【説教・音声版】2021年6月20日(日) 10:30 説教 「 あなたは眠れるか 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第四主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書4章35~41節

本日の福音書の日課は、嵐を鎮められた、いわゆる「奇跡物語り」です。聖書には、数多くの奇跡物語りが記されていますが、その中でも良く知られている物語りではないでしょうか。そして、なんだかふと映像が浮かんでくるような…、̶̶それほど大きくもないボートのような舟が、突然の突風による大波に翻弄されて、慌てふためいている弟子たちの姿が…、イエスさまが波風を叱りつけられると急に静かになって、雲の隙間から光が差し込んでくるような(実際は、どうやら夜間のことのようなので、光は差し込んではこないのでしょうが)̶̶そんな物語りだと思います。

ところで、そんな日課から今日は「あなたは眠れるか」といった説教題をつけさせて頂きました。何だか変な題だ、と思われたかもしれません。では、どうしてそんな題をつけたのか。弟子たちが命の危険を感じるほどの嵐の只中で、イエスさまだけは艫の方でぐっすりと寝ておられた、と記されているからです。これまでも、何度もこの箇所は読んでも来ましたし、説教もしてきた訳ですが、正直、この点についてはそれほど関心をもっていなかったように思います。しかし、このコロナ禍ということもあるのでしょうか。この時のイエスさまの姿と弟子たちの姿とのコントラストに、妙に胸が刺されたように思ったからです。

 みなさんは、ちゃんと眠れていますか? 睡眠の大切さは、以前から言われていることですが、最近では専門のクリニックもあるようで、結構人気だと聞いています。そういう意味では、病気と同じように、健康に重大な影響を及ぼしていると考えられているからでしょう。もちろん、睡眠障害の原因は様々だと思いますが、精神的な側面ということも、やはり無視できないのではないでしょうか。
私は幸い眠れる方です。昔からよく眠る方でした。最近は加齢のせいか、ちょっとしたことで目が覚めてしまうことも多くはなりましたが…。そんな私でも、やはり何度かは眠れぬ夜がありました。悩み、苛立ち、不安…、いろんなことが頭をぐるぐると駆け巡って、結局朝になってしまったことも、数は多くはありませんが、ありました。もちろん、原因は様々です。ちょっとした工夫で眠りの質が変わることだってある。しかし、やはり、ぐっすりと眠れることは幸なのだと思うのです。人は、安心しているからこそ眠れる、というところも、確かにあるからです。

この物語りはガリラヤ湖で起きた出来事です。このガリラヤ湖は、イエスさまが活動拠点にしていたガリラヤ地方にある淡水の湖で、魚も豊富だったことから、昔から漁業で有名だったようです。イエスさまの弟子たちの中にも、そんな元漁師たちが何人もいました。みなさんは、このガリラヤ湖の南にある死海もよくご存知でしょう。世界で最も低いところにある湖です。ですから、ここに流れ込む水は逃げ場がないので、入ってきた水はみんな蒸発してしまい、そのために塩分濃度が極端に濃くなったと言われています。生き物が生息できないそんな死海と真逆のように思われるこのガリラヤ湖ですが、実は、死海に次いで二番目に低い場所にあるのです。水面の高さは、海抜マイナス213メートル。

海の高さから、まだ213メートルも低いところに水面がある。そして、周りは丘のようになっていてすり鉢状なので、結構突風が吹くようなのです。この辺の人なら、みんな良く知っていたことでしょう。しかも、弟子の中には、元漁師、この湖のプロたちもいたわけです。そんな彼らが、この突風で慌てふためいた。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。この湖のプロたちが、これほど慌てるということは、彼らにとってもかつて経験したことのないような荒れよう、まさに命の危険を感じるような状況だったことが想像できます。そんな状態なのに、イエスさまはまだ眠っておられた。少々の嵐ではない。まさに命の危険を感じるような中で、まだ眠っておられた。さすがに、あまりの無頓着ぶりに弟子たちもキレたのかもしれません。

レンブラント・ファン・レイン (1606–1669) The Storm on the Sea of Galilee ガラリアの海の嵐



「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と憤慨しながら、イエスさまを起こしました。すると、やおら起き上がって風を叱りつけられると、あれほど荒れ狂っていた波風が一瞬でおさまり、凪になってしまった。そして、イエスさまは弟子たちに語られた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。深い沈黙に落とされるようです。そう、明らかに違う。嵐の中でさえ眠っておられたイエスさまと、恐れに取り憑かれて狼狽えるしかなかった弟子たちと。その不信仰ぶりに、打ちのめされる思いがいたします。しかし、私たちにも言い分がある。もちろん、自分たちの不信仰ぶりは認めます。情けないとも思う。しかし、あなたと比較されても困ります。あなたのようにはなれません。あんな波を見せられたら、荒れ狂った姿に晒されたら、舟が軋む音を、今にも転覆しかねない様子を体験したら、とても安心して寝てなどいられません。むしろ、恐れまどうことの方が自然なのではないでしょうか、と。

イエスさまにも眠れぬ夜がありました。あの十字架を目前に控えたゲッセマネでの祈りの時です。この時は逆に、弟子たちは眠りこけていた。これから起こるであろうことを理解できずに、肉体の弱さから眠りに落ちてしまっていた。そういう意味では、何でもかんでも眠れるならば良い、ということではないでしょう。そうではなくて、眠れぬ夜もあるのです。そういったことを引き受けなければならない時が。それも、信仰から、神さまに従うところから生まれるのです。

しかし、この時は違った。まだその時ではなかった。だからこそ、イエスさまはたとえ嵐の只中でも眠ることができた。神さまのご計画を信じていたからです。そのご計画に従っておられたからです。神さまに不可能なことは、何一つないのだと。だから、この時は、安心して眠ることができた。
ここで弟子たちに、「まだ信じないのか」と言われた理由について色々と言われているようですが、私は、35節にそのヒントがあるのではないか、と思っています。「その日の夕方になって」。その日とは、前回学んだ譬え話を語られた日を指します。その日、おそらくイエスさまは一日中、多くの人々に教えておられたのでしょう。神の国のことを。

そうです。イエスさまは譬え話で神の国を教えておられたのです。神の国とは、独りでに成長していくものだ。神の国は、最初はからし種のように小さいかもしれないが、やがて信じられないほど大きく成長していくのだ、と。これは、イエスさまご自身のことでもある。イエス・キリストという存在が、神の国を、神さまのご支配をこの地上にもたらすからです。病人を癒し、罪人を回心させ、悪霊を追放されるイエスさまの姿を見れば、神さまのご支配がすでに始まっていることを知ることができるからです。つまり、そこに、その舟の中に、弟子たちの只中にイエスさまがおられる、いてくださるということは、そこに神の国が、神さまのご支配がある、ということです。ならば、それは決して「破滅」で、「滅び」で終わるようなことはないでしょう。

しかし、弟子たちにとっては、それがまだピンと来ていない。うまく結びついていない。確かにイエスさまのことは尊敬するし、立派な方だと思っているけれども、そこにこそ神さまの国がすでにはじまっているとは、理解できていなかったのです。信じることができていなかったのです。だから、ま・だ・信じないのか、です。これほど一緒にいて、誰よりも私のことをよく知っているはずなのに、ま・だ・信じないのか、なのです。イエスさまと神の国とを。

不信仰とは、叱責されるべきものです。もちろん、私たちの誰もが叱られたくはないでしょうが、しかし、それがどんな理由でなされたかで違ってくるはずです。イエスさまの叱責は愛から出ている。だから、嵐を鎮められた上で、救われた上で叱責されるのです。信じたら、恐れなくなったら、嵐を鎮めよう、救おう、ではない。

たといイエスさまと共にいたとしても、この弟子たちのように嵐に遭遇するものです。苦難に遭わない訳ではない。そんな時、とてもイエスさまのようには高枕で眠ることなんてできないのかもしれません。それでも、イエスさまと一緒なら、溺れて死ぬことはないだろう、と試練に耐えることはできるのかもしれません。いいえ、たといその時に、そんな信仰を持てなくても、イエスさまを叩き起こせばいい。あの弟子たちのように。「私たちが溺れてもかまわないのですか」と。

不信仰を咎められるかもしれませんが、それでも私たちを助けてくださるに違いないからです。そして、そんな体験の積み重ねが、イエスさまと神の国とを結びつけていくことに、信じていくことに繋がっていくようにも思うのです。そして、安心して眠ることにも。そう思うのです。

【週報:司式部分】 2021年6月20日  聖霊降臨後第4主日礼拝



聖霊降臨後第4主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子  浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 苅谷 和子

前  奏 「来たり給え 創造主なる聖霊よ」によるファンタジー F.カポッチ

初めの歌  教会149( 空も地をも )1節
1.空も地をも あまねく統べ
愛と力 満つる神に
ものみな 感謝のほめうた捧げよ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

– 特別の祈り-
すべての民の主なる神。
あなたはあなたの民にみ心を示し、あなたの民を救う約束を与えられました。
私たちがあなたの戒めに耳を傾け、み旨を行なうために、あなたの強い力で支えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

 

第1の朗読   ヨブ記 38:1-11( 旧約 826頁 )
第2の朗読   コリントの信徒への手紙二 6:1-13( 新約 331頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読    マルコによる福音書 4:35-41( 新約 68頁 )

みことばの歌 教会129( そむくわれらをも )1節5節
1.そむくわれらをも ゆるしたもう
みさかえの父を とわにたたえん。
5.まことと愛もて 捧げまつらん、
あめつちに満つる 感謝のうた。

説  教 「 あなたは眠れるか 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌  教会275( なみかぜ狂えど )1節
1.なみかぜ狂えど 見よ岩のうえに
神の教会は とこしえに立てり。
「悩めるもの皆 みもとに来たれ」と
鐘の音はひびく。

信仰の告白
使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌  教会409( この世の海に )1節
1.この世の海に 船出しゆけば
風は吹き荒れ 波はさかまく、
主よ先だちて 導きたまえ。

後  奏  Andante tranquillo F .メンデルスゾーン

【週報:司式部分】 2021年6月13日  聖霊降臨後第3主日礼拝



聖霊降臨後第3主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子  浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

前  奏 教会讃美歌175番の曲による前奏曲 Y.アブラツキ―

初めの歌  教会175( うるわしき )1節
うるわしき 救いぬし み子なるイェスは、
わがいのち わが冠 わがたまの光。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
天地の支配者、全能・永遠の神さま。
私たちの祈りを聞き、今より永遠まで、あなたの平安のうちに歩ませてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 エゼキエル 17:22-24( 旧約 1320頁 )
第2の朗読 コリントの信徒への手紙二 5:6-17( 新約 279頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 マルコによる福音書 4:26-34( 新約 68頁 )

みことばの歌 教会182( 主の造りましし )1節4節
1.主の造りましし きよき主の日、
あめつちよろこべ み座のまえに。
4.罪びとのために 来たりませる
救い主イェスを あがめまつれ。

説  教 「 神の国のたとえ 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌  教会358( こころこめて )1節
1.こころこめて み名をたたえよ、
そのみわざは いとも妙なり。
母のうでに 在りし日より
ふかき恵み ゆたかにあり。

信仰の告白
使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌  教会382( ここは神の )3節
ここは神の 世界なれば
悪魔のちからは やがてほろぶ。
わがこころよ などて嘆く、
王なるわが神 世をすべます。

後  奏 「主の招く声が」 蒔田尚昊

【説教・音声版】2021年6月13日(日) 10:30 説教 「 神の国のたとえ 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第三主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書4章26~34節

今日の福音書の日課は、「神の国のたとえ」として良く知られている譬え話しでした。皆さんも何度もお読みになられたでしょうし、ここからの説教もお聞きになられてきたことでしょう。

少し前に、『神の国とキリスト教』という古屋安雄という先生̶̶この先生は元ICU…国際基督教大学教会の牧師と、教授をされていた方ですが̶̶が書かれた本を読みました。私にとっては、決して簡単な本ではありませんでしたが、共感を生む刺激的な本でもありました。これまでも先生の本は何冊か読ませていただきましたが、日本にキリスト教が浸透していかない、根付いていかないことに強い問題意識と危機感を持っておられるように感じます。この本もそういった問題意識の中で記されているものだと思いますが、先生はその原因の一つとして、日本(の教会)では「神の国」ということが語られてこなかったことにあるのではないか、と指摘しておられます。

日本の主要な教派、牧師たちは、「神の国」についてほとんど語ってこなかった。日本で唯一語ってきたのは、賀川豊彦と羽仁もと子くらいではないか、とまで言われる。では、なぜ語ってこなかったのか。これなかったのか。その原因に、古屋先生は「神国日本」という相対立する日本の固有理解にあるのではないか、と指摘されます。そして、特に戦時中、教会は、多くの牧師たちは、当局を憚ってその誤りを正せなかった。むしろ、妥協して、戦争協力にまで踏み出してしまった。

それは、こんな言い方も許されるのかもしれません。現実世界から逃げ出して、信仰の世界へと閉じこもっていった、と。この点について、当時の日本の教会とドイツの教会とがよく比較されることはご存知だと思います。当時のドイツの教会も、ナチスによって相当苦しい状況にありました。そんな中で、むしろ積極的にナチスに協力する教会もあったわけですが、それに反対する告白教会も出てきたわけです。日本でも決してなかったわけではない。特高に捕まり、暴行の果てに命を落とした牧師の話しも聞きます。

しかし、残念ながら、とその時代を知らない者が簡単に言えることではないことも重々承知していますが、日本では決して多くはなかったことも事実です。

長々と歴史的な話しをしてしまいましたが、それが今の私たちとどう繋がるのか。確かに、かつてはそういったことがあったであろう。色々と反省も求められるのかもしれない。古屋先生の指摘ももっともかもしれない。しかし、現代において「神国日本」なんてどれほどの影響があるのか、とも正直思う。しかし、古屋先生は何も過去の話しをしているのではないのです。過去、あの時代において「神の国」を打ち出せなかったことに問題がある、ということではない。今、この現在にまで続いていることに課題があるのではないか、と言われているのではないか。そう思うのです。

先ほどの私なりの解釈をすれば、現実世界から逃げ出して信仰の世界へと閉じこもることに、現実生活と信仰生活とを切り離してしまうことに、課題があるのではないか、と。現実生活・現実社会と信仰世界の乖離、世の中は世の中、私の信仰は私の信仰とすることに。日常生活の中に、信仰の事柄は入ってきて欲しくない、と割り切るところに、その課題が…。なぜならば、「神の国」とは日常だからです。ありふれた日常生活、社会生活の中に神さまのご支配が入ってくることだから、です。

Salvadora persicaサルバドラペルシカ(からしだね) Wikipedia



「神の国」の譬え話に戻りますが、どちらの譬え話も非常に分かりやすいものだと思います。この両者の共通しているのは「種」が登場してくることでしょう。最初の譬え話は、その「種」が自然に成長する、ということです。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」。

これは余談ですが、ここで「夜昼、寝起きして」と記されていますが、これは、ユダヤ人たちの一日の数え方を反映してのことだろう、と言われています。ご存知のように、ユダヤ人は日没から一日が始まる、と考えるからです。しかし、日本人の私たちからすると、なかなか馴染まない感覚でしょう。私自身、けったいやな、と思っていましたが、ある方の指摘を受けて、少し考えてみました。

皆さんも、そんなふうに感じたことはないでしょうか。朝起きて、今日も一日頑張ろうと思う日もあれば、もう朝が来てしまったのか、あ~、しんど、と思う日が…。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、私がルーテル学院大学に通っていた2年間は、まさにそういった状態でした。学校から帰ってくると、食事をして、風呂に入って、午後8時からはじまる勤務時間に間に合うように家を出て、明くる朝午前8時に仕事が終わると、その足で学校に行くという生活が続いた。

あまりのしんどさに、正直、次の日よ来ないで、と何度も思いました。活動から一日が始まるという私たちの感覚。休息から一日が始まるというユダヤの感覚。私は、このユダヤ人たちが考えた一日のあり方もいいな、と正直思いました。ともかく、蒔かれた種がどのように成長し、実っていくのか、人は知らないのです。神さまがそのように、種を、土・世界を造られた。自然に成長し、実っていくように、と。

そうとしか、言えない。これは、非常に慰められる言葉です。しかし、同時に、私はいつもここで自分の不信仰さを知らされるのです。なぜ、この神さまを信頼して待てないのか、と。信じているといいながら、あれは出来ているだろうか、これは出来ているだろうか、と、自分の業ばかりに心奪われて、芽が出てこないとなぜだ、と問い、不良品ではないか、と疑い、思ったような成長が見られないと、そこでもイライラしてしまう自分がいる。

本当に情けない、と思いつつも、それを繰り返してしまう始末です。何もしなくて良い、ということではないでしょう。この農夫も自分にできることをしたでしょう。水をやり、草を刈り、肥料を与えたりと。しかし、それよりもはるかに大事なことに目を向けてほしい、と言われるのです。種を芽吹かせ、成長させられるのは、神さまのみ業なのだ、と。

人は、どうしてそのようになるのか理解できなくとも、神の国というものは、そのように必ず成長していくものなのだと、そう言われる。 次のからし種の話も、よくお分かりでしょう。最初は小さくとも、大きく育つということです。そうです。最初は小さいのです。よくよく見ないと見えないほどに小さく、これが果たして成長するのか、と疑われるほどです。しかし、神の国とは、そうやって始まっていったのです。最初は、イスラエルの始祖アブラハムからだ、と言っても良いのかもしれません。その時代、世界の人口がどれほどだったかは分かりませんが、その中のたった一人の人からはじまったと言っても良いでしょう。そのアブラハムに神さまはこのように約束された。

「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。…地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」。神の国とは、神の支配を意味する、とよく言われます。しかし、それは、世の支配者たちが、自分たちの権勢を誇るために権力を振るうような支配とは明らかに違うはずです。そうではなくて、祝福を与えるための支配。全ての人々に、神さまの祝福が豊かに行き渡るためのご支配です。そして、その神さまの祝福とはなんたるかを具現化されたのが、他でもないイエスさまなのです。だから、神の国はイエスさまご自身だ、とも言われる。イエスさまの存在、その言動、イエスさまの全てが、神の国を、神さまの支配を、私たちに知らせてくれる。

日本におけるキリスト教人口は1%とも言われています。人口比30%のお隣韓国ともよく比較され、前述の古屋先生のような危機感ももっともだと思います。ですから、これまでの経緯についての反省も大いに意味があると個人的には思っているところです。しかし、考えてみれば、先ほども言いましたように、この神の国の宣教は、最も小さなからし種からはじまったことも忘れてはいけないのだと思うのです。神の国とは、たとえからし種ほど小さくとも、信じられないほど大きく成長する。しかも、それは、人為的でもなく、神さまの業として、自然と大きく成長していくものなのだと、イエスさまも語ってくださっているからです。

ですから、やはり大切なことは、種を蒔くことでしょう。神さまを、イエスさまのこの言葉を信じて。そして、重要なのが、どんな種を蒔くか、です。いくら驚くほど成長するからといって、からし種を蒔いても意味がありません。あくまでも、蒔くべきものは、からし種のような特徴を持っている「神の国の種」でなければならないはずです。そして、その種を持っているのは、おそらく私たちだけでしょう。イエスさまを知っている、信じている私たちだけが、この「神の国の種」を蒔くことができる。

神さまの祝福の種を、私たち人類に何を望んでおられるのかという種を、ご自身の愛の結晶である種を、私たちは蒔くことができる。そうでは、ないでしょうか。

人口比1%という小ささに、怯む必要はないのかもしれません。自分たちの教会の教勢のために、あくせくするのとも違うでしょう。そうではなくて、この日本に神さまの国が豊かに広がるように、信じて、信頼して、種を蒔き続けて行きたいと思います。

【説教・音声版】2021年6月6日(日) 10:30 説教 「 家族になる 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第二主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書3章20~35節

今日から…、正確には今日は聖霊降臨後第二主日ですので、先週からと言った方が良いのでしょうが、教会の暦としては「聖霊降臨後」の季節、「緑(典礼色としては)」の季節に入っていくことになります。つまり、特別な祝祭…、宗教改革主日とか全聖徒主日などがない限り、今年はB年ですので、落ち着いてマルコによる福音書を学ぶことになるわけです。ですので、早速ですが今日の日課であるマルコによる福音書3章20節以下をご一緒に見ていきたいと思います。

今日の福音書の日課は、先ほどお読みしましたように、マルコによる福音書3章20~35節でした。新共同訳では二つ小見出しがついていますので、二つの物語ということができるでしょう。一つ目は「ベルゼブル論争」と小見出しがついていますが、イエスさまが行われていた悪霊追放の業を、「悪霊の頭の力」で行っているに違いない、との指摘から起こったものでした。では、なぜそのような口撃がなされたのか。それは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」といった評判が既に起こっていたからです。この「ベルゼブル」、諸説あるようですが、元々は異教の神の名だったようで、偶像を嫌うイスラエル人たちがそれを嘲って「ハエの王」と呼び直したことにはじまる、とも言われています。それが、悪霊の頭、悪魔などのように用いられるようになっていった。ともかく、そういった論争が一つ目の物語でした。

そして、二つ目は「イエスの母、兄弟」と小見出しにありますが、要するに「イエスさまの家族とは一体誰か」ということでしょう。この二つの物語り、一見あまり関連性がないようにも思われますが、しかし、よくよく見ていきますと、この両者がある意図をもってここに記されていることが分かってくると思います。それは、21節と31節とに、イエスさまの血縁と目される人々が登場しているからです。21節「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」。ここで「身内」とされている人々がどこまでの範囲なのかは定かではありませんが、家族、親類、あるいはかつての同郷の人たちもいたのかもしれません。では、なぜそんな人々がイエスさまを取り押さえに来たのか。先ほども言いましたように、「ベルゼブル」に、悪霊に取り憑かれていると評判になっていたからです。

イエスさまは良きにつけ悪しきにつけ、当時の常識の範囲におさまらない方でした。罪人こそが神さまに招かれている、と言うのですから。こういった人々の出現は、今日でもそうですが、賛否が極端に別れるものです。同じような問題意識を抱えていた人たちにとっては、もちろん好意的に受け止められ、ヒーローにさえなるのですが、逆に今までの秩序・価値観の維持を目論む者たちにとっては、世界の、正義の破壊者、ダークヒーローと見られるわけです。そんな「悪霊憑き」と評判になっていたイエスさまを案じて連れ戻しにきた、といった側面もあるでしょうが、その多くは、一族の、町の評判が傷つかないように、「困ったことをしてくれたな」との思いで取り押さえに、連れ戻しに来たのでは

ないか。そう思うのです。そのように、本来、一番理解してくれてもいいはずの身内の者たちが、信仰の道の障害となる例は、決して少なくありません。
以前もお話ししたことがあると思います。静岡時代に親しくなった、もう引退されていましたが、救世軍の元士官(軍隊組織を採用している救世軍では、牧師のことをこのように言います)の奥様(この方も士官ですが)の話です。戦後、まだそれほど経っていない頃のことだと思いますが、この奥様、分家でしたが、会津の結構な家柄の娘さんだったようです。会津の女性といえば、大河ドラマ『八重の桜』で有名になりました新島襄の奥方山本八重さんを思い出しますが、八重さん同様、気丈な女性だったのでしょう。女学校時代に救世軍で信仰を持たれ、そして士官を志し、士官学校(私たちのいうところの神学校ですね)の入学を願われます。しかし、当然、家族から反対されることになる。しかも、自分の家族だけではない。本家からも圧力がかかり、余計に家族の同意が得られなくなるわけです。

そして、とうとう勘当されてしまう。そういったことを経て、士官になっていかれました。そんな例は枚挙にいとまがないでしょう。私の家内もそうです。クリスチャン・ホームであるにもかかわらず、最初は神学校に入るのを許可されなかった。常識の範囲内なら良いのです。しかし、いったん常識を超えてしまうと、̶̶一信徒としてではなく、神学校にいく、献身するということは、常識を超えることになるのでしょう。何も、そこまでしなくても、熱心にならなくても、と。̶̶身内すら、いいえ、身内だからこそ反対されることになるのかもしれません。ともかく、イエスさまの身内の中でさえも、そういった姿があった。

31節では、こう記されています。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」。ひょっとすると、先ほどの身内たちがイエスさまを連れ戻すことに失敗したから、今度は最も近い存在である家族が連れ戻しに来たのかもしれません。あるいは、少なくとも、イエスさまの母マリアと兄弟たちは、他の身内のやり方には賛成していなかったのかもしれない。やはり、一番身近な存在ですので、評判うんぬんを気にするよりも、健康等が気になっていたのかもしれません。ちょっと「やりすぎ」なのではないか、と。もうそろそろ、家に、家族の元に戻ってきてはどうか、と。

ここで、イエスさまは非常に重要な発言をされます。「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』」。ここでイエスさまは、血縁を超えた家族の定義をされました。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。教会のことを、「神の家族」という言い方がされることがあります。また、イエスさまのことを「長兄」とも表現いたします。その根拠がここにある。血縁を超えた神の家族の姿が、ここにある。しかし、注意が必要です。イエスさまは決して血縁としての家族の姿を否定されてはいないからです。イエスさまは決して、十戒で求められている「父と母を敬え」との御心を蔑ろにはされないでしょう。事実、聖書には、「両親に仕え」たと記されていますし、十字架の上で母マリアの今後を心配してもおられました。また、初代教会であるエルサレム教会で指導者として立っていたのは、イエスさまの兄弟ヤコブだとも言われています。

イエスさまは決して血縁を蔑ろにしてはいないのです。家族は神さまが与えてくださった賜物、大切な存在です。もちろん、そうです。しかし、その上で、その血縁をも超えた家族の姿もある。「神の御心を行う人」、ここに血縁を超えたイエスさまの家族の姿がある。では、神の御心を行うとは一体どのようなことか。色々と考えることができると思いますが、ある方はこう言っています。この時のように、まずはイエスさまの周りに座る、ということではないか、と。私も、そう思う。イエスさまの元を訪ねる動機は様々でしょう。病気を癒していただくため、霊的な問題を解決していただくため、教えを受けるため、興味本位、ただ会って見たかった…。私たちだってそう。色々な動機、期待がある。

しかし、大切なのは、今、私たちはどこにいるか、です。今、イエスさまを取り囲んで、周りに座っていること。そして、座るということは、あのベタニアのマリアのように、イエスさまの話に、その教えに、聞き入ることをも差すのでしょう。それが、イエスさまの家族の姿なのです。

家族とは本来、一番信頼ができ、落ち着ける、安心できる、憩える、そんな関係性を差すのでしょう。しかし、残念なことに、現実は前述のように、そうとは言えない面も多々あるのです。牧師として相談にのるその多くは家族問題が大きく関係してきますし、巷のニュースなどを見ても分かるように、残虐な犯罪の多くが家族間で行われてもいます。血縁関係でもそう。同じ親から生まれたはずの兄弟姉妹同士でも、合う合わないがあったりする。ならば、イエスさまの家族だって、そういった課題は残るのではないでしょうか。

私自身、世帯を持ってつくづく感じることですが、自然に家族が「ある」、のではなく、家族に「なる」、「なっていく」ことが大切だと思うのです。そこで見失っていけないのは、この家族の原点です。イエスさまの家族、教会の原点は、イエスさまを中心に、その周りを取り囲んで座るところにある。そこから『はじまる』からです。

家族の絆とは強いものです。今は一緒に住んでは、過ごしてはいなくとも、だからといって家族でなくなってしまうのではない。遠方にいたって、しょっちゅう会うことができなくたって、何年も音沙汰なしだって、関係が消えてしまうものでもない。むしろ、また会える日を楽しみに、その人の健康、幸いを願い、祈っていくものではないか。そう思う。その人にも、神さまの祝福が豊かにあるように、と。イエスさまがいつも共にいてくださり、助けて、見守ってくださるように、と。

 

【週報:司式部分】 2021年6月6日  聖霊降臨後第2主日礼拝



聖霊降臨後第2主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子  浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 上村 朋子

前  奏 主をほめまつれ、おお我が魂よ  o.Abel

初めの歌 教会164( わがたまよ )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り

力なる神さま。生まれながら弱い私たちは、あなたによらないで正しいことを行うことができません。
あなたの戒めを守り、思いと言葉と行いのすべてであなたに仕えることができるよう、み力によって支えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 創世記 3:8-15( 旧約 4頁 )
第2の朗読 コリントの信徒への手紙二 4:13-5:1( 新約 329頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 マルコによる福音書 3:20-35( 新約 66頁 )

みことばのうた 教会190( 主のみ名によりて )1節

説教 「 家族になる 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会271( 主は教会の )4節

信仰の告白
使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会317( 主イエスの血しおと )2節

後  奏 ただ神のみ心にまかせる者は  J.S.Bach

【週報:司式部分】 2021年5月30日  三位一体主日礼拝



三位一体主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子  浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 小山 泉

前  奏 「聖なる聖なる」による前奏曲 Arr.by Naomi Nishio

初めの歌 教会126( 恵みふかき父なる神 )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り

全能の神、栄光の父なる神さま。
み霊によってすべては新しくされます。主キリストのみ力によって、
一切の恐と疑いを私たちから取り除き、父と子と聖霊のひとりの神を礼拝する恵みを与えてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 イザヤ書 6:1-8( 旧約 1069頁 )
第2の朗読 ローマの信徒への手紙 8:12-17( 新約 284頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 3:1-17( 新約 167頁 )

みことばのうた 教会131( 聖なる 聖なる )1節6節

説教 「 聖霊を感じる 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会133( み神はこの世に )2節

信仰の告白
使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会231( いとたかき神に )1節 
     ※教会213から上記に変更

後  奏 来ませ 創造者なるキリストよ 聖霊よ J.S.Bach

【説教・音声版】2021年5月30日(日) 10:30 説教 「 聖霊を感じる 」 浅野 直樹 牧師

三位一体主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書3章1~17節

先週は聖霊降臨祭でしたので、聖霊についてのお話しをいたしました。ご存知のように、聖書の言葉であるヘブライ語でもギリシア語でも、「霊」を表す言葉は、風を意味する言葉です。あるいは、息。ある方は、「空気の流れ」とも言っています。この空気の流れは、実感ではなかなか掴みきれないものです。しかし、その力、働きは感じることができる。その一例として、私の思い出の場所である静岡市に立つ風力発電用の風車、「風電君」のお話しもしました。本当に大きい…、全長65メートル、羽の長さ35メートルと巨大なものですが、それほど強い風を感じていなくても、その巨大な風車は大きな円を描いてゆっくりと回ります。風、空気の流れの力をまざまざと感じさせられたものです。

そのように、その力を、その働きを感じとることのできる霊、聖霊は、では、一体どんな働きをしているのか。先週の日課では、このように記されていました。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」。先週は時間もありませんでしたので、罪の誤りについてだけを取り上げさせていただきましたが、予告の通り今日は後の二つについても短くお話ししたいと思います。

「義」の誤りについては、こう記されています。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」。「義」とは、正しさのことです。聖書からでなくとも、正しさについて教えるものは、この世界・社会の中にも多くあることを私たちは知っています。しかし、それらは誤りだと言うのです。神さまの前での本当の正しさとは、イエスさまの十字架と復活とからしか生まれないからです。「もはやわたしを見なくなる」とは、十字架と復活、そして昇天…、つまり現在は神さまの右に座しておられることを意味するからです。そこから、裁きについても誤りが正されていくことになる。裁きとは、この天に昇られたイエスさまから来るからです。私たちは礼拝の度に、使徒信条によってこのように告白しているはずです。「そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます」と。

「この世の支配者」たちは、自分たちこそが法律を作り、世を裁けると思っているところがある。もちろん、その全てが間違っているとは言いませんが、しかし、私たちは、どこかでその限界を知って憂いでいるのではないでしょうか。特に、専制的な指導者たちに対しては。彼らは神さまの御心を知らないからです。ですから、どこの国においても、大なり小なり弱者は、役位に立たない者は、反対する者たちは、弾かれ、切り捨てられていくことになる。ともかく、聖霊の働きとは、そういった世の誤りを明らかにすることだ、と言うのです。そして、そこに聖霊の働きを、その力を感じていくことにもなる。

いつまでも前回の箇所にとどまっていることはできませんので、これで最後にしたいと思いますが、私たちキリスト者たち、教会には、この聖霊の働きによって明らかにされたことを伝える、証していくことが求められているわけですが、それが先週の聖霊降臨の出来事だと思います。そこに、面白いことが記されていました。使徒言行録2章13節に「しかし、『ある人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」とあります。つまり、聖霊に満たされた人たちを、酔っ払いだと間違えた人もいた、と言うことでしょう。素面では言えないようなことも、酒の力を借りれば言えることもある。好きな人に告白するのもそうかも知れない。つまり、酒の力ではなく、聖霊の力があれば素面の時には言えないようなことでも勇気が出て言えるようになる、ということでもあるのではないか、と思うのです。ここに、私はなんだか慰めを感じるのです。証しすることも、私たちの力だけに任されているのではない。素面だと臆してしまうこともある。しかし、聖霊の力は、そんな私たちをあたかも酔っ払いが大胆になるかのように、大胆に証する者にしてくださる。そういったことも、あの聖霊降臨の出来事には含まれていたのではないか。そう思うからです。

予定に反して、前回のところで随分と時間をとってしまいましたが、早速今日の箇所に移っていきたいと思います。今日の箇所の大半は、ニコデモの物語だと言えるのだと思います。今日は三位一体主日ですので、16節で神さまと御子(独り子)、そしてニコデモの物語で聖霊が登場してきますので、そういう意味では三位一体にふさわしいと言えるのかも知れませんが、それでもやはり、ニコデモの物語が中心になると思いますので、前回の箇所からも「聖霊」の話をしてきた訳です。では、このニコデモの物語、一体何を言いたいのか。一言でいえば「聖霊による新生」と言うことです。聖霊によって新しく生まれる、新しい存在になる、と言うことです。

私は正直に言いまして、このヨハネ福音書が苦手です。確かに、教えられる、記憶にとどめておきたい素晴らしい言葉も多くあります。今日の3章16節なんかもその代表でしょうが、他の福音書に比べても、赤線を引いてある箇所はダントツに多いのかも知れません。単独なら良いのです。しかし、物語の流れ、こと会話・対話の箇所になると、途端に訳がわからなくなる。今日のニコデモの箇所もそうですし、この後の4章に出てくるサマリアの女性の物語などもそうでしょう。旅の途中、サマリアの町に立ち寄られた時に、イエスさまはお疲れになられて井戸のそばに座っておられました。そこに、たまたま水を汲みにきた女性に声をかけられた。

「水を飲ませて」欲しいと。これは、当時の社会的、文化的背景を知らないと、なかなか分かりづらいものですが、この時代のユダヤ人とサマリア人とは仲が良くなかった。しかも、男性から女性に声をかけることは好ましくなかったものですから、女性はびっくりして、なぜ私に水を飲ませて欲しいなどと頼むのか、と尋ねる訳です。当然の問いでしょう。普通なら、「いいや、私はあらゆる差別をしないのだ。あなたを一人の人として見ている。だから、頼んでいるのだ」などの答えを期待するかも知れませんが、突然、「私が何者かを知っているなら、あなたの方から生きた水を求めるはずだ」などと言いだす。困惑したでしょうが、女性も何とかついていって水を与えるというからには、水を汲む道具が必要なのではないか、とこれまた真っ当な質問をするのですが、「私が与える水はあなたが知っているような水ではない。永遠の命を与える水なのだ」とまた訳のわからないことを言い出すわけです。全く会話になっていない。もし、私が皆さんとこんなやりとりをしたなら、きっと皆さんは私に話しかけて来なくなるでしょう。ニコデモの時もそうです。全く話が噛み合わない。

しかし、今では「流石」と思っています。なぜなら、私たちの土俵に上がっては、決して天の事柄には至らないからです。私たちの関心事はいつも地上のこと。世間話や社会に対しての愚痴が関の山です。だから、半ば強引に、全く話が噛み合わないほどに、イエスさまはご自身の土俵に私たちを上げようとなさる。天の事柄へと向かわせようとなさる。このニコデモについては、あまり良くない評価の方が多いようですが、私は流石だと思っています。よくこんな噛み合わない、しかも批判的な会話をされて、席を立たずについていっているな、と感心する。私なら、「もう結構」と言いかねない。しかし、それでも、やはり限界がある。結局は、「どうして、そんなことがありえましょうか」と結論づける
のがオチだからです。私たち自身の手によっては、どうしても天の事柄は分かり得ないのです。だからこその聖霊。だからこその「聖霊による新生」。

私たちには分からない。天の事柄は分からない。神さまの独り子を与えるほどの愛も、滅びを防ごうと望まれている思いも、永遠の命のことも、私たちには分からない。何一つ分からない。ピンと来ない。噛み合わない。それが、私たちの土俵に生きるということです。そうであるなら、あり続けるなら、私たちには分かりっこない。では、なぜ私たちはこの言葉に心惹かれるのでしょうか。素晴らしいみ言葉だと心に刻むのでしょうか。慰めの、希望の言葉とするのでしょうか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。聖霊があなたに働いているからです。気づかずとも、自覚がなくとも、「聖霊による新生」に与っているからです。この御言葉の法則に照らし合わせるとするならば、そうとしか説明がつかない。そうでは、ないでしょうか。

【週報:司式部分】 2021年5月23日  聖霊降臨祭礼拝



聖霊降臨祭礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子  浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 上村 朋子

前  奏 おお聖霊よ、おお聖なる神よ K. Brod

初めの歌 教会116( 聖なるみ霊よ )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

-特別の祈り-

私たちの主イエス・キリストの父なる神さま。
弟子たちに約束の聖霊を送られたように、あなたの教会を顧み、
私たちの心を開いてみ霊の力を受けることができるようにしてください。
私たちの心に愛の炎を燃え上がらせ、私たちを強めて生命のある限り、
み国に仕える者としてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 使徒言行録 2:1-21( 新約 214頁)
第2の朗読 ローマの信徒への手紙 8:22-27( 新約 284頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 15:26-27;16:4b-15( 新約 199頁 )

みことばのうた 教会119( 神の霊よ今くだり )1節

説教 「 聖霊と共に働く 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会272( 主なる神を称え )2節

信仰の告白
使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会240( み言葉によりて )1節3節

後  奏 主よ、われらを汝のみ言葉のもとに保ちたまえ H. Haase

【説教・音声版】2021年5月23日(日) 10:30 説教 「 聖霊と共に働く 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨祭礼拝説教


聖書箇所:ヨハネによる福音書15章26~27、16章4b~15節

本日は、ペンテコステ・聖霊降臨祭の礼拝です。ご存知のように、この日は「教会の誕生日」とも言われ、クリスマス、イースターと並んで教会の三大祝祭の一つとして大切に祝われてきました。私たちの教会でも例年聖餐式を行ない大切にしてきた訳ですが、このコロナ禍で昨年に引き続き、今年も残念ながら皆で集って祝うことはできませんでした。

先ほどは、この日は「教会の誕生日」だと言いましたが、それは、本日の第一の朗読(使徒言行録2章1節以下)にありますように、聖霊降臨の出来事と教会の営みとが深く関わっているからです。確かに、それ以前にも弟子たちの集まりはありました。そういう意味では、教会の原型はすでにそこにあったのかも知れません。しかし、約束の通り、聖霊が降ってきてくださり、弟子たちの上に、私たちの上に留まってくださったことにより、大胆にイエス・キリストを証する宣教が始まっていったのです。これが、教会の姿。だからこその、教会の誕生日。

聖霊降臨を描いた15世紀の写本



私たちは…、今日のことだけではありません、このコロナ禍で昨年より何度も集うことができなくなりました。これは、教会の本質に関わる危機的なことに違いありません。教会とは、本来「集う」ところだからです。しかし、聖霊は教会堂だけに留まられる方でないことも事実です。ご聖霊は、教会に集う私たちの只中にいてくださる方であると同時に、今、一緒に集うことができない皆さんお一人お一人の只中にもいてくださるからです。聖霊降臨の出来事とは、そういった面もあるのだと思うのです。

たとえコロナの危機が去っても、教会に集うことのできなくなる方は確実に増えていくでしょう。社会全体も含めた高齢化といった現実も待ったなし、だからです。だからといって、そんな方々が教会でなくなるということではありません。集うことだけが教会員同士の繋がりではないし、何よりもご聖霊がそのお一人お一人の只中にいてくださる。真理の霊が、弁護者が、慰め主が、私たちの主イエス・キリストを証しし続けてくださる神の霊が、私たちの只中に、熱心か不熱心か、教会生活をちゃんとおくれているかおくれていないか、そんな自己分析に関わらず、約束として、ちゃんと「ここ」にいてくださるからです。

私たちはおそらく大なり小なり、誰もが信仰の危機を経験するでしょう。ある者は、短期間で済んだのかも知れませんし、ある者は長期間続いたのかも知れません。また、現在進行形の方も、ひょっとしたらおられるのかも知れない。「信じられない」「確信が持てない」「救われている自覚がない」「平安がない」…、信仰している意味を見いだせなくなってしまう時がある。そして、なぜ自分だけが…、そう思い込んでしまうことも、ある。そんな時、もし身近にイエスさまの存在を感じられたのなら、と思ったことはないでしょうか。

何度かお話ししたことがありますので、ご存知の方も多いと思いますが、私自身は15(歳)の時に初めて教会に行った訳ですが、すぐにイエスさまに惹かれるようになりました。そして、イエスさまの弟子になりたいとの願いを持ち、あの弟子たちが羨ましくもあり、イエスさまを身近に感じたい、と思うようになりました。そうすれば、もっと信仰が深められ、あらゆる疑い、不信仰から解放されるのではないか、と考えたからです。身近にあった信仰書を読み漁りました。映画やアニメも見ました。17、8(歳)の時に、遠藤周作が描くイエス・キリストに(無力で愚直な愛に溢れる)ハマった時期もありました。しかし、正直、不安な心が解消されることはありませんでした。

あの弟子たちのように、身近にイエスさまの存在を感じることができれば救われるのか。確かに、そういった面も否定できないと思いますが、しかし、何よりもイエスさまはこう語られるのです。16章7節「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」。もうすぐ、ご自分はこの世からいなくなると弟子たちに告げられると、弟子たちは途端に不安になり、悲しみに押しつぶされそうになります。その気持ちは、私たちにも良くわかる。しかし、そんな弟子たちに、イエスさまはご自分がこの世からいなくなることが弟子たちにとってはかえって良いことだ、と告げられるのです。なぜならば、そうでないと弁護者…、これはご聖霊のことを表す訳ですが、ご聖霊が来ることができないからだ、と言われる。

あたかも、ご自身が身近にいるよりも、ご聖霊が来ることの方が良いことであるかのように。考えてみれば、いつもイエスさまと一緒にいた弟子たちこそ、イエスさまの真意を、その真のお姿を理解できないでいたのです。イエスさまの十字架の場面では逃げてしまい、復活も信じられずに恐れて閉じこもることしかできなかった。そうです。12節に記されているように、弟子たちにはまだ「理解できない」のです。自分の力、知恵、理解力では。だから、真理を伝える、つまり、イエスさまの本当の姿を、真意を伝えてくださるご聖霊の存在が不可欠だと言うのです。

では、そのご聖霊とは、一体どんな方か。これが、なかなか難しい。ご聖霊のことが良く分からない、と言われる所以でしょう。ヘブライ語もギリシア語も「霊」を表す言葉は、「風」を意味するものです。空気の流れ、です。そこから「息」をも意味するようになりました。つまり、実態はなかなか掴めないが、確かにその存在の力を感じる、ということです。

エル・グレコ(1541-1641)「聖霊降臨」The Pentecost 1600年頃 プラド美術館



皆さんは、風力発電用の風車を間近にご覧になられたことがあるでしょうか。私は静岡時代に、駿河湾に面した海岸に試験用に一機だけ立っていた「風電君」という風車がお気に入りの散歩コースでした。駐車場に車を止めて、海岸沿いの遊歩道を歩くのですが、そこから大体片道2キロほどのところに、風電君が立っていました。駿河湾を望む本当に素晴らしい景色で、風電君を目指して、そこで折り返して帰るのが、楽しみで仕方がなかった。特に、仕事帰りに、夕焼けに染まった風電君を見にいくのがたまりませんでした。その風電君、結構大きいのです。高さ約65メートル、羽が三枚ついているのですが、その一枚の大きさは約35メートルもあります。まさに、圧巻です。その巨大な風車がブンブンと音を立てて回る。散歩のスタート地点では無風のように感じても、風電君の羽が回っていると、「あ~、風が吹いているんだな」と思ったものです。風、霊の実態はとらえられなくても、力がある。とてつもない力が。

その聖霊の力、働きとして代表的なものが、「誤りを明らかにすることだ」と言われています。「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」。もう時間もありませんので、今日は、このうちの「罪」の誤り、だけを取り上げたいと思いますが、このように記されています。「罪についてとは、彼らはわたしを信じないこと」。キリスト教でなくとも、罪は罪として社会・世界は知っているはずです。ですから、法律があり、違反者には裁きが執行される。それだけでなく、倫理観だってある。法律に違反していなくても、倫理の問題として罪意識も生まれる訳です。しかし、それは誤りだという。いいえ、それら全部を誤りだというのは、言い過ぎだと思いますが、そこには現れてこない最も大きな罪がある、と言うのです。それが、イエス・キリストを信じないことだ、と。

多くのキリスト者が良心の呵責に悩みます。自分の不信仰ぶりに打ちひしがれます。それが、先ほど言った信仰の危機にもつながる。「確信が持てない」「救われている自覚がない」「イエス・キリストを信じる、信じ切ることができない」と。そして、それは自分の不信仰の結果だと、また自分自身を責めることにもなる。しかし、今日の御言葉は、それは誤りだ、と言うのです。聖霊の働きなくば、何人たりとも、イエスさまを信じないことこそが罪なのだ、といった理解、自覚には至らないのだ、という。つまり、皆さんが不信仰の結果だと思っている事柄は、実は、聖霊が誤りを明らかにされた、正された結果なのです。聖霊が約束の通りに、皆さんの只中におられるからこそ、不信仰の罪に気付かされるのです。

もちろん、聖霊の働きはそれで終わらない。罪の理解の誤りの指摘だけに終わらない。イエス・キリストの真実を、その救いを明らかにされる。そういう意味では、私たちは聖霊の働きの全部を素直に受け取っているとは、まだ言えないのかも知れません。しかし、それでも、聖霊の働きは、皆さんの只中に確かにあるのです。聖霊の力を確かに受けている。動かなかった私たちの心の歯車が回り始めているからです。不信仰を罪だと嘆くのも、その一つです。

次回、今日のところももう少し触れていきたいと思いますが、私たちの只中に聖霊が来てくださっている事実に、心から感謝していきたいと思います。

【週報:司式部分】 2021年5月16日  主の昇天主日礼拝



主の昇天主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子  浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 萩森 英明

前  奏 「教会讃美歌112番による前奏曲」 J. Pachelbel

初めの歌   教会151( ひとの目には )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

–  特別の祈り –
全能の神さま。
天に上げられた御独り子の執り成しによって、私たちをみ前で永遠に生きる者としてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読   使徒言行録 1:1-11( 新約 213頁) (着席)
第2の朗読   エフェソの信徒への手紙 1:15-23( 新約 352頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読  ルカによる福音書 24:44-53( 新約 161頁 )

みことばのうた  教会112( み国にのぼれる )1節

説教 「 天に上げられる前に 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌   教会267( 鉄のとびらよ )3節

信仰の告白

使徒信条

奉献の部
派遣の部

派遣の歌   教会287( 主イェスのみ民よ )1節

後  奏  「ああ神よ主よ」 J. S. Bach

【説教・音声版】2021年5月16日(日) 10:30 説教 「 天に上げられる前に 」 浅野 直樹 牧師

主の昇天主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書24章44~53節

本日は「主の昇天」主日の礼拝です。来週はいよいよ聖霊降臨祭となりますが、イエスさまが復活され、40日後に天に上られたことを記念する礼拝です。ですから、聖書のテキストもその場面が取り上げられています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。

祝福、喜び、讃美…と、大変短い箇所ですが、実に内容豊かなところだと思います。しかし、今日は、時間も限られていますので、今日の箇所(日課)の前半部分を主に考えて行きたいと思います。これはある意味、イエスさまの最後の言葉だと言えると思うからです。

最後の言葉…。人生の最後に語る、残す言葉…。「遺言」と言っても良いのかも知れませんが、これは重い言葉だと思います。他の言葉以上に、ずっしりと残った人々の心に留まり続けるのではないでしょうか。
以前もお話ししたかも知れませんが、私は50(歳)を過ぎてから、自分の人生の終わりについてよく考えるようになりました。人生も折り返しを過ぎ、現実のこととして身近に感じられるようになったからなのかも知れません。そこで思うことは、どんな言葉を残せるか、ということです。自分の子どもたちに、ひょっとして孫たちもいるのかも知れない、そんな残される家族たちに、友人知人たちに、教会の仲間たちに、どんな言葉を残して旅立てるのだろうか。

〈キリストの昇天〉1460年頃 Andrea Mantegna (1431–1506) ウフィツィ美術館



つまり、これからの人生をどのように生きられるのか、といった問いにもなるわけですが、そんなことを考える時がある。そういう意味では、私はあまり「ピンピンコロリ」を願わない。もちろん、これには色々な意味合いがあるわけですが、少なくとも自分の死期を悟らず、いきなり、あっという間に死を迎えるといった死に方はしたくないと思う。ちゃんと、自分はもう長くはないと悟り、しっかりと語るべき言葉を語り終えて旅立てればと願っています。もちろん、自分の思う通りになるかどうかは分かりませんが、そう願っている。

長男が…、まだ11歳でしたが、病気が進み、歩くこともできなくなり、耳も聞こえなくなり、一日の大半を寝ているような状態になった頃、不意に、そう本当に不意に、私にだけこう言ったのです。「ママと離婚しちゃダメだよ」と。決して最後の言葉だったわけではありませんが、今でも鮮烈に残っています。今から思えば、自分の死期を悟っていたのかも知れません。そして、何かを感じていたのかも知れません。正直、その言葉で危機を乗り越えることができたこともありました。

イエスさまは天に上られる前に、最後に、何を弟子たちに語って行かれたのでしょうか。一つは聖書を教えられた、ということです。これは、復活の出来事ともつながるものです。弟子たちは、イエスさまの復活を信じることができませんでした。最も大切なところを、イエスさまの真実を、信じることができなかった。なぜか。聖書を理解することができていなかったからです。

しかし、これは、ただ単に聖書の内容を理解しているかどうかではありません。心が開かれていなければ、それは単なる知識で終わってしまうからです。心が開かれてこそ、真に聖書が語らんとすることを悟ることができるようになる。ですから、イエスさまは弟子たちに聖書を教えられると同時に、心をも開いてくださったのです。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。

『イエス・キリストの昇天』ジョットGiottoスクロヴェーニ礼拝堂(パドバ) 1304-1305年



『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」』」。イエスさまの十字架と復活は、心が開かれていなければ決して悟ることのできない聖書の真理、奥義です。よく、十字架と復活が分からない、といった声を聞きますが、ある意味、当然と言えるのかも知れません。いくら自分で頑張って取り組んでみても、それだけでは悟ることができないからです。皆さんもこんな経験がないでしょうか。

最近は説明書をあまり読まなくなりました。むしろ、説明書自体がついていない家電製品も多くあります。それでも、おそらく一向に困らないのでしょう。今までの何かしらの経験で何とかなることも多い。しかし、何ともならないことがあります。いくら、以前はこうすれば動いたのに、他の機種ではこれでよかったのに、と思って取り組んでも、全然埒があかない。とうとう観念してウェブ等で説明書を見ると、なんてことはない、すぐに使えるようになった、なんてことが。もっと早くに説明書を見ればよかった。俺の2時間を返してくれ、って思います。ちゃんとした方法、手順が必要なのです。まずは、心を開く、といった手順が。それを、イエスさまはしてくださる。

また、続けてこう書いてあります。「『また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。イエスさまによって私たちに何がもたらされるのか。弟子たちは…、それは、この私たち自身も含めてのことでしょうが、そのことの「証人となる」と言われています。

ある方が、こんなことをおっしゃっておられました。このままだと、コロナ後の日本の教会は壊滅的になるのではないか、と。その方は、もちろん危機感からそうおっしゃっておられるのですが、特に牧師たちが偉そうなことばかりを言って、何も実践していないのが問題だ。そのように辛辣に言われていた。社会はそれをしっかりと見ている。そんな口先だけのものを誰が信じるのか。今、このコロナ禍で困っている人たちがこんなにもいるのに、まさに実践の時ではないか、と言われる。

なるほど、と思います。もちろん、私自身、牧師の一人としても反省が多い。その通りだ、と思います。実践が足りないとは、誠に痛い指摘だと思う。確かに、そうです。では、何をすれば良いのか。何でも良いでしょう。自分にできることで何かをする。物品の援助でも良いでしょうし、寄付でも良いのかも知れない。実際に現場で働くのも、また情報を発信して協力者を募るのも一つの手かも知れません。

確かに、私たちには実践が求められている。しかし、そこで大切になってくるのが「証する」ということと結びついている、ということです。それは、何もいつも言葉で宣教的なことを伝えなければならない、ということではありません。教会に来てね、と誘うことでもありません。そうではなくて、イエスさまがしてくださったことを通してする、ということです。自分の言動の全てがイエスさまと繋がっている、ということです。イエスさまが、その人を助けなさい、とおっしゃっておられるので実践する、ということです。

もちろん、この「証し」ということが実践をしないことの隠れ蓑にしてはいけないことは当然のことですが、しかし、少なくともキリスト者である私たちにとっては、イエスさまと結びつかない実践ってどうなのか、とも思うのです。コロナ前であろうが、コロナ後であろうが、イエスさまを証ししないところに教会の存在意義はあるのでしょうか。

そして、最後にイエスさまは聖霊を待ちなさい、とおっしゃる。そうです。どれも、私たち自身の力、思い、能力だけではできないことです。どうしても、ご聖霊の力を必要としている。ですから、イエスさまは無茶なことは言われない。私たちの弱さや罪深さもよく知っていてくださるからです。だから、聖霊を待ちなさい。これが、最後の言葉になる。

最初に言いましたように、来週は聖霊降臨祭を迎えます。教会の誕生日とも言われます。つまり、聖霊の存在なしに、教会は成り立たないのです。そして、イエスさまは聖霊を待つように、と、聖霊の力に覆われるように、と最後に言葉を残してくださった。これは、私たちにとっても、決して小さな、軽い言葉ではないと思います。本当に私たちの教会が、教会員・信徒一人一人がキリスト者・キリストのものとして生きたいのなら、聖霊を待つしかない。信じて、祈って、聖霊が来てくださるのを待っていきたい。そう思いま
す。

【説教・音声版】2021年5月9日(日) 10:30 説教 「 愛が求められている 」 浅野 直樹 牧師

復活節第六主日礼拝説教(むさしの教会)


聖書箇所:ヨハネによる福音書15章9~17節

本日の福音書の日課は、先週の続きとなります。つまり、内容が「つながっている」ということです。
先週は、「わたしはまことのぶどうの木」「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という有名なみ言葉から考えていきました。確かに、私たちには実を実らせることが要求され、また期待されています。「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と、厳しく戒められてもいるからで
す。確かにそうなのですが、しかし、ここで求められていることは、「つながっている」ということです。誰に。もちろん、私たちの主、イエス・キリストに、です。

このキリストに、イエスさまにつながってさえいればいいのです。離れなければいいのです。そうすれば、自ずと実は結ぶ、と言われている。しかも、それは、良い実です。酸っぱい、悪い実ではない。必ず甘い良い実を結ぶ。なぜならば、木、幹そのものが良いからです。良い実は良い木からしか生じないし、良い木から悪い実は生まれないからです。私たちが良い実を結ぶために、良い木になる必要はない。頑張って、努力して、歯を食いしばって、良い実を結ぶために良い木にならなければならない、というのではない。はなからそんなことは諦めている。なぜなら、人は歪むからです。必ず歪んでしまうからです。最初は良い実を結ぶはずの良い木だったのに、悪い木になってしまう。

そんな人の現実を、弱さ、罪深さを百も承知の上で、だからこそ、お前たちが木になる必要はない。わたしが木になるから、幹としてお前たちをしっかりと守り、支え、命を与えるから、だから、そのわたしにとどまって、離れないで、実を結びなさい、と語ってくださっているのです。

その枝である私たちが、幹であるイエスさまにしっかりととどまっている、つながっているということを、今日の箇所では、「愛にとどまる」と表現されていきます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」。そして、「愛にとどまる」とは具体的にはどういうことか、と言うと、「掟を守る」ことだ、と語られており、その掟とは、「互いに愛し合」うことだ、と語られていきます。

最後の晩餐 ヴァランタン・ド・ブーローニュ Valentin de Boulogne (Le Valentin) 1591-1632 フランス



「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。もうすでにお分かりのように、ここでは、幹から枝へと樹液が循環するように、人の体の各器官隅々にまで血液が行き巡るように、神さまからイエスさまへ、イエスさまから弟子たちへ、そして弟子たち相互へと、もちろん、愛とは決して一方通行ではありませんから、それぞれが双方向へと命の循環のように巡り巡っていく様子が伺えるように思います。では、ここで命そのものとも捉えられているような「愛」とは一体何なのでしょうか。

これは以前、zoomの聖書の学び会でエフェソ書を学んだ時にもお話ししたことですが、こんな経験をしたことを今でも鮮明に覚えています。もう20年以上も前、まだ駆け出しの頃のことですが、ある若いカップルの結婚カウンセリング(結婚式前に行われる学び会みたいなもの)をする機会がありました。色々と話を聞いたり、話したりした後だと思いますが、聖書が夫婦生活をどう記しているかの一例としてエフェソ書を開いた時のことです。新共同訳聖書では『妻と夫』といった小見出しが出されていますが、5章21節以下に夫婦のあり方について記されている箇所があります。伝統的に夫婦についての教えとして受け止められてきたものですが、そこにこう書いてある。

「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」。ここに触れた時に、彼女の方が苦笑いを浮かべていることに気付きました。どうしましたか、と尋ねると、「無理です」と答えました。当時の私としては、予想していなかった反応に、少しキョトンとしたかもしれません。熟年の夫婦の妻がそう答えるのならまだ分かります。色々とあったのでしょう。しかし、これから結婚しようとするラブラブのはずの彼女の口からそのように聞こうとは、想像もしていませんでした。私は思わず、こう訊ねてしまいました。えっと、彼のこと愛しているんですよね。もちろん、愛しています。でも、仕えるのは嫌です。そのはっきりとした口調に、今度は彼の方も苦笑いをしてしまいました。今なら、この彼女の答えもよく分かります。これは、彼女だけでなく、おそらく世間一般の感覚でもあるのでしょう。しかし、こうも思うのです。伝統的に、愛とは自己犠牲を伴うものだと受け止められてきました。それは何もキリスト教の捉え方に限らないと思います。自分を犠牲にしてでもという母の子を思う愛が、その典型でしょう。しかし、近現代になって、自己実現といった様相の方が色濃くなってきてしまったのではないか、と。

オーストラリアの著名な新約学者でレオン・モリスという方がいますが、この方が『聖書における愛の研究』という本を出されています。この方は、現代において巷では愛が溢れかえっているが、では本当に私たちは「愛」ということを知っているのか、と問われ、C・S・ルイスの言葉を引用しながら、こんな問題提起をしておられます。「『すべての人間的愛は、その最高の形態において、それ自身、神的権威を主張する傾向を持っている。その声は、あたかも神の意志そのものであるかのようにひびく傾向がある。それはわたしたちに犠牲を計算に入れることのないように告げ、全身的な投与をわたしたちに要請する。それは他の一切の要求を無視し、「愛のゆえに」真心をこめて為された行為はそれゆえに正当であり価値があるとさえ言う。エロス的愛や祖国愛が、このようにして「神々となる」ことを企てるということは一般に知られていることである。

しかし、家族愛も同じようなことを為す可能性がある。違った仕方でかも知れないが、友情とて同じであるかも知れない』。愛は人間生活の素晴らしい部分である。それは胸を躍らせてくれるものであり、何かを実現するものである。そして、それは信じられないくらいの範囲にわたって、わたしたちを豊かにすることができる。だが、わたしたちがそれを崇拝するとき、たちまちにして破壊的なものとなる。愛の名において犯されてきた恐るべき犯罪のリストは終わることを知らないのである」。神さまが愛なのであって、愛が神なのではない、ということでしょう。

ともかく、正義ということとも重なる大きな問いかけだと思います。愛が素晴らしいもので、大切であることは誰でも分かることです。しかし、その愛が乱用されたり、歪んでしまうことも実に多い。多くの悲劇は、そんな愛から生まれているのかも知れません。親の愛が子どもを不幸にさせてしまったり、独りよがりの愛がストーカー行為で相手を傷つけ、熱烈な愛が相手を殺してしまうことだってあることを、私たちも知っている。ともかく、私たちは愛を語る前に、愛を学ぶ必要があるように思うのです。愛は大なり小なり自己犠牲を伴うものです。自分と全く異質の相手を受け入れ、愛するということは、何かしら自分を殺さなければ成立しないからです。そして、その最も大きな愛が、命を捨てること。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とイエスさまも語っておられます。そして、何よりもイエスさまご自身が、その愛を示して下さった。十字架の上で。わたしの愛にとどまれ、ということは、そういう愛にとどまる、ということです。そんな愛の中に私たち自身がすでに巻き込まれているということを受け止める、ということです。そんなにも強く、大きく、愛されているのだ、と。

そして、先ほどのレオン・モリスはこうも語っている。「真の愛は、愛する者たちを最善の方向に導くであろう。そしてこのことは、時々懲戒処分がとられるということである。聖書は明らかに、神は破滅的な罪をやめさせるために、ご自分の民を戒められると述べている。旧約聖書の聖徒たちは、この世の苦難と試練には意味があることを疑わなかった。それらは神が民を愛されないということではなく、むしろ愛しておられることの証拠なのである。

苦難と試練は民をつまらぬ罪から導き出し、彼らを正しい道に沿って祝福の場に導く神のわざなのである」。甘やかすだけが愛ではありません。愛とは、私たちを最善の方向へと導くためのもの。その愛の中に、私たちは包まれている。そして、その愛で互いに愛し合うことも求められている。そのことを覚えて、これからも、その愛の中にとどまり続けることを祈っていきたいと思います。

【週報:司式部分】 2021年5月9日  復活節第6主日礼拝



復活節第6主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 苅谷 和子

前  奏 わが愛する神に J.S.バッハ

初めの歌  教会165( いともとうとき )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

– 特別の祈り –
主なる神さま。
み子は従う者がひとつになるようにと祈られました。すべての信徒をみ子に結びあわせ
平和と一致のうちに、あなたの愛を世界へ伝える者としてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 10:44-48(新約 234 頁)
第2の朗読 ヨハネの手紙一 5:1-6(新約 446 頁)
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 15:9-17(新約 198 頁)

みことばのうた 教会260( 主イェス・キリストよ )1節

説  教  「 愛が求められている 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌  教会381( ひかりの主よ )3,4節

信仰の告白
使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会289( すべてのひとに )1 節

後  奏 Allegro moderato maestoso F.メンデルスゾーン

【週報:司式部分】 2021年5月2日  復活節第5主日礼拝



復活節第5主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

前  奏  教会讃美歌307番のメロデイによる前奏曲 -土屋知明

初めの歌 教会93( 喜びつどいて )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

– 特別の祈り –
すべての良きものの源である神さま。
あなたの聖なる息吹を与えて、正しいことを考え、
それを実行できるように導いてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 8:26-40(新約 228頁)
第2の朗読 ヨハネの手紙一 4:7-21(新約 445頁)
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 15:1-8(新約 198頁)

みことばのうた 教会307( まぶねの中に )3節

説  教 「 豊かに実を結ぶ 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会374( たよりまつる )2節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会391( 主よわがいのち )2 節

後  奏 イエスは人の望みの喜びよ J.S.バッハ -園部順夫

 

【説教・音声版】2021年5月2日(日) 10:30 説教 「 豊かに実を結ぶ 」 浅野 直樹 牧師

復活節第五主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書15章1~8節


「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。今日も、この有名な御言葉が与えられています。
先週は、「わたしは良い羊飼いである」というところから、「エゴー・エイミ」の話をしました。これは、出エジプト記、あの燃える柴の箇所で、神さまがモーセにご自身の名を告げられた、「わたしはある。わたしはあるという者」である、と関連づけられる非常に意味深い表現方法だ、ともお話したと思います。ですので、先週との関連で言えば、今日の「わたしはまことのぶどうの木」という言い方も、「わたし(こそ)がまことのぶどうの木」と言えるのではないでしょうか。なぜならば、ここでも偽物・まがいもののぶどうの木が多いからです。

ご存知のように、聖書にはぶどう、あるいはぶどう園を用いた譬えが多く記されています。特に、旧約聖書に多くみられますが、ある方が指摘されているように、その多くは叱責を表しているのかもしれません。イザヤ書5章の言葉もその一つでしょう。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張の塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。

さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実のを待ったのに なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず 耕されることもなく 茨やおどろが生い茂るであろう。
雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる」。一読して分かるように、大変厳しい言葉です。これは、預言者イザヤが活躍した時代のイスラエルの人々を非難するものでしょう。

ここでは、神さまはこのぶどう畑の所有者、また手入れをするという意味では、今日の箇所に出てくる「農夫」とも言えるのかもしれません。所有者であり、またご自分の畑をご自身で手入れをされる農夫でもある神さまは、このぶどう畑のために最善を尽くした、と言われます。まず、それは肥沃な土地でした。そして、よく耕して、邪魔になる石も丁寧に取り除け、甘い実を実らすであろう良いぶどうの木を植えられた。しかも、それだけでは終わりません。野獣や盗賊に荒らされないようにと、石垣で囲いを作り、見張の塔まで立てられた。準備万端。あとは収穫を待つばかり。そして、ついに収穫の時を迎えたのに、実ったのは予想に反して酸っぱいぶどうの実だった。当然、がっかりします。なぜ、こうなってしまったのか、落ち度はなかったか、考えてみる。しかし、見当もつかない。

普通、これだけ整えられれば自然と良い実を実らせるものです。しかし、そうはならなかった。何らかの原因でぶどうの木そのものが変質してしまったとしか思えない。そう問う。もちろん、そのぶどうの木とは、当時のイスラエル人のことです。なぜ、そんなにもお前たちは変わってしまったのか、と問う。イエスさまは当然、このような旧約聖書の物語りを、よくよく知っておられたでしょう。

イエスさまはこういうこともおっしゃっておられます。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」。

この法則で言えば、先ほど言いましたように、木そのものに問題があったということになるでしょう。本来良かったはずの木が、悪い木になってしまった。ここに、限界を感じられたのではないか、とも思うのです。最初はいくら良い木であっても、それが人間である以上、最後までその良さを保てるとは限らない。むしろ、人は歪むものです。良き動機からはじめたはずなのに、それがいつの間にか変質してしまい、悪いものになってしまう。そんな例は枚挙にいとまがないでしょう。

だからこそ、イエスさまはこうおっしゃる。「わたしはまことのぶどうの木」なのだ、と。「わたしこそが、まことのぶどうの木」になるのだ、と。いくら神さまが準備万々整えてくださったとしても、人にはなし得なかったことを「わたしが、する」のだと、そうおっしゃっておられるのではないか、そう宣言されておられるのではないか、そう思うのです。

今日の第一の朗読は、エチオピアの宦官の回心の物語りでした。私は、今日の福音書の関連としてこの箇所が取り上げられているということは、この箇所自体が実を結ぶことの実例の一つと考えられてのことではないか、と思っています。新たに、異邦人であるこのエチオピアの宦官がキリスト者とされたという事実そのものが、何よりも実りの一つに違いないでしょうが、ここで用いられたフィリポという存在自体もまた、実りと考えても良いのではないでしょうか。

宣教は教会に託された一大使命です。また、今日の箇所の「実り」と関連づけて考えることもできるでしょう。私たちは、イエスさまに宣教の実りを期待されている。しかし、正直、私たちは難しいとも思っています。しんどい、とも思います。あるいは、「重圧」に感じているのかもしれません。分かっています。大切なことくらいは…。でも、うまく話せる自信がありません。そもそも、自分がクリスチャンであるという確固たる自信を持てずにもいます。そんな私に、一体何ができるのか…。大なり小なり、誰もが悩むところでしょう。私自身、そうです。でも、今日のこの箇所は、そんな私たちに勇気をくれるものだとも思うのです。ここで用いられたフィリポは、全く能動的ではありませんでした。聖霊の言うがまま、導きのままです。ああしなさい、こうしなさい、に従っただけです。

しかも、自分の方からは、イエスさまの「イ」の字も話さなかった。きっかけは、向こうが与えてくれた。聖書を読んでいる声が聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と声をかけただけ。何という自然な流れでしょう。一切無理がない。これなら、私たちにもできるかもしれない。相手の必要に応じて、答えるだけなら。相手の問いに、自分なりの答え、体験を語るだけなら、できるかもしれない。確かに、パウロのような宣教のスタイルもあるはずです。自分から積極的に飛び込んでいって伝えるやり方が。

しかし、違った実の結び方もあるはずです。それを、このエチオピアの宦官の物語りは教えてくれているように思います。
いずれにしても、大切なことは、イエスさまとつながっている、ただこの一点です。他にはない。私たちが良い実を結ぶ良い木になる必要もない。頑張って良い実を結ばなければ、でもない。幹から振り落とされないようと必死にしがみつくのでもない。そんな枝など見たことがあるでしょうか。枝の方が必死にしがみついている姿なんて。そんなのは不自然です。そもそも枝とは幹から生えてくるものです。枝が自分の力で幹に取り付くのではない。そういう意味では、全てが「まことのぶどうの木」であるイエスさまにかかっている。

そして、イエスさまは私たちを決して切り捨てるような方ではないはずです。しかし、それでも、いいえ、その上で忠告されていることにはしっかりと耳を傾けなければならないでしょう。私から離れてはいけない、と言われていることを。度々ご紹介している雨宮慧神父は、この「つながる」を「別々の人格の間に成り立つ親密で持続的な交わりにとどまる」ことを意味すると言われます。少し難しい言い方ですが、「私とイエスさま」との息の長い交わり、親しき交流ということでしょう。そして、その交わりには、御言葉が不可欠です。

こうあるからです。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」。そうすれば、自ずと実は実る。先ほど言った宣教だけが実ではありません。祈りも、感謝も、悔い改め・反省も、日々の選択も、善意の小さな業も、イエスさまとつながり、御言葉が内にあるならば、それはすでに実りなのです。甘い、良い、実りなのです。それらを確かに、私たちは、結んでいる。結ばせていただいている。そして、より豊かに実らせたいとも願っている。そうではないでしょうか。

【週報:司式部分】 2021年4月25日  復活節第4主日礼拝



復活節第4主日礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

前  奏  教会讃美歌188番のメロディによる前奏曲 K.ツィーシャング

初めの歌 教会188( わがたまよろこび )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

– 特別の祈り –
み民の心を一つにされる神さま。
あなたの掟を愛する心、あなたの約束への切なる望みを私たちに興し、
激しく変動するこの世界の中でも、動くことのない喜びを与えてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 4:5-12(新約 219頁)
第2の朗読 ヨハネの手紙一 3:16-24(新約 444頁)
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 10:11-18(新約 186頁)

みことばのうた 教会110( 墓をばこぼちて )1節

説  教 「 私たちを思いやる神 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会328( 主イェスに従う )2節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会275( なみかぜ狂えど )3 節

後  奏 教会讃美歌275番のメロディによる後奏曲 Th. ヘルティ=ニッケル

【説教・音声版】2021年4月25日(日) 10:30 説教 「 私たちを思いやる神 」 浅野 直樹 牧師

復活節第四主日礼拝

聖書箇所:ヨハネによる福音書10章11~18節

今日の福音書の日課に、「わたしは良い羊飼いである」という言葉が出てまいりました。よく知られた御言葉だと思います。このところを、ある方はこのように訳した方が良い、と言います。「わたしが良い羊飼いである」と。「は」と「が」の違い。たったそれだけの違いかもしれませんが、意味合いが全く違っている、と言います。つまり、「わたし(こそ)が良い羊飼いなのだ」とここで名乗りを上げておられるからだ、というのです。なぜか。まがいものが多いからです。本物のように見えて、実は違っているものが多い。つまり、偽物です。偽物があまりに多いからだ、と言います。なるほど、と思いました。

この他にも、このヨハネ福音書では、「わたしは~である」といった表現が多いことでも知られています。ギリシア語の「エゴー・エイミ(英語のI am に相当しますが)」で、あの出エジプト記の「わたしはある。わたしはあるという者だ(あの燃える柴の箇所で神さまがモーセに告げられたご自身の名前のところですね。英語では「I am who I am」となっています)」と関連づけられる特別な意味合いをもった表現法です。ともかく、イエスさまは先ほどの「わたしは良い羊飼いである」の他にも、「わたしは門である」「わたしは世の光である」「わたしは復活であり命である」「わたしは道であり、真理であり、命である」とも告げておられます。これらもやはり、「わたしが世の光である」「わたしが復活であり命である」「わたしが道であり、真理であり、命である」と訳しても良いのではないか、と先ほどの方はおっしゃる。なぜならば、羊飼いだけではない、まがいものの、本物のように見えるけれども偽物の「門」が、「世の光」が、「復活」が、「道」「真理」「命」があるからです。間違っても、そっちには行ってはいけない、とイエスさまはご自身を示される。それが、「わたしは、ある」(エゴー・エイミ)でもある。

今日は、そんな中で「良き羊飼い」を考えていくわけですが、では何が「良い羊飼い」の条件か、といえば、「羊のために命を捨てる」ことこそがそれだ、とイエスさまは語られます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。それとは対照的な存在として「雇い人」が出てきます。「雇い人」は所詮は他人の羊なので、そこまで、命を懸けるまでは羊に尽くそうとはしない、という。

イエスさまが生きられた時代は、そのほとんどが雇い人の羊飼いだった、とも言われています。ですので、そういった光景も日常茶飯事だったのでしょう。実際に、あちらこちらでそういった事件・事故が起きていたのかもしれません。ですから、こんな取り決めもされていたようです。「有給の番人あるいは雇人は、家畜が片端になるとかさらわれるとか死んだりしたら、誓いを立てねばならないが、行方不明にしてしまったり盗難に会ったりした時は、償わなければならない」。ひとことで言えば、信用がなかったんだな、ということでしょう。事故は仕方がないとしても、いなくなった場合、雇人が売り払ってしまう可能性もあったわけです。ですから、償いが求められていた。あるいは、こうも定められていたようです。「一匹の狼が群れを襲っても、それは避けることができない事故だとは見なされない。二匹以上の狼が襲った時だけ、避け難い事故だと見なされる」。雇い人たちは羊たちをほっぽって早々に逃げてしまっていたんでしょう。それでは、雇い主も困ってしまう。

だから、狼が一匹の時は逃げちゃダメ。それは、違反だ。羊たちをちゃんと守れ。しかし、二匹以上になると流石に手に余るだろうから、仕方がない、許そう、ということでしょう。それくらいに、きちんと取り決めを決め、見張っていないと、すぐにでもサボってしまう雇い人が多かったのかもしれません。これは、紛れもなく「まがいもの・偽物」と言っても良いでしょう。しかし、中には、ちゃんとした雇い人もいたのではないでしょうか。持ち主さながら羊の面倒をしっかりと見て、羊たちを可愛がり、大切に扱っていた雇い人が。事実、雇い人であっても、羊たちを守るために狼などと戦って命を落とす人も少なくなかったようです。そういう意味では、危険な仕事です。そういった雇い人の羊飼いたちも、一律に「まがいもの・偽物」と言い切ってしまって、果たして良いのでしょうか。

現代に生きる私たちの周りにも、明らかに雇い人といえる羊飼いのような存在がいます。親であろうが、教師であろうが、職場の上司、先輩であろうが、羊のことを考えないで、むしろ自分の利益のために羊を利用しようとする人々が。自分の身の危険、不利益になりそうになるとすぐにでも見捨ててしまうような、切り捨ててしまうような人々が、確かにいる。残念ながら、そうです。私自身、他人事ではない。では、イエスさま以外は、みんな偽物に過ぎないのか、といえば、そうでもないようにも思える。なぜならば、本当に羊・私たち・人のことを愛し、養い、気遣い、導き、世話をし、危険から守ってくれる人々も確かにいるからです。親、教師、上司、先輩、友人、仲間、ただの近所の人だってそうかもしれない。心優しい人々が確かにいる。もちろん、そういった人々に恵まれることは、本当に幸いなことです。頼りになる。しかし、では、それらの人々がイエスさまに取って代わることができるのか、と言えば、それは違うでしょう。良い人はいる。素晴らしい人もいる。本当にそれらの人々に助けられてきた。しかし、それでも、誰もイエスさまの代わりにはなれないのです。

羊のために命を落とした人はいたでしょう。大切な羊を守るために、必死に戦って、残念ながら力及ばす命を落としてしまった人々が…。無念だったでしょう。しかし、イエスさまは「羊のために命を捨てる」とおっしゃる。力及ばす殉教の死を遂げるのではない。はじめっから、羊のために、羊を救うために、その羊の命の身代わりとなって、自らその命を捨てる、とおっしゃるのです。十字架の上で、あなたがた羊のために命を捨てる、と。

それは、誰も真似のできないことです。いいえ、たとえ真似ることができたとしても、それでは意味がない。なぜならば、神の子の命だからこそ意味がある。そして、命を捨てたその神の子が復活されるからこそ、そこに力と真実がある。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」。ここにあるのは、単なる優しさではありません。神さまの力です。しかも、イエスさまは目的を持っておられた。羊のために命を捨てる目的を。それは、私たち羊に命を与えるためでした。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。これは、まさしく誰も代わることができない、イエスさまだけが成し得る業。命の働き。そして、イエスさまが与えてくださるこの命は「永遠の命」と言っても良いでしょう。そして、このヨハネ福音書は、永遠の命についてこのように記しています。17章3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。今日の日課の中にも、この「知る」という言葉が出てきました。

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」。聖書の「知る」という表現は、「愛する」の意味だと言われますので、まさにイエスさまが与えてくださる命、永遠の命とは、神さまとイエスさまとの愛の交わりの中に、一匹の迷える羊に過ぎない私たちをも招き入れてくださっている、ということです。私たちは、神さまに、そしてイエスさまに、途方もなく愛されている。それが出来るのは、イエスさまだけ。誰も、イエスさまに取って代わることはできない。だからこそ、イエスさまは「わたしが良い羊飼いである」と自己主張をなさるのです。間違えないで欲しい。優しい優れた羊飼いは他にもいるかもしれない。しかし、羊のために自ら命を捨て、命を与えることのできる羊飼いは私一人だ。他にはいない。そのことを忘れないでほしい。そして、この私のところに来なさい。なぜなら、「わたしこそが良い羊飼い」なのだから。そのように、今日も私たちを招いてくださっているのではないでしょうか。

 

祈り
三度目の緊急事態宣言が発令され、またしばらくの間、集会式の礼拝を中止することになりました。なかなか新型コロナの収束が見えませんが、どうぞ、私たちの信仰も心も体もお守りくださり、自分たちにできる最善をしていくことができますようにお助けください。

大阪では、連日新規感染者数が1000人を超え、重症患者用ベッドの使用率も100パーセントを超えるという、まさに危機的な状況にあります。東京もより感染力が強く、重症化しやすいと言われている変異株に置き換わりつつあり、予断を許さない状況にあるとも言われます。感染を抑え込むためには、ワクチンが行き渡っていない今、一人一人が感染のリスクを減らす行動をするしかありません。経済的なこと等、色々な難しさはあるでしょうが、患者さんのためにも、医療従事者の方々のためにも、自制を働かせていくことができますようにお導きください。

先日、また一人姉妹があなたの元に帰られました。寂しい限りです。生前、姉妹をお守りくださいましたことを心より感謝いたします。姉妹は今、あなたの御約束の通り、天のあなたの御元で安らいでおられることでしょう。ご遺族、教え子さんたち、あなたの元で豊かな交わりをもってこられた教会の仲間たちお一人お一人の上に、天来の豊かな慰めをお与えくださいますようにお願いいたします。また、明日のご葬儀もお導きくださり、ご遺族にとっても豊かな慰めの時となりますようにお導きください。

今月はじめから行ってきました大規模修繕工事も中盤を迎えました。どうぞ、働かれるお一人お一人をなおもお守りくださり、事故など起きませんようにお支えください。また、十分な修繕工事となり、これからも会堂が守られていきますように、必要な設備も整えられていきますように、どうぞお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン

【説教・音声版】2021年4月18日(日) 10:30 説教 「 疑いの中で 」 浅野 直樹 牧師

復活節第三主日礼拝説教
聖書箇所:ルカによる福音書24章36~48節



今、私たちは復活節の中を歩んでいます。ですので、当然聖書のテキストはイエスさまの復活に関わる箇所が取り上げられて来ましたし、また、復活の出来事について思いを向けて参りました。しかし、正直、復活を信じることは、決して容易いことではないことも覚えます。むしろ、十字架と復活は、宣教的に考えるならばマイナス面と言えるのかもしれません。ですから、そういった躓きの要素を取っ払ってしまって、愛の教えや「山上の説教」に代表されるような人生の意義を説いていった方が、宣教の成果に苦しみ喘いでいる私たちの教会にとっては突破口になるのかもしれない。そういった考えが起こるのも不思議ではありません。現に、聖書の時代にも既に見られるものです。

「エマオのキリスト」(1648年)レンブラント ルーブル美術館



先週の日課であるヨハネによる福音書20章では、残された弟子たちは、「家の戸に鍵をかけ」閉じこもっていたことが記されていました。なぜならば「ユダヤ人を恐れて」いたからです。イエスさまの十字架の死は、弟子たちの「イエス・キリストの弟子としての命」を奪うには十分な出来事だったのです。彼ら弟子たちは、イエスさまの弟子としては死んでいました。もし、イエスさまが十字架ではなく、英雄として命を落とされていたならば…、志半ばでの非業の死を遂げられていたとしたならば、弟子としての命はまだ続いたのかもしれません。むしろ、その命は燃え立たされ、先生のためにと、新たな活動へと(たとえそれがレジスタンス的なものであったとしても)進んで行けたのかもしれない。

しかし、イエスさまは十字架で死なれた。罪人の一人として処刑された。全くの敗北者として。これは、イエスさまに敵対する勢力の圧倒的な勝利だと思います。弟子たちも同時に葬り去ることに成功したのですから。
もし、十字架で全てのことが終わってしまったとしたら、何も残らなかったでしょう。何も…。そう、前述の愛の教えも「山上の説教」も何一つ残らなかった。よくあるように、辺境の片隅で起こったひとときの出来事として、誰にも顧みられず、歴史の中に埋もれてしまっていたに違いない。弟子たちが立ち上がることがなければ、鍵をかけ閉じこもっていた弟子たちが外に出て行くことがなければ、キリスト教なるものはこの世界に存在しなかったでしょう。私はそう確信する。

では、なぜ弟子たちは立ち上がれたのか。なぜ弟子たちは外の世界へ、しかもそこは未知なる世界、危険を孕んだ世界に飛び出して行くことができたのか。皆さんも自分のこととして考えてみて頂いたら良いと思います。もし、弟子の境遇にあった自分が立ち上がることができるとすれば…。いいえ、ただ立ち上がるだけではない。立ち上がって、悲しみを乗り越えて元の生活に戻るのではない。なおも十字架で死なれたイエスさまを救い主として、復活の主として証しして行くことができるとすれば、そこに一体何が起こったのかと、自分をそれほどまでに変えたものは一体何だったのかと、考えてみていただければと思います。ともかく、復活は信じ難いことです。それを否定したり、矮小化する必要はありません。むしろ、その真実にしっかりと目を向けるところからしかはじまらないのかもしれません。

当初からイエスさまの復活を信じた人は誰もいませんでした。復活のイエスさまを探す人もいませんでした。むしろ、人はイエスさまの亡骸を求めました。死を事実として受け止めるために。また、復活の証人の言葉も信じませんでした。それが、人の、私たちの偽らざる姿です。そうです。私たちは信じないのです。信じられないのです。イエスさまの言葉、約束も、その真実の姿も。私たちは、私たちの理解を超えたものをなかなか信じることができない。受け止めることができない。そんなことは、はじめから重々承知なのでしょう。だから、いつもイエスさまからはじめてくださる。イエスさまの方から来てくださる。亡骸を求め、見つけられずに悲嘆に暮れるマグダラのマリアに出会ってくださったのは、復活の主、イエスさまの方からでした。家の戸に鍵をかけ閉じこもっていた、閉じこもることしかできなかった弟子たちを訪ねてくださったのは、イエスさまの方です。

とぼとぼと失意のうちに戻るしかなかった弟子たちに近づいてきてくださったのもイエスさま。イエスさまの方がいつも働きかけてくださった。今日もそうです。復活のイエスさまと出会ったと聞かされても信じることができず、途方に暮れている弟子たちの真ん中に現れてくださったのは、復活のイエスさま。その姿を見ても、まだ信じられず、幽霊だと思い込んでいる弟子たちに、手や足をお示しになったのもイエスさま。

トーマスの不信 レンブラントRembrandtプーシキン美術館 1634年



先週の福音書の日課は、「疑り深いトマス」の物語でもありましたが、今日の物語と似ていることに気づかれたでしょうか。ご存知のように、復活のイエスさまが現れた時、そこに居合わせなかったトマスは、イエスさまの手の釘跡に自分の指を突っ込んでみなければ、その脇腹の傷跡に自分の手を差し込んでみなければ、決して信じない、と言い放ったのです。そして、次の日曜日、今度はトマスも一緒にいた弟子たちの中に復活のイエスさまが現れ、トマスが望んだように、あなたの指をこの私の手の傷跡に触れてみなさい、私の脇腹の傷にあなたの手を入れてみなさい、と告げられました。そして、こう言われた。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。イエスさまはいつもこうです。私たちを信じる者とするために、一所懸命にしてくださっている。今日の箇所でも、幽霊だと怯えている弟子たちにご自分の手や足を示されたのも、そうでしょう。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。その一心でしてくださっている。それでも、まだ信じ切ることのできない弟子たちのために、魚まで食べて見せられた。考えてみれば、ちょっと笑っちゃいます。全然、神秘的でも何でもない。神の子です。復活の主です。ご自分の復活を証明するために、もっとやりようがあったのではないか、とも思う。もっとこう神々しく…。しかし、弟子たちは美味しそうに魚を頬張っておられるイエスさまの姿を見て、思い出したのではないか、と思う。いつもの食卓のあの懐かしいお姿を。ああ、本当にイエスさまは復活されたのだ。紛れもなく、ここにおられるのは、私たちの先生だ、と。

おそらく、私たちは誰も復活を信じることはできないでしょう。人の力量としては無理なことです。ただし、それは、復活の主が本当におられなければ、の話しです。もし、本当に、十字架で終わってしまっているとするならば、私たちの信仰も何も残らなくなってしまうのかもしれません。復活がなければ、十字架も霞んでしまうからです。復活の主がいてくださる。イエスさまは私たちのために、確かに肉体を持って、紛れもなくご本人として復活してくださった。そして、誰一人信じようとしない弟子たちの中で、不思議なことをはじめてくださった。この私たちのためにも。

不信仰…。上等です。復活など信じられない…。当然です。それが、紛れもない私たちです。しかし、そんな私たちの只中で働いてくださっているイエスさまを否定してはいけません。私たちではない。イエスさまが働いてくださっている。イエスさまが信じようとしない私たちに向かって、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とご自身を示してくださっている。そして、私たちの中にそんなささやきが響き渡って何かが芽生えはじめるのです。私たちではない。イエスさまの業です。それを拒んではいけません。その芽を摘んではいけません。この時ばかりは、「信じられない」という自分に素直にならないで、ただ心を開くことです。自分自身を信じるのではなく、イエスさまを信じると。でないと、せっかくのそれは幽霊になってしまうかもしれません。そして、結局、何も残らなくなってしなうかもしれない。

もちろん、私たちはそんなことは求めていません。イエスさまを、その復活を、その意義を信じたいと思う。だからこそ、このイエスさまの働きに、もっと素直になっていきたいと思うのです。

祈 り
新型コロナの蔓延、また変異株の増加で、今大阪の医療現場が大変な状況になっていると聞きます。すでに重症患者数は確保病床を上回り、治療が行き届かなくなっています。また、医師、看護師たちも疲弊しています。どうぞ、憐んでください。このような状況下に
なっても、なかなか人の流れがおさまりません。どうぞ、一人一人の心に働いてくださり、他者を思いやる行動をすることができますようにお導きください。また、政府、行政の対応も速やかに行われますようにお導きください。首都圏も予断を許さない状況になって来ました。どうぞ、私たちをもお守りくださいますようにお願いいたします

ルーテル学院大学、神学校の新たな年度の歩みをどうぞ豊かにお導きくださいますようにお願いいたします。新型コロナの蔓延で、今後どうなるかは分かりませんが、新入生も多く与えられましたので、彼らの学びやまた学校生活などが守られて、整えられていきます
ように、どうぞお助けください。また、教師・職員もお守りください。
家族を亡くされ、辛い思いをされておられる方々が多くおられます。どうぞ、憐んでくださいますように。平安と希望に満たしていってくださいますようにお願いいたします。

悩みのうちにある者、絶望に追い込まれている者をかえりみ、助け導いてください。病床にある者、死に直面している者にいやしと慰めをお与えください。正義のために苦しむ者、自由を奪われた者に勇気と希望を与えてください。闇の中を歩む者に、あなたの光を
注ぎ、計り知れない恵みのみ旨を示してください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【週報:司式部分】 2021年4月18日  復活節第3主日礼拝



復活節第3主日礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 上村 朋子

前  奏  喜べキリスト者よ  J. S. Bach

初めの歌 教会190( 主のみ名によりて )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

– 特別の祈り –
全能の神さま。
羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から引き上げられた全能の神さま。
私たちを羊飼いとして送り出し、失われた人々、傷付いた人々に、み言葉をもって仕える者としてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 3:12-19(新約 218頁)
第2の朗読 ヨハネの手紙一 3:1-7(新約 443頁)
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 ルカによる福音書 24:36-48(新約 161頁)

みことばのうた 教会107( 死に勝ちたもう )3節

説  教 「 疑いの中で 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会344( み顔をあおぎて )1、5節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会361( 世につげよ )1節

後  奏 明るき太陽は今や輝きあらわる K. Brod