【週報:司式部分】 2021年1月17日  顕現後第2主日礼拝

顕現後第2主日礼拝

司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  萩森 英明

開会の部
前 奏 「神のみ子はきませり」J.S.Bach

初めの歌 教会149 ( 空も地をも )

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部(式文A 5〜7頁)

特別の祈り
主なる神さま。
あなたはみ子によって多くの人々を信仰に導き、栄光を現されました。
私たちにも信仰の賜物を与え、み子のようにすべての人々に喜びを伝えることが
できるようにしてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 サムエル記上 3:1-10(旧約 432頁)
第2の朗読 コリントの信徒への手紙一 6:12-20(新約 306頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書1:43-51(新約 165頁)

みことばの歌 教会29(恵みふかきみ声もて)

説教 「 出会うことで 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会372(イェスのみ名は)

信仰の告白 使徒信条
奉献の部

派遣の部(
派遣の歌 教会285(シオンよいそぎつたえよ)

後 奏 「神のみ子はきませり」J.G.Walther

【 説教・音声版】2021年1月17日(日) 10:30 説教「出会うことで」浅野直樹牧師

顕現後第2主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書1章43~51節

人生には、さまざまな出会いがあるものです。それらが私たちの人生を彩っていく。そして、人生を変えるような、あるいは大きな影響を与えるような良き出会いがあるということは幸いなことではないでしょうか。

思い返しますと、私にとっては特に次の三つの出会いが思い起こされます。皆さんはどうでしょうか。
一つは、中学時代の社会科の先生との出会いです。この先生との出会いがなければ、私はキリスト教に、教会に触れることはなかったのかもしれません。御多分に洩れず、と言いますか、私の中学時代は危うい思春期真っ只中の状態で、今から思えば非常に青臭い悩みでしたけれども、その頃は死を考えるほど深い悩みを抱えておりました。また、社会や周りの大人たちにも非常に反抗的でした。

そんな中、唯一好意を抱いていたのが、前述の社会科の先生でした。といっても、私の性格上、先生と親しくなれていたわけではありませんでしたが、先生の授業だったからこそ、先生の語ったキリスト教がすっと心に入ってきたのだと思います。そして、そんなキリスト教に憧れを抱きました。そのことがなければ、教会を訪ねることは恐らくなかったでしょう。

もう一つの出会いは、最初の神学校時代の学友たちとです。本当に彼らとの出会いは大きな支えになりました。素直に信仰の話が真剣にできたのは、彼らが最初だったと思います。それまでの私は、自分の信仰に自信が持てずにいました。洗礼を受け、神学校にまで行った訳ですが、自分の中に疑いの思いや反発心などが渦巻いており、本当にこれが信仰者なのだろうか、と悩んでもいたからです。かといって、そんな心の内を相談できる相手もおらず、悶々としていました。今から思えば、動機としては全く不謹慎だった訳ですが、そんな思いを何とかしたくて神学校に行ったようなものです。

しかし、いざ入学してみると、たちどころに「ここは自分のような人間が来るところではなかった」と思い知らされました。牧師を目指すような人たちばかりな訳ですから、周りは信仰の猛者ばかりだったからです。彼らからそのような話を聞かされるたびに、ますます自信を失い、本当に逃げ出したいばかりでした。彼らとの出会いがなければ、本当に逃げ出してしまい、牧師にもならなかったのかもしれません。その中にいることが、あまりにも辛くなりすぎて、ある日、非難されるのを覚悟の上でそんな心の内を打ち明けてみました。すると彼らは普段と何ら変わらず、あまりに当たり前の口調で「そんなの誰もが通る道だよ。僕たちだってそうだった」と答えてくれました。その言葉にどれほど救われたことか。本当に感謝に絶えません。

もう一つはルターとの出会いです。といっても、もちろん、本人自身にではありません。もっと言えば、彼の著書自体でもありませんでした。アメリカの神学者であるベイントンという人が書いた『我ここに立つ』が授業の課題図書とされ、読むことが求められたからです。これは、いわゆる伝記物です。その中に記されていた修道院時代の信仰的苦悩・葛藤にひどく共感を覚え、たちまちルターの虜になりました。その後、ルター関連の本を漁るように読んだことを覚えています。このルターとの出会いがなければ、信仰的自覚、信仰的成長、信仰的確信もなかったかもしれませんし、何より今現在ルーテル教会の牧師としてここに立っていることもなかったでしょう。もちろん、これ以外にも様々な出会いがあった訳ですが、そういった出会いが意図せずに人生を変えることになったことを深く思います。

先ほどは、私自身の特に三つの出会いを例として出させていただきましたが、出会いには大きく分けると二種類あるように思います。一つは偶然、たまたま、と言えるものです。前述の中学時代の先生にしろ、神学校時代の学友にしろ、たまたま同じ時期、同じ場所にいたからこそ生まれた出会いでしょう。場合によっては、すれ違うことだってあった。確かにそうなのですが、しかし、信仰の目で見れば違った景色も見えて来るように思います。それもまた、神さまが意図されたことなのだと。私の必要のために備えてくださった出会いなのだと。私は、そう思っています。

そして、もう一つは、誰かを媒介とした出会いです。私の場合は、前述のルターとの出会いがそうでしょう。その授業の先生が何らかの意図をもってその本を紹介してくれたお陰で、私はそれと出会うことができまし
た。たまたま、私自身はその先生の意図以上にルターとの出会いにハマってしまい決定的な意味を持つようになった訳ですが、そのような仲介がなければ出会うことがなかったのかもしれません。そういう意味では先生には本当に感謝しています。そのように、そんな偶然(神さまからすれば必然?)と仲介によって私たちは多くの出会いをしてきたはずです。

Leonardo da Vinci (1452-1519) – The Last Supper (1495-1498)※Philip:フィリポ:部分※手で自分を指している図 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会



今日の福音書の日課は、いわゆる「弟子の召命物語」と言えるでしょう。ここでイエスさまは二人の人物を弟子とされました。一人はフィリポ、もう一人はナタナエルです。前者、フィリポの方は他の福音書の中でも12弟子として取り上げられていますので良く分かるのですが、後者のナタナエルは他の福音書には登場してきません。ですので良く分からない。ここでフィリポと並んで取り上げられているくらいだから、ナタナエルも12弟子の一人ではないか。とすると他の福音書に記されているバルトロマイと同一人物ではないか。そんなふうにも言われています。ともかく、このヨハネ福音書の「弟子の召命物語」には、他の福音書にはない非常にユニークな場面が登場してまいります。フィリポの方は馴染みのある召命物語です。

「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた」。これは、偶然の出会いと言っても良いのかもしれません。たまたまガリラヤに行く道中で出会ったから…。しかし、信仰の目で見るならば、前述のように、ここにも神さまの働きかけがあると考えられるし、もっと言えば、イエスさまの方からわざわざフィリポを弟子にするために出会っていかれたのかもしれません。いずれにせよ、これは従来型の召命物語でしょう。しかし、ナタナエルの方は一風変わっています。なぜならば、先ほど弟子とされたフィリポがナタナエルをイエスさまに引き合わせているからです。

Leonardo da Vinci (1452-1519) – The Last Supper (1495-1498)※Nathanael ( Bartholomaenus ):※左端部分 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会



これは、他の召命物語にはないものです。しかも、ここには非常に示唆に富んでいることが書いてある。フィリポは何とかしてナタナエルを説得しようと試みる訳です。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。ある人はフィリポは非常に凡庸な人だったと言います。そうかもしれません。彼の言葉も、それほど人を引き付けるようなものではなかったのかもしれない。しかし、彼は彼なりに精一杯、ナタナエルにも分かってもらおうと努力したはずです。しかし、ナタナエルの方はそっけなくこう答える。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。

私にも覚えがあります。学生時代、なんとかこの人を説得しようと何時間もかけて試みたのに、暖簾に腕押し、難癖ばかりを返してきて、疲れ切ってがっかりしたことがありました。しかし、このフィリポはその時私がしなかったことをした。「来て、見なさい」。実際にイエスさまに会って見なさい。そうすれば分かる。彼がしたことは、たったそれだけです。しかし、それが、ナタナエルとイエスさまとの運命的な出会いの架け橋になったのです。私たちだってそうでしょう。大抵は凡庸です。心動かすような、人生をひっくり返すような言葉など出てこないのかもしれません。

それでも、実際に「来て、見なさい」と勧めることはできるのかもしれません。この「来て、見なさい」は、現代では教会のことだとある方はいっておられます。そうかも、しれません。実際に教会に来て見てごらんなさい、と言えるのかもしれない。あるいは、聖書を読んでごらんなさい、かもしれない。信仰の入門書をプレゼントすることかもしれない。または執り成しの祈りをすることかもしれない。とにかく、私たちが説得するのではないということです。私たちは、何とかしてイエスさまと出会えるようにと橋渡しをすること。それで十分。それだけで、その人はイエスさまと出会えるかもしれない。

イエスさまと出会って、人生が大きく変えられるかもしれない。信仰の目でしか見ることのできない偉大なものを見ることができるようになるかもしれない。そして、生涯、希望を見失うことなく生きることができるようになるのかもしれない。そんな人を、私たちを媒介とする「弟子の召命物語」が今日の箇所に記されていることを、私たちはもう一度新たに心に刻んでいきたいと思います。

祈 り

緊急事態宣言後、一週間以上が経ちましたが、あまり人の出が減らずに効果に乏しいといった指摘もされています。東京では連日1000人をはるかに超えるような感染者が出ており、ますます医療現場は困窮していると思われます。また、なかなか入院することが出来ない方々が増え、心配されていたように自宅療養されていた方が急変してお亡くなりになられてしまったという事例も出てしまいました。どうぞ、憐れんでください。これ以上、感染が広がらないように、一人一人が行動を律することができますようにお導きください。

また、経済的に苦しい状況に追い込まれている方々も多くおられます。一方では、このコロナ禍にあっても利益を重ね、ますます格差が広がっているようにも感じています。本当に、このコロナ禍で社会の歪みがいっきに噴出しているようにも感じます。どうぞ、あなたが命じられているように、「隣人を自分のように愛すること」を志していく社会となっていきますように、また、様々な歪みに対してもしっかりと目を向け、反省しつつ、あり方を正していく勇気と力を与えてくださいますように、気候変動で立ち上がったあの若者たちのように、新しい社会のあり方を、誰もが当たり前の生活が送れるような優しい社会を求めていくことができますように、どうぞ罪深い私たちを顧み導いていってください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

Leonardo da Vinci (1452-1519) The Last Supper(1495-1498)

【 説教 ・音声版】2021年1月10日(日) 10:30 説教 「その時、天は裂けた」浅野直樹牧師

主の洗礼主日礼拝


聖書箇所:マルコによる福音書1章4~11節

本日は、主の洗礼を覚える主の日の礼拝です。ですので、ご一緒に、改めてイエスさまが洗礼を受けられた意味を、また私たちの洗礼の意味を考えていきたいと思っています。

その前に、本日与えられました第一の朗読、創世記1章1節以下の言葉にも思いを向けていきたいと思います。このみ言葉が、この新しい年のはじまりに与えられているということは幸いなことだと思っているからです。

ご承知のように、先週(7日に)一都三県に緊急事態宣言が出されました。東京においては、連日2000人を超える新規感染者数が出ています。予想をはるかに超えた急激な広がりです。個人的には、第一派のときに言われていた「ファクターX」などともう言え
なくなってきているほど、深刻な状況になっているようにも感じています。本来ならば、明るく希望に満ちているはずの年のはじめなのに、今年は、このような重苦しい雰囲気の中ではじめなければなりませんでした。



創世記の創造物語を、たわいもない神話のたぐいやおとぎ話のように受け止めておられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、私は、この創造物語こそがキリスト教信仰の根幹をなしていると信じています。だからといって、必ずしも字義通りに受け取ることを要求しているのではありません。そうではなくて、この世界を造られた方がおられる、その方を信じる、ということです。それが、私たちの信仰の一丁目一番地ではないか、そう思っているからです。

この創造主なる神さまは、闇に光をもたらされる方です。何よりも、闇の中に、そのただ中に光を生み出す、創造される方なのです。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あ
れ。』こうして、光があった」。神さまは初めに「光」を創造されました。しかも、言葉によって。「『光あれ。』こうして、光があった」。

キリスト教は「ことばの宗教」とも言われたりいたします。言葉を…、聖書のことば、またその解き明かしである説教を大切にしているからです。また、その言葉の力を信じている。
言葉には力があります。それは何も、聖書の理解だけではありません。古来から日本にも「言霊」といった理解がありました。言葉には力、霊力が宿っていると考えられてきた。発せられた言葉が、現実を動かす、影響を与えると信じられてきたのです。ですか
ら、むやみやたらなことは言えなかったわけです。特に呪いの言葉などは…。本当にそうなってしまうことを恐れたからです。現代では、そういう意味ではあまりに言葉の力が軽んじられているのかもしれません。しかし、果たしてそうでしょうか。不用意なSNS上の
誹謗中傷で、大切な一人のいのちが奪われてしまうことだってある。

新年早々、アメリカから驚くようなニュースが飛び込んできました。トランプ支持者たちが連邦議会を襲撃したというのです。よくよくそのニュースを聞くと、大統領自身ワシントンに集まっていた支持者たちを煽るような発言をしていたとか。トランプさんは、まさかそのようなことになるとは思いもしなかったかもしれませんが、この歴史的汚点とも言われる事件に対して、自分には責任がないかのような発言に呆れてしまいました。

言葉に力がなくなってしまったのではありません。その言葉に責任を取らなくなってしまったからこそ、言葉が軽んじられるようになったのです。それは、日本の政治家たちもそうでしょう。難しい舵取りだということは誰もが理解しているはずです。しかし、その言葉はあまりに他人事のように聞こえてしまう。言葉に責任を持つということは、自分の発した言葉にしがみつくことでも、無理強いすることではないはずです。立ち止まって考えてみること、吟味すること、反省すること、時にはきちんと謝罪すること。そうではないでしょうか。ともかく、神さまの言葉は責任を取られるからこそ力強いのです。語られた言葉は必ず成る。闇の中に光を生み出されたように。私たちはこの一年をはじめるにあたって、もう一度この神さまの言葉の力に信仰の目を向けていきたいと思います。

イエスさまはなぜ悔い改めを説いていた洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのか。私たちのためです。私たちのために、罪のないイエスさまは罪の赦しを与える洗礼を受けられたのです。私たちと同じ、私たちの一員となるために。私たちの仲間となるために。私たちの友となるために。そして、この私たちをも神の子とするために。パウロもこう書いています。ガラテヤの信徒への手紙3章26節。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。

ところで、このマルコ福音書では、イエスさまの洗礼の出来事についても御多分に洩れず非常に簡素に記されていますが、しかし、このマルコならではの特徴も見られます。それは、洗礼を受けられた後での出来事ですが、「天が裂けて」と記されているからです。
後で並行箇所と見比べていただければと思いますが、マタイもルカも「天が開け」といった表現がなされています。天が開かれる。あたかも一面黒い雲に覆われ閉じられていた空が開かれて、天からの光が差し込んでくるような、神秘的で、穏やかな、そして神々しい光景を想像いたします。それに引き換え、「天が裂け」るとは、なんと荒々しい表現か。
あたかも、無理矢理に、強引にこじ開けるような、そんな荒々しい激烈な印象を受けるのです。そして、それこそが重要なのではないか、と私は思っています。

先ほどは、なぜイエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのか、と言えば、それは私たちのためであった、と言いました。しかし、それは、決して、洗礼の出来事に限らないはずです。イエスさまの誕生からその生涯、また死と復活においても、すべてが私たちのためです。そして、この私たちのために、というのは、神さまにとっても、けっして楽な、安易なことではなかったはずなのです。私たちのために生まれ、私たちと同じ罪人の仲間となり、私たちを罪から救うために十字架に死に、私たちを神の子とされる。神さまにとっても、それらは決してスマートに、かっこよくできるものではなかった。

まさに、自分自身の身が引き裂かれるような思いで、自分の世界が引き裂かれ壊されるような思いで、それまでの私たちとの隔てられた関係を引き裂くような思いで、厳しく、辛く、苦しく、激烈で、本来ありえない、無理やりにとしか思えない強引な方法で、まさに神の子を、ご自分の愛するひとり子を十字架にかけるという方法でしか実現しえなかったことだったからではないか、そう思うからです。

キリストの洗礼:ピエロ・デラ・フランチェスカ (–1492) ロンドン ナショナルギャラリー



私たちが洗礼によって、神の子とされるということは、まさに「天が引き裂かれ」るような出来事を通してでなければ、決してやってこなかったことです。天が引き裂かれたからこそ、神さまが自ら天を引き裂いてくださったからこそ、私たちの上にも聖霊が下り、このような語りかけを聞くことができるようになった。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。

先週は小山先生がルターの言葉をいろいろとご紹介くださいましたが、決して張り合うつもりはありませんが、せっかくの新年なので、わたしも一つご紹介したいと思います。

それは、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、小教理問答の洗礼の項目で語られているものです。

「どのようにして水がそのように大きなことをすることができるのですか。

答え 水はもちろんそのようなことをしない。水と共に、水の許にある神のことばがそれをするのだ」。

そうです。最初に言いましたように神さまの言葉自体が、洗礼によって私たちを神の子としてくださるのです。天を引き裂くほどの激烈さをもって、まさに「光よあれ」を実現する力をもって、約束したことは必ず果たすとの責任をもって語ってくださっている神さまの言葉が、それをする。それを実現するのです。私たちは、ただそのことを信じるのです。

確かに暗い中でのスタートとなってしまいましたが、しかし、ここまでしてくださっている神さまが私たちを放っておかれることはないはずです。この神さまを、その言葉の力を信じて、この新しい一年も歩んでいきたいと願っています。



祈 り

・神さま。東京では連日2000人以上の新規感染者の方々が判明し、ついに一都三県に緊急事態宣言が出される事態となってしまいました。東京都のHPを見ますと、昨日の時点で5000人以上の方々が入院待機中だと思われます。このままでは病院で手当てもできずに悪化される方が多くでてしまうのではないか、と心配です。もちろん、医療の現場も大変な状況でしょう。一向に収まるどころか、ますます患者数が増えて、医療従事者の方々も心底疲れ切っておられるのではないか、と心配です。どうぞ憐れんでください。

経済的な面ももちろん必要でしょうが、とにかくもう一度、国民・市民一人ひとりの意識を変えて、感染を押さえ込まないことには、どうにもなりません。どうぞ、この緊急事態宣言を受けて、一人ひとりの意識を変えてくださり、感染を抑制していくことができますようにお導きください。

・また、教会においても、この緊急事態宣言と感染拡大、医療現場の逼迫を受けて本日より2月7日までは集会式の礼拝を中止いたしました。昨年9月より人数制限がありつつもせっかく再開されたのに本当に残念ですが、この間も教会に連なるお一人お一人をお守りくださり、それぞれの場所であなたとの豊かな出会いをしていくことがお出来になりますようにお導きください。また、新型コロナをはじめ、あらゆる危険からもお守りくださいますようにお願いいたします。

総会を間近に控えたこの時期ですので、私たちと同様、多くの教会で混乱をきたしておられるかもしれませんが、どうぞ、すべてを良きものへと変えてくださり、良き時を備えてくださいますようにもお願いを致します。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【重要】教会へ集う皆さまへ

【† 重要 緊急事態宣言発出に伴う1月10日 からの礼拝について】

1月8日(金)〜2月7日(日)迄の期限で緊急事態宣言が再発出されました。
政府の要請により、午後8時以降の不要不急の外出自粛やイベントなどが制限されていますが現在の感染者数急拡大や医療体制の緊迫度を鑑みて役員会で協議のうえ、以下のように決定しました。

1)1月10日〜2月7日までの期間は集会式の礼拝を中止

緊急事態宣言発出中の1月10日〜2月7日までの期間は集会式の礼拝を中止し、オンライン礼拝配信のみとし、緊急事態宣言が延長される場合、その他案件を含め新たに検討のうえ対応する。
2)1月10日(日)開催予定の拡大役員会は中止とする。
活動報告の担当者は原稿を1月10日迄に野口姉宛へメールか郵送でお送りください。10日迄に無理な方もなるべく早い提出をお願いします
3)2月7日(日)開催予定の定期教会総会は延期とする
(本教会より全国の教会へ向けて「現在の厳しい状況を考えれば、総会の延期も役員会の判断で可能と解されます。」との見解も示されています)。総会の開催日程については感染状況などを鑑みて追って通知します。また、総会開催までの必要事項については、現行役員会が本教会の規定に沿って執り行うこととします。
なお、集会式礼拝の再会に際しては電話予約制による人数制限は継続となりますので、改めて予約受付開始その他のご案内をします。
大変な中ですが、どうぞご理解ご協力をよろしくお願いいたします。

みなさまの上に、主の豊かな守りと祝福がありますようにお祈りします。
日本福音ルーテル武蔵野教会
牧師:浅野直樹
役員一同

【週報:司式部分】 2021年1月10日  主の洗礼主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  苅谷 和子

開会の部
前 奏  主キリスト、神のひとり子  H.シャイデマン
初めの歌 教会60 ( 父なる神の )
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
天の父なる神さま。
あなたはヨルダン川でイエス・キリストに聖霊を注いで「わたしの愛する子」と言われました。
み名による洗礼によって、あなたの子どもとされた私たちがみ心に従って歩み、永遠の命を受ける者となるようにしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 創世記1:1-5 ( 旧約 1頁 )
第2の朗読 使徒言行録19:1-7( 新約 251頁 )
ハレルヤ唱 (起立)
福音書の朗読 マルコによる福音書1:4-11 ( 新約 61頁 )

みことばの歌 教会182 ( 主の造りましし )

説  教 「 その時、天は裂けた 」 浅野直樹 牧師

感謝の歌 教会322 ( 主なるイェスは )

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会402( うれしき恵みよ )

後 奏  キリスト、われわれの主はヨルダンに来た J.S.バッハ

【重要】2021年1月からの礼拝

むさしの教会に集う皆さま

新年1月からの礼拝についてはCOVID-19感染状況が落ち着く迄の当面は、下記の形で礼拝を行って参ります。

《礼拝開始時間》
*第1部:10時30分~11時10分
・予約制により定員は35名とします。

*定員を超えた場合、第2部を予定しています。
・第2部:11時30分~12時10分

《予約方法》
*各主日礼拝の出席希望:前週の火曜から電話受付を開始します。
・受付時間 火~金:10時~20時、土:10時~12時
*牧師:浅野迄( 03-3330-8422 ,  090-6461-5960 )

ご予約・ご不明の点などは電話にてお気軽にご連絡ください。

【週報:司式部分】 2021年1月3日  降誕節第二主日礼拝



司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 小山 茂
奏 楽 小山 泉

開会の部
前 奏 「天のかなたから」J.S. バッハ

初めの歌 教会49(1~2節) ( あたらしいとしを )
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部(式文A 5〜7頁)

特別の祈り
全能の神さま。
あなたはみ子をイエスと名付け、私たちの救いのしるしとされました。
すべての人の心に救い主への愛を植え付けてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈(いの)ります。

第1の朗読 エレミヤ書31:7-14 ( 旧約 1234頁 )
第2の朗読 エフェソの信徒への手紙1:3-14( 新約 352頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書1:1-18 ( 新約 163頁 )

みことばの歌 教会272 ( 主なるかみをたたえ )

説 教 「 言葉を受け、神の子となる 」 小山 茂 牧師

感謝の歌 教会34(1~2節) ( われいままぶねの )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 教会307( まぶねのなかに )

後 奏 「神の子はきませり」J.S.バッハ

【 説教・音声版 】2021年1月3日(日) 10:30 礼拝説教 「言葉を受け、神の子となる」小山 茂牧師

降誕節第2主日 礼拝



ヨハネによる福音書1:1-18

序 新年おめでとう
新年あけまして、おめでとうございます。昨年は新型コロナウィルスに翻弄された一年でした。日本国内だけでなく世界中の国々が、コロナ禍に巻き込まれ、どう対応したらいいのか分からずに、右往左往して今日に至っています。私たちが当たり前のように享受してきたものが、どれほどありがたいものであったか、あらためて認識をさせられました。私たちが生きていく上で何が大切なのか、どこに価値を見出したらいいのか、考えさせられた一年でした。そして、今年こそは落ち着いた生き方ができる年であってほしいと、心から祈っています。

先ほど歌いました讃美歌は、新年に神をほめたたえる49番を選びました。作詞は江口武憲牧師(江口再起先生のお父上です)、作曲は山田実先生(ルーテル神学校の聖歌隊を指導された)、お二人により作られたものです。1月最初の礼拝にこの賛美歌を歌って、主に向き合う気持ちを新たにされます。新年に欠かせない教会讃美歌です。また教団の讃美歌21にも載せられて、多くの方々にも歌われています。

2 言葉と神と主イエス
ヨハネ福音書の書かれた目的が、20章30~31節に記されています。「イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」共観福音書と呼ばれる、マタイ・マルコ・ルカ、その後に書かれたのがヨハネ福音書です。

ヨハネによる福音書の冒頭部分-「復刻グーテンベルク聖書ゴールドリーフ」 のラテン語版



その当時のキリスト教は今のトルコからヨーロッパに広がっていました。ヨハネ福音書は旧約を知らないギリシア人に、キリストの福音を宣べ伝えようとしました。そのためでしょうか、マタイやルカ福音書のように、降誕物語を一切語りません。降誕節であれば、「占星術の学者の謁見」や「羊飼いの幼子の訪問」などが分かり易く、相応しいものに思われます。でも、マタイ福音書は旧約の預言が今成就したとしばしば語ります。ヨハネ福音書で、神はイエス・キリストを通して私たちに働きかけられ、暗闇の中にいる人々に命の光を照らすことを最優先します。

降誕節第2主日の福音は、ヨハネ福音書1章「ロゴス讃歌」から始まります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」ギリシア人が好む哲学的な言葉「ロゴス」、そのギリシア語は、ひとつの漢字で「言」を「ことば」と訳されます。まるで禅問答を始めるかのような冒頭です。福音書なのにどこか取り付きにくい感じがして、なかなか御言葉にストンと合点がいきません。言と神がどのような関係にあるのか、言は誰なのか、何なのか丁寧な説明がないからです。しかし、14節に理解を助ける鍵があります、「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた。」言は肉体を受けて人となられ、私たちの眼に見える幼子になられました。ですから、言はイエス・キリストと分かります。

さらに冒頭2節に続きます、「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」全てのものは言葉によって創られたと聞くと、旧約聖書の創世記1章の天地創造の場面を想い起こします。

神が叫ばれた言葉による創造の秩序が、次のように形作られました。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。〔ここで言が発せられます〕『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」続けて第7の日まで天地を創造されました。神の言葉のある所に神はおられるのであり、神の発せられる言葉から出来事が起されました。

Saint John the Evangelist:福音記者ヨハネ Domenico Zampieri:ドメニキーノ(1581–1641)



 

3 肉は私たちに宿られた
今朝の福音の頂点は、14節にあります。その御言葉を拝読します。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」言葉が肉となるとは、受肉の出来事を指しています。宿ると訳された言葉が、理解を助けてくれます。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが私たちに宿ってくださる、その方がこの世に住んでくださると語ります。主イエスは乙女マリアから生まれ、神の栄光を示すために人間として生きられました。

つまり言は目に見える幼子となり、手で触れることができる方となられました。神から私たちに与えられる恵みは、憐みであり、優しさでもあります。神の優しさは、飼い葉桶に眠られる、力なき幼子にあります。幼子は神の御心に従い、弱い人間となり、救いを使命とする方となります。それはナザレのイエスが、ひとりの人間として、私どもに出会ってくださるのです。飼い葉桶の幼子の姿に、私たち人間の救いが包み隠されています。

14節の御言葉を受け入れる者は、主イエスを信じると告白する者とされます。私たちは礼拝の中で、使徒信条を唱えます。「私たちの主イエス・キリストを私は信じます。主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。」その信仰は、14節を根拠にして告白されます。主イエスが幼子となられて、私たちに与えられなければ、信仰告白は始まらないのです。

ルターは信仰についてこう語りました。「信仰深くあることは、業を行うことではない。一切の業を捨てて神を信じることである。それから業をする。信仰を欠くならば、いかなる業もよい業とはならない。業にこだわるな。」いかにもルターらしく、信じることに一切の妥協がありません。良き業を積んで義とされるのではなく、信じて神の義を与えられ、善き業によりお返しができるのです。

私はルーテル教会の幼稚園に通い、主の祈りを丸暗記していました。しかし40年前の青年時代に、むさしの教会の礼拝に出席しました。あまりに明解な信仰の告白にたじろいで、思わず声が小さくなりました。式文に書かれた告白の意味を文字から知ると、私には信仰があると思えなかったからです。ルーテル教会はルターの教理問答などから分かるように、信仰告白をとても大切にしています。ですから今は、使徒信条やニケヤ信条を唱える時、丁寧に言葉を確認するよう心がけています。

信仰に生きる共同体は、受肉されたことを受け入れて、神の独り子の栄光に目覚めます。
そのことを、ルターはこう語りました。「飼い葉桶から始めるべきです。理性を捨てなさい。理性によって理解すること、それは高く昇って天使の仲間入りし、その後をついていって、この方の至高の権威のもとに立とうとするようなものです。それは極度に危険に満ちた努力です。あなたがあまりにも長く学問を続け、神の知恵は究めがたいことを悟り、あなたの心は絶望しているのです。そのような人間は、墜落して首の骨を折ってしまう登山家のようなものです。

~あなた方が神と共に語り、主権ある神に会いたいと願うなら、あなたは高い所におられる神を見ることになるでしょう。~むしろ、飼い葉桶に行きなさい。そこでこそあなた方は神を見い出します。神が私どもの主であり、あなた方の救い主である事実を見るのです。」ルターはキリストの降誕は、「喜ばしき交換」であると言いました。クリスマスにはこの恵みである交換が起こります。永遠の命を持たれるキリストが、受肉されて人間となられた。私たち人間が神との交わりによって、真の命を得るためです。こうして私たちの罪はキリストにのみ込まれ、キリストの義と交換されるのです。

Leonardo da Vinci (1452-1519) – The Last Supper (1495-1498):部分-サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会



結び 受肉=隠された福音
今朝はルターの言葉を幾つも紹介しました。受肉における隠された福音を、ルターはとても大切にしていました。それが信仰への突破口になるからです。飼い葉桶の中におられる幼子こそが、私たちを信仰のスタート・ラインに立たせてくれます。

この後に選びました讃美歌34番は「我まぶねのかたえに立つ」と、パウル・ゲルハルト作詞、ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲になるものです。ゲルハルトはルーテル教会の牧師であり、バッハもルーテル教会の音楽監督でした。まさに、ルターの「喜ばしき交換」のメッセージから、私たちがイエス・キリストを賛美するにふさわしい讃美歌です。

その賛美と祈りに声を合わせて、降誕の秘密が解き明かされてまいります。今年も神の言葉から、勇気と力を与えられて、混沌の世に光を見てまいりましょう。

Live版はこちらからご覧下さい



 

【 テキスト・音声版】2020年12月27日 説教「私の目は救いを見た 」 浅野 直樹 牧師

降誕節第一主日礼拝説教(むさしの教会)



聖書箇所:ルカによる福音書2章22~40節

今年も残すところ後わずかとなりましたが、この一年は新型コロナの影響で、誰もが不安の中を歩んで来た、そんな一年ではなかったかと思います。新しい年は、そんな不安も払拭されて、穏やかな一年となればと心から願っています。

誰もが…、そう一人残らず全ての人、誰もが安心して生きられる。これは、一つの理想の世界、幸福な世界なのではないか、と思います。しかし、もう少し考えを進めてまいりますと、誰もが安心して死を迎えることができる、自分の人生の幕を閉じていくことができるのも、また、幸福な世界なのではないか。そうも思うのです。もちろん、それは、「死んで良い」ということではありません。人生の半ばで、志半ばで、死を迎えなければならないということは辛いことですし、年端もいかない子どもたちとの死別はできれば避けたいことですし、自ら死を選ぶしかないという現実というのもあってはならないこと、非常に残念なことです。もちろん、まずは「生きる」ということが大切なのです。

『キリストの神殿奉献』- シモン・ヴーエ Simon Vouet- ルーブル美術館 1640-1641年頃



幸福な人生を送ることが大切。当たり前のことです。しかし、それでも、私たちには、この私たちの誰にでも「死」という現実が横たわっていることも確かなことなのです。見ようとしなかろうと、気づこうとしなかろうと、確実にその時はやってくる。ですから、この誰もがいずれ経験するであろう「死」を恐れず、安心してもし迎えることができるならば、それは幸いなことなのではないか。そう思うのです。今日の日課にはシメオンという人物が登場してまいりました。そのシメオンはこんな言葉を残しています。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。これは『シメオンの賛歌』とも言われるものです。私たちが毎主日、礼拝の中で唱えている『ヌンク ディミティス』がそれです。今日は、この『シメオンの賛歌』の、特に「今こそあなたは、この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉を中心に、このシメオンの心境などを考えていきたい、と思っています。

その前に、今日の日課に登場してまいります、先ほどのシメオンとアンナについて、少し考えてみたいと思います。現在の聖書学の世界では、異なった意見も出てきているようですが、伝統的には、このシメオンもアンナも共に「老人」と考えられてきました。そして、ある方は、ここがミソだとも言っています。なぜならば、クリスマスの、つまりイエス・キリストの御降誕の意味を正確に受け取っていたのは、この二人の老人だけだったからです。なるほど、と思いました。この「聖家族」が訪れていた神殿には数多くの人々がおそらくいたでしょう。

『女預言者アンナ』美術史博物館(ウィーン)1639年 Rembrandt Harmensz. van Rijn



中には、信仰的なリーダーたちもお偉いさんたちもいたに違いない。しかし、そういった人々はイエスさまの存在に、その意義に気づかなかったのです。
いいえ、気づけなかったのです。この当時、無名とも言える二人の老人たちだけが、クリスマスの意義をはっきりと理解していた。そのことを、このクリスマスの物語は改めて教えてくれています。

時代によっては、年配の方々に対する意識が変わるのでしょう。一昔前までは、その経験や知識が重んじられて来たと思いますが、昨今のような目まぐるしく時代が移り変わっていく中では、あまり重んじられなくなってきたようにも感じるからです。確かに、なかなかITなどの技術革新には付いていけないでしょう。しかし、それでも、円熟味は変わらないと思うのです。一人の人間としても、そして、信仰者としても。この二人の「老人」の特徴は、共に信仰に篤い人だったということ。熱心に祈る祈りの人であったということです。だからこそ、聖霊の働きに敏感に答えることができたのでしょう。近年、教会はますます高齢化が進んでいくと、どちらかというと否定的な意味合いで言われることが多いように思いますが、このクリスマスの物語を読みますと、そうではないことにも気づかされるのではないでしょうか。年配者には年配者ならではの円熟した役割がある。このシメオンやアンナのように他の人にはできなかった、正しく、正確に、救い主を指し示していくことだってできる。そんなことも教えられる気がするからです。

先ほどの「この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉は、もういつ死んでもいい、ということです。いつ召されても構いません、という意味です。老シメオンは赤子のイエスさまに出会いしなに、そのように語ったのです。なぜか。夢が叶ったからです。シメオンはずっとこの時を待っていました。こう記されています。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」。彼は救い主に会うまでは決して死ぬことはない、とのお告げも受けていたと言います。

『神殿のシメオン』または『シメオンとアンナ』レンブラント・ファン・レイン ハンブル美術館 1627-1628年 Rembrandt Harmensz. van Rijn



おそらく、彼はその言葉の、約束の実現を何年も、ひょっとして何十年も待ち焦がれていたのではないでしょうか。そして、ついに彼は救い主と出会うことができた。聖霊によって、その赤子が自分が待ち望んでいた救い主だということが分かった。そして、その幼子を腕に抱き、感極まってこう語らずにはいられなかったのではないか。そう思う。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。「わたしはこの目であなたの救いを見たから」もう直ぐにでも死んでも構わない。私は満足している。満ち足りている。もう何も恐るものなどない。

なぜならば、あれほど待ち望んでいた救いを、救い主をこの目ではっきりと見たのだから。彼は、喜びに胸を躍らせながら、そう語る。何という幸いな光景か、と思う。しかし、私はちょっと立ち止まってしまうのです。おや、彼は救いを見たというが、彼が見たのは、赤子のイエスさまではないか。確かに、これからイエスさまは成長されて、まさに救い主としての姿を多くの人々の前に示され、そして、十字架と復活によって、救いの業を完成してくださる。しかし、それは、まだまだ先のことであって、シメオン自身はその恩恵をちっとも体験していないではないか。なのに、彼はなぜ救いを見た、と言い得るのか。私なら、そんなふうに考えてしまいます。

しかし、ここがもう一つ大切なところなのです。肝心なのは、神さまの言葉なのです。まずは、神さまの言葉、約束がある。その言葉が、約束が、たとえ赤子であったとしても、彼は実現されたことをイエスさまの中に見出したのです。それだけで良いのです。それだけで、彼は救いを見ることができた。そして、その結果、もういつ死んでも良いとさえ思えるほどに満ち足りることができた。安心することができた。それが、救いの出来事なのです。

死に打ち勝つ力。私たちは、このクリスマスに、もう一度そのことを覚えたいと思うのです。なぜクリスマスがあるのか。なぜ神の子が私たちの世界に生まれなければならなかったのか。それは、闇があるからです。死の力が、滅びの力がこの世界に満ちているからです。ですから、クリスマスは何かロマンチックな出来事でも、この日ばかりはと現実逃避を決め込むような時でもないです。むしろ、神さまの側からすれば、宣戦布告の日とでもいえるのではないか。私たち人類を脅かす、不安と不幸に陥れようとする死の力、闇の力、滅びの力、絶望の力、悪魔の力に徹底的に対抗するために、その最前線に御子を派遣してくださった、それがクリスマスの出来事でもあると思うからです。

私たちもまた、この救い主イエスさまと出会うことができました。ですから、私たちもこう言っていけるようになりたいと思う。御心ならば、いつ、あなたの元に召されても大丈夫です、と。そんな信仰に堅く立てるようになっていきたいと思うのです。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。……わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」アーメン。



祈り
・神さま。2020年最後の主日礼拝を迎えました。この一年は新型コロナの影響で、何ヶ月もの間、集会式の礼拝ができなくなったり、再開後も人数制限の礼拝とせざるを得なかったりと、あるいは、毎年恒例として行えていた行事も行えなかったり、とにかくこれまでに経験したことのない歩みを、教会としても、また私たち個々人としてもせざるを得ませんでしたが、それでも、このように守られて、今年最後の礼拝を持つことができましたことを本当に嬉しく思い、心より感謝いたします。また、礼拝のライブ配信は役員会でも懸案事項となっていましたが、このコロナ禍で一挙に加速させることができ、多くの方々に恵みを届ける良きツールとすることができたことも感謝です。そのほかにも、多くの方々が陰日向となってご奉仕いただけたことも感謝しています。このコロナ禍でも、多くの恵みがありました。しかし、新しい年は、どうぞ落ち着いた年となって、当たり前であった生活を感謝しながら送っていくことができますように、お導きくださいますようお願いいたします。

・特に、東京では感染の勢いが衰えていきませんが、年末年始、静かな時を過ごし、感染拡大に歯止めをかけていくことができますように、市民一人ひとりの心に働いてくださいますようお願いいたします。医療従事者の方々の中には、年末年始もなく、過酷を極めておられる方々もおられます。どうぞ憐れんでくださり、少しでも感染が抑えられて、その働きが軽減されていきますように、お助けください。お一人お一人の心も体もお守りくださいますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

-週報- 2020年12月27日  降誕節第一主日礼拝


降誕節第一主日礼拝

司式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説教 浅野 直樹
奏楽 小山 泉 10:30

前奏 「 薔薇は咲きいでぬ 」による前奏曲   J.Brahms (着席)
初めの歌 教会16 ( 時は満てり )

罪の告白
キリエ・グロリア

みことばの部

-特別の祈り-
全能の神さま。
あなたは人を造られました。救いのみ業によって、それをさらに輝かしい姿に
されます。
人となられたイエス・キリストによって、私たちをあなたのいのちに
生きる者としてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 イザヤ書 61:10-62:3(旧約 1162頁)
第2の朗読 ガラテヤの信徒への手紙 4:4-7(新約 347頁)

ハレルヤ唱

福音書の朗読 ルカによる福音書 2:22-40(新約 103頁)

みことばの歌 教会38 (子の生まれた)

説教 「私の目は救いを見た」 浅野直樹牧師

感謝の歌 教会39 (マリヤの腕に)

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会343( たかくあげよ )

後奏 「 諸人こぞりて 」による後奏曲 北澤 憩

-週報- 2020年12月20日  降誕(待降節第4)主日聖餐礼拝

 



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  上村 朋子

前奏   キリストを私達は讃えよう  J.S. Bach
初めの歌  教会 1( いまこそ来ませ )
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
全能の神さま。
あなたは世界の贖い主、み子イエスによってご自分を顕されました。
人の子となられたみ子によって、罪に縛られた私)たちを解放してください。
あなたは父と聖霊と共にひとりの神であって、今もまた、永遠に生きて治められます。

福音書の朗読 ルカによる福音書 1:26-38( 新約 100頁 )

みことばの歌 教会14 ( わが心は )

説 教 「 驚きの知らせ 」 浅野 直樹 牧師

信仰の告白 ニケア信条

洗礼式 ( 第三部のみ )
転入会式( 第三部のみ )

奉献の部

聖餐の部

派遣の歌 教会 37( きよしこの夜 )

後 奏 イエス キリストよ、汝を崇めまつらん H.Chemin-Petit

【 テキスト・音声版】2020年12月20日 説教「 驚きの知らせ 」 浅野 直樹 牧師

2020年12月20日 待降節第四(降誕)主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書1章26~38節

これは毎年お話していることのようにも思いますが、今日は教会の暦としては待降節の第四主日になりますが、私たちのこの日本では、社会的な事情から大方のプロテスタント教会ではこの第四主日の日曜日にクリスマスを祝う礼拝をしている実情がある訳です。ですので、与えられた聖書の言葉(日課)も、なんだかクリスマスっぽくない感じがするのかもしれません。しかし、私は、こう思うのです。これこそ、クリスマスに相応しいみ言葉ではないか、と。

フラ・アンジェリコ Fra Angelico (circa 1395 –1455) 受胎告知 The Annunciation サンマルコ修道院 Basilica di San Marco



なぜならば、クリスマスとは、私たち一人一人がマリアとなる出来事でもあると思うからです。私たちも、マリアになる。私たち一人一人のうちに、イエスさまが宿ってくださるのだから。それが、クリスマス…。「おめでとう、恵まれた方」。この突然の天使の呼びかけに、マリアは当惑します。天使の声を直に聞いたからではありません。なぜそのような言葉がかけられたのか、理由が全く分からなかったからです。

「おめでとう、恵まれた方」。私たちにもまた、この言葉が語られている。なぜか。私たちにもイエスさまが与えられているからです。神の子が与えられている。この罪深い私に。これは、信じられないような出来事です。神の子が与えられるということは、私たちは神さまから最上級のもてなしを、待遇を、扱いを受けている、ということでしょう。ならば、なおさら信じられない。そうされる、そのように扱われる理由が分からないからです。ですから、私たちも当惑するしかないのかもしれない。あのマリアのように。それに対して、天使は理由を聞かせてくれました。あなたは神の子を宿すから「恵まれた」存在なのだ、と。しかし、マリアは納得できませんでした。信じられなかった。実感が湧かなかった。

ですから、マリアはこう尋ねます。「どうして、そのようなことがありえましょうか」と。不可能なのです。ありえないことです。何より、私にはそんな資格があるとも思えない。私は特別な人間じゃない。優れたところも、特にない。普通の、むしろ平凡すぎるほどの、どこにでもいる一人の田舎の娘でしかない。これまでだって、それほど神さまに喜んでいただけるような歩みを送って来たわけではなかった。むしろ、罪深ささえも自覚している…。なのに、どうして…。

「神にできないことは何一つない」。天使の答えは明瞭です。あなたがどうであるか、ではない。それは、神さまが為さることなのだ。たとえ、あなたが言うように、感じているように、それが不可能だとしても、神さまにはお出来になる。なぜならば、「神にできないことは何一つない」のだから。



マリアがそうだったように、神さまが「それを」為さるのです。神さまがされるのです。だからこそ、私たちの中にもイエスさまが宿られている。光が住んでくださっている。それだけが理由なのです。だからこその「恵まれた方」なのです。しかし、そのはじまりは、何の変化もないように思われるのです。今日は第3部で洗礼式を行いますが、その洗礼を受けられる方も、洗礼後も何も変わっていない、相変わらずの自分自身だと思われるかもしれない。しかし、すでに命は芽生えているのです。

気づかないほどの小さな、かすかな音かもしれませんが、命の鼓動がはじまっている。そして、それがだんだんと力強いものとなり、実感となり、誰が見ても明らかなような成長を遂げていくのです。しかも、それは、私たちの内に宿る命そのものの、イエスさまの力がそうさせていくのです。このマリアと私たちとの違いは、十月十日だけの出来事ではなくて、一生の間続いていく命の出来事ということではないでしょうか。

この受胎告知の出来事から見えてくるマリアと私たちとの違いは、おそらくこのことでしょう。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。マリアは有り得そうもない天使のお告げに、こう答えていきました。ですから、やはりマリアは私たちの模範なのです。神の子をみごもった聖人だからではありません。そうではなくて、私たちの模範となる信仰の人だったからです。だからこそ、私たちも今日、このマリアに倣ってこう言いたいと思う。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と。

新カリスとパテナ(錫製)



野上信雄兄作(秋田杉、中央の十字架は教会の桜)



祈 り
・今日、新たに二人の仲間を迎えることができましたことを心より感謝いたします。洗礼を受けられた古川ひろみ姉、八王子教会から転入された立石節子姉。どうぞ、このお二人のこれからのむさしの教会における信仰の歩みを豊かに祝してくださり、お導きください
ますようお願いいたします。また、兄弟姉妹としての交わりを、なおも豊かに祝してください。

・非常に新型コロナの感染が広がっている中ですが、このように守られてクリスマスを祝う礼拝を持つことができましたことを心より感謝いたします。また、聖餐の恵みにも与ることができましたことも大変嬉しく思っています。しかし、共々に集うことのできなかった兄弟姉妹方も多くおられます。どうぞ、私たちと等しい豊かな恵みをお一人お一人のお与えください。

また、このような幸いなクリスマスの時期にあっても、困難を覚えておられる方々が多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、そのお一人お一人の上にも闇を照らす光をお与えください。また、必要な援助の手も速やかに与えられますように。また、私たちも、出来うることを怠ることなくしていくことができますよう導いてください。

・この新型コロナの感染拡大で医療現場が大変なことになっています。特に、医療従事者の方々を顧みてくださいますようにお願いいたします。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

-週報- 2020年12月13日 待降節第三主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  萩森 英明

開会の部( 式文A 1〜4頁 )
前 奏  「われいかに汝を迎えまつるべき」 J. G. Walther

初めの歌 教会 3( よろこべ主イエスは )

罪の告白

キリエ 待降節はキリエ(二)になります。グロリアは省略します。

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
全能の神さま。
あなたは洗礼者ヨハネによって、み子の来臨を告げ、その道を備えられました。
私たちにご計画を悟る知恵と、み旨を聞く耳を与えてください。
そして、キリストの来臨を語り伝え、その道を備える者にしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、今もまた、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 イザヤ書 61:1-4,8-11( 旧約 1162頁 )

【21】242(主を待ち望むアドヴェント)(本日は3番を全員で歌います)

主を待ち望むアドヴェント、第三のろうそく ともそう。
主の恵み 照り輝き、暗闇を照らす。

第2の朗読 テサロニケの信徒への手紙一5:16-24( 新約 379頁 )

詠 歌
全)キリストは おのれをひくくして、死にいたるまで、
しかも、十字架の死にいたるまで、みむねにしたがわれた。

福音書の朗読 ヨハネによる福音書 1:6-8、19-28( 新約 163頁 )

みことばのうた 教会 6( やすかれわがたみ )

説 教 「 証する者 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌  教会 34( われいままぶねの )
信仰の告白 使徒信条
奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 教会 485( わが主よわれらに )

後 奏  「われいかに汝を迎えまつるべき」J. G. Walther

【 テキスト・音声版】2020年12月13日 説教「 証する者 」 浅野 直樹 牧師

待降節第三主日礼拝


聖書箇所:ヨハネによる福音書1章6~8、19~28節

今週の福音書の日課も、洗礼者ヨハネの物語が取り上げられていました。その洗礼者ヨハネについて、ヨハネ福音書ではこのように記されています。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」。ここにありますように、このヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネとは「光」について証しをする者といった理解です。では、その「光」とは、一体どんなものか。

神の子羊 : Ecce Agnus Dei 1462~64: ディルク・ボウツ : Dieric Bouts アルテ・ピナコテーク バイエルン州立絵画コレクション Bavarian State Painting Collections



そのことを、このヨハネ福音書では冒頭に非常に丁寧に記していきます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。そんな神さまの言葉そのもの̶̶言葉は人格と言っても良いと思いますが̶̶を、神さまの心、思い、意思と全く一つであられる方、またその思いを実現する力そのものであられる方、また命そのものであり、人間を照らす光であられる方、イエスさまを…、イエス・キリストを証しするために登場した洗礼者ヨハネは、次にそのイエスさまについてこのように証ししていきました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。

ちなみに、この「小羊」、ヨハネの黙示録では「屠られた小羊」と言われています。殺されていく小羊。命を取り去られる小羊。先ほどの「光」とは、なんというギャップでしょうか。しかし、ここにこそ、この両者の証言のギャップの中にこそ、神の子イエス・キリストの誕生の秘密・神秘があるのかもしれません。

ここまで考えていきますと、私は一つの絵を思い起こします。マティアス・グリューネヴァルトという人が描きました「イーゼンハイムの祭壇画」です。この祭壇画はいくつかのパーツに分かれており、いろんな場面の絵が描かれていますが、その中でもっとも印象深いのが、祭壇画の正面にありますイエス・キリストの磔刑の場面を描いたものです。いわゆる西洋美術では、このイエス・キリストの磔刑はよく取り上げられるテーマですが、その中でも最も凄惨なものと言われているようです。全身が皮膚病か何かに犯されているような痛々しい姿であり、十字架の上で首をガクンと横に垂らし、口は半開きで、唇の色も真っ青…。一度見たら忘れられない印象的な絵です。

イーゼンハイム祭壇画(第1面) マティアス・グリューネヴァルト (–1528) ウンターリンデン美術館



この作品は現在、ドイツに近いフランスのコルマールにあります「ウンターリンデン美術館」に収蔵されています。以前お話ししたかもしれませんが、もう20年近く前のことになるでしょうか、2~3週間ほどですがドイツに研修に行かせていただく機会がありました。同僚たちと4人で行ったのですが、そのうちの一人がどうしても見に行きたい、というものですから、半日近く車で移動して見に行きました。正直、私はそれほど興味がなかったのですが、この祭壇画の前に立った時、しばらく動くことができなくなりました。それほど圧倒的であり、改めてイエス・キリストの十字架の死を問われた思いがしたからです。

のちに、グリューネヴァルトがこの十字架のイエスを描くために、実際にペストで亡くなられた方のご遺体をモデルにしたとも聞きましたが、なぜこれほどまでにリアリティーにこだわったのか。諸説あるようですけれども、この祭壇画がどこに設置されていたものなのかということも重要だと思います。この祭壇画は、もともとは「聖アントニウス会修道院付属施療院礼拝堂」にあったものです。中世においては、特に貧しい人々の医療は主に修道院が担っていましたから、そういった今日的に言えば、例えば聖路加病院のような病院の中の礼拝堂にあったということでしょう。

そして、この施療院では主に麦角中毒者やペストの患者などをケアーしていたようです。そして、それらの患者たちは、この祭壇画を見て、自分たちの苦痛をあの十字架上のイエスさまも共に担ってくださっている、共有してくださっていると感じて、慰めを得ていた、と言います。そんな現実の苦しみを得ている人々にとっての礼拝堂だからこそ、そこにはより十字架の苦しみのリアリティーが必要だったのかもしれません。



神さまは、この地上がどうであろうと、私たちがどうであろうと、「我関せず」というような方ではありません。どうなるか見ていよう、と高みの見物と決め込んでおられるような方でもありません。ただ上から、私たちとは全く関わりのない世界から、光を注いで、それで良しとされる方でもない。そうではない。私たちの只中に、光を送り込むような方なのです。

たとえ、その結果、光そのものである方が、その世界から捨てられるようなことになっても、傷つけられるようなことになっても、それでも、その光を輝かせようとされる。この世界の中で。暗闇とも思えるような世界、私たちの只中で。そのために、神の子は来られた。神の言葉であり、命であり、私たちを照らす光であるイエスさまがお生まれになった。あの貧しく寂しい家畜小屋の中で。しかも、世の罪を取り除く屠られた神の小羊として。それが、私たちが祝うクリスマスです。

度々ご紹介しています雨宮慧神父が、今日の旧約の日課について非常に興味深い解説をされていますので、少しご紹介したいと思います。「イザヤ書56~66章は、紀元前6世紀末から紀元前5世紀初頭の預言者(第三イザヤ)の言葉。栄光が現れそうもない現実に人々が失望し、神への信頼を弱め、勝手に生き始めたときに、神への信頼を説いた預言者の言葉」。時代は、あのバビロン捕囚から帰還してしばらくしてのことです。

イスラエルの人々にとって、新バビロニア帝国によって国が滅ぼされ、捕囚の民として連行されるということは、世界の終わりを意味するような、決定的な出来事だったでしょう。しかし、突然、期待もしていなかった救世主が現れた。ペルシャのキュロス王です。彼は新バビロニア帝国を滅ぼしただけでなく、開放政策をとり、捕囚の民であったイスラエルの民たちが故国に帰ることを許してくれました。これは、神さまがなされた奇跡としか思えなかったことでしょう。意気揚々と故国に帰っていったイスラエルの民たちでしたが、しかし、待っていたのは期待していたようなものではなかったのです。

かつての栄光を取り戻すどころか、生きるのもやっとの生活。それが、先ほどの雨宮先生の解説にあるような失望感を生んだのでしょう。彼らは信仰さえも捨てるほどに、失望してしまった。何に。神さまに、です。神さまのみ業が見えないからです。とても神さまがいらっしゃるとは思えないような有様だからです。私たちにだって、その気持ちは良く分かる。今だってそうかもしれない。私たちは何度も、そのような失望感を味わってきたのかもしれません。だからこそ、です。見えているものにではなく、見えないものに、見えていないものに思いを向ける、向けさせる手が、指が必要なのです。それが、証人である洗礼者ヨハネであった。

先ほどのキリストの磔刑の絵には、向かって右側に洗礼者ヨハネが描かれていました。もちろん、史実ではありません。このとき、すでにヨハネは殺されていたのですから。しかし、彼はこの十字架の横に立っている。立って、その大きな手で聖書に記されている救い主とはこの方のことだ、と指し示している。それもまた、印象深い。
このヨハネが証したのは、光であるイエス・キリストです。しかし、この光は、世の罪を取り除く屠られた小羊として、もっとも激しく、また鮮明に輝いたのでした。

祈り

・神さま。どうぞ憐れんでください。新型コロナの感染が止まりません。北海道、大阪、東京と医療が逼迫している地域が増えています。また、このような状況がいつ全国的に広がるかも分かりません。医療の現場で働いておられる方々は、本当に悲鳴をあげています。どうぞ、憐れんでください。自分のことばかりでなく、重篤化しやすい方々のことを、医療現場の方々のことを考えて行動していくことができますように、今一度国民全体が心を新たにしていくことができますようにお導きください。

確かに、このコロナ禍で経済的に困窮している人々も多くおられます。経済活動も重要かもしれませんが、違った形での援助ができないか、国の指導者たちに良き知恵を与えてくださいますようにもお願いいたします。また、私たちも出来る支援の手を広げていくことができますようにお導きください。

・このような中ですが、来週、クリスマスを覚える主日礼拝の中で、洗礼を予定しておられる方が与えられていることも大変に嬉しく思い、感謝しています。また、励まされてもいます。ありがとうございます。どうぞ、洗礼に向けて準備をされていますので、その思いを祝福してくださり、ますますあなたの恵みの中に包み込んでいってくださいますよう
にお願いいたします。

・また19日には、いずみ教会共同体とフィンランドの教会をzoomで結ぶ企画がなされますが、これらもどうぞ豊かに祝福してくださり、両者にとって幸いな時となるようにお導きください。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

【 テキスト・音声版】2020年12月06日 説教「 神の子イエス・キリストの福音の初め 」 浅野 直樹 牧師

待降節第二主日礼拝説教


聖書箇所:マルコによる福音書1章1~8節

待降節第二主日であります本日の福音書の日課は、マルコによる福音書1章1節からは じまっています。 ご存知のように、このマルコによる福音書には、直接的なクリスマスの出来事に関する 記事は記されておりません。クリスマスの物語といえば、マタイによる福音書とルカによ る福音書の二つに負っていると言って良いでしょう。

もっとも、ヨハネによる福音書に は、抽象的ではありますが、クリスマス…、つまりイエス・キリストの御降誕について、 神の「ことば」であられる、また「命」そのものであり、「人間を照らす光」であられる イエス・キリストの到来について、非常に印象深く記されていますので、このクリスマス の季節にも度々読まれたりいたします。そういう意味では、福音書の中でもこのマルコに よる福音書は、クリスマスの時期には蚊帳の外に置かれていると言えるのかもしれませ ん。

しかし、そのマルコ福音書は、このように書き始めています。「神の子イエス・キリ ストの福音の初め」。なんと印象深く力強い言葉でしょうか。確かに、このマルコ福音書 のは、クリスマスの物語は登場してこないのかもしれません。ヨハネ福音書のように、イ エス・キリストの到来についての心とらえるような美しい言葉も語られていないのかもし れない。しかし、このマルコによる福音書は、まさしく「福音書」なのです。イエス・キ リストによってもたらされた喜ばしき知らせの書なのです。イエス・キリストは確かに、 この世界に来られた。

たとえ、クリスマスの華やかな心躍るような物語がないとしても、 私たち人類を救うために、私たちによき知らせを告げるために、イエス・キリストは私た ちの只中にお生まれになった。その事実は、このマルコ福音書においても変わらないので す。そういう意味でも、今朝、このイエス・キリストの御降誕を待ち望む待降節に読まれ るのに、相応しいと言えるのではないでしょうか。 確かに、そうです。ここから、イエス・キリストの喜ばしき知らせの物語がはじまって いくのです。しかし、ここではたと私たちは歩みを止めてしまうのかもしれません。

荒野の洗礼者聖ヨハネ,1490 トット・シント・ヤンス,ヘールトヘン Geertgen tot Sint Jans ベルリン国立絵画館



なぜ ならば、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と言われた言葉に続くのが、洗礼者ヨ ハネの物語りだからです。ご存知のように、この洗礼者ヨハネは自分自身も大変厳しい禁 欲的な生活を送って行ったようですが、人々に罪から離れることを、罪の悔い改めを説い ていった人物だからです。これから喜ばしき物語が始まると思いきや、いきなり罪の糾弾 をする厳しい人物が登場してくる。キリスト者である私たちは、どこかでこのような展開 に慣れてしまっているのかもしれませんが、初めて読む人にとっては、なんだか予想を裏 切られた思いを持たれるのかもしれません。

この洗礼者ヨハネについては、このように記されています。「預言者イザヤの書にこう 書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよ う。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」そのと おり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ 伝えた』」。ここは、旧約聖書のイザヤ書だけの引用ではなく、いろいろな箇所の言葉が混在しているようですが、ともかく、イザヤ書の預言が成就したと見ている訳です。そし て、先ほどお読みした第一の朗読のイザヤ書40章がその根拠となっている言葉というこ とです。そのイザヤ書40章の4節では、このように記されていました。

「谷はすべて身 を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」。 「人生、山あり谷あり」と言ったりします。大抵は、人生とは良いことも悪いこともあ るものだ、と理解したりしますが、しかし、山というのも困難を連想したりしますので、 人生とはうまくいかないことの連続だ、といった理解の仕方もあるようです。そういう意 味でいえば、山が低くされ、谷が高くされ、平坦な道のりにされるということは何を意味 するのでしょうか。順風満帆、安心安全、平和、安らぎ…。人生の困難・難局とは逆の展 開、肯定的な展開を連想するでしょう。

ならば、なおさら、そのような役割を担うべき存 在である洗礼者ヨハネが、それらとは全く真逆とも思えるような罪の悔い改めを説くとい うことは、どういうことになるのでしょうか。 答えは明瞭です。神さまと共に生きる。これだけのことです。マタイによる福音書で は、これをインマヌエルと語っています。「神は我々と共におられる」という意味です。 お分かりのように、これはクリスマスの物語で語られるものです。イエスさまの誕生と は、このインマヌエルをまさに実現するためのものだったからです。

そして、これこそが 人類最大の幸福なのだ、と聖書は語るのです。 神さまと共に生きる。たったこれだけのことですが、これほど難しいこともない。なぜ か。人が罪を犯すからです。人は罪を犯して、神さまから逃げ隠れするようになってし まったからです。それを、人は、私たち人類は有史以来ずっと繰り返すようになってし まった。しかも、人は、どこから落ちてしまったのか、どうして真の幸福から外れてし まったのか、気づくことさえできなくなってしまった。なぜか。神さまを求めなくなった からです。

いいえ、自分に都合のいい神さまは求め続けて来たかもしれませんが、自分に 都合の悪いことも明確にはっきりと語られる、つまり、私たちが罪人であるという現実を 突きつけられる神さまを求めず、むしろ避けてしまって来たからです。しかし、真実から 目をそらすところに、本当の幸福などやってくるのでしょうか。 もう何年も前に『不都合な真実』という映画が上映され、私自身大変衝撃を受けました が、今だに「不都合な真実」に目を向けない人々が多いのです。あるいは、これほど新型 コロナの猛威に深刻なダメージを受けており、マスクが感染予防のためにも有効だと分 かって来ているにも関わらず、陰謀論を唱えながら新型コロナの問題自体を否定しようと している人々がいるとも聞きます。

これは、決して対岸の火事ではないでしょう。私たち にだって見えていない、いいえ、見ようとしない「不都合な真実」があるのかもしれませ ん。誰も私たちは、自分自身の全てを知り得ないのです。この目で見えるところは一部だ け。見えないところは、自分以外の方法を、鏡を、写真を、映像を用いるしかない。外見 でもそうならば、内面においてはなおさらでしょう。気づかせてくれる存在がどうしても 必要なのです。 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」とイエスさまはおっしゃいま したが、自分がまさに医者を必要としている病人であることが分からなければ、医者を頼 ることさえできないのです。いいえ、しないのです。

ともかく、イエスさまに至る道を歩むためには、私たちにとっての「不都合な真実」に もしっかりと向き合わなければなりません。しかし、その先にあるのは、福音、喜ばしき 知らせなのです。神さまは、私たちを救うために、福音に生かすために道を整えてくだ さった。そのための、洗礼者ヨハネであった。大切なことは、それが「神の子イエス・キ リストの福音の初め」ということです。

祈り

・神さま。新型コロナの感染拡大が止まりません。医療現場は大変な状況になっていま す。どうぞ憐れんでください。国や地方自治体による感染防止策はもちろんのこと、一人 一人が意識をしっかり持ち、特に重症化しやすいご高齢の方々や病気を抱えておられる 方々に感染が広がっていかないように自覚ある生活を志していくことができますようにお 導きください。また、新型コロナの感染拡大によって、通常の医療を必要としている方々 にもしわ寄せがいっているとも聞きます。すぐにでも治療の必要な方々に、適切な医療が 提供されますように、どうぞお助けくださいますようお願いいたします。

また、このコロナ禍で経済的に困窮している方々が増えています。どうぞ、これらの 方々にも適切な援助の手が与えられますようにお助けください。政治を司る人々も大変厳 しいかじ取りが求められていますが、適切な判断を下していくことができますようにお導 きください。

・こういった状況の中で、私たちの教会でもそうですが、各教会においてもクリスマスの 取り組みに苦心されていると思います。どうぞ、各教会の取り組みを祝してくださり、こ のような中にあっても最善をなし、少しでもクリスマスのメッセージを届けていくことが できますようにお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

-週報- 2020年12月06日 待降節第二主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  中山 康子

開会の部( 式文A 1〜4頁 )
前 奏  教会讃美歌4番による前奏曲 G.F. カウフマン

初めの歌 教会 4( 主はわがのぞみ )

罪の告白

キリエ 待降節はキリエ(二)になります。グロリアは省略します。

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
主よ。
私たちの心を奮い立たせ、御独り子の道を備えさせてください。
み子の来臨によって、悩み多い世の旅路を照らし、導いてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 イザヤ書 40:1-11( 旧約 1123頁 )

【21】242(主を待ち望むアドヴェント)(本日は2番を全員で歌います)

第2の朗読 ペトロの手紙二 3:8-15a( 新約 439頁 )

詠 歌
全)キリストは おのれをひくくして、死にいたるまで、
しかも、十字架の死にいたるまで、みむねにしたがわれた。

福音書の朗読 マルコによる福音書 1:1-8( 新約 61頁 )

みことばのうた 教会 11( ともしびともせ )

説 教 「 神の子イエス・キリストの福音の初め 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会 303( このままわれを愛し召したもぅ )
信仰の告白 使徒信条
奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 教会 499( 神にまし王にます )

後 奏  教会讃美歌499番による後奏曲 北澤 憩

 

 

 

【 テキスト・音声版】2020年11月29日 説教「 救いの時は近づいている 」 浅野 直樹 牧師

2020年11月29日 待降節第一主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書12章24~37節

今日からアドヴェント・待降節がはじまります。何度もお話しして来ましたように、教会の暦としては、このアドヴェント・待降節から新しい一年がはじまっていくことになります。これまで何週間か、「終末(世界の終わり)」について考えて来ました。それは、ちょっと重苦しい内容…、̶̶死といったことも取り上げて来ましたので̶̶だったと思います。それは、この一年の終わりに際して、「終わり」(世界の、あるいは自分自身の)について考えてみよう、ということだったのでしょう。

そんな重苦しい「終わり」の季節も終わり、ようやく今日から新しい一年がはじまっていくことになる。しばらく続いた「終末」といったちょっとおっかなびっくりのトンネルを抜けて、ようやく晴れやかな気持ちで一年をはじめることができる、と思いきや、なんと、もう皆さんもお気づきだと思いますが、今日の、この一年最初の日課も、終末に関する記事が取り上げられていました。ちょっと話が違うではないか、と言いたくもなります。しかも、今日から待降節です。クリスマスという喜びに満ちた時に向かって行くはずなのに…。

実は、待降節は、もう何度もお聞きになられて来たと思いますが、イエス・キリストの降誕・誕生を待ち望む時、という意味だけではありません。キリストの再臨を待ち望む時でもある訳です。そして、これもこれまで何度もお話しして来たことですが、キリストの再臨と終末はセットで考えるべきですから、この待降節に終末のテキストが取り上げられているということでしょう。


今日の第一の朗読の中でこんな言葉が出てまいりました。「あなたは憤られました。わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって わたしたちはとこしえに救われます」。素晴らしい言葉だと思います。聖書の歴史は「救済史」と言われます。救いの歴史です。私たち人類が罪を犯してから、どうしようもなく道を踏み外してしまうようになってから、神さまは常に私たちを救おうと動かれて来た。歴史に働きかけてこられた。時には厳しい叱責の言葉で、時にはいたわりの言葉で、立ち返るように立ち返るようにと、罪から離れ命を得るようにと、私たち人類の側が必死に救いを求めて来たのではない、神さまの方が必死に私たちを、人類を救おうと欲してこられた。それが、私たち人類の歴史であると聖書は語ります。まさに、その通りだと思います。

そして、そんな神さまの思い、救いの完成の時こそが、終わりのとき、最後に結論が出される時、イエスさまが裁き主として、救い主として再び来られる時、つまり、再臨の時なのです。ですから、以前もお話ししましたように、「終末」とは、一方では裁きを伴う恐ろしい時であると同時に、神さまの恵みの中に生きる者にとっては、救いが完成される、まさに喜びの時と受け止められて来たのです。

ですから、そこに希望がある。今は辛く、厳しい時代の中にあるとしても、一寸先は闇としか思えないような現実のただ中にあるとしても、いずれ、その時が来る。救われる時が、救いの完成の時が、必ずやってくる。だから、希望を持つことができる。希望に生きることができる。希望を見失わずに済む。そのように、数え切れないほどの先輩・先達たちが生きてこられた。希望を胸に抱いて生き、そして眠りにつくことができた。その希望を、この一年のはじめにあたり、もう一度私たち自身も心新たに刻んで行く必要があると思うのです。

今年は新型コロナの感染という途方も無い出来事に私たちは遭遇しました。そして、おそらく、来年になっても、簡単には消え去ってはくれないでしょう。もちろん、大変な出来事です。これで苦しんでいる人々も多い。仕事を失い、生活に困り、将来を見通せず、生きる力を失ってしまっている人々も決して少なくない。今回のそのような問題は、特に経済的な面が非常に色濃く出ていると思います。そういう意味では、国や地方自治体の指導者たちに、早急に具体的な対策を講じて欲しいと切に願っています。

場合によっては̶̶緊急事態です̶̶少し余裕のある人々から臨時に税金を取り立てても良いのではないか、と個人的には思っています。そういった分配に必要な基金に、私自身わずかかもしれませんが出したいとも思っている。手厚い援助をしていただきたいと心から願っています。簡単なことが言えないことは重々承知しているつもりですが、また精神論で片付けるつもりも毛頭ないのですが、それでも、人生とは、世界とは、そういうものでもあるのではないか、とも思うのです。良いことばかりではない。辛いこと、うまくいかないこと、苦しいことも織り込み済みなのが人生なのではないか、と。

私は最近、キルケゴールという人について書かれている本を読みました。私にとっては、非常に難解で分からないところも多々あったのですが、その中でキルケゴールの思想について、このように解説されているところがありました。「実存的な姿勢こそがそれである̶̶これがキルケゴールが与える答えである。永遠性から切り離され、時のうちに有限にして儚く生きるしかないという自己の否定的な現実を、とことん直視し、それを忘れることも誤魔化すこともせず、さらに人畜無害化することも技巧的に解釈することもせず、もちろん美化することもせず、それと真っ向から向き合い対決すること、たとえそれによって絶望が深まるばかりであるとしても、そうすることだ」。

このキルケゴールは実存哲学の先駆者と言われる人ですが、彼にとっての実存は有限で儚い存在でしかないといった否定的な理解だ、と言います。そして、むしろ、その現実を誤魔化さずに直視することこそが、たとえそれによって「絶望が深まる」としても、人が生きる、ということではないか、と問う。そして、彼はこんな言葉も残しています。「キリスト者は戦いのもとに、疑いのもとに、痛みのもとに、否定的なもののもとにとどまるのではない。そうではなく、勝利を、確信を、至福を、肯定的なものを享受するのである」。自分にも世界にも絶望するしかないのかもしれない。

しかし、それゆえに神さまに向かうことによって自らの内にはないありとあらゆるもの、彼の言い方で言えば勝利、確信、至福、肯定的なものを逆に手に入れることになる。そんなふうに言っているように思います。そして、それは、再臨の希望にも相通づるものになるのではないか、と思うのです。今は見えなくとも、今は感じられなくとも、今はそうは思えなくとも、必ず救いは完成する。なぜならば、それがイエスさまの約束だから。そのためにこそ、イエスさまは再び私たちの元に来られて、私たちと顔と顔とを合わせるように会ってくださるのだから。

今日の福音書では目を覚ましていることが求められていました。では、逆に、私たちはどういったときに眠り込んでしまうのか。もちろん、自然な眠気に襲われる時もあるでしょう。それは、私たち自身が本来的に持っている「弱さ」と言っても良いのかもしれない。しかし、意図的に、といったこともあるはずです。まず第一に、目を覚ましている必要性を感じない、ということでしょう。それは、救われる必要性を感じない、ということかもしれない。あるいは、現実逃避的に眠りに逃げてしまうことだってあるのかもしれない。

信仰していたって、祈ったって現実は何も変わらないのだ、と。そうではないはずです。それがいつかは私たちには知らされていませんが、イエスさまは必ず私たちのもとにやって来られます。救いの完成をたずさえて。そのことを信じて、この年をはじめていきたいと思います。



祈り
・先週、26日に敬愛する兄が92年のご生涯を終えて、あなたの元に召されて行かれました。生前与えられたあなたにあるお交わりに、心より感謝いたします。この新型コロナの流行もあって、28日にご家族のみでご葬儀を行いましたが、どうぞ、ご家族の上に、豊かな慰めと励まし、また、あなたにある希望をお与えくださいますようにお願いいたします。また、私たちも、兄との再会を胸に刻みながら信仰の歩みを全うすることができますようにもお導きください。

今日からアドヴェント・待降節を迎えましたが、この日本においても新型コロナの感染拡大が収まりません。医療の現場も相当逼迫し、疲弊していると聞きます。どうぞ、憐れんでください。感染予防には、一人一人の意識と行動が物を言うのでしょう。どうぞ、もう一度気を引き締めて、特に重症化しやすいご高齢の方々に感染が広がっていかないような工夫をしていくことができますように、どうぞお助けください。

一方で経済を止めることによって、多くの方々が生活に困難を覚えておられます。国や地方自治体などには、それらの方々に対する対策を早急のうちに行えるようにお導きくださいますようお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

-週報- 2020年11月29日 待降節第一主日礼拝



待降節第一主日礼拝

司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 苅谷 和子

前奏 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ  J.S.バッハ

初めの歌 教会5( 来たりませ主イェスよ )

罪の告白

キリエ 待降節はキリエ(二)になります。グロリアは省略します。

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

— 特別の祈り–
主キリストよ。力を奮って来てください。
み力によって私たちを守り、罪の危険から救ってください。
あなたは父と聖霊と共にひとりの神であって、今もまた永遠にも生きて治められます。

第1の朗読 イザヤ書 63:19-64:8( 旧約 1165頁 )

【21】242(主を待ち望むアドヴェント)(本日は1番を全員で歌います)

第2の朗読 コリントの信徒への手紙第一 1:3-9( 新約 299頁 )

詠 歌
全)キリストは おのれをひくくして、死にいたるまで、
しかも、十字架の死にいたるまで、みむねにしたがわれた。

福音書の朗読 マルコによる福音書 13:24-37( 新約 89頁 )

みことばのうた 教会7( 道をそなえよ )

説教 「 救いの時は近づいている 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会206( 来ませかがやく )

信仰の告白
使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会413( 苦しみ悩みの )

後奏 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ  c.Piutti

-週報- 2020年11月22日 聖霊降臨後最終主日礼拝

 



聖霊降臨後最終主日礼拝

司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  上村 朋子

前 奏   王なる主をほめまつれ F. Zipp

初めの歌  教会172( つくりぬしを )

罪の告白
キリエ・グロリア

———————

特別の祈り

み子を遣わされた主なる神さま。
教会の交わりを通して、贖われたすべての人々と共に、
私たちを花婿のように、永遠のみ国へ迎え入れてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、
永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

———————

第1の朗読   エゼキエル書 34:11-16、20-24( 旧約 1352頁 )
第2の朗読  エフェソの信徒への手紙 1:15-23( 新約 352頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 マタイによる福音書 25:31-46( 新約 50頁 )

みことばのうた 教会139( よろこびむかえよ )

説教 「 報われる時 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌   教会388( とうとき血をもて )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌   教会404( わが手をかたく )

後 奏    我らが悩みのきわみにあるとき M. Jacobi

【 テキスト・音声版】2020年11月22日 説教「 報われる時 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後最終主日礼拝説教



聖書箇所:マタイによる福音書25章31~46節

このところ何週間か「終末(世界の終わり)」についてお話をしてきました。そして、今日は教会の暦としては今年最後の日、聖霊降臨後最終主日となりましたので、まさに日課も「終末」ということが取り上げられている訳です。ある方が言っておられますように、「終末」とは世界に結論が出される時です。

総決算の日…。もちろん、これまでも度々取り上げてきましたのように、私たち個々人の終わりについても言えることでしょう。ですから、不安にもなる。なぜならば、及第点をもらえるような人生だったかどうかが問われることにもなるからです。果たして自分はどうだったのか、と。今日の日課においても、そんな終わりに際しての「結論」が記されているように思います。これも、ここ一二週間お話ししてきたことですが、この「終末」ということと「キリストの再臨」とはセットで考えるべきです。

ここに、キリスト教特有の「終わり」の意味が見えてくることになる。イエスさま抜きに終わりは考えられないということです。繰り返しますが、これは世界の終わりだけのことではありません。私たちの終わりについても言えることです。イエスさまの存在とセットで終わりを受け止めるのとそうでないとでは雲泥の差が生じるからです。ここでのイエスさまは「裁き主」として登場しておられることも見落としてはならないでしょう。

Jesus separating people at the Last Judgement in Fra Angelico’s The Last Judgement, c.1431 Collection :Museum of San Marco



ただし、誤解してはいけません。「裁き主」とは、罰を与える存在ということを必ずしも意味しないからです。本来は審判者ということです。ジャッジを、判定を下される方です。ですから、この方によって羊と山羊とに分けられることになる。しかし、これが決定的な意味を持つことになる訳です。イエスさまの再臨の時、永遠の救いに与ることになるのか、それとも、永遠の滅びに定められることになるのか、その結論が出されてしまうことになるからです。

こう見ていきますと、どうも私たちの信仰理解とは随分とかけ離れているようにも思えてきます。なぜならば、私たちは恵みによって救われると信じているからです。私たち自身の功績ではない。私たちが何をしてきたかが問題になるのではない。

ただ、神さまが私たちを憐れんでくださり、救いたいと欲してくださり、そのためにイエスさまの命までも十字架で捧げてくださったからこそ、私たちは罪赦されて救われるのだと信じている。それが、福音なのだと。

確かに、そうです。その恵みを信じることが、その恵みの御業を成し遂げてくださったイエスさまを信じることが、この方に徹頭徹尾信頼していくことが信仰なのだと受け止めている。それは正しいことです。しかし、そのイエスさまを信じるということは、イエスさまが語られた一つ一つの言葉、その教えもまた自分たちにとっては決定的な意味を持つのだと受け止めていくことにもなるはずです。イエスさまを信じると言いながら、その言動を蔑ろにすることは大間違いです。そういう意味では、イエスさまに従うこともまた求められている。では、イエスさまに従うとは具体的にはどういうことか。

ご存知のように、このマタイによる福音書には、「山上の説教」と言われる箇所が記されています。5章から7章にかけてです。随分と長く、また細かな項目で語られている。

これがマタイ福音書の特徴にもなっている訳です。では、一体そこには何が記されているのか。新しい戒めに生きる、ということです。旧約聖書に記されている古い戒めではなく、それを新たに解き明かされたイエスさまの新しい戒めに生きる、ということです。しかも、イエスさまはその最後にこのように念を押されています。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」。

よく知られた言葉です。聞くだけで終わってはいけないとの戒めの言葉です。では、今日の箇所で、イエスさまの再臨の時、永遠の祝福に与ることができた人々は何をしてきたのでしょうか。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」。

これは後に分かるように、直接イエスさまにしたのではなくて、「最も小さな者の一人」にしたことが評価されている訳ですが、はっきり言ってしまえば、それほど大したことはしていない、ということです。牢云々ということは、あまり経験がないでしょうが、大方の人はちょっとした食事を提供することも、渇きを癒すことも、また誰かを家に迎え入れたことも見舞いに行ったことも経験がおありでしょう。

私たちは、何か「新しい戒めに生きる」と聞くと、大層なことをしなければ認められないのではないか、と尻込みをしてしまいそうになりますが、そうではなくて、ちょっとしたこと、日常的なこと、ほんの少し頑張れば出来ることが大層評価されている訳です。ただし、ここで重要になるのが、彼らはそれがイエスさまにしていたことに気づいていなかった、ということです。逆に言えば、永遠の刑罰に入れられる人にも言い分があるでしょう。もし、あなただと分かってさえいれば、私はきっとあなたに良いことをしたはずです、と。あなたにならば、もっと凄いことでも、大変なことでもしたでしょう、と。

ここに、大きな問いがある。ここで大切なのは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とのイエスさまの言葉なのです。最も小さな者、つまり無力な者です。社会的にはいてもいなくてもよい役に立たない者です。存在価値のない者。そんな一人とイエスさまはご自身を重ねておられる。その者にしたことは、この私にしてくれたことなのだ、と。では、この最も小さい者とは、一体誰のことでしょうか。教会の誰それさんのことでしょうか。

職場のあの人のことでしょうか。近所の困った人のことでしょうか。だから、私たちは、そんな人たちを助ける必要があるのだ、ということなのでしょうか。そうではない。わたしが、あなたが、この最も小さな者なのです。見る目を持てば、否が応でもそれが分かってくる。いかに自分がちっぽけで役に立たない存在なのか。

もちろん、私たちは何もできない訳ではない。私たちにも出来ることがいっぱいある。社会的にも評価されている人も少なくはないでしょう。しかし、神さまの前では。自分と同じように人をも愛せよ、のたった一つのことさえ私たちは満足にできないのです。もっとも身近な愛すべき人に対してさえも。本当にその人自身のことを思って愛せているかと問われてくる。無力なのです。ちっぽけなのです。役に立たないのです。そんな私たちを、神さまが、イエスさまが誰よりも憐れんでくださった。

愛してくださった。癒してくださった。あたかも、あなたは私自身だ、と言わんばかりに、慈しんでくださった。だからこそ、今の私たちがあるのです。そして、私たちも多くの人々に、食べさせてもらって、飲ませてもらって、見舞ってもらってきた。だから…。新しい戒めに生きるとは、神さまが、イエスさまがこの上なくこの私を憐れんでくださっているのだ、ということを知って生きることです。

だからこそ、私たちもまた、人を憐れむ心をもっていくことができる。最も小さな者の一人にさえも。別に何のためでもない。評価されるためでも、得をするためでもない。ただ、自分のできることで助けたいと思うだけ。ただ、それだけ。それでも、イエスさまは私に良くしてくれてありがとう、と言ってくださる。


それは、何という幸いなことでしょうか。何という報いでしょうか。終末の話は脅すためにあるのではありません。お前はダメだと断罪するためにあるのでもありません。そうではなくて、今の自分を見つめ直すためにあるのだと思うのです。誰もかれもが確実に終わりへと着実に向かっているのですから。そして、私たちにはまだ悔い改めるチャンスがあるのですから。

祈り
・神さま。この日本においても新型コロナの感染が急激に拡大しています。また、今回の流行は前回の第二波とは違い、若い人ばかりでなく、重篤化しやすい中高年の人々に感染が広がっています。そのために重症患者が一気に増えるのではないか、とも危惧されています。現在においても医療の現場は大変な状況だとも聞きます。これまでも長い期間、新型コロナとの戦いで、医療従事者の方々の疲労も相当蓄積されているのではないか、とも言われています。どうぞ、憐れんでください。

日本はこれまで、一人一人の意識の高さから流行を抑えてくることができてきたとも指摘されてきましたが、現在はそのような意識も緩みがちになっているとも言われています。現在では、この新型コロナについても良く分かるようになってきており、マスクの着用、手洗いうがい、密を避けることなどの基本的なことによって相当抑えられることも分かってきました。

どうぞ、もう一度一人一人の意識が高められていき、自分が感染しないことばかりでなく、人に感染させないことをしっかりと意識づけられていきますように、基本的な感染対策にしっかりと取り組んでいくことができますように、どうぞお導きください。

・来週からいよいよ待降節を迎えますが、今年はこの新型コロナの問題でいつものようにはいかないでしょう。クリスマスの集会も大幅に削減され、24日のイブ礼拝もオンラインのみで行うことにしました。

私たちにとってこの大切なクリスマスの時期を、このように迎えなければならないことは大変辛いことですが、それでも、できることをしていきながら、もう一度クリスマスの原点を一人一人が噛み締めていくことができますようにお導きください。様々な試みを通して、闇に光をもたらしていくことができますように、私たちを聖め用いていってくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン