されてもいますが、このウイズ・コロナの時代、経済活動と感染予防という対極にある課題と同時に向き合わなければなりませんが、新たに誕生した政府も賢明な対策が取れるようにお導きくださいますようお願いいたします。また私たち市民一人一人も長期間にわたる緊張感のためか意識が緩みがちになっているようにも感じますが、しっかりと個々人においても感染対策に気を配っていくことができますようにお助けください。

・このところの天候不順もあって鐘楼の修繕工事が予定よりも若干遅れているようです。そのためもあってか、大工さんも雨天の中懸命に取り組んでくださっていますが、どうぞ体調面もお守りくださり、事故などもないようにお守りください。また、良い修繕がなされますようにお導きをお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【 テキスト・音声 】2020年9月20日 説教「 救いたいという思い」 浅野 直樹 牧師

2020年9月20日 聖霊降臨後第十六主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書20章1~16節

今朝の福音書の日課も、良く知られた譬え話です。この譬え話自体も、それほど難しいものではないでしょう。しかし、読み手によって、これほど印象の違う譬え話も珍しいのではないか、と思います。そして、大方の人にとっては、なんだかすっきりしないと言いますか、もやもや感が残るものではないでしょうか。



この譬え話、「『ぶどう園の労働者』のたとえ」と小見出しにはありますが、この物語の主人公は「ぶどう園の労働者」ではなく、非常識なほど気前の良いこのぶどう園の主人だと思います。そして、この主人の立ち居振る舞いが、先ほど言ったような印象をそれぞれに与える訳です。では、なぜもやもやするのか。不公平だからです。いいえ、賃金自体は公平です。どの人も1デナリオンの賃金を貰っている。しかし、それは、不公平に思える。なぜなら、労働時間がそれぞれ違っているからです。

サロモン・コニンク ぶどう園の労働者のたとえ Salomon Koninck:The Parable of the Laborers in the Vineyard. 1647



12時間働いた人、9時間働いた人、6時間働いた人、1時間しか働かなかった人。そのどれもが同じ賃金、1デナリオンを貰っている。それが、私たちの目には不公平に映る。当然です。労働に見合った代価ではないからです。先ほど、このぶどう園の主人を「非常識なほど気前の良い」人だと言いましたが、気前の良さは良いのです。ちゃんと自分の労働に見合った賃金ならば、つまりちゃんと「差」をつけてさえくれたならば、その気前の良さはむしろ大歓迎なのです。

1時間しか働かなかった人が1デナリオン貰えたとしても納得ができる。むしろ、この主人のそんな気前の良さを評価できたかもしれない。すごく良い人だと。しかし、働いた時間が違うのに同じ賃金だというのが許せない。腹が立ってくる。しかも、この主人の「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか」との言葉に、なんだかカチンとくる。言っていることは当然だと思いつつも、この不公平な扱いにイラっとしてしまう。そうではないでしょうか。

この物語を理解する上で大切なことは、この譬え話が「天の国」を示すための譬え話だ、ということです。つまり、この地上での事柄、常識とは違う、ということです。こんな非常識なことを、この地上世界で、私たちのこの社会・現実世界で、日常で行ったのなら、とたんに大混乱を起こすでしょう。そして、その不満は大暴動に発展するかもしれません。または、こんなおいしい目に合うならばと、労働に無気力な人も多く生まれてしまうかもしれない。ですから、私たちの現実とは、ちょっと切り離して考えなければならないのかもしれません。しかし、それでも、神さまがそんな不公平なことをしても良いのか、との問いは残ります。

いくら天の国のことだとしても、むしろ、天の国がそんな不公平なところか、と思うと、がっかりされる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ここで立ち止まって、よくよく考えてみていただきたいのです。先ほどから、不満を持つ側から話してきましたが、では、なぜこの物語を読んで不満を持つのか、といえば、「自分は出来る人間だ」と思っているからです。今日の譬え話で言えば、自分は最初に雇われた人間、少なくとも最後の人、たった1時間しか働かなかった人とは違う、と思っているからです。では、なぜそう思えるのか。誰が「出来る人間」だと、最初っから雇われていた人だと評価するのでしょうか。自分でしょうか。周りの人でしょうか。社会でしょうか。

それとも、神さまでしょうか。誰が、確信をもって一番働いた者、最初っから雇われた者、と言えるでしょうか。自分では「俺は(私は)出来る人間」と思っていても、結局最後まで雇われなかった人だったかもしれない。それでも、世間は俺を見る目がない、誰も私を正当に評価してくれない、といきり立っていただけかも知れないのです。

レンブラントぶどう園の労働者のたとえ  Rembrandt:The Parable of the Laborers in the Vineyard,1637



先週は王に莫大な借金をして赦してもらった家来の譬え話が取り上げられていましたが、果たして彼は決済まで自分の負債に気づけていたのでしょうか。彼は1万タラントンの借金があったといいます。それは、約6000万日分の賃金ということになる訳ですが、とても返せる額ではありません。しかし、彼からはそんな危機感は微塵も感じられないからです。

ひょっとして、「俺は出来る人間だ」、王から借りた金で行った事業もうまくいっているし、何の問題もない、と思っていたのかもしれない。しかし、蓋を開けてみれば、ずさんな経営でうまくいっていると思っていたのは本人だけで、途方も無い借金に膨れ上がっていたのかもしれません。しかし、彼は決済の時まで、つまり最後の最後まで、審判の時までそれに気づかないのです。「俺は出来る人間だ」と。これは、私たちだって他人事ではないはずです。

誰が私の評価を決めるのでしょうか。自分でしょうか。周りの人でしょうか。社会でしょうか。それとも、神さまでしょうか。私たちは、もっともらってもおかしくない働きをしてきた、もっと評価されてもおかしくない人生を歩んできた、と本当に、本気で堂々と言えるのでしょうか。それは不公平だと。私の働きに見合っていないと。私の人生には低すぎる評価だと。


確かに私たちは、朝一で雇われて、夜明けとともに働けた者かもしれません。1時間しか働かなかったものと同じ賃金なんて納得できない、と正当な文句を言えた人間だったかもしれません。では、明日はどうでしょうか。明日も同じように、朝一で雇ってもらえる保証は一体どこにあるのでしょうか。明日はその人選から漏れてしまうかもしれない。いいえ、来年の今頃は、10年後の今頃は、同じように朝一で雇ってもらえるのか。あんな1時間しか働かない者と同じ扱いにしないでほしい、と言える者であり続けられるのか。

人間、だんだんと年を取っていくと、かつて出来ていたことも出来なくなってしまうこともある。それでも、そう言い続けられるのだろうか。いつも健康でいられるわけでもない。誰からも評価されるとも限らない。だんだんと9時からの者、昼からの者、午後3時からの者となっていくのかもしれない。そして、誰からも雇ってはもらえない、と嘆かざるを得ない日も来るのかもしれない。

この主人の非常識なほどの気前の良さは、何も最後の賃金の支払いだけではないのです。この主人にとっては、最初の人たちとの契約だけで十分だったのかもしれないからです。にも関わらず、この主人は探しにいかれた。誰にも雇ってはもらえない人をも救いたいと動かれた。仕事として雇うには、あまりにも遅すぎた人たちさえも何とかしたいと出かけられた。どんな人の人生も、必ず報われる人生なのだと惜しみなく恵みを注がれた。

誰一人滅びることなく、皆が救われるようにと、生かされるようにと願われた。それが、この非常識な主人、私たちの信じる神さまなのではないか。そう思う。そして、この方のもとだからこそ言えるはずです。私たちは救われている、と。誰でも、躊躇することなく言うことができる。この方によって救っていただけるのだ、と。この変わり者の神さまによって。そうではないでしょうか。

教会花壇 日々草



《 祈り》
・本日の礼拝は敬老主日の礼拝ですが、残念ながら例年通り80歳以上の先輩方を礼拝にお招きしての敬老主日となることはできませんでした。しかし、今日それぞれの場におられるむさしの教会につらなるご高齢の先輩方を、この一年の間も日々豊かにお守りくださり、豊かな祝福をお与えくださいますようにお願いいたします。特に、体調面をお支えください。この新型コロナは特に高齢者を重篤化させやすいと言われていますので、このコロナからもお守りくださいますようにお願いいたします。

先輩方の中には入院治療をされておられたり、体調を崩しておられたり、思うように身動きが取れなくなられたり、と様々な辛さを抱えておられる方も多くおられますので、どうぞ必要な助けをお与えくださり、健やかなる日々をお過ごしになることができますようにもお導きください。健康が守られ、来年の敬老主日には多くの先輩方と共々に祝いの時を持つことができますようにお導きください。

・8月18日に小林憲弥さん・佳奈さんご夫妻にご長男準弥(じゅんや)くんが与えられたという嬉しい知らせが入ってまいりました。本当に感謝をいたします。どうぞ、あなたの守りと祝福の中で準弥くんがすくすくと成長していかれますように、またそのご家庭を豊かに祝福してくださいますようにお願いいたします。また、どうぞご夫妻に子育てに必要な力を豊かにお与えくださり、必要な助け手も備えてくださいますようにお願いいたしす。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

2020年むさしの教会敬老カード (Design:Kan Yasuma、Church Photo:Reiko Noguchi)

-週報-  2020年8月9日 聖霊降臨後第10主日礼拝



司  式   小山 茂

聖書朗読   小山 茂

説  教   小山 茂

奏  楽   小山 泉

開会の部  ( 式文A 1〜4頁 )

前  奏   ファンタジア ロ短調   J.S.バッハ

初めの歌   教会 203( 父の神よ )

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り

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主よ。
私ちの心に、正(しく考え、行なう霊を注いでください。
あなたなしに存在することのできない私たちに、み心に従って生きる力を与えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

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第1の 朗 読   詩編 85:9-14( 旧約 922頁 )
第2の 朗 読   ローマの信徒への手紙 10:5-15( 新約 288頁 )
ハ レ ル ヤ
福音書の朗読   マタイによる福音書 14:22-33( 新約 28頁 )

みことばのうた  教会294( 恵ふかきみ声もて )

説   教   「 疑いは、信じる第一歩 」 小山 茂 牧師

感謝の歌   【21】57( ガリラヤの風かおる丘で )

信仰の告白  使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌    教会 357( 主なる神を )

後  奏   退堂曲  C.フランク

 

 

【テキスト・音声版】2020年7月26日 説教「愛は勝つ」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第八主日礼拝説教



YouTubeでお聞きになられる方は、こちらからお願いいたします。

聖書箇所:マタイによる福音書13章31~33、44~52節

今朝の説教題は「愛は勝つ」とさせていただいています。このフレーズを聞かれると、私の前後の世代の方々は、1990年代に大ヒットしたKANの『愛は勝つ』という曲を思い浮かべられるのではないでしょうか。それもあって、この説教題にした訳ですが、それは、この曲の「信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」という歌詞が今日の聖書の箇所となんだか重なるように私には感じられたからです。「必ず最後に愛は勝つ」。先週は、「正義は必ず成る」、「正しきことは必ず報われる」ということをお話ししたと思います。


先ほどの『愛は勝つ』の歌詞をもじれば「信じることさ 必ず最後に正義は成る(勝つ)」ということになるでしょうか。それが、当時の人々にとっての何よりの慰めの言葉、励ましの言葉となった訳です。しかし、正直に言いまして、それが…、正義は必ず成る、果たされる、報われるということが慰め・励ましになると言われてもピンとこいようにも思うのです。

なぜなら、私たちはそれほどこの「正義」ということに飢え渇きを感じてはいないからです。確かに、先週もお話ししましたように、森友問題に端を発した公文書改ざん問題や様々な社会問題、あるいは個人的にも理不尽な目にあうと、「正しきことが行われていない」と義憤を覚えたりしますが、しかし、全体的には一応法治国家としての体が保たれていると大らかな信頼を寄せているからです。それは幸いなことですが、もちろん、そうではない国、地域もある訳です。

ご承知のように、今香港は大変なことになっています。中国政府が強引に「国家安全
法」を成立、施行させたからです。これで、これまでの言論の自由が大きく制限されるようになりました。なぜなら、政府の批判をするだけで捕まってしまうかもしれないからです。香港ではこれまでも度々抗議デモなどが行われてきました。その一部は過激化し、外から見ている私たちからは「ちょっとやりすぎじゃない」と思ったほどです。

しかし、彼らとしてはこうなることを恐れていたからです。私たちのように他人事ではいられなかったからです。その恐れていたことが現実となってしまった。多くの若者が民主化運動から手を引いていきました。これくらいのことで手を引くのかとも思いましたが、その一人が語った「これは命に関わることなのだ」が胸に重くのしかかりました。

正義…、法による保護と法によって保障された自由、それらがどれほど大きなものなのかを私たちはそれほど真剣に受け取っていないのかもしれません。それらが極端に制限された世界は、おそらく地獄のような世界になるでしょう。しかし、今の私たちにとっては、それらはあまりにも当たり前のものになっていて、その恩恵に気づいていないのです。大抵の場合そうですが、この「当たり前」のものは失ってみてはじめて掛け替えのないものであったことに気づかされるものです。

ともかく、日本も気をつけないと直ぐにでもそのようになってしまう、といったことを言いたいのではなくて、この「当たり前」がいかに大切であるか、ということです。
今日の福音書の日課も「天の国」の譬え話が取り上げられていました。このマタイは
「神」という言葉はあまり使いたくなかったようで(ユダヤ人ですから恐れ多いと思ったのでしょう)「神」という言葉の代わりに「天」という言葉を使っている訳ですが、「神の国」と同じ意味です。そして、この「神の国」というのは、なにか特定の場所を指すのではなくて、神さまのご支配を意味するものです。

神さまの思いが、御業が隅々にまで行き渡っている世界。それが、「神の国」。ですから、先ほどから言っています「正義」も、この「神の国」の重要な一面になる訳です。神さまは義なる方だからです。ですから、正義のない、行われていない世界に生きていた者たちにとっては、正義に飢え渇いていた人々にとっては、憧れの世界に思えたでしょう。

ですから、慰め、励ましになる。しかし、この「神の国」を考える上でもっと大切なことは、「愛」ということです。神さまの愛による支配。それが「神の国」。なぜならば、私たちが信じる神さまは、義なる方であると同時に、愛なる方でもあるからです。そんな「神の国」、「天の国」の様子といいますか、特徴を今朝の譬え話は私たちに語ってくれています。

最初の二つの譬え話は、共通するイメージを私たちに与えてくれます。それは、大きく成長する、ということです。はじめはごくごく小さいのに、取るに足らないように思えるのに、それが誰もが目を見張るように大きく成長する。そんなイメージです。具体的にはクリスチャンの広がりを指すのかもしれません。あるいは教会の広がりと言っても良いのかもしれない…。

最初はイエスさま一人からはじまった運動でした。そういう意味では一粒の「からし
種」「パン種」だったと言えるのかもしれません。それが12人に広がり、数百人、数千人に広がり、迫害下の中でしたがローマ帝国中に広がり、ヨーロッパに広がり、私たちの教会文化とは随分と異なりますが、あるグループはインド、中央アジア、中国へと広がり、アフリカに広がったものもあり、そして、新世界であった南北アメリカ大陸に広がり、この日本にも伝えられ、他の地域から比較すると大きな広がりとは言えないかもしれませんが、それでも着実に広がっていきました。

そして、2014年時点では全世界に23億人のクリスチャンがおり、人口比33%と言われています。そういう意味でも、確かにこの譬え話のように「天の国(神の国)」は大きく成長した、と言えるのかもしれません。

また、次の二つの譬え話は、この「天の国(神の国)」の価値に目を止めさせてくれます。どちらも、是が非でも手に入れたい、との思いが伝わってきます。どんな犠牲を払ってでも、大切なものと引き換えてでも惜(お)しくない。どうしても手に入れたい。それほどの価値がこの「天の国(神の国)」にはあるのだ、そんな思いです。
神の国、神さまのご支配、愛の支配は、そういうものです。

あらゆるものを手放してでも手に入れたくなる、そういうものです。それほどの魅力がある。だからこそ、たった一粒の取るに足らないと思えたちっぽけなからし種が、あらゆる気象条件、悪天候、迫害にも耐え、多くの実りを結んだ、とも言えるでしょう。しかし、どうでしょうか。

本当に私たちの目に、それほど輝いて見えているでしょうか。欲しくて欲しくてたまらない宝物のように、神の国を感じているでしょうか。では、なぜ、そうはならないのでしょうか。それは、神さまのご支配が見えないからです。とてもそうは思えない世界の中に私たちは生きているからです。神さまの愛が見えていないからです。むしろ、なぜこんなことが、と愛を疑いたくなるようなことばかりだからです。それも、正直な私たちの実感でしょう。

私は神さまの愛が分からず、ずっと悩んできました。神さまに愛されているといった実感がどうしても持てなかったのです。なぜなら、私は自分自身にばかり目を向けていて、見るべきものを見ていなかったからです。いいえ、もっと正確に言えば、目には写っていたのでしょう。視界にも入っていた。決して知らなかった訳ではない。

しかし、そちらに焦点を合わせることをしていなかった。自分の内面ばかりに、感覚ばかりに焦点が向かっていたからです。私たちの視界は、案外狭いものです。見えてはいても、焦点が合っていなければぼやけてしまってなかなか実体が掴めません。特に、集中していればいるほど、そういった傾向に陥りやすくなります。欲すれば欲するほど、求めれば求めるほど、視界が狭くなって、向けるべき焦点からズレてしまっていることが多いのです。

感じるのではないのです。見るのです。イエスさまを見るのです。イエス・キリストというお方に焦点を合わせるのです。そこからしか見えてこない真実が、伝わってこない感覚が必ずあるはずです。



今朝の使徒書の日課であったローマの信徒への手紙8章31節以下は私にとっては非常に大切な、また大好きな箇所です。そして、決して手放したくない言葉です。しかし、最初っからそうだった訳ではありませんでした。正直、最初はピンとこなかった。自分にばかり焦点を合わせようとしていた私にとっては、なんだか実感の湧かない素通りするような言葉でしかありませんでした。

しかし、少しづつイエスさまに焦点を合わせることができるようになっていった。それが、信仰生活だとも思いますが、そのことによって、この言葉の景色が私にとっては掛け替えのないものになっていったのです。31節でパウロはこう語ります。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。なんという言葉でしょうか。先ほど、私たちにとって神の国とは、すべてのものを捨ててでも手に入れたい程に魅力的なものだ、と言いましたが、ここでは、神さまはこの私たちを手に入れるために、愛するためにご自分の子を捨てても惜しくないと思えるほどに魅力的だったと言われるのです。

この私たちのどこに、一体そんな魅力があるのでしょうか。罪にまみれた私たち。自分でも嫌になってしまうような私たち。ボロが出て大切な人たちからも見捨てられてしまうのではないかとビクビクするような私たち。結局、愛される資格も価値もないのではないかと自暴自棄になってしまうような私たち。自分に焦点を合わせれば、そんなことしか見えてきませんが、しかし、そんな私たちを我が子さえも惜しまずに与えるほどに、捨ててしまえるほどに愛しているよ、と言ってくださっている。

この私が、どんな思いで、どんな決意で、お前のことを愛しているか分かるだろ、と語りかけてくださっている。私の目には、どうしようもなく愛おしく見えているのだ、と囁いていてくださっている。それが、イエスさまに焦点を合わせた時に見えてくる世界なのです。本当に信じられないくらいに、私たちは愛されている。

だから、パウロもこう語ります。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と。そのように、イエスさまによって示された神さまの愛が、私たちの心に注がれている。

何十億という人々に注がれている。もちろん、あなたの心にも注がれている。
見えないから、感じないから、そうは思えないから、無いのではありません。焦点が
合っていないから見つからないのです。イエスさまにしっかりと焦点が合えば、神の国が、神さまの愛の支配がすでに始まっているし、それが広がっていることに、気づけるはずです。もちろん、私たち一人一人の内にも、です。

その心の眼差しをもって、この厳しい時代にあっても、祈りつつ、しっかりとした足取りで歩んでいきたい。そう思います。

「信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」。

ジョン・シングルトン・コプリー「キリストの昇天」「The Ascension」(1775)John Singleton Copley



《祈り》
・都内ばかりでなく、全国的に新型コロナウイルスの感染が広がっています。このまま何の対策もとられないと、8月には目を覆いたくなるような現実がやってくるとさえおっしゃる専門家の方もおられます。確かに、経済との両立という非常に難しい舵取りが求められていますが、どうぞ良い知恵を与えてくださり、感染の広がりを、特に重篤化しやすい方々への広がりを抑えていくことができますようにお導きください。まだ病床数に余裕がある、といった意見も出ていますが、医療の現場ではすでに悲鳴が上がっているようです。

志高く医療の現場で頑張ってくださっていますが、それでも限界があるでしょう。これ以上の急激な広がりは、医療の現場がもたなくなるのではないか、と心配になります。どうぞ、経済的なことも含めて適切な援助の手が与えられて、医療の現場が守られていきますように、どうぞお助けください。

・世界でも一向におさまる兆しが見えません。一度はおさまったかのように見えた国々でもぶりかえしているようです。どうぞ憐れんでください。多くの命が奪われていますが、少しでも良き対策がとられて、命が守られていきますようにお助けください。

・香港では今、多くの市民たちが非常に厳しい立場に立たされています。国外へ脱出する人々も後を絶たないようです。どうぞ、憐れんでくださいまして、基本的な人権が守られすように、不当な逮捕などが横行しませんようにお助けください。

・豪雨被害に遭われた方々の生活はまだまだ厳しいようです。復旧復興にも時間がかかるでしょう。雨も心配ですし、また暑さも気がかりです。新型コロナのこともあります。本当に大変な毎日でしょうし、今後のことも心配でならないでしょうが、どうぞ速やかに様々な対策がとられて、少しでも早く平穏な生活に戻ることがおできになるように、どうぞお助けください。

・大きな病気をされておられたり、様々な困難、課題を向き合っておられる方々が私たちの仲間にも多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、それぞれの祈りに応えてくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン

【音声版・テキスト】2020年7月19日 説教「一筋の心を与えてください」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第七主日礼拝説教



聖書箇所:マタイによる福音書13章24~30、36~43節

今朝の日課も、先週に引き続き「譬え話」ですが、今朝のこの譬え話も何だか私たちをドキッとさせるような、不安を呼び覚ますような、そんな譬え話ではなかったでしょうか。果たして私は良い麦なのだろうか、それとも毒麦なのだろうか、と。

私自身、覚えがあります。若い頃…、まだ教会に行きはじめて間もない十代の頃、私は自分が「悪魔の子」ではないか、と思い悩んでいた時期があるからです。それは、不思議な心の動きを感じていたからです。教会に行くようになって、私は即座にクリスチャンになりたい、信仰を持って生きていきたい、「これだ」、と思うようになりました。しかし、その思いとは裏腹に、自分の心の中に別の動きがあったのです。信じたいのに、信じようとしない、と言いますか、反発とも違う、何か得体の知れない悪感情が聖書を読むたびに、私の心の中に湧き起こって来たからです。

それは、自分でも理解し難いことでした。先程も言いましたように、自分としては、思いとしても、意志としても、「信じたい」のです。なのに、その思いから引き離そうとするかのような思いが自分の中から猛烈に湧き上がってくる。でも、どうしてか分からない。原因が皆目見当もつかない。別にその時に読んでいた聖書の言葉は自分にとっては不快な言葉でも信じ難い言葉でもなかったのに、なんとも言えない憎悪にも似た感情が私を襲ってきました。

それは、あのパウロが書き記しましたロマ書にあります(7章13節以下ですが)自分の中に罪の法則があることを自覚させられた(「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」)、自分にとってはそんな出来事でもありました。ともかく、そんな自分ではどうにもならない心の動きに、これは予め自分が「悪魔の子」と定められているからではないか、抗うことのできない運命なのではないか、と恐れた訳です。


皆さんは「予定論(あるいは予定説)」といった言葉をお聞きになられたことがあるでしょうか。ちょっと運命論的な考え方ですが、予め救われる人とそうでない人とが定められている、といった考え方です。これは、いわゆるカルヴァン派…、多くは改革派や長老派と言われるグループですが、そのグループに特徴的な考え方だと一般的には言われています。しかし、ルターもこの考え方に立っていました。

しかし、どうも当初の受け止め方とは違ってきているようにも思います。先程、運命論的と言いましたが、それは、人が生まれる前から神さまが救われる人とそうでない人とを定められた以上、それは決して覆らない、と考えるからです。すると、先程も言いましたように、私たちは途端に不安になる。もし、救われない側に定められているとしたら、どうなってしまうのだろうか。いくら努力したところで、一旦決められたことが覆らないとしたら、もうダメじゃないか。

そうなると、どうせ自分は救われないのだから、運命は変えられないのだからと、不貞腐れるか、運命を呪って自暴自棄になるしかない。しかし、本来はそういった意図で使われたのではないのです。ルターやカルヴァンたちは、人の努力や頑張りで救いを勝ち取るのではなく、神さまの恵みで人は救われるのだ、と説いて行きました。

つまり、人によって左右されるようなものではない、ということです。それが、福音…、いわゆる信仰義認と言われるものです。ならば、神さまがいったん恵みによって救うと決められたのなら、途中で心変わりされて、さっきの約束や~めた、なんてことはないのですから、必ず救ってくださるはずだ。神さまのこの思いは何があっても決して変わることがない。

だから、安心しなさい。そういう意図だったのです。人は脆いもの。浮き沈みの激しいもの。罪だって犯さずにはいられない。もし、自分の力で、となったら、こんなに不確かなことはない訳です。自分の姿を見つめては、すぐに不安になる。確信が持てなくなる。しかし、そうではなくて、信仰によって救うと約束してくださった神さまを見なさい。神さまの約束ほど確かなものはない。だから、救いを疑ったりせず、予めちゃんと救うと約束してくださっているのだから、安心して生きて行きなさい。その確かさを与えるための「予定論」だったはずです。つまり、本来は慰め・励ましの言葉だったのです。

聖書を読んでいきますと、大きく「警告」と「慰め・励まし」といった傾向があるように思います。そして、私たちはどうも、「慰め」や「励まし」よりも「警告」の方に思いが向けられてしまうようにも感じるのです。例えば、黙示録。皆さんもお読みになったことがあるでしょう。世の終わりに向けてのおどろおどろしい描写が印象的ですが、多くは「警告」と受け止めるのではないでしょうか。しかし、加藤常昭牧師は、これは迫害下の中にあった教会を励ますために書かれたものだ、と言われます。私は、この言葉を聞いて、目からうろこのような思いが致しました。

今日のこの譬え話もそうでしょう。「警告」と受け止めざるを得ないところもあるのかも知れない。そういう意味では、自分は果たして良い麦なのか、毒麦なのか、との問いも当然のことかも知れません。しかし、それ以上に、私たちはここに慰めの言葉、励ましの言葉があることも見逃してはいけないのだと思います。

今日のこの譬え話は「天の国」の譬え話だ、と言われています。と同時に、この世の、私たちの現実社会をも映し出しているように思うのです。この世界は、良い人ばかりで成り立っている訳ではありません。良いもので満ちているのでもありません。表現としては適切ではないかもしれませんが、悪い人も、悪いものも多く混在している世界です。そんな世界に私たちは生きている。確かに、そうです。どう考えてもおかしいとしか思えない出来事に多く遭遇します。正義が全く見えない現実にもぶち当たります。本当に神さまの力が及んでいるのかと分からなくなるのです。

森友問題の公文書改ざん事件で残念ながら自死をされた赤木さんの妻雅子さんが訴訟を起こされたことは、もう皆さんも良くご存知のことでしょう。森友問題が報道された時から、私自身すっきりしない思いをずっと抱いてきました。しかも、上司から改ざんを強要された職員が、その罪悪感に押しつぶされて自ら命を絶たれた。なのに、疑惑の当人たちはのうのうとしているように見える。本当にやるせない、憤りにも似た思いを抱いたものです。そして、先日訴訟に踏み切られた奥様のインタビューを見ました。

奥様の口から出た「もう後悔したくない」との言葉に胸が痛くなりました。ご主人が壊れていく姿をじっと見ているしかなかった辛さ。助けることができなかった無念さ。罪悪感。そして、後悔…。ただ真相が知りたいと言われる。なぜ夫があんなにも追い込まれることになったのか、その真実を知りたい、と言われる。その一念で重い口を開かれました。

私自身は、この奥様の志を心から応援したいと思いますし、また、司法の場で真実が明らかになることを心から願っています。また、そういったことが起こらない社会・世界であって欲しいし、常に真実が明らかになり正義が行われる社会・世界であって欲しいとも心から思っています。しかし、残念ながら、なかなかそうはいかない現実がある。変わらない社会・世界がある。

このような社会全体を巻き込むような大きな課題でなくても、私たちは日常的に感じているはずです。正義が行われないことを。泣き寝入りをするしかない現実を。職場でも、学び舎でも、家庭でも、地域でも。教会もまた無縁ではいられないのかもしれない。むしろ、正義、正論ではうまくいかないことも多い。では、私たちは諦めるしかないのか。どうせ世界は良い人も悪い人も、良いものも悪いものも混在しているのだから、どうせ社会は、世界は変わらないのだからと虚無的になるしかないのか。

不正義を単に黙って見過ごすことではないでしょう。雅子さんも正当な権利を行使しただけです。世の中を正していくことは、当然悪いことではない。しかし、聖書は「耐える」ことも語っています。忍耐することも求めるのです。この世、この社会がたとえ不正にまみれていたとしても。泣き寝入りでしかない社会だとしても。なぜならば、神さまの正義は必ず成るからです。今はそうは思えないような世界が広がっているように見えていても、来たるべき時に、結果が出される時に、神さまの正義はあまねく世に成る。そして、必ず報われます。

どんな小さなものであっても、この世では認められない、報われないようなことであっても、神さまは見ておられる。必ず、それらに答えてくださる。だから、こう書いてある。43節「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい」と。

もちろん、そうは言っても堪え難いことも事実です。忍耐にも限度がある。同じ問題、同じ人に3度忍耐できたら上出来です。私たちの忍耐などそうそう続くものではありません。だから、祈りが生まれる。祈らざるを得なくなる。これが、私たちの真相だと思うのです。このコロナ禍、私自身もいろいろと考えさせられていますが、「信仰は生活」というのも、その気づきの一つです。私たちはどうも、信仰を生活とは別次元においてはいまいか。信仰を何か特別なものにしているのではないか、そう思うのです。しかし、そうではないはずです。そして、信仰を生活にするのは祈りなのです。祈らざるを得なくなる日常です。自分の無力さを感じて神さまに頼らざるを得なくなる。それが、私たちの生活になっていく。

これは、孤独な戦いではありません。たった一人で忍耐し、孤独な戦いをするのではないのです。この畑の、世界・社会の主人がいてくださる。理想通りにはいかない社会であっても、そこに目を注いでくださっている方がいてくださる。このイエスさまがいてくださるからこそ、私たちは戦えるのです。訴え、心をさらけ出し、愚痴を言い、反省し、特には激しく感情をぶつけながら、そんな私たちをしっかりと抱きしめ、受け止めてくださる方がいるからこそ、私たちは耐えられる…、いいえ、耐えていこう、戦っていこうと思えるのです。何度でも。そのことに気づいていくのが、「信仰生活」なのだと思う。

今日の使徒書の日課に、こんな言葉が記されていました。ローマ8章24節「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。これも、非常に大切な言葉だと思います。今は肉眼で、実感を持って見えてはいないのかもしれない。そういう意味では心許ないのかもしれません。しかし、私たちは信仰の目で見えているはずです。私たちのために命を捨てられたイエスさまのお姿が。だからこそ、希望に生きることができる。そのことも、今日の日課に加えて、覚えていきたいと思います。

《祈り》
・九州地方を中心に、各地で大雨による被害に遭われた方々をどうぞお助けくださいますようにお願いいたします。復旧も少しづつ進んでいるようですが、まだまだ時間がかかりそうです。このコロナ禍によってボランティアなどの人手も不足していると聞きます。速やかなる復旧復興がなされ、少しでも生活が改善されますように、必要な援助も速やかに与えられますようにお助けください。今年は例年よりも梅雨明けが遅く、まだ雨の降りやすい予報がされていますが、災害に発展することのないようにお守りください。また、日照不足などによる作物の影響なども心配ですが、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。

・このところ都内での新規感染者数が200人を超え、過去最多も記録しています。重症化しやすい中高齢者にもじわじわと広がっているとも指摘されています。また、身近に感染者が出るようにもなってきました。どうぞお助けください。医療体制にはまだ余裕があるとも言われますが、あっという間に入院患者が増え、再び医療現場が混乱するのではないかと心配です。また、病院が経営難になり、懸命に働いてくださっている医療スタッフのボーナスがカットされ、大量の離職希望者が出ているとも聞きます。どの分野も大変ですが、特に医療の現場は大変です。どうぞ、憐れんでくださり、国や行政なども適切な手当てを速やかにしていくことができますようにお導きください。

・このような中、今週半ばから「Go To Travel キャンペーン」がはじまろうとしています。賛否いろいろありますが、確かにこのコロナ禍にあって観光業界は深刻ですが、全国に感染拡大が起こってしまうのではないかと危惧されています。ウイズ・コロナの難しさがここにも出ていますが、どうぞ爆発的な感染拡大につながらないように、一人一人が自制した行動を取ることができますように、どうぞお守りください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

-週報- 4月12日(日)10:30 復活祭



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 苅谷 和子

前  奏 キリストは死の布に横たわった  J.S.バッハ

初めの歌  153( わがたまよ、きけ )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
御独り子イエスによって死を征服し、永遠の生命の門を開かれた全能の神さま。み霊の息吹によって私たちを新しくし、私たちの思いと行いのすべてを祝福してください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
 

第1 の朗読  エレミヤ書 31:1-6( 旧約 1234 )

第2 の朗読  使徒言行録10:34-43( 新約 233頁 )

ハレルヤ

福音書の朗読 マタイによる福音書 28:1-10( 新約 59頁 )

みことばのうた 249( われつみびとの )

説教 「 そこでわたしに会うことになる 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 154( 地よ、声たかく )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 225( すべてのひとに )


後奏 Festive Trumpet Tune  デイヴィッド・ジャーマン

*前奏・後奏(今回自宅録音)