ブックレット、本
小川修「ローマ書講義Ⅲ」改訂書評 菅原 力
『本のひろば』(2011年11月号)で石川立氏は小川修氏の「ローマ書講義Ⅰ」について、「〈聖書学〉と〈神学〉が概してそれぞれの成果に無関心で」あり、「ほとんど無関係となって」「〈聖書神学〉という用語は死語になりつつある」中で、「正面から堂々と〈聖書神学〉を講じる書が現れた。」と紹介された。〈神学〉とは何かという議論が今日いろいろある中で、聖書が語る救済、啓示の事実を宣べ伝える使命を託されている教会において〈聖書神学〉がなくてならぬものであり、生命線であることもまたまちがいのない事実である。
小川修『ローマ書講義Ⅲ』(小川修パウロ書簡講義録3)がⅠ、Ⅱに続き出版された。「講義Ⅲ」ではローマ書の8章から15章までの講義が記録されており(16章は割愛)、これでわたしたちは小川修氏によるローマ書講義の全体を手にしたことになる。そしてわたしたちは、この本によって日本語によって編まれたすぐれた聖書神学の成果としての「ローマ書講義」を手にしたことになる。
著者がこの「講義」の中で繰り返し語る福音とはローマ書1章17節の「エック ピステオース エイス ピスティン」にあらわされているものである。これは「神の〈まこと〉から人間の〈まこと〉へ」ということであり、神の〈まこと〉とは、キリスト・イエスの中に人間はある、という神の与えた現実のことである。われわれが今ここに、〈からだ〉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身を捨てた神の子のピスティスの中にあるからだ。この神の〈まこと〉という第1ピスティスこそが人間の〈まこと〉である人間の信仰(第2ピスティス)を呼び求めてくるのであってその逆ではない。人間の神に対する熱心が信仰を生み出すのではない。神の〈まこと〉(第1ピスティス)に気づかされた者がその応答としての第2ピスティスで応えていく。この神の〈まこと〉の中にある人間という現実こそが、根本的な義認であり、これを受容する(第2ピスティス)人間に神の義が表れる、と著者は語る。「ローマ書講義Ⅲ」においても、著者はこの福音の中に立って、ローマ書後半の講義に入っていく。神の選び、予定論、倫理、国家に関して。読者は神の〈まこと〉の中にある人間という現実から、ローマ書後半のさまざまな事柄と向き合っていくことになる。
この本の大きな特徴は書名にあるとおり「講義録」であるということである。しかもこの講義録は、限りなくその場の「語り」に忠実な「講義録」なのである。その「語り」の復元は徹底しており、「あの」「その」の頻発はもちろん、ちょっとした言い間違えやくりかえしまでそのまま再現している。なぜここまで、と感じるほどだが、読み進むうちにその意図は次第にはっきりしてくる。同志社大学神学部の大学院で行われたというこの講義は、配付した資料、講義箇所の要旨、ギリシア語本文、私訳、質疑応答、そのすべてが記載されている。まさに講義の全容が再現されているのである。読者はこの本一冊で直ちに教室の最前列に着席し、ローマ書という大きな森に入り込み、一本一本の木をていねいに見つめながら、尚、森全体の中心にある福音から一歩たりとも離れることなく読み解いていく小川氏の講筵に連なるのである。
この講義は小川氏自身が生きている福音が繰り返し語られる講義であり、その繰り返しの中で人間のまこと(信仰)とは、人が神のまことを自分の存在の根拠と由来として受けとることに他ならない、ということが著者を通して豊かに語られる講義なのである。講義録において講義者が一体どんなことに自分の存在を向けているのか、それはその語り口の中に如実に表れてくるのではないか。読者はこの講義に列して講義録ならではの醍醐味を存分に味わうことができる。
「講義録」を編んで下さった刊行会のメンバーの御労苦に心から感謝すると共に、今、日本の教会にもっとも必要な聖書神学の成果がこのような形で出版されたことを喜びたい。尚引き続き刊行されるというパウロ書簡(コリント、ガラテヤ)の講義録の出版も期待して待ちたい。
(すがはら・つとむ 日本基督教団弓町本郷教会牧師)
『ルターの祈り』本のひろば書評 大柴譲治
「主権」と「イニシアティブ」は常に神の側にある。「シェマー、イスラエル!」(申六・五)とあるように、神が語り、人がその声を聴くのである。どこまでも神が主、人間は従である。ここで私は「聞く」より「聴く」という語を、それも許されるなら「聽く」という旧字体を使いたい。「聖」が「王の口から出る言に耳を傾ける」、「徳」が「目と心で十全に受け止めた王の言を行う」という意味を持つと同様、「聽」という語は本来「耳と目と心を一つにして、十全に用いて王の声に耳を傾ける」という意味を持つ。向こう側から響いてくる聖なる存在(YHWH)のみ声に耳を澄ませ、無心になって全身全霊を傾ける。神が語り、人が聽く。これこそが聖書が私たちに求める「祈り」の姿勢であろう。この『ルターの祈り』はそのことを読む者に豊かに体験させてくれる。
ルターがいかに徹底して「祈る人」であったかがよく分かる。今から三年後の二〇一七年に「宗教改革運動 Re-formation」は五百年の節目を迎えるが、「祈るルター」を知ることは私たちの原点を再確認することでもあろう。ルターは毎朝毎晩、しばしば食事中にも祈りを捧げた。歩きながらでも立ったままでも、「独特の仕方」で天に向かって手を挙げ、目を上げて声に出して祈った。だからこそ、卓上語録や「われここに立つ」というウォルムス国会での言葉のように、周囲に記録された祈りも多かったのであろう。ルターの祈りは声に出して祈るとよい。彼はしばしば祈りの中で詩編と教理問答を用いる。その意味でも修道院での体験はルターの中で後々まで生き続けていた。
ルターの祈る姿勢についての証言:「しばしば彼は、お客を食卓に残して窓辺に退き、ひとりで半時間以上も祈った」(マセシウス)、「勉学に最もよい時間のうち少なくとも三時間を祈りに費やさない日とてはなかった」(ディトリッヒ)、「ルターがウォルムスで経験したことは、彼の自室での祈りにふれなくては完全とはいえない。……この祈り(七九-八一頁)も彼の偉大な讃美歌『神はわがやぐら』の散文版である」(H・E・ジェイコブス)。
私たちにとって祈りは「霊的な呼吸」である。呼吸が止まったら死んでしまうように、祈ることを止めたら霊的に生きてはいけない。神がご自身の「息(ルーアッハ)」をアダムの鼻に吹き込んで「いのち」を与えたように(創二・七)、私たちもまた神の息を吸い込んで生きる。神の呼気は人間の吸気、人間の呼気は神の吸気である。「インマヌエルの神」は傍らで私たちと「呼吸を共にしてくださる神」なのだ。「礼拝」とはそのような神の「安息」に共に与る時空間でもあろう。
神は必ず祈りを聞かれるとルターは信じていた。それが神に喜ばれ、必ず聞き入れられることを疑ってはならないが、いつでも祈る通りに適えられるとは限らない。それがどのように実現するかという「時、場所、分量、目的などは、神がよいようにしてくださることを信じて、神にまかせるべきである」(『善きわざについて』)。編者の石居正己氏はあとがきにこう記す。「神が語ってくださることを信じることができるということにまさって大きい出来事はない。またそれに答えて祈る祈りが教会を保ち、支えてきたのである。……ルターは、神が祈るべきではないと言いたもうなら、それについて願うことをやめるべきであるとして、神の主権を確保しつつ、しかし実際の問題には『私たちは祈るなという命令をもっていない』、むしろ、『祈れという命令を受けている』と述べている。神の全能の主権と、その恵みのみ心への確信が、祈りを支えている柱なのである」。
最近、祈りに関して「さかなとねこ」が大事と伝え聞いた。「讃美、感謝、慰め、執り成し、願い、告白」の最初の語を組み合わせると確かにそうなる。うまいことを言うものである。一五〇ある詩編の四割が嘆きの詩編なのだから、「慰め」のところに「嘆き」を加えることもできよう。私たちが神に祈ることができるということは何という恵み、何という喜びであろうか。生き生きとした霊の息吹きを感じさせてくれる有益な書物がここに再版されたことを喜びたい。
( おおしば・じょうじ=日本福音ルーテルむさしの教会牧師)
『小川修パウロ書簡講義録2 ローマ書講義Ⅱ』 江口再起
福音の真髄に迫る / 小川修パウロ書簡講義録刊行会編
希有な書である。温かく感動的な、また厳しく求道的な書物として、希有である。感動的なという意味は、著者小川修氏に学んだ四人の現役の牧師が故人となった氏の講義を手作りでテープ起こしし、書物として刊行した点である。求道的なという意味は、ローマ書研究を通してなんとか福音の真髄をつかまんとする著者のその求道的な迫力に関してである。
本書は小川修氏が二〇〇七年〜二〇一〇年にかけて同志社大学神学部大学院で行った講義のきわめて忠実な記録である。以前、ルーテル神学大学で小川氏からパウロやバルトを学び、その後も師弟の交わりを続けてきた四人の牧師が、氏の講義の肉声を、口調や黒板をたたく音までもまるで実況中継のように再現し文字化した。本書はその第二巻でローマ書の四章〜八章が扱われている(一章〜三章の第一巻は昨年八月に既刊)。
さて、内容である。まず第一に指摘すべきは著者の聖書そのもの、ギリシア語原典そのものへの肉迫、精読である。精読、また精読である。
その結果、小川氏はローマ書から何を聴きとったか。小川氏の求道と思索の背景には、氏のカール・バルト、そして滝沢克巳への学びがある。その点を考慮しつつ小川神学のポイントを私なりに整理しよう。
⑴滝沢克巳はバルトから、人間存在成立のそもそもの根底に神と人との原関係が厳存する、ということを学んだ(これはキリスト者であろうがなかろうが、罪人であろうがなかろうが、万人に等しく厳存する)。
⑵滝沢はかかる神と人との原関係をインマヌエル(神、我らと共にあり)と表現した。滝沢インマヌエル神学である。滝沢は神と人とのこの原関係を、西田幾多郎の哲学用語「絶対矛盾的自己同一」を援用しつつより正確に表現し、神と人との関係を「不可分・不可同・不可逆」であると定式化した。
⑶小川修は、バルト=滝沢のかかる神と人との原関係を、人とキリスト(基督)がひとつである「人基一体」と言いかえている。そして滝沢がこのインマヌエルの原関係を『聖書を読む マタイ福音書講解』(創言社)で説いたように小川は本書『パウロ書簡講義録 ローマ書講義』でこの「人基一体」を説く。そして、これこそがパウロが語らんとした福音の真髄である、と言う。
⑷かかる「人基一体」がローマ書ではどのように展開されているのか。小川は一章十七節に注目する。「神の義はその福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる(エック ピステオース エイス ピスティン)」(口語訳)である。そして、この「ピスティス」という言葉がキーワードとなる。
⑸このピスティスというギリシア語をどのように理解すべきか。ふつう「信仰」と訳されるが、この言葉には実は二様の意味がある。➀まこと(誠実・真実)➁信仰である。
⑹そこで小川は「エック ピステオース エイス ピスティン」を、「(神の)まことから(人の)信仰へ」と理解すべきだと解釈する。もちろん、「(神の)まこと」とは、あの「人基一体」の原関係のことである。つまり、パウロが言いたいことは、神が人間を創り守り救うという「(神の)まこと」がまず第一に厳存するがゆえに、その気づき・応答として「(人の)信仰」が生起するのだ、これこそが神のよき音づれ、つまり福音なのである。
以上、小川氏の思索のポイントを整理してみたが、「神のまこと」が人を義とする(義認・救済)のであって、「人の信仰」が人間を救うのではないということである。つまり「信仰によって救われる」という表現はあまりにアイマイで誤解されやすい。人が救われるのは、言うまでもなく「神の恵み(まこと)」によるからである。(ルターがいう「信仰義認」もそういうことであって、詳述できないが、それゆえルターは「受動的な神の義」という言い方をしたのである)。
ともあれ小川氏は聖書に肉迫する、パウロの語る福音に肉迫する、「神のまこと」に肉迫する。本書はまさに求道の書であり、それゆえ、本当の意味でまさに神学書である。
(えぐち さいき 東京女子大学教授)
小川修パウロ書簡講義録 ローマ書講義I
小川修パウロ書簡講義録刊行会編 (箱田清美、高井保雄、立山忠浩、大柴譲治)

書評 (『本のひろば』2011年11月号より) 石川 立
神学校や大学神学部において、今日、〈聖書神学〉の講義を聴く機会はほとんど失われてしまったのではないだろうか。〈聖書学〉の授業は豊富にあるだろう。〈神学(組織神学)〉の講義をする人材が不足しているということも聞いたことはない。しかし、〈聖書神学〉という学問分野は、実質上空洞化しているように見える。〈聖書学〉と〈神学〉は概してそれぞれの成果に無関心である。〈聖書学〉は〈神学〉から離れることで科学の仲間入りをしたいと願っているし、他方で、〈神学〉は世俗化した〈聖書学〉の成果に関心を示さない。ほとんど無関係となってしまったこのふたつの用語を敢えて再び結び付けることによって、何か新しい地平が披かれてくるのかというと、そういうわけでもない。〈聖書神学〉という用語は死語になりつつある。〈聖書学〉と〈神学〉とがこのような(無)関係にある中で、正面から堂々と〈聖書神学〉を講じる書が現れた。
本書は小川修氏が2007年4月から2010年1月まで同志社大学大学院神学研究科で行った講義の記録である。小川氏は日本、アメリカ、ドイツの諸大学で学んだ後、日本の一般の大学で教鞭をとるかたわら、日本ルーテル神学校・ルーテル学院大学で長年おもに宗教哲学を講じてきた神学者である。東京と那須に自宅を持つ氏は前述の期間、同志社大学嘱託講師として隔週土曜日に入洛し、大学院生に向けてパウロ書簡の講義を展開したのである。本書はその講義録であるわけだが、講義ノートに少々手を加えて書物にした類ではなく、講義の様子を音で拾えるかぎり丁寧に文字化したものである。質疑応答はもちろんのこと、氏が声に出した間投助詞、終助詞、間を埋める小辞などのほか、教室の笑いや「黒板にタンタンと書く」というようないわばト書も記入されていて臨場感にあふれている。
同志社大学神学館二階演習室で、パウロが書簡を通して指し示した「事柄(ザッヘ)」が静かに、しかし、力強く語られていたのである。本書にはローマ書1章から3章までの講義が収められている。授業はローマ書を原文で読み解きながら、これに詳しい注釈を述べ加える形で進められた。あくまでも聖書にゆるぎなく基づき、しかし、新約学でなされるように聖書の内容、思想や歴史的背景の解説・説明で終わるのではなく、究極的には一体何がそこで言われているのかが粘り強く追求される。とりわけカール・バルトと滝沢克己に学び、他の聖書学者の研究・解釈に耳を傾けながら、聖書に肉薄するのである。本書の核心は本の副題にもあるとおり「神のまこと」である。それはいつもそこから語られ、常にそこへと立ち帰るべき場所である。神のピスティスとは、神を信じるという人間側の心の状態ではなく、神の側のまことであり、これこそが何よりも恵みであり、福音の根拠であるという主張が本講義に一貫して響いている。
実は、著者小川氏は同志社での講義の終了一年後、今年の一月に天に召された。その一カ月前に、氏を敬愛するお弟子さん方(氏の薫陶を受けた福音ルーテル教会の牧師方)が病床にある氏の承諾を得て「小川修パウロ書簡講義録刊行会」を立ち上げ、講義のテープ起こしとその編集を急いだのである。編集にあたって、師が評価していた滝沢克己の『聖書を読む マタイ福音書講解』(創言社)を模して教室の臨場感を伝える形を採用したのも、講義する師の姿を生き生きと残したいという、お弟子さん方の熱い願いからであろう。氏の追想も収録されている。研究者、教育者、そして何よりもたゆまぬ求道者としての氏のお姿が浮かびあがってくる。
パウロ書簡講義録は全十巻に及ぶ予定である(最終巻は論文集)。テープ起こしから編集まで、刊行会の牧師方のお骨折りに感謝したい。残る巻も順調に上梓されることを願っている。
全巻が揃った暁には、日本を代表するパウロ書簡講解になることはまちがいない。共に〈まこと〉を求める読者方には全十巻すべて通読されることをお薦めする。氏を同志社にお招きした者として筆者も全巻が出揃うのを心待ちにしている。
(いしかわ・りつ=同志社大学神学部教授)
小川修先生とわたし 大柴譲治
1980年4月にルーテル神学大学(現ルーテル学院大学)に学士編入した私が、小川修先生の「宗教哲学」の授業の存在を初めて知ったのは、当時ルター寮の先輩であった神学生の大和淳さんに強く勧められたためでもあった。同年編入の神学生・立山忠浩さんと共に1981年4月より出席し始めた授業は1980年度からの継続で、カール・バルトの『ローマ書』講読だった。既にルター寮の先輩であった神学校最終学年在学中の鈴木浩さん(現ルーテル学院大学歴史神学教授)から寮で薫陶を受けていたので、バルトが極めて重要な神学者なのだということは知っていた。小川先生の講義は深く魂にしみいるような迫力を持っていた。その授業に出席するたびに私たちは毎回、神学するということの厳しさと喜びとを感じつつ、先生の真理探究の姿勢の真摯さに圧倒される思いがしたものである。振り返ってみると小川先生は、若い頃からその最後に至るまで首尾一貫して「キリストのピスティス」を探求しておられたのだと思う。また当時、一度だけであったが神学校の特別講義で、小川先生と吉永正義先生(バルト『創造論』訳者)、そして井上良雄先生(バルト『和解論』訳者)の三人がバルト神学について討論してくださるという意欲的なセッションがあった。三人の先生がたの話はそれぞれ次元が異なり、残念ながらほとんどかみ合わなかったという印象が残っているが(もっともそれは当時の私がその高度な議論についてゆけなかったということでもあろうが)、三人の共通したバルトへの深い思いに圧倒されたひと時でもあった。実にチャレンジングなよい企画であったと思う。
翌1982年度に開講された「宗教哲学」の講義は私にとって運命的とも呼ぶべき重要なものであった。シラバスによると講義概要は「現代日本のイエス・キリスト研究の検討」となっている。小川先生はその年、滝沢克己先生の『聖書のイエスと現代の人間』を取り上げ、田川健三の『イエスという男』と八木誠一の『イエス』、荒井献の『イエスとその時代』等と比較検討するという講義をしてくださった。先生は聖書を自分自身で原語から直接読み解くことの大切さを常に強調しつつ、滝沢先生への深い共感を表明しながらも、批判的な視点からそれらの研究書を比較し講読してくださったのである。この講義は私にとっては大変役に立った。そこでは、どこまでも聖書原典に忠実でありつつ、様々な解釈に対して聖書そのものからそれらを相対化し、あくまで自身の批判的な視点を大切にするということを徹底して教えられたように思う。私自身は同時に「主観性の客観化」という学的な課題を示していただいたと考えている。私がライフワークとして「罪の意識/自覚」にこだわり続けてゆくためにもそれは必要な指摘であった。1982年7月よりインターンに出た立山さんから依頼され、秋からの講義を毎回テープに録音して九州まで送ったことを思い出す。
同じ頃、やはり神学校の非常勤講師であった井上良雄先生がドイツ語Cのクラスでバルトやトゥルナイゼン、ボンヘッファーの説教や黙想を講読してくださっていた。小川先生と井上先生のお二人には「真理の求道者」として響き合う姿勢があって、私自身はいつも身を正される思いがしていた。
1982年の5月頃であっただろうか、隣のICUで開かれる会合に滝沢克己先生が出席されるということで小川先生に連れられて何人かの神学生と共に参加したことも今は懷かしい思い出である。最晩年の滝沢先生のお姿とそのお声とは今でも心に焼き付いている。
立山さん大和さんと相談して、「小川ゼミ」とか「小川塾」と勝手に称して小川先生の那須のご自宅に押しかけて勉強会を開いていただくようになったのが 1999年の夏からであったと記憶する。以降毎年一回夏に、このような押しかけ自主ゼミが始まった。小川先生は困っておられたかもしれないがさして迷惑な顏もなさらず、私たち「草刈りボランティア」が来てくれることを楽しみにしていてくださったようでもある。その参加常連は高井さん、大和さん、立山さんと私の四人だった。私たちにとってそれは神学校時代の延長でもある至福の時であった。ゼミの合間には必ず一度温泉訪問プログラムが挟まれた。「秘境」と呼ぶべき甲子(かし)温泉旅館大黒屋に何度も連れて行っていただいたことを思い起こす(もっとも多くの場合は私が運転手であったが)。
勉強会の中である時、小川先生は「立ち居振る舞いの美しさ」というものに言及されたことがある。小川先生が学生時代に合気道をしておられたということをずいぶん後から知ったが、いつも凛としておられた小川先生の立ち姿は剣豪のようであって眼光も鋭く微塵も隙がないように感じられた。そこには確かに小川美学があったのだろうと思う。「パウロは男らしい」ということもよく言っておられた。他方で先生は『フーテンの寅さん』の映画が大好きで、野鳥観賞にも深い造詣を持っておられたことも記しておきたい。
盲腸癌のために体調を崩してから、小川先生はほぼ一年でこの地上での生を駆け抜けられたことになる。聖路加国際病院の緩和ケア病棟に入られたあと、私は拙論「聖書におけるスピリチュアリティー」(『キリスト教カウンセリング講座ブックレット6』収録)を小川先生の病室におそるおそるお持ちした。不肖の弟子である私が、初めて小川先生に提出したペーパーでもあった。学生時代には恐れ多くてレポートを書くことができなかった。小川先生は辛い末期癌との闘病生活の中でそれに目を通してくださった。ブックレットのあとがきにも記したが、小川先生は「よく書けている」と喜んでくださったそうである。私が病室を訪問した時、「苦しみながら読み、読みながら苦しんだ。これは実に役に立った。ありがとう」。そう言って私に手を差し出して握手を求めてくださった。恩師からのバトンを引き継いだ思いがして、私の中には熱いものが込み上げてきた。その手と声の温もりと確かさを私は生涯忘れることはないであろう。
2010年の9月、浦安の施設にしばらく入居しておられたことのことである。既に癌は腰にも転移していたらしく、先生は鋭い腰痛に耐えておられた。ベッドに横たわりながらも先生は、訪問した立山さんと私に「教え子たちが作ってくれたものだが」と言って表情を和ませながら一冊の卒業文集を見せてくださった。聖徳大学の教え子たちの文章に挾まれて、そこにはドイツ人の奥さまについて触れた小川先生ご自身の文章も掲載されていた。その照れたような微笑の中に私は教育者としての小川先生を垣間見た思いがした。先生は人を育てることの中に深い喜びを感じてこられたのだと思う。小川先生との出会いに心から感謝して筆を置くこととする。
リトン、 2011/8/25出版、 税込み3150円
『キリスト教カウンセリング講座ブックレット6』
共著:大柴譲治「聖書におけるスピリチュアリティー」、賀来周一「スピリチュアルケア」
書評:石居基夫(ルーテル学院大学准教授、武蔵野教会前牧師)
(『本のひろば』2011年6月号より)
現代の日本ではスピリチュアルなものへの関心が非常に高い。欧米においては70年代頃からニューエイジ・ムーブメントが起こり、それまでの西欧世界における理性的精神や科学的世界観への行き詰まり感が表されるようになる。反科学主義や東洋的神秘主義、あるいは理性を超えた超自然的なものへの関心が高まりを見せてきた。その影響下にあって、日本ではオカルト的なものまで含めて、人間の理性や科学を超えた「精神世界」というものがブームになり、90年代前半まで「心の時代」、「宗教の時代」だと叫ばれた。オーム事件以後、「宗教団体」への警戒は強いが、この「スピリチュアリティー」を求める時代の流れは、商業主義を巻き込みながら今や新しい「癒しの文化」をさえ生み出していると言ってよいだろう。そういう時代だからこそ、教会は「スピリチュアリティー」を求める人々のニーズに向かい合って、聖書に基づいた確かな言葉を持たなければならない。本書の出版は、その意味で非常に意義深い。
大柴譲治氏による第I部、「聖書におけるスピリチュアリティー」では、「創世記を手がかりとして」聖書的人間論に基づき、私たちの「スピリチュアリティー」とはどのようなものかが明らかにされる。現代人のスピリチュアルなものへの渇きの由来は何か。つまり、この一連の「スピリチュアリティー」を求める精神的、文化的なムーブメントそのものが、いったいどういう現象であるのかということを捉える分析的視点が聖書に基づいて示されてくる。神からの呼びかけに基づく「超越的スピリチュアリティー」と人間における応答としての「内在的スピリチュアリティー」、そして人生の終わりに神の救いの出来事を捉える「終末的スピリチュアリティー」という三つの視点は、単に人間の中にある宗教性という一般的なものとしてではなく、神との関係のうちに私たち自身の存在を捉えていく聖書的スピリチュアリティーの本質を的確に示していると言えるだろう。
賀来周一氏による第II部は、そうした聖書的スピリチュアリティーの理解に基づきつつ、臨床牧会の立場から、今最も関心の高いスピリチュアルケアについて論じられる。今日、終末期医療の現場はもちろん、高齢化し、「孤族の国」と呼ばれるような日本の社会では、自分の死や愛する者の死という問題に新しい形で直面させられる。豊かで便利な物に囲まれ、施設や社会的な仕組みを整えても、人間の生の意味を問い、苦しみや悲しみの前にたたずむ私たちは、支え合う絆や習うべき模範も、頼るべき何ものを持たずに彷徨っているのかもしれない。実際の牧会の現場では、そのような「生きること」、「存在すること」の根源的な問いや痛みに出会うのである。いったいそこにはどのような痛み(ペイン)があり、私たちは何を携えてその一人ひとりに関わる(ケアをなす)ものであり得るのだろうか。聖書が語ること、特に十字架の苦しみを生き、死んでくださったキリスト、そして復活の信仰の意味を改めて知らされる。
実際の牧会の現場で、多くの方々の死を看取り、また天国に送られてきた賀来、大柴両氏の牧師としての豊かな経験に裏打ちされた本書は、キリスト教信仰を軸にしているけれども、宗教や信仰の如何に関わらず、あらゆる人々にとって避けることのできない「生きること」、「死ぬること」の問題、また、そこに関わる援助とは何か、何が必要なのかということに大きな気づきを与えてくれる。気休めの「癒し」ではなく、真の「救い」を求める私たちのただ中に、キリストご自身がおいでになり、共にいてくださるという神ご自身のケアに生かされていく者であることを分かりやすく説いている。「死からいのちへ」という希望の筋道をキリスト信仰に見いだしたルター神学を実践的に展開する本書は、死の向こうにある復活が私たち自身の物語(出来事)となる信仰へと導くだろう。
「聖書におけるスピリチュアリティー」「スピリチュアルケア」
共著 大柴譲治・賀来周一

CCCブックレット6に込めた思い 大柴譲治
「苦しみながら読み、読みながら苦しんだ。実に役に立った。ありがとう」。これは私の神学校時代の恩師・小川修先生(宗教哲学)が癌で天に召される二週間ほど前に聖路加国際病院のホスピス病床において、苦しい息の中で私に伝えてくださった最後の言葉でした。私のブックレットの原稿を先生に病床で読んでいただいたのです。そして先生は私に握手を求められました。その声と手の温もりを私は生涯忘れることはないでしょう。死を前にして何が真に役立つのか。それはやはり、神の御言葉・御声しかないと思わされています。キリストのリアリティー、キリストのリアルプレゼンス、「キリストのまこと(ピスティス)」(小川修)と言ってもよいでしょう。私は1986年に牧師としての教職按手を受けてちょうど今年で25年となります。これまで私が牧師として出会い、見送ってきた100人ほどの方々のお顔を走馬燈のように思い起こしながらこのブックレットは執筆されています。それらの出会いと別れの中で、私自身に慰めと励まし、戒めと希望を与えてくれた聖書の御言葉について率直に記すことができたのではないかと思っています。限られた時間の中でしたが、祈りつつ書いては消し、消しては書きという作業を積み重ねました。
受胎告知の場面でしょうか、ブックレットの表紙に天使の絵が描かれていることも嬉しく思います。マリアのように「お言葉通り、この身に成りますように」と応えてゆければと願っています。生きてゆくことの悩みや悲しみ、苦しみや行き詰まりの中にある人たちへの、ひとつの小さな贈り物としてお読みいただければ幸いです。s.d.g.
キリスト新聞社、2011/2/21出版、 税込み1785円