-週報-  2020年8月9日 聖霊降臨後第10主日礼拝



司  式   小山 茂

聖書朗読   小山 茂

説  教   小山 茂

奏  楽   小山 泉

開会の部  ( 式文A 1〜4頁 )

前  奏   ファンタジア ロ短調   J.S.バッハ

初めの歌   教会 203( 父の神よ )

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り

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主よ。
私ちの心に、正(しく考え、行なう霊を注いでください。
あなたなしに存在することのできない私たちに、み心に従って生きる力を与えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

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第1の 朗 読   詩編 85:9-14( 旧約 922頁 )
第2の 朗 読   ローマの信徒への手紙 10:5-15( 新約 288頁 )
ハ レ ル ヤ
福音書の朗読   マタイによる福音書 14:22-33( 新約 28頁 )

みことばのうた  教会294( 恵ふかきみ声もて )

説   教   「 疑いは、信じる第一歩 」 小山 茂 牧師

感謝の歌   【21】57( ガリラヤの風かおる丘で )

信仰の告白  使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌    教会 357( 主なる神を )

後  奏   退堂曲  C.フランク

 

 

【 テキスト・音声版 】2020年8月9日 説教「疑いは、信じる第一歩」小山 茂 牧師

聖霊降臨後第10 主日 礼拝


*Rembrandt Christ in the Storm on the Lake of Galilee -1633年

詩編85:9~14 ローマ10:5~15 マタイ14:22~33

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

序  対岸へ向かう弟子たち

直前の福音書は、皆さまよくご存じの「五千人の供食」です。主イエスは五千人にパンと魚を配る前に、お独りで静かに祈りたかったのでしょう。しかし、飼い主のいない羊のような群衆をご覧になって、彼らを深く憐れまれ食事を用意されました。その彼らを解散させて、一人で祈るため山に登られました。主は弟子たちを強いて舟に乗せ、先に対岸へ向かわせました。弟子たちの意向ではなく、主は逆風の海原に敢えて彼らを送り出されました。ガリラヤ湖の北側を東から西に向かう舟は、強い逆風に悩まされ、湖の中程で留め置かれました。彼らの中にかつてこの湖の漁師もいますが、夜が明けても対岸に着けません。夜通し船を操って、既に疲れ果てていました。主は山からその様子をご覧になり、湖の上を歩いて彼らの所に来られました。

主イエスは弟子たちに近づかれ、彼らは主を幽霊と見間違え、恐ろしさから叫び声を上げました、「幽霊だ!」主は彼らに声をかけられました、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」ペトロは一刻も早く主の許に行こうと、主の声に応えました、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらへ行かせてください。」主が言われました、「来なさい。」ペトロは舟を降りて、水の上を歩き出しました。主の傍まで来て主から目をそらし、大波に心を奪われました。すると身体が沈み出し、恐ろしさから叫び声を上げました。「主よ、助けてください!」伸ばされた主のみ手は、彼をしっかり掴まえました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱られました。二人が舟に乗り込むと、風はぴたりと鎮まりました。

Christ on the sea of Galilee REMBRANDT Harmensz -National Galleryof Victoria, Melbourne Felton Bequest, 1928



《2.  ペトロの大胆な体験》

皆さまはペトロという人物を、どのようにご覧になりますか。彼が情熱的で直情型な性格に、私はどこか好感を覚えます。おっちょこちょいですが、自らの気持ちを素直に表現します。今朝のペトロの言葉に、彼の二面性が見られます。

⑴ 「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」それは主イエスの言葉に信頼して、水の上を歩かせて欲しい。自分ひとりでは心もとないが、主の言葉の力を借りて従いたい。それは、彼なりの信仰を口にしたものです。

⑵ 「主よ、助けてください。」彼にはいざとなった時、助けを求められる主がおられます。ペトロの心の内には確かな信仰と、弱い信仰が同居しています。彼が水の上を歩き始めたのは自分の力ではなく、主の力によるものです。「来なさい」と言われたので、ペトロは水の上を歩けたのです。
主に信頼しながら主から目を離し、強風に恐れを感じた途端、彼の身体は沈み始めます。主イエスに委ね切る難しさを、彼の慌てふためく姿に見られます。

神学者のカール・バルトはこの聖書箇所、ペトロの体験をキリストの眼差しから語りました。かなり長い説教を簡潔に紹介します。「ペトロはあえて勇敢に、もろもろの障碍にもかかわらず、イエスのみそば近くに行こうとした。他の者たちが服従はじっと待つことと考えていたのに、ペトロは服従とは何かを大胆に行うことと考えていた。彼がぜひそうしたいと思って、イエス自身が彼に命じるように仕向けたことから、私たちには分かる。ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。それは、一切のためらいと障碍にもかかわらず成される、喜ばしい大胆な
キリスト教的冒険である。彼は危機の時に自分がいかに神を疑ったか体験した後、自分自身を疑うことを学んだ。

この自分自身の力についての不確かさは、きっと大丈夫と考える確かさよりも、岩のように堅固な信仰の基礎となる。かくして、沈むペトロの姿は、私たちに信仰の敗北は神の祝福であると語る。このような敗北を体験する人は幸いである。」バルトはペトロの信仰の冒険を、喜ばしい大胆なものと肯定的に捉えます。私たちも同様の冒険を促され、やってみなさいと勧められているようです。ペトロの疑いはいずれ信仰の基盤とされ、そんな敗北を味わう人は幸いである、つまり祝福される者であると言います。私たちのもつ知識や常識を覆す、福音の逆転がここにあります。

 

 

《3.  信じること、疑うこと》

主イエスは、溺れかかったペトロを掴んで言われます、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」彼の信仰を薄いと言われますが、不信仰とは言われません。ペトロは信仰を失ったのではなく、恐れを感じて弱められたのです。彼に与えられた信仰は弟子といえども、からし種一粒の信仰は残されています。自らの弱さを隠さずに、「主よ、助けてください」と叫び声を上げたことで分かります。ペトロは信仰のヒーローではなく、「信仰の薄い者」たちの代表として登場します。彼のもつ強さと弱さは、キリスト者がこの世を生きる姿そのものです。主は筆頭弟子のペトロでさえ、
信仰の薄い者と言われます。彼は主イエスに「あなたはメシア、生ける神の子」《16:16》と信仰を告白し、主から天の国の鍵を授けられます。彼は模範的な信仰者としてではなく、薄い信仰の持ち主として、主が救いの介入をされた弟子のひとりです。私たちも弱さと疑いをもつ、「信仰の薄い者」のひとりではないでしょうか。

この後も復活されたイエスは、弟子たちに顕われますが、彼らは信じられません。約束通りガリラヤで再会した彼らは、主の御前にひれ伏します。それでも、彼らの中にまだ疑う者もいます。

主は彼らに、大宣教命令と言われる遺言を残されます。「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。」弟子に限らず私たちも、主と真剣に向き合おうとすると疑いが出る、それが人間の性なのでしょう。主をよく知りたいと求めないなら、疑うことはありません。心を頑なにして聞く耳を持たないなら、疑うことはありません。主を心から信じたいから、心の内に葛藤が生まれ、疑ってしまうのです。つまり、疑いは主と向き合おうとする時、生まれてくるものです。

主と共に歩もうとする自らのうちに確信を求め、信じたいが信じ切れない自分がいます。疑うことは信仰につきものであり、信仰は祈りの内に生まれると、逆に考えてみたらどうでしょうか。信じることは、自分に確信を持つ人に、できることではありません。他者である主に依り頼むことから、見えてくることなのです。自らの信仰に疑いもつことは、必ずしも悪いことではありません。主イエスに真剣に向き合って、父の声を聴こうとするなら、神にどこか畏れを抱くものです。私たちの知恵や常識では、理解できない領域だからです。それが信じることへの第一歩になります。私たちは時計の振り子のように、信仰と疑いの間を揺れ動きます。主イエスは私たちの信仰と疑いに、寄り添って共に歩まれる方です。からし種一粒の信仰を与えられ、それを粘り強く成長させて、きっと実を結ばせてくれます。

「からし種の譬え」を思い起こしてください。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣をつくるほどの木になる。」《13:31~32》私たちの信仰が育てられる過程で、疑うことがあっても構わないのではないでしょうか。私たちが主を求めてどれほど疑っても、主はきっと私たちの信仰を育ててくださるからです。

 

《結び  疑いは信じる第一歩》

牧師を目指す神学生は3 年次に、7 か月間の宣教研修があります。その研修で私を指導された牧師は、神の存在を疑ったことは一度もないと言われました。私はその反対でしたから、その言葉は衝撃的なものでした。最初から素直に信じられる、その信仰は本当に幸いであり、羨ましくさえ思いました。

個人的なことで恐縮ですが、私の信仰の道程は、五反田ルーテル幼稚園から始まりました。そこで福山猛先生とハルヨ夫人、ご長女の尚美先生との出会いがありました。卒園して1 年半後に武蔵野市に引っ越して、ルーテル教会から遠ざかりました。それでも福山先生ご一家と便りを交わし、近所の教会やYMCA に行きました。30 歳を過ぎてどう生きるか迷った時、福山先生からむさしの教会を勧められました。当時は賀来先生とキスラー先生がいらして、私はユテコ会で市吉伸行兄や石垣通子姉や橋本直大兄と、様々な学びと交わりに与りました。

ユテコ会は使徒言行録20 章に登場する青年=エウティコに因んだグループ名でした。パウロの話を聴いていたエウティコが居眠りをして、3 階の窓から落ちて死んでしまい、パウロが生き返らせた物語です。会の名前からは、あまり熱心な求道者のグループには見えません。しかし、ユダヤ教の会堂を訪問したり、聖書研究を自分たちでしたりしていました。私の記憶にあるのは、福山猛先生・内海季秋先生・もうお独りは青山四郎先生でしたか、3 人の牧師の前で私が聖書研究をしたことです。老練な先生方の前で稚拙な発表になり、冷や汗と赤面したことを忘れません。私は35 歳で洗礼を受けて、

50 代に入って神学校に行き、50 代末に牧師とされました。そんな私ですから、信仰について立派なことは言えません。それでも偶然や運命ではなく、主から見守られ導かれて、私の50 代からの歩みは想定外になりました。
我家では私が初めてのキリスト者であり、妻は結婚してキリスト者になりました。私たちがキリスト者にされるには、自分だけの力では難しいのです。主イエスから執り成しをされ、多くの皆さまから祈られ、御言葉を解き明かされ、教会に居場所を見つけます。ヨハネ福音書の「イエスは真のぶどうの木」のように、私たちはぶどうの木につなげられ、教会という房に実を結ばれます。受洗の折にキスラー先生からいただいた、「ぶどうの木」の版画を今でも大切にしています。



私たちの信仰の道程には、疑うことが許されています。一番弟子のペトロでさえ、主イエスから「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱られました。私たちが信仰に辿りつくまで、じたばた迷うことが許されています。主イエスは太っ腹なお方で、私たちが信じる最後まで、待ってくださいます。神は独り子イエスをこの世に遣わされ、私たちをひとり残らず救おうとされます。

神の御旨を深く知って、疑う者から信じる者へ変えられ、「あなたは神の子です」と告白させてください。今私たちは新型コロナウィスルという混沌の中にあります。弟子たちと同じように、ガリラヤ湖に船を漕ぎ出して、風と波に弄ばれる不安の中にいます。進むことも戻ることもできず、溺れそうにもがいています。決して順風満帆ではなく、逆風満帆の状況にあります。私たちはむさしの教会という船に乗って、主の御言葉をかけられています。主を幽霊と間違えた弟子たちに、さらに私たち一人ひとりに、主イエスから声が届きます。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」その神顕現の言葉は、ギリシア語で〔エゴゥ エイミィ〕と語られます。英語で言えば、I amです。旧約聖書の出エジプト3:14 を想い起します。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」イスラエルの指導者モーセが、自分が派遣される訳を問うた折、神が答えられました。神ご自身が、「わたしはある、誰が何と言おうとも、あなたの神として存在する」、と力強くモーセの背中を押されました。私たちは「主よ、助けてください」と叫んで、初めの一歩を踏み出して参りましょう。今朝の使徒書のローマの信徒への手紙10:13 でパウロが主イエスの約束を語ります、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」皆様とご一緒に祈りながら、主のみ名を求めて、信じる者にされていきましょう。



《祈り》

慈しみ深い主よ。弟子たちが乗った舟は、私たちの教会です。その舟は嵐に翻弄され、進むことも戻ることも困難の中にあります。私たちはあなたに「助けてください」と叫ぶことが許されています。弟子たち同様私たちをも、「来なさい」とお招きください。私たちが挫けそうな時、主はきっと近づいて来られ、勇気を出しなさいと励まされます。

この祈りを主イエス・キリストのお名前によって、御前にお捧げいたします。アーメン


*聖書台横の朝顔の鉢

 

【 テキスト・音声 】2020年8月2日 説教「平和の道具としてください」浅野 直樹牧師

平和の主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書15章9~12節

今年も8月の第一主日を、「平和の主日」を迎えました。しかし、正直、例年とは違う印象を私自身は持っています。このコロナ騒動下で、また長梅雨といったこともあるのか、どうも8月が来たというのがいまいちピンとこない感じがしているからです。あるいは、このコロナ禍でそれどころではない、といった思いもあるのかもしれません。しかし、今日、あえて「平和の主日」としてこの日を迎え、たとえひとときであっても平和について思いを巡らすことは、このコロナ一色で見えにくくなっているもう一つの現実に私たちを引き戻してくれるのではないか。そうも思っています。

ミッドウェー沖3,000人。ガダルカナル20,000人。サイパン56,000人。テニアン・グアム26,000人。フィリピン430,000人。硫黄島18,000人。東京大空襲110,000人。沖縄190,000人。広島140,000人。長崎70,000人。もうお分かりのように、太平洋戦争での主な死者数です。もちろん、これだけではありません。第二次世界大戦では世界全体で軍民合わせて6千万人以上とも8千万人以上とも言われています。
今、日本でも徐々に深刻化していますが、新型コロナの世界での感染者数は1760万人、死者数は68万人弱ということですが、連日報道され更新されていく中で、どこか私たちはこのような数字に麻痺してしまっているのかもしれません。

しかし、考えるまでもなく、その一つ一つの数字には掛け替えのない一人の人としての存在・尊厳があり、そのたった一人の人生があるわけです。そして、その人を取り巻く幾多の人々がいる。両親、兄弟、親族がおり、妻、夫、子ども、家族がおり、友人たちがおり、恩師、同僚など様々なつながりを持つ人々がいる。また、それらの人々の人生もある。私自身、自戒を込めてそのことを見失ってはいけない、と思います。ともかく、これほど世界中の人々の心胆を寒からしめる未曾有のウイルス被害よりも圧倒的に人命を奪っていったこの災厄は、まさに人類の愚行としか思えません。

では、なぜ人類はこのような愚かなことをしてしまうのか。繰り返してしまうのか。あるいは、止められないのか。もちろん、私のような素人が明確な答えを導けるものではないでしょう。しかし、たとえ素人であったとしても、明確な答えにたどり着けないとしても、一人一人が問うことは、問い続けることは大切なことではないか、と思います。

教会に咲いたカンナの花、棕櫚の葉、バラとゼルフィニウムなどー平和を祈ってー



教会の庭に咲いたカンナ



今年も戦争に関わるいくつかの本を読ませていただきましたが、その一つに興味深いことが記されていました。なぜ日本はアメリカとの開戦に踏み切ったのか。当時、国民の誰もがアメリカとの国力の差を理解していた、と言います。まともに戦えば負けることは明らかだった。なのに、なぜ。もちろん、いろいろな理由が考えられるのですが、その一つとして、当時の中堅将校たちの心情ということが取り上げられていたのです。

当時40歳代の軍の中枢にいた将校たちが、みな少年期にあの日露戦争の勝利を経験していた。その幼心に強烈に焼き付けられた成功体験といって良いと思いますが、その体験、経験が対米戦という大きな舵取りを左右したのではないか、と言います。そのことをこのように記しています。「こうして少年時代に刻みつけられた華々しい勝利の記憶が、長じて軍人を志す大きな動機となり、軍人になってからは模範的な戦いとして常に反芻し続ける対象となったことは、疑いありません。

そして、記憶はいつしか信念になる。一対一〇もの国力差のある大国ロシアに勝ったではないか、それを思えば、どこが相手であろうときっと勝てる、という信念。日本海海戦のような大胆な短期決戦を挑めば、きっと勝てる、という信念。戦えば勝つ、という信念」。彼らばかりではない。恐らく当時の日本中を覆っていたこの成功体験。これが、振り返ってみれば禍となったことが分かる。現代でも良くこの「成功体験」といったことが言われますが、案外考えものなのかもしれません。

少なくとも、ことこの戦争ということにおいては、猛烈な失敗体験があったからこそ70年以上平和を保てていると言えるのかもしれないからです。どんな記憶を持ち、またそれをどのように伝えていけるのか。どんな記憶を信念とすべきなのか。戦後70年が過ぎ、急速に戦争の記憶が薄れているといわれる現代において、このことはもう一度問われなければならないのかもしれません。

あるいは、現代はかつてのような帝国主義的な、つまり、ある国を武力で襲い植民地化してしまうような戦争は起こらないだろう、とも言われています。コストが割に合わないからです。確かに、私自身もそう思います。では、戦争の危険は去ったのか、といえば、もちろんそうではないでしょう。「安全保障上」というのがキーになるからです。我が国の首相も度々「国民の生命と財産を守る責任がある」と言ったりしますが、それが国の責務だと考えられるからです。

かつて日本は、朝鮮半島や中国東北部(満州)に進出していきましたが、もちろん、前述の帝国主義的傾向は否めませんが、もう一つの大切な要因は当時の仮想敵国であったロシア・ソ連から日本を守るための安全保障上の必要性からでした。また、先ほどは、アメリカとの無謀な戦いに及んだ一つの要因についてお話しましたが、このアメリカとの戦争も安全保障上必要だと考えられたからです。

現代においてもそうでしょう。私たち近隣諸国からすれば大変迷惑な話ですが、北朝鮮がなぜ核開発、ミサイル開発に邁進するのか、といえば、そうでもしなければ国は守れないとの安全保障上の必要性からです。中国が南沙諸島に進出したり、また東シナ海でも勢力を拡大しようとするのも、安全保障上の問題です。あるいは、ますます米中関係が悪化していく中、大統領選を前に、一発逆転のためにトランプ大統領が戦争をしかけるのではないか、といった噂も飛び込んで来ますが、もしそうだとしても、それは安全保障上の問題ということになるでしょう。

この日本でも、安全保障上の問題から敵基地攻撃論(先制攻撃論)が再燃しているとも言われています。

このように、それぞれの国に安全保障の理屈がある。どの国も、「自国民の生命と財産を守るため」とうたいつつ武力行使に出る危険性がある訳です。なぜか。恐れがあるからです。恐れが不安を掻き立てる。そして、不信感を募らせていくことになる。それが、限界点にくると、やられる前にやってしまえ。自分の身を守るためだ、となる。それは何も、国対国の安全保障といったことに限らないでしょう。人種差別もそうかもしれない。

どこかで恐れている。自分たちの優位性が、権利が、権益が脅かされていると感じる。だから、暴力に訴えてでも守ろう、となる。その恐れ、不安、不信があらゆる差別、対立の火種となって、私たちの心を覆い尽くしていってしまうのかもしれません。

以前学んだところですが、聖書にはこんな言葉があります。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。……体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐るな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。

だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(マタイ10:26~31)。人を恐れるのではなく、神さまを恐れなさい、とイエスさまはおっしゃいます。それも、闇雲に恐れるのではありません。神さまを畏れ敬うのです。神さまに出来ないことはない。神さまは必ず私たちを救ってくださるはずだ。

たとえ、それが現実の世界では手に取ることができないとしても、神さまの愛は私たちから決して離れることなく、永遠の命、世界へと導いてくださるはずだ、と信じ、畏れ敬うことです。この神さまを恐れることこそが、私たちの様々な恐れ、不安、不信から解き放ってくれるはずです。愛は恐れに打ち勝つからです。そういう意味でも、私たちの信仰生活とは、何よりもこの恐れから救われていく、ということなのでしょう。

ですから、私たちキリスト者としての平和への貢献は、第一に宣教だと思うのです。神さまから来る平和を証ししていくこと。恐れに打ち勝つ道を指し示していくこと。そうではないでしょうか。

「小鳥への説教」(画:ジョット、1305年頃)



また、今朝の旧約聖書の言葉にも思いを向けていきたいと思います。こうあります。「主は多くの民の争いを裁きはるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」。ここで言われていることは、単に武器を捨てるということではありません。武力を放棄するのではなくて、鋤や鎌に変える、ということです。つまり、生活の糧に変えていく、と言っても良いのではないでしょうか。

世界中を襲った新型コロナの猛威の前に、想像以上に世界経済は脆弱だったかもしれない、との指摘があります。なぜなら、感染症の拡大防止として最も有効なロックダウン(都市封鎖)が経済的に数ヶ月ももたなかったからです。

世界最大の軍事大国であるアメリカの国防費はダントツの約70兆円。中国は約20兆円。ロシアは約7兆円。日本は約5兆円。世界全体では約200兆円が年間予算として立てられています。これらの剣や槍が鋤や鎌に変えられたとしたら。それでも、焼け石に水だといった意見もあります。非現実的な理想主義だと言われるかもしれません。もちろん、分かっています。

それでも、私たちは今、コロナ後の世界の扉の前に立たされている。このコロナによって、今までと同じではいられない、と言われます。では、新しい世界をどう作っていくのか。少なくとも、民主主義に生きる私たちにとっては、国民一人一人がその新しい世界の創造に立ち会っていけるはずです。いいえ、しっかりと意志を持って立ち会っていかなければならないでしょう。

聖痕を受けるアッシジの聖フランチェスコ(ジョット) Giotto – Sankt Franciskus stigmatisering*注1



恐れと不安と不信の中で、今まで通りの剣と槍を大量に造り続けていく世界を維持、あるいは発展させていくのか。そうではなくて、少しでもそれらを鋤や鎌に変えていって、格差、貧困、様々な不条理に生きる人々と生活の糧を分かち合っていく、そんな世界を志向していくのか。私たち一人一人にかかっている。また、そういった思いが反映される世界であって欲しいと思う。

私たちはキリスト者です。キリスト者として平和にどう貢献していけるのか。まずは祈ること。神さまの御名が正しくあがめられ、御国がくるように、御心が地上でも行われるように、世界中の人々に必要な糧が与えられ、互いに赦しあえるように祈ること。そして、恐れ、不安に打ち勝つ平和の主の福音を一人でも多くの人々に届けていくこと。そして、キリスト者である一市民として、この世の業、民主主義にもしっかりと参画していくこと。かつての経験を忘れずに、引き継いで、新たな世代にバトンを渡しながら。そうではないでしょうか。



祈 り

・本日は「平和の主日」の礼拝を持つことができましたことを心より感謝いたします。私たちは決して忘れてはならないと思っています。侵略戦争によって、多くの国の人々を苦しめたことを。無謀な戦争に突き進んで、多大な犠牲を払ったことを。また、その間、政府が国民に嘘の情報を流し続けてきたことを。首脳部のせいなのか、多くの戦死者が餓死によって命を落としていったことを。一度起こしてしまった戦争は、簡単には終わらせられなかったことを。私たちはそのあまりに大きな犠牲のゆえに、ようやく気づきました。

もう二度と戦争を起こしてはいけないのだと。戦争などこりごりだと。しかし、残念ながら、今だに戦争はなくなっていません。戦争の不安も消え去ってはいません。私たちは、どうすれば良いでしょうか。まずは、この記憶をなくさないことではないでしょうか。

しっかりと記憶をつなげていくことではないでしょうか。そして、あなたから平和への道を学び続けることではないでしょうか。どうぞ、二度と悲劇を繰り返すことのないように、今ある争いも速やかに終息していきますように、そのことを祈っていくことができるようにもどうぞ導いてください。

・都内ばかりでなく、全国的に新型コロナウイルスの感染が広がっています。このまま何の対策もとられないと、8月には目を覆いたくなるような現実がやってくるとさえおっしゃる専門家の方もおられます。確かに、経済との両立という非常に難しい舵取りが求められていますが、どうぞ良い知恵を与えてくださり、感染の広がりを、特に重篤化しやすい方々への広がりを抑えていくことができますようにお導きください。

まだ病床数に余裕がある、といった意見も出ていますが、医療の現場ではすでに悲鳴が上がっているようです。志高く医療の現場で頑張ってくださっていますが、それでも限界があるでしょう。これ以上の急激な広がりは、医療の現場がもたなくなるのではないか、と心配になります。どうぞ、経済的なことも含めて適切な援助の手が与えられて、医療の現場が守られていきますように、どうぞお助けください。

・大きな病気をされておられたり、様々な困難、課題を向き合っておられる方々が私たちの仲間にも多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、それぞれの祈りに応えてくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

*注1.キリストが受難の時に受けた両手、両足、脇腹の傷(聖痕)を聖フランチェスコに授けたとの聖譚がある。

-週報- 2020年8月2日 平和の主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 中山 康子

前  奏 キリエ A. Raison

初めの歌  90( ここもかみの )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

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特別の祈り

全能の神さま。

 あなたはすべての真理と平和の源です。すべての人の心に平和と愛の灯火を点し、世界の国々の指導者をあなたの英知で導いてください。

 あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

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第1 の朗読 ミカ書 4:1-5( 旧約 1452頁 )

第2 の朗読  エフェソの信徒への手紙 2:13-18( 新約 354頁 )

福音書の朗読 ヨハネによる福音書 15:9-12( 新約 198頁 )

みことばのうた 228( ガリラヤの風 )

説教  「 平和の道具としてください 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 【21】371 このこどもたちが )

信仰の告白  使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  【21】562( 諸民族、諸国、世界の主よ )

後  奏 後奏曲 G. グリーン

 

【テキスト・音声版】2020年7月26日 説教「愛は勝つ」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第八主日礼拝説教



YouTubeでお聞きになられる方は、こちらからお願いいたします。

聖書箇所:マタイによる福音書13章31~33、44~52節

今朝の説教題は「愛は勝つ」とさせていただいています。このフレーズを聞かれると、私の前後の世代の方々は、1990年代に大ヒットしたKANの『愛は勝つ』という曲を思い浮かべられるのではないでしょうか。それもあって、この説教題にした訳ですが、それは、この曲の「信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」という歌詞が今日の聖書の箇所となんだか重なるように私には感じられたからです。「必ず最後に愛は勝つ」。先週は、「正義は必ず成る」、「正しきことは必ず報われる」ということをお話ししたと思います。


先ほどの『愛は勝つ』の歌詞をもじれば「信じることさ 必ず最後に正義は成る(勝つ)」ということになるでしょうか。それが、当時の人々にとっての何よりの慰めの言葉、励ましの言葉となった訳です。しかし、正直に言いまして、それが…、正義は必ず成る、果たされる、報われるということが慰め・励ましになると言われてもピンとこいようにも思うのです。

なぜなら、私たちはそれほどこの「正義」ということに飢え渇きを感じてはいないからです。確かに、先週もお話ししましたように、森友問題に端を発した公文書改ざん問題や様々な社会問題、あるいは個人的にも理不尽な目にあうと、「正しきことが行われていない」と義憤を覚えたりしますが、しかし、全体的には一応法治国家としての体が保たれていると大らかな信頼を寄せているからです。それは幸いなことですが、もちろん、そうではない国、地域もある訳です。

ご承知のように、今香港は大変なことになっています。中国政府が強引に「国家安全
法」を成立、施行させたからです。これで、これまでの言論の自由が大きく制限されるようになりました。なぜなら、政府の批判をするだけで捕まってしまうかもしれないからです。香港ではこれまでも度々抗議デモなどが行われてきました。その一部は過激化し、外から見ている私たちからは「ちょっとやりすぎじゃない」と思ったほどです。

しかし、彼らとしてはこうなることを恐れていたからです。私たちのように他人事ではいられなかったからです。その恐れていたことが現実となってしまった。多くの若者が民主化運動から手を引いていきました。これくらいのことで手を引くのかとも思いましたが、その一人が語った「これは命に関わることなのだ」が胸に重くのしかかりました。

正義…、法による保護と法によって保障された自由、それらがどれほど大きなものなのかを私たちはそれほど真剣に受け取っていないのかもしれません。それらが極端に制限された世界は、おそらく地獄のような世界になるでしょう。しかし、今の私たちにとっては、それらはあまりにも当たり前のものになっていて、その恩恵に気づいていないのです。大抵の場合そうですが、この「当たり前」のものは失ってみてはじめて掛け替えのないものであったことに気づかされるものです。

ともかく、日本も気をつけないと直ぐにでもそのようになってしまう、といったことを言いたいのではなくて、この「当たり前」がいかに大切であるか、ということです。
今日の福音書の日課も「天の国」の譬え話が取り上げられていました。このマタイは
「神」という言葉はあまり使いたくなかったようで(ユダヤ人ですから恐れ多いと思ったのでしょう)「神」という言葉の代わりに「天」という言葉を使っている訳ですが、「神の国」と同じ意味です。そして、この「神の国」というのは、なにか特定の場所を指すのではなくて、神さまのご支配を意味するものです。

神さまの思いが、御業が隅々にまで行き渡っている世界。それが、「神の国」。ですから、先ほどから言っています「正義」も、この「神の国」の重要な一面になる訳です。神さまは義なる方だからです。ですから、正義のない、行われていない世界に生きていた者たちにとっては、正義に飢え渇いていた人々にとっては、憧れの世界に思えたでしょう。

ですから、慰め、励ましになる。しかし、この「神の国」を考える上でもっと大切なことは、「愛」ということです。神さまの愛による支配。それが「神の国」。なぜならば、私たちが信じる神さまは、義なる方であると同時に、愛なる方でもあるからです。そんな「神の国」、「天の国」の様子といいますか、特徴を今朝の譬え話は私たちに語ってくれています。

最初の二つの譬え話は、共通するイメージを私たちに与えてくれます。それは、大きく成長する、ということです。はじめはごくごく小さいのに、取るに足らないように思えるのに、それが誰もが目を見張るように大きく成長する。そんなイメージです。具体的にはクリスチャンの広がりを指すのかもしれません。あるいは教会の広がりと言っても良いのかもしれない…。

最初はイエスさま一人からはじまった運動でした。そういう意味では一粒の「からし
種」「パン種」だったと言えるのかもしれません。それが12人に広がり、数百人、数千人に広がり、迫害下の中でしたがローマ帝国中に広がり、ヨーロッパに広がり、私たちの教会文化とは随分と異なりますが、あるグループはインド、中央アジア、中国へと広がり、アフリカに広がったものもあり、そして、新世界であった南北アメリカ大陸に広がり、この日本にも伝えられ、他の地域から比較すると大きな広がりとは言えないかもしれませんが、それでも着実に広がっていきました。

そして、2014年時点では全世界に23億人のクリスチャンがおり、人口比33%と言われています。そういう意味でも、確かにこの譬え話のように「天の国(神の国)」は大きく成長した、と言えるのかもしれません。

また、次の二つの譬え話は、この「天の国(神の国)」の価値に目を止めさせてくれます。どちらも、是が非でも手に入れたい、との思いが伝わってきます。どんな犠牲を払ってでも、大切なものと引き換えてでも惜(お)しくない。どうしても手に入れたい。それほどの価値がこの「天の国(神の国)」にはあるのだ、そんな思いです。
神の国、神さまのご支配、愛の支配は、そういうものです。

あらゆるものを手放してでも手に入れたくなる、そういうものです。それほどの魅力がある。だからこそ、たった一粒の取るに足らないと思えたちっぽけなからし種が、あらゆる気象条件、悪天候、迫害にも耐え、多くの実りを結んだ、とも言えるでしょう。しかし、どうでしょうか。

本当に私たちの目に、それほど輝いて見えているでしょうか。欲しくて欲しくてたまらない宝物のように、神の国を感じているでしょうか。では、なぜ、そうはならないのでしょうか。それは、神さまのご支配が見えないからです。とてもそうは思えない世界の中に私たちは生きているからです。神さまの愛が見えていないからです。むしろ、なぜこんなことが、と愛を疑いたくなるようなことばかりだからです。それも、正直な私たちの実感でしょう。

私は神さまの愛が分からず、ずっと悩んできました。神さまに愛されているといった実感がどうしても持てなかったのです。なぜなら、私は自分自身にばかり目を向けていて、見るべきものを見ていなかったからです。いいえ、もっと正確に言えば、目には写っていたのでしょう。視界にも入っていた。決して知らなかった訳ではない。

しかし、そちらに焦点を合わせることをしていなかった。自分の内面ばかりに、感覚ばかりに焦点が向かっていたからです。私たちの視界は、案外狭いものです。見えてはいても、焦点が合っていなければぼやけてしまってなかなか実体が掴めません。特に、集中していればいるほど、そういった傾向に陥りやすくなります。欲すれば欲するほど、求めれば求めるほど、視界が狭くなって、向けるべき焦点からズレてしまっていることが多いのです。

感じるのではないのです。見るのです。イエスさまを見るのです。イエス・キリストというお方に焦点を合わせるのです。そこからしか見えてこない真実が、伝わってこない感覚が必ずあるはずです。



今朝の使徒書の日課であったローマの信徒への手紙8章31節以下は私にとっては非常に大切な、また大好きな箇所です。そして、決して手放したくない言葉です。しかし、最初っからそうだった訳ではありませんでした。正直、最初はピンとこなかった。自分にばかり焦点を合わせようとしていた私にとっては、なんだか実感の湧かない素通りするような言葉でしかありませんでした。

しかし、少しづつイエスさまに焦点を合わせることができるようになっていった。それが、信仰生活だとも思いますが、そのことによって、この言葉の景色が私にとっては掛け替えのないものになっていったのです。31節でパウロはこう語ります。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。なんという言葉でしょうか。先ほど、私たちにとって神の国とは、すべてのものを捨ててでも手に入れたい程に魅力的なものだ、と言いましたが、ここでは、神さまはこの私たちを手に入れるために、愛するためにご自分の子を捨てても惜しくないと思えるほどに魅力的だったと言われるのです。

この私たちのどこに、一体そんな魅力があるのでしょうか。罪にまみれた私たち。自分でも嫌になってしまうような私たち。ボロが出て大切な人たちからも見捨てられてしまうのではないかとビクビクするような私たち。結局、愛される資格も価値もないのではないかと自暴自棄になってしまうような私たち。自分に焦点を合わせれば、そんなことしか見えてきませんが、しかし、そんな私たちを我が子さえも惜しまずに与えるほどに、捨ててしまえるほどに愛しているよ、と言ってくださっている。

この私が、どんな思いで、どんな決意で、お前のことを愛しているか分かるだろ、と語りかけてくださっている。私の目には、どうしようもなく愛おしく見えているのだ、と囁いていてくださっている。それが、イエスさまに焦点を合わせた時に見えてくる世界なのです。本当に信じられないくらいに、私たちは愛されている。

だから、パウロもこう語ります。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と。そのように、イエスさまによって示された神さまの愛が、私たちの心に注がれている。

何十億という人々に注がれている。もちろん、あなたの心にも注がれている。
見えないから、感じないから、そうは思えないから、無いのではありません。焦点が
合っていないから見つからないのです。イエスさまにしっかりと焦点が合えば、神の国が、神さまの愛の支配がすでに始まっているし、それが広がっていることに、気づけるはずです。もちろん、私たち一人一人の内にも、です。

その心の眼差しをもって、この厳しい時代にあっても、祈りつつ、しっかりとした足取りで歩んでいきたい。そう思います。

「信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」。

ジョン・シングルトン・コプリー「キリストの昇天」「The Ascension」(1775)John Singleton Copley



《祈り》
・都内ばかりでなく、全国的に新型コロナウイルスの感染が広がっています。このまま何の対策もとられないと、8月には目を覆いたくなるような現実がやってくるとさえおっしゃる専門家の方もおられます。確かに、経済との両立という非常に難しい舵取りが求められていますが、どうぞ良い知恵を与えてくださり、感染の広がりを、特に重篤化しやすい方々への広がりを抑えていくことができますようにお導きください。まだ病床数に余裕がある、といった意見も出ていますが、医療の現場ではすでに悲鳴が上がっているようです。

志高く医療の現場で頑張ってくださっていますが、それでも限界があるでしょう。これ以上の急激な広がりは、医療の現場がもたなくなるのではないか、と心配になります。どうぞ、経済的なことも含めて適切な援助の手が与えられて、医療の現場が守られていきますように、どうぞお助けください。

・世界でも一向におさまる兆しが見えません。一度はおさまったかのように見えた国々でもぶりかえしているようです。どうぞ憐れんでください。多くの命が奪われていますが、少しでも良き対策がとられて、命が守られていきますようにお助けください。

・香港では今、多くの市民たちが非常に厳しい立場に立たされています。国外へ脱出する人々も後を絶たないようです。どうぞ、憐れんでくださいまして、基本的な人権が守られすように、不当な逮捕などが横行しませんようにお助けください。

・豪雨被害に遭われた方々の生活はまだまだ厳しいようです。復旧復興にも時間がかかるでしょう。雨も心配ですし、また暑さも気がかりです。新型コロナのこともあります。本当に大変な毎日でしょうし、今後のことも心配でならないでしょうが、どうぞ速やかに様々な対策がとられて、少しでも早く平穏な生活に戻ることがおできになるように、どうぞお助けください。

・大きな病気をされておられたり、様々な困難、課題を向き合っておられる方々が私たちの仲間にも多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、それぞれの祈りに応えてくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン

-週報- 2020年7月26日 聖霊降臨後第8主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 萩森 英明

前  奏 キリエ F. Couperin

初めの歌  7( 主のみいつとみさかえとを )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

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特別の祈り

栄光の父、愛の神さま。あなたはまことの平和の源です。私たちを福音の証し人、平和の働き人として送り出し、救いの約束に仕える喜びで満たしてください。

み子、主イエス・キリストによって祈ります。

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第1 の朗読 列王記上3:5-12( 旧約 531頁)

第2 の朗読  ローマの信徒への手紙 8:26-39( 新約 284頁)

福音書の朗読 マタイによる福音書 13:31-33,44-52( 新約 25頁 )

みことばのうた 教会320 ( しあわせなことよ )

説教  「 愛は勝つ 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会352( 主イェスはわが同胞 )

信仰の告白  使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  教会346( はかり知られぬ )

後  奏 いと高きにみ神にさかえあれ J. Pachelbel

 

-週報- 2020年7月19日 聖霊降臨後第7主日礼拝



 

司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 上村 朋子

前  奏 神、わがためにいませば W.Hennig

初めの歌  7( 主のみいつとみさかえとを )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

特別の祈り

あなたは思いにまさる喜びを、愛する者に与えられます。すべてにまさって、あなたを愛する心を私たちの中に興し、私たちの願いを超えたあなたの約束に与からせてください。

み子、主イエス・キリストによって祈ります。

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第1 の朗読 イザヤ書 44:6-8( 旧約 1133頁)

第2 の朗読  ローマの信徒への手紙 8:12-25( 新約 284頁)

福音書の朗読 マタイによる福音書 13:24-30,36-43( 新約 25頁 )

みことばのうた 249 ( われつみびとの )

説教  「 一筋の心を与えてください 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 【21】393( こころを一(ひと)つに )

信仰の告白  使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  332( 主はいのちを )

後  奏 ただ神のみ心にまかせる者は  J.S.Bach

 

【音声版・テキスト】2020年7月19日 説教「一筋の心を与えてください」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第七主日礼拝説教



聖書箇所:マタイによる福音書13章24~30、36~43節

今朝の日課も、先週に引き続き「譬え話」ですが、今朝のこの譬え話も何だか私たちをドキッとさせるような、不安を呼び覚ますような、そんな譬え話ではなかったでしょうか。果たして私は良い麦なのだろうか、それとも毒麦なのだろうか、と。

私自身、覚えがあります。若い頃…、まだ教会に行きはじめて間もない十代の頃、私は自分が「悪魔の子」ではないか、と思い悩んでいた時期があるからです。それは、不思議な心の動きを感じていたからです。教会に行くようになって、私は即座にクリスチャンになりたい、信仰を持って生きていきたい、「これだ」、と思うようになりました。しかし、その思いとは裏腹に、自分の心の中に別の動きがあったのです。信じたいのに、信じようとしない、と言いますか、反発とも違う、何か得体の知れない悪感情が聖書を読むたびに、私の心の中に湧き起こって来たからです。

それは、自分でも理解し難いことでした。先程も言いましたように、自分としては、思いとしても、意志としても、「信じたい」のです。なのに、その思いから引き離そうとするかのような思いが自分の中から猛烈に湧き上がってくる。でも、どうしてか分からない。原因が皆目見当もつかない。別にその時に読んでいた聖書の言葉は自分にとっては不快な言葉でも信じ難い言葉でもなかったのに、なんとも言えない憎悪にも似た感情が私を襲ってきました。

それは、あのパウロが書き記しましたロマ書にあります(7章13節以下ですが)自分の中に罪の法則があることを自覚させられた(「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」)、自分にとってはそんな出来事でもありました。ともかく、そんな自分ではどうにもならない心の動きに、これは予め自分が「悪魔の子」と定められているからではないか、抗うことのできない運命なのではないか、と恐れた訳です。


皆さんは「予定論(あるいは予定説)」といった言葉をお聞きになられたことがあるでしょうか。ちょっと運命論的な考え方ですが、予め救われる人とそうでない人とが定められている、といった考え方です。これは、いわゆるカルヴァン派…、多くは改革派や長老派と言われるグループですが、そのグループに特徴的な考え方だと一般的には言われています。しかし、ルターもこの考え方に立っていました。

しかし、どうも当初の受け止め方とは違ってきているようにも思います。先程、運命論的と言いましたが、それは、人が生まれる前から神さまが救われる人とそうでない人とを定められた以上、それは決して覆らない、と考えるからです。すると、先程も言いましたように、私たちは途端に不安になる。もし、救われない側に定められているとしたら、どうなってしまうのだろうか。いくら努力したところで、一旦決められたことが覆らないとしたら、もうダメじゃないか。

そうなると、どうせ自分は救われないのだから、運命は変えられないのだからと、不貞腐れるか、運命を呪って自暴自棄になるしかない。しかし、本来はそういった意図で使われたのではないのです。ルターやカルヴァンたちは、人の努力や頑張りで救いを勝ち取るのではなく、神さまの恵みで人は救われるのだ、と説いて行きました。

つまり、人によって左右されるようなものではない、ということです。それが、福音…、いわゆる信仰義認と言われるものです。ならば、神さまがいったん恵みによって救うと決められたのなら、途中で心変わりされて、さっきの約束や~めた、なんてことはないのですから、必ず救ってくださるはずだ。神さまのこの思いは何があっても決して変わることがない。

だから、安心しなさい。そういう意図だったのです。人は脆いもの。浮き沈みの激しいもの。罪だって犯さずにはいられない。もし、自分の力で、となったら、こんなに不確かなことはない訳です。自分の姿を見つめては、すぐに不安になる。確信が持てなくなる。しかし、そうではなくて、信仰によって救うと約束してくださった神さまを見なさい。神さまの約束ほど確かなものはない。だから、救いを疑ったりせず、予めちゃんと救うと約束してくださっているのだから、安心して生きて行きなさい。その確かさを与えるための「予定論」だったはずです。つまり、本来は慰め・励ましの言葉だったのです。

聖書を読んでいきますと、大きく「警告」と「慰め・励まし」といった傾向があるように思います。そして、私たちはどうも、「慰め」や「励まし」よりも「警告」の方に思いが向けられてしまうようにも感じるのです。例えば、黙示録。皆さんもお読みになったことがあるでしょう。世の終わりに向けてのおどろおどろしい描写が印象的ですが、多くは「警告」と受け止めるのではないでしょうか。しかし、加藤常昭牧師は、これは迫害下の中にあった教会を励ますために書かれたものだ、と言われます。私は、この言葉を聞いて、目からうろこのような思いが致しました。

今日のこの譬え話もそうでしょう。「警告」と受け止めざるを得ないところもあるのかも知れない。そういう意味では、自分は果たして良い麦なのか、毒麦なのか、との問いも当然のことかも知れません。しかし、それ以上に、私たちはここに慰めの言葉、励ましの言葉があることも見逃してはいけないのだと思います。

今日のこの譬え話は「天の国」の譬え話だ、と言われています。と同時に、この世の、私たちの現実社会をも映し出しているように思うのです。この世界は、良い人ばかりで成り立っている訳ではありません。良いもので満ちているのでもありません。表現としては適切ではないかもしれませんが、悪い人も、悪いものも多く混在している世界です。そんな世界に私たちは生きている。確かに、そうです。どう考えてもおかしいとしか思えない出来事に多く遭遇します。正義が全く見えない現実にもぶち当たります。本当に神さまの力が及んでいるのかと分からなくなるのです。

森友問題の公文書改ざん事件で残念ながら自死をされた赤木さんの妻雅子さんが訴訟を起こされたことは、もう皆さんも良くご存知のことでしょう。森友問題が報道された時から、私自身すっきりしない思いをずっと抱いてきました。しかも、上司から改ざんを強要された職員が、その罪悪感に押しつぶされて自ら命を絶たれた。なのに、疑惑の当人たちはのうのうとしているように見える。本当にやるせない、憤りにも似た思いを抱いたものです。そして、先日訴訟に踏み切られた奥様のインタビューを見ました。

奥様の口から出た「もう後悔したくない」との言葉に胸が痛くなりました。ご主人が壊れていく姿をじっと見ているしかなかった辛さ。助けることができなかった無念さ。罪悪感。そして、後悔…。ただ真相が知りたいと言われる。なぜ夫があんなにも追い込まれることになったのか、その真実を知りたい、と言われる。その一念で重い口を開かれました。

私自身は、この奥様の志を心から応援したいと思いますし、また、司法の場で真実が明らかになることを心から願っています。また、そういったことが起こらない社会・世界であって欲しいし、常に真実が明らかになり正義が行われる社会・世界であって欲しいとも心から思っています。しかし、残念ながら、なかなかそうはいかない現実がある。変わらない社会・世界がある。

このような社会全体を巻き込むような大きな課題でなくても、私たちは日常的に感じているはずです。正義が行われないことを。泣き寝入りをするしかない現実を。職場でも、学び舎でも、家庭でも、地域でも。教会もまた無縁ではいられないのかもしれない。むしろ、正義、正論ではうまくいかないことも多い。では、私たちは諦めるしかないのか。どうせ世界は良い人も悪い人も、良いものも悪いものも混在しているのだから、どうせ社会は、世界は変わらないのだからと虚無的になるしかないのか。

不正義を単に黙って見過ごすことではないでしょう。雅子さんも正当な権利を行使しただけです。世の中を正していくことは、当然悪いことではない。しかし、聖書は「耐える」ことも語っています。忍耐することも求めるのです。この世、この社会がたとえ不正にまみれていたとしても。泣き寝入りでしかない社会だとしても。なぜならば、神さまの正義は必ず成るからです。今はそうは思えないような世界が広がっているように見えていても、来たるべき時に、結果が出される時に、神さまの正義はあまねく世に成る。そして、必ず報われます。

どんな小さなものであっても、この世では認められない、報われないようなことであっても、神さまは見ておられる。必ず、それらに答えてくださる。だから、こう書いてある。43節「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい」と。

もちろん、そうは言っても堪え難いことも事実です。忍耐にも限度がある。同じ問題、同じ人に3度忍耐できたら上出来です。私たちの忍耐などそうそう続くものではありません。だから、祈りが生まれる。祈らざるを得なくなる。これが、私たちの真相だと思うのです。このコロナ禍、私自身もいろいろと考えさせられていますが、「信仰は生活」というのも、その気づきの一つです。私たちはどうも、信仰を生活とは別次元においてはいまいか。信仰を何か特別なものにしているのではないか、そう思うのです。しかし、そうではないはずです。そして、信仰を生活にするのは祈りなのです。祈らざるを得なくなる日常です。自分の無力さを感じて神さまに頼らざるを得なくなる。それが、私たちの生活になっていく。

これは、孤独な戦いではありません。たった一人で忍耐し、孤独な戦いをするのではないのです。この畑の、世界・社会の主人がいてくださる。理想通りにはいかない社会であっても、そこに目を注いでくださっている方がいてくださる。このイエスさまがいてくださるからこそ、私たちは戦えるのです。訴え、心をさらけ出し、愚痴を言い、反省し、特には激しく感情をぶつけながら、そんな私たちをしっかりと抱きしめ、受け止めてくださる方がいるからこそ、私たちは耐えられる…、いいえ、耐えていこう、戦っていこうと思えるのです。何度でも。そのことに気づいていくのが、「信仰生活」なのだと思う。

今日の使徒書の日課に、こんな言葉が記されていました。ローマ8章24節「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。これも、非常に大切な言葉だと思います。今は肉眼で、実感を持って見えてはいないのかもしれない。そういう意味では心許ないのかもしれません。しかし、私たちは信仰の目で見えているはずです。私たちのために命を捨てられたイエスさまのお姿が。だからこそ、希望に生きることができる。そのことも、今日の日課に加えて、覚えていきたいと思います。

《祈り》
・九州地方を中心に、各地で大雨による被害に遭われた方々をどうぞお助けくださいますようにお願いいたします。復旧も少しづつ進んでいるようですが、まだまだ時間がかかりそうです。このコロナ禍によってボランティアなどの人手も不足していると聞きます。速やかなる復旧復興がなされ、少しでも生活が改善されますように、必要な援助も速やかに与えられますようにお助けください。今年は例年よりも梅雨明けが遅く、まだ雨の降りやすい予報がされていますが、災害に発展することのないようにお守りください。また、日照不足などによる作物の影響なども心配ですが、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。

・このところ都内での新規感染者数が200人を超え、過去最多も記録しています。重症化しやすい中高齢者にもじわじわと広がっているとも指摘されています。また、身近に感染者が出るようにもなってきました。どうぞお助けください。医療体制にはまだ余裕があるとも言われますが、あっという間に入院患者が増え、再び医療現場が混乱するのではないかと心配です。また、病院が経営難になり、懸命に働いてくださっている医療スタッフのボーナスがカットされ、大量の離職希望者が出ているとも聞きます。どの分野も大変ですが、特に医療の現場は大変です。どうぞ、憐れんでくださり、国や行政なども適切な手当てを速やかにしていくことができますようにお導きください。

・このような中、今週半ばから「Go To Travel キャンペーン」がはじまろうとしています。賛否いろいろありますが、確かにこのコロナ禍にあって観光業界は深刻ですが、全国に感染拡大が起こってしまうのではないかと危惧されています。ウイズ・コロナの難しさがここにも出ていますが、どうぞ爆発的な感染拡大につながらないように、一人一人が自制した行動を取ることができますように、どうぞお守りください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

-週報- 2020年7月12日 聖霊降臨後第6主日礼拝



 

司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 “めぐみ”ヒムプレーヤー音源

前  奏 我は汝に呼ばわる 主イエスキリストよ  J.S.バッハ

初めの歌  3( あめつちの御神をば )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

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特別の祈り

私たちを守られる神さま。
 この世の嵐が荒れ狂い、私たちを脅かすとき、み民をあらゆる不安と恐怖から
解き放ち、不信に陥らぬように防ぎ守ってください。

み子、主イエス・キリストによって祈ります。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

 

第1 の朗読 イザヤ書 55:10-13( 旧約 1153頁)

第2 の朗読  ローマの信徒への手紙 8:1-11( 新約 283頁)

福音書の朗読 マタイによる福音書 13:1-9,18−23( 新約 24頁 )

みことばのうた 234A( 昔主イエスの )

説教  「 虚しくならない言葉 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 【21】53( 神のみ言葉は )

信仰の告白  使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  504( 実れる田の面は )

後  奏 主をほめまつれ おおわが魂よ   G.ツァンガー

※前奏・後奏(苅谷和子 選曲)

【音声・テキスト】2020年7月12日 説教「虚しくならない言葉」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第六主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書13章1~9、18~23節



言葉には力があります。人を生かす力も、そして、人を殺す力も…。心無い中傷が人を死に追い込むこともある。
皆さんもご経験があるのではないでしょうか。何気無く言われたその一言が人生を変えるきっかけになったり、力づけられたり、励まされたり、活力を生むような、そんな経験が。逆に、その一言で傷つき、心が折れてしまい、へたり込んでしまうようなことが。

言葉には力がある。そして、一旦口から出てしまったものは、なかなか取り消すことができません。だから、気を使います。牧師になってつくづく感じたことは、言葉の難しさ、です。何度失敗したか分かりません。特に、最近のこのコロナ禍にあっては、直接会うことが難しくなりましたので、メール等のやりとりが増えたと思います。それが、また難しい。面と向かい合っていれば、その都度相手の表情などから、ひょっとしたら誤解されているかもしれない、言葉足らずだったかもしれない、と修正も効きますが、メールだとなかなかそうはいかない。書かれた言葉の印象がダイレクトに伝わってしまうことがある。

しかも、人によってその言葉の印象が違っていることもありますから、より誤解を生じやすいようにも感じています。家内から、近頃は学校で生徒たちにSNS等でのやり取りでは感情を載せない、と指導されていると聞きましたが、然もありなんと思いました。

一方で、虚しい言葉も多いように思います。最近、あるテレビ番組で、このコロナ禍にあって、政治家の言葉よりも専門家の言葉の方に耳を傾ける人たちが多くなっている、と指摘されていました。つまり、政治家よりも専門家の方が信頼されている、ということでしょう。確かに、政治不信は長年続いています。また、政治家の言葉が軽くなってきたとも言われ続けてきました。

どうも、政治家たちの言葉が、自分たちの権勢のためであったり、保身のためであったりといったようにしか聞こえなくなってきている。何か問題が起こるたびに「わたしに責任がある」と言い続けてはいても、一向に責任をとっているようには見えて来ない。しかし、では、これらは政治家だけの問題なのか、といえば、もちろんそうではないでしょう。私自身、この虚しい、空虚な言葉は大きな課題でした。牧師は語るのが商売です。しかし、自ら語っておきながら、その言葉が空々しく思うことがあったのも正直なところです。語っていながら信じきれていない自分がいた。そんな言葉は、やはり軽いと思いました。役に立たないと思いました。仕事だからと語らざるを得なかった自分が嫌で嫌で仕方がありませんでした。信じていない、実行性・実現性のない、経験・体験のない言葉は、やはり重みがない。

私には、あまり好ましいとは思えない生い立ちがあります。自分でもどうしようもなかった、荒れた思春期を過ごしました。長い間救いの確信が持てず、信仰的な試練を経験しました。そして、息子との死別を味わいました。どれも、私にとっては幸いとは思えない出来事です。しかし、これらの出来事が、少しばかりの言葉の重みを与えてくれたと、今では感謝しています。今では、これらも含めて全てが神さまの恵みなのだと受け止めさせて頂いています。

今朝の福音書の日課は、よく知られた『種まきのたとえ』です。ここで私が話さなくても、もう皆さん内容をしっかりと思い起こされることでしょう。四つの地に種が撒かれる。一つは道端。一つは岩地。一つは茨の生い茂る中。そして、もう一つが良い土地。果たして、私は一体どの地なのだろう、とついつい考えてしまいます。一見、非常に分かりやすい譬え話ですが、それは18節以下にイエスさまが解説してくださっているからです。このイエスさまの解説があるからこそ、私たちはすぐにでもイメージができる。その解説の中で、この撒かれた種が「御国の言葉」だということが分かります。

つまり、神さまの言葉と言っても良いと思います。その神さまの言葉について、イメージ巧みにもっともよく教えてくれているのが、先ほどお読みしました今朝の旧約の日課、イザヤ書55章の言葉でしょう。55章8節以下「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」。

『種まく人』ジャン=フランソワ・ミレー 1850年。油彩、キャンバス、101.6 × 82.6 cm。ボストン美術館



キリスト教は「ことばの宗教」だとも言われています。聖書の最初、創世記の創造物語からも、それは明らかです。神さまは言葉によって世界を造られました。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」。言葉は人格を表します。だからこそ、言葉は思いと意志の表れとなります。ですから、神さまの言葉は決して虚しくはならないのです。なぜならば、その気のない言葉では決してないからです。「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」。

これが、神さまのことば。それを私たちは信じる。神さまの言葉は「必ず成る(実現する)」と信じる。それが、私たちキリスト教信仰だと思います。ですから、今日の譬え話も、それを前提として受け止める必要があるのではないでしょうか。撒かれた種が神さまの言葉ならば、決してその種は無駄になることはないなずです。必ず芽が出て成長する。たとえどんな土地であっても。なぜならば、土地に左右されないほど、この種には、神さまの言葉には力があるからです。それが、大前提です。では、イエスさまはなぜあのような話をされたのか。

イエスさまはガリラヤ湖のほとりに舟に乗られて、その舟の舳先に腰を降ろされて教え始められました。抜けるような青空の元、水面がキラキラと輝き、イエスさまを囲むように佇む人々の足元にまでさざ波が迫っていたました。その人々に、イエスさまはまっすぐに目を向け、遠くまで通るはっきりとした声でこう語られた。「耳のある者は聞きなさい」。

イエスさまは神さまの言葉の力を信じていました。誰よりも信じていました。信じて、御国の福音を伝えていかれました。しかし、目の前に広がる現実は、あまりにも神さまの言葉が届かないように思えるものでした。だからといって、すぐにでも、私たちのように神さまの言葉の力を疑うようなことではなかったと思います。あくまでも神さまの言葉の力を信じ続けていかれた。最後の最後まで信じていかれた。確かに、そうだと思います。

しかし、同時に、この言葉を受け取る側にも促さずにはいられなかったのだと思うのです。聞く耳を持って欲しい、と。神さまの言葉を受け取って欲しい、と。ちゃんと自分のものにして、しっかりと深く根を下ろして、豊かな実を結ぶまで諦めずに歩み続けて行って欲しい、と。目の前の群衆を前に、そう思わずにはいられなかった。そう思うのです。

私たちにも、そんな実感がある。私たちだって、神さまの言葉の力を信じることが大切なことは分かっています。それが、私たちの信仰生活に求められていることも分かっている。しかし、どうも、それでは心もとない気もしてきます。なぜなら、種が成長しているようには思えない現実も、私たちは嫌という程実感させられているからです。だから、地が気になる。種は大事だし、種に力があることは認めるけれども、やはり土地が悪からではないか、と思えてくる。ですから、最初に言いましたように、私たちは自分が一体どの地なのか、と不安になる訳です。道端なのか、岩地なのか、茨なのか、良い地なのか、と。
撒かれた種…、神さまの言葉よりも、地…、つまり自分自身が決定打になるのではないかと思えてきます。しかし、果たして、この話を最初に聞いていた弟子たちはどうだったのか、と思う。彼らは、果たして多くの実を結ぶ「良い地」だったのか。

弟子たちは道端に撒かれて取り去られてしまったもののように、最後の最後までイエスさまについて不理解でした。ちっともイエスさまの真意を分かっていなかった。また、弟子たちは、岩地に落ちたもののように、試練に遭うとあっさりとイエスさまを見捨てて逃げてしまいました。また、弟子たちは茨の地のように、イエスさまがご自分の受難について語っている矢先に、誰が一番偉いかなどと言い争って、地位・名誉といったこの世の関心事ばかりに心奪われてもいました。もともと「良い地」だったとは到底思えない。むしろ、私たちと同じと言うべきか、今言いましたように、道端、岩地、茨の地としか思えな
いのです。では、なにが違っていたのか。

イエスさまの元を離れて行った多くの群衆たちと一体何が違っていたのか。それは、イエスさまと共に生きた、ただそれだけです。多くの群衆たちは、あ~良い話が聞けた、良くは分からなかったけれどもイエスさまがおっしゃるんならありがたい言葉だ、大した話じゃなかった、時間の無駄だ、と楽しんだ者も不満だった者も、ただそれだけで帰っていきました。しかし、弟子たちはイエスさまに尋ねたのです。尋ねることができたのです。なぜなら、一緒に生きていたからです。一緒に生きるからこそ、イエスさまと共に生きているからこそ、分からないことがあれば尋ねることができる。間違っていれば正してもられる。上手くいったときには喜んで褒めてくださる。一緒にいればこそ。それが、途方もなく嬉しいし、力になる。

今年から新しい聖書日課になりましたが、実は毎主日の日課には詩篇も取り上げられています。時間の都合もあり、今は読むことはしていませんが、今日の日課である詩篇65編10節以下に、こう記されていました。「あなたは地に臨んで水を与え 豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。あなたがそのように地を備え 畝を潤し、土をならし 豊かな雨を注いで柔らかにし 芽生えたものを祝福してくださるからです」。

ここでは、あたかも「良い地」にするのは、神さまご自身なのだ、と言われているようです。私たちは、一体自分はどの地なのだろうと取り越し苦労をしているのかもしれません。種も地も、どちらもが神さまの業、力、恵みなのです。ですから、繰り返しますが、大切なのは、イエスさまと共に生きること。共に生き、常に耳を傾け、分からないことがあれば問い、疑問を投げつけ、反省し、諦めないこと。そうすれば、土地は耕かされ、神さまの言葉である種は自ずと持っている力で成長していくことでしょう。自分は一体どれか、とあれこれ心配する前に、ここに、この原点に帰っていきたいと思います。

 

《 祈り》
・先々週、また先週と九州地方を襲った大雨による大変な被害が出てしまいました。また、岐阜や長野でも大雨による被害が出てしまいました。人的な被害も甚大です。多くの方々が避難所につめかけ、復旧作業にも時間がかかりそうです。このコロナ禍と熱中症の危険もある中での避難所生活も心配になります。どうぞ、被災された方々をお助けくださいますように、ご家族を亡くされた方々の心にも働いてくださいますようにお願いいたします。

熊本地区のルーテル教会でも物資の支援などで地域に貢献されているようですが、その働きもお守りください。ご自身たちも被災されている中でのお働きかもしれません。どうぞ心身ともにお守りくださいますようにお願いいたします。また、九州をはじめ、かつてないほどに大雨と長雨が続いています。今後も大雨の降る可能性が高いとも聞きます。どうぞ、これ以上の災害とならないようにお守りくださいますようにお願いいたします。

・5日からの礼拝再開を新型コロナの新規感染者数100人超えを受けて延期にしましたが、先週には連日200人超えともなってしまいました。専門家の意見では、今後ますます増えるのではないか、とも予想されています。先日、新型コロナによる重症患者病棟の映像を見ました。非常に重篤な患者と向き合う医療現場の緊迫した、そして生々しい映像が映し出されていました。このところ、重症化しにくい若年層の感染増や重症患者数の現象などで、どこか緊迫感が薄れてしまっているのかもしれませんが、一旦重症化しやすい方々が感染した場合、本当に大変なことになってしまうことを改めて思わされました。

確かに、経済も生かさなければならないことも事実ですが、どうぞこのコロナ禍を生き抜く良き知恵をお与えくださいますようにお願いいたします。感染された方々もお癒しください。

・このコロナ禍で食糧不足、貧困がより深刻化しています。北朝鮮でも餓死者が多数出ているのではないかと予測されています。どうぞ、憐れんでください。国の指導者たちが、政府が、私たち市民一人一人が、弱き者たちを顧みていくことができますように、そんな世界となっていくことができますようにお導きください。

・大きな病気をされておられたり、様々な困難、課題を向き合っておられる方々が私たちの仲間にも多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、それぞれの祈りに応えてくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン



※カバー絵画:『種まく人』ジャン=フランソワ・ミレー 1850年。油彩、キャンバス、101.6 × 82.6 cm。ボストン美術館

-週報- 2020年7月5日 聖霊降臨後第5主日礼拝



 

司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 めぐみヒムプレーヤー

前  奏 祈 り    A.ギルマン

初めの歌  12( めぐみゆたけき主を )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

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特別の祈り

私たちの造り主、救いの神さま。

新しい祭司の群れに入れられた私たちが、誠実にあなたの召しに応え、福音の証し人として、あなたの約束を全世界に告げ知らせる者にならせてください。

み子、主イエス・キリストによって祈ります。

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第1 の朗読 ゼカリア書 9:9-12( 旧約 1489頁)

第2 の朗読  ローマの信徒への手紙 7:15-25a( 新約 283頁)

福音書の朗読 マタイによる福音書 11:16-19,25−30( 新約 20頁 )

みことばのうた 238( 疲れたる者よ )

説教  「 イエスに学ぶ 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 517( 「われに来よ」と主は今 )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  322( 神よ、おじかの )

後  奏 主よ 人の望みの喜びよ  J.S.バッハ

※前奏・後奏(小山 泉姉 選曲)

【音声版・テキスト】2020年7月5日 説教「イエスに学ぶ」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第五主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書11章16~19、25~30節



「今の時代を何にたとえたらよいか」。今朝の福音書の日課の冒頭に、こう記されていました。私は、これはとても深い問いだと思いました。今の、このコロナ禍の…、あるいは、新型コロナウイルスとの共生・共存といわれるこの時代、いろいろな矛盾が一気に浮き彫りになってきているこの時代を何にたとえたらよいのか。

ともかく、イエスさまはイエスさまの時代をこのように言われました。「広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。

『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』」。これは、一体何を意味するのか。いろいろな解説がありますが、良くは分からない。ともかく、子どもというのは、何か楽しいことがあればすぐに飛びついてくるものでしょう。つまり、ノリがいい。

子どもたちにとって面白そうな遊びならばすぐに乗って来る。しかし、ここでは一向に乗って来ないわけです。本来ならば、皆が飛びついてきてもおかしくないような出来事が起きているのに、現実に目の前に起こっているのに、ちっとも乗って来ない。

「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」。どちらも、結局は、はなっから受け入れるつもりなど、ないのです。本当のところ、誰も、何も求めてはいないのです。

確かに、生活が豊かになるとか、不幸から逃れることとか、圧政から解放されるとかは多くの人々の切に望んでいたことかもしれませんが、イエスさまが、神さまが求めるような「変化」は誰も欲してはいなかったのです。神の国について語っても、誰も乗って来ない。すこぶるノリが悪い。それが、イエスさまが見た「その時代」の状態でした。時代的な状況、大勢は確かにそうだったでしょうが、それでも、ノリのいい人々も確かにいた。

決して時代を特徴付けるほど多くはありませんでしたが、むしろ大勢からすればごく少数派に過ぎなかったかもしれませんが、イエスさまの呼びかけに反応した人々も確かにいたわけです。そのことを、このように記しています。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」。イエスさまは大変喜ばれたと思います。

ノリの悪い、無反応の時代にあっても、少数ではあってもちゃんと反応してくれた人々がいたことを。だから、思わず感謝の祈りをせざるを得なかったと思います。裏を返せば、相当にがっかりされたのだと思うのです。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」。子どもたちが、きっとみんなも乗ってきてくれるだろうとおもって頑張って吹いたのに、みんな知らん顔をしている。そんな様子にがっかりしたように、イエスさまも、その時代の様子に本当にがっかりされたと思う。そして、それもまた、神さまの御心なのだ、と思いを定められたのだと思います。

ここで、イエスさまの呼びかけに反応した人々は「幼子のような者」と言われています。逆に、反応しなかった人々は「知恵ある者」「賢い者」と言われている。これらの言葉に、あのパウロの言葉を思い起こされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。コリントの信徒への手紙1 1章18節以下です。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。

『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」。もちろん、知恵のある人、賢い人の全てが信仰をもつに至らない、ということではないでしょう。現に、これを書いているパウロは知恵ある人、賢い人でもあったからです。

ご承知のように、彼は若い頃から熱心にユダヤ教を学び、ファリサイ派の中でも将来を有望視されていた人物です。しかし、同時に、そんな彼はイエスさまを否定し、教会を迫害する者でもあった。そんな彼の苦い経験もあったのかもしれません。知恵、あるいは賢さ自体が悪いわけではないでしょう。しかし、そのことだけでは、誰も真の神さまのお姿には至れないです。

では、幼子とそうでない者…、幼子ではない訳ですから大人と言っても良いのかも知れませんが、幼子と大人との決定的な違いは何か。それは「依存」ではないでしょうか。幼子は本能的に、自分一人では生きられないことを、誰かを頼らなければ生きていけないことを知っている。もちろん、我を出して何でも一人でやりたがる時期はありますが、それでも、自分一人で生きられるとは少しも思ってはいないでしょう。

逆に、人が大人になるということは、「依存」を捨てていくことでもあるわけです。自分一人で生きられるように、自立することが求められる。そうでないと、かえって、「いい年をしていつまで甘えているの」と社会的な制裁を受けることにもなる。もちろん、人は一人では生きられないことを知っています。

大人になっても、誰かに頼らざるを得ない。しかし、心を明け渡すことはしません。本当に心の底から頼ることはしないのです。踏み込まれたくない領域をしっかりと確保しながら、必要としている援助をしてくれればいい、と思っている。それ
は、明らかに幼子が頼るということとは違うことだと思うのです。もちろん、大の大人たちが互いに依存し合っていては社会が成り立たないわけですから、幼子のままでいてはいけない、ちゃんと大人にならなければいけない、といったことも人間社会では必要な知恵でもあると思います。

しかし、こと神さまの前では、それが大きな壁になってしまうことがある。大人ならではの「よそよそしさ」が生じてしまうからです。

先ほどは、イエスさまの呼びかけに応えようとしなかった人々は、「幼子のような人」以外の人々、特に「知恵ある者や賢い者」と言いましたが、その代表的な人々が、聖書にもイエスさまと対立する人々として度々登場してきますファリサイ派と言われる人々、あるいは律法学者と言われる人々だと思います。

博士達とイエス Christ among the Doctorsチーマ・ダ・コネリアーノ1459~1517 *1



では、彼らはなぜそれほどまでにイエスさまを頑なに拒んだのか。ひとことで言えば、考え方が全く違っていたからです。ファリサイ派、律法学者、あるいは多数派と言っても良いと思いますが、彼らは「頑張っている人々こそが救われる」と考えていたわけです。一所懸命に頑張れば頑張るほど神さまに認めていただけるのだ。ご褒美がいただけるのだ。救いに預かることができるのだ。と考えていた。それに対してイエスさまは、「いいや、たとえ頑張れない人々であっても、神さまは一人一人を深く憐れんでくださり、救ってくださるのだ」と教えていた。

そして、実際に、頑張れない、頑張っているようには思えない人々の代表でもあった徴税人たちや罪人たちとも交流をもっておられた。それは、頑張ってきたファリサイ派の人々にとっては、面白くない訳です。彼らにとってそれは不正義にも映ったでしょう。正直者が馬鹿を見る。道理に合わない、と思えた。

その気持ちは、私たちにも痛いほど良く分かります。頑張っている方が報われて当然だと思う。しかし、結局、だからこそ、彼らはイエスさまの呼びかけに応えることができなかったのです。逆に、頑張っている側からすれば、全くなっていない、大人とはいえない、「いい年こいて」としか思えない、頑張れない自分を、罪深い自分を自覚して胸を叩くしかなかった「幼子のような人」こそがイエスさまの呼びかけに応えることができた。

ですから、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という大変慰めに満ちた言葉も、単なる休息のためだけの言葉ではないことが分かると思います。何よりも、このイエスさまの招きに応えることが大切なのです。イエスさまのところに来ることが大切なのです。イエスさまに心明け渡し委ねることが大切なのです。そこに、真の休息も安らぎもやってくる。

ここでは、直接的には、いわゆる律法主義からの解放ということが言われています。何度も言いますように、ファリサイ派や律法学者たちは、決して悪人ではないのです。むしろ、誰よりも熱心です。誠実です。だからこそ、神さまの戒め・律法を徹底して守ろうとした。少しの落ち度もあっては成らないと、どこまでが許されており、どこからがダメなのかと聖書の戒めを細分化した訳です。それは、紛れもなく熱心さから出たことです。しかし、イエスさまの目からすれば、それは神さまの御心から離れているとしか思えなかった。

悲しいことですが、熱心になればなるほど、神さまの本来の意図からズレてしまう人間の現実がそこにもある訳です。そして、熱心な彼らは自分たちがそれらを荷なうだけでなく、人々にも要求した。それが、「重荷」となっていた。知らず識らずのうちに、神さまの意図から遠く離れてしまっていたその重荷に、人々は疲れ果てていました。頑張れない人々は特に…。結局は、真の神さまを知らないからこそ生まれてしまった重荷でもあった。

そして、今日の私たちにとっては、たとえ律法主義ということがなくても、この神さまを知らないが故に負ってしまっている重荷があるのではないか。そうも思うのです。自己嫌悪、自己卑下。「こうでなきゃ」と思う自分への過剰な期待。

「こうであってほしい」と周りからかけられる期待。本当のところの自分など誰も分かってはくれない。理解してはくれない、との孤独感、孤立感。こんな自分をさらけ出していいのだろうか。こんな自分を本当に受け入れ愛してくださるのだろうか、との不安、不信感。私たちは、いろんな想いで疲れてしまう。人の前だけでなく、神さまの前に出ることにも疲れてしまう。最後の砦であるはずなのに、重荷に感じてしまう。聖書を読むのも、祈るのも、億劫に感じてしまう。

自分の嫌なところばかりが見えてきて、疲れてしまうから。そう、私たちは彼らとは別の意味で神さまを誤解して、勝手に重荷にしてしまって、疲れ果ててしまっているのかもしれません。

だから、イエスさまはこう語られます。「わたしに学びなさい」と。神の独り子であるイエスさまだけが真の神さまのお姿を教えてくださるからです。たとえ、私たちにとって耳の痛い言葉であっても、従うことを躊躇してしまうような戒めであっても、無理難題とも思えるような要求であっても、それは、私たちを苦しめるためでもないし、懲らしめるためでもないし、怒っておられるからでもないし、私たちのことを、私たち以上に気遣い、知っていてくださり、私たちのことを慮ってのことだからです。

たとえ気づくことがなくとも、神さまは私たちのために常に良いことをしてくださっている。そのことを、イエスさまから学ぶ。イエスさまの言動、その生涯、十字架と復活、礼拝、み言葉、祈り、黙想、ありとあらゆることを通してイエスさまから学ぶのです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」ということを、です。常に、私たちと共にいて、軛を一緒に荷なってくださっていることを信じながら。

『キリストの降臨と勝利』ハンス・メムリンク 1480年  ドイツ:アルテ・ピナコテーク所蔵 *2



祈り
・各地で、特に熊本・鹿児島地区で記録的な大雨が降り、被害も出ているようです。この地域にはルーテル教会も多く点在していますが、今の所教会および教会員の方々に大きな被害は出ていないようです。しかし、多くの方々がこのコロナ禍にあって大変な思いをしていますので、どうぞ憐れんでくださり、必要な助けも速やかに与えられますようにお導きください。災害大国と言われる日本の中で、このコロナ禍での避難生活が危惧されていますが、どうぞ、そういった二次、三次的被害にもならないように、どうかお助けくださいますようにお願いいたします。また、中国でも大変な豪雨被害が出ているようです。どうぞお助けください。まだまだ梅雨の時期が続きますので、大きな豪雨被害がでませんようにお守りください。

・今日から礼拝堂での礼拝を再開する予定でしたが、都内では連日新規感染者数が100人を超えたこともあって、大変残念ではありますが、延期することと致しました。都内ばかりでなく、首都圏の近隣の地域でも感染者は増えているようです。どうぞ憐れんでくださり、これ以上感染者数が急激に増えていったり、医療体制が逼迫するようなことのないようにお助けください。再開時期についても、どうぞ良き時を与えてくださいますようにお願いいたします。

また、世界では本当に深刻な状態が尚も続いていますが、特に医療機関にも十分にかかることのできない貧しい方々から多くの犠牲者が出ているとも聞きます。どうぞ憐れんでくださり、それら社会的弱者と言われる方々をお助けくださいますようにお願いいたします。

・現在、紛争下にある国々や貧困者の多い国々などの食料不足がより深刻化していると言われています。それは、この新型コロナの影響で物資の移動が困難になったり、また、感染の危険から職員を守るための人員不足などによるとも言われています。全世界規模のパンデミックで、それぞれの国でも余裕がないのでしょうが、どんどんと置き去りになってしまっている国々、人々を思うと胸が痛みます。私たちができることといえば、ほんのわずかなことですが、それらの人々のためにも祈りつつ、小さな援助の業を行うことができるように。また、援助する国々、団体も多く起こされますように、どうぞ憐れみお助けください。



イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

*1  Christ among the doctors, 1504, National Museum in Warsaw
*2 『キリストの降臨と勝利』MUSEY: https://www.musey.net/4883

【重要】7月からの礼拝について

主の御名を賛美します。

新型コロナウイルス感染拡大防止対策として、3月末より自宅礼拝をお願いしてまいりましたが、政府による緊急事態宣言解除、東京都による「東京アラート解除」、都内各施設への緩和要請の全面解除を受け、また主要ルーテル教会および近隣教会の礼拝再開状況にも鑑みて、むさしの教会では、7月5日(日)主日礼拝より、以下のような条件の下で、教会に集まる礼拝を再開することにいたしました。(7月5日の礼拝は中止になりました)
1. 体調不良症状のある方は礼拝出席をご遠慮ください。
※発熱:37度以上、咳・嘔吐・味覚障害などCovid-19の特徴的な症状の方
2. 礼拝のライブ配信は継続しますので、当面の間、礼拝ライブ配信を受信可能な方はできるだけご自宅での礼拝を引き続きお願いします。
※礼拝出席人数の傾向を見て徐々に緩和したいと考えております。
3. 万が一、礼拝出席者に感染者が発生した場合に連絡が取れるよう、受付にて出席者全員の氏名・ご連絡先の記帳をお願いします。
4. 教会滞在中は必ずマスクを着用してください。
5. 礼拝堂の定員は20名とします。(着席位置に印をいたします。)
人数が多い場合は、2階コピー機室・母子室、1階・2階集会室も利用します。
6. その他、「三密」・接触を避けるための対策をいたしますので、皆様のご理解とご協力をお願いします。
※礼拝の簡素化、 受付にての献金お捧げ、など。

このところ、東京都内の新規感染判明者数が増加傾向にあり、
 礼拝再開の予断を許さない状況であると認識しております。
 感染の危険性が大きくなったと牧師・役員会で判断した場合は、
 7月5日を含め、各主日の前々日の晩までに礼拝中止のご連絡をいたします。



☆ご質問・ご希望等あれば、牧師・役員までお寄せください。

教会全体にとって試練の時ですが、近くお会いできるかも知れない方々も
ご自宅で礼拝を守られる方々も、同じ日差しと雲の下、見えないキリストの絆で繋がっています。主がいつもわたしたち一人一人と共におられるように。

 

                          むさしの教会 牧師 浅野直樹
役員一同

【音声版・テキスト】2020年6月28日 説教「キリストと一つ」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第四主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書10章40~42節



前回、お話しましたように、先週の福音書の日課は、大変厳しい箇所だったと思います。その底辺には、「迫害」ということが流れている、といったこともお話しました。その中でも、やはり私たちにとって大変気になったのは、34節以下の言葉だったのではないでしょうか。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。

平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」。先ほどの「迫害」という言葉を使うならば、家族の者から迫害されるようになる、ということでしょう。

先週も「歴史」ということをお話しましたが、この家族から迫害されるといった事例も枚挙にいとまがない訳です。

静岡時代に親しくしていただいた救世軍の先生からこんな話を聞いたことがあります。その頃すでに引退をされていましたので、昭和30年代のことでしょうか。その方の夫人は会津の旧家の出だったようです。女学校時代から救世軍の教会に通い、信仰を養って来られましたが、ある時、神学校(救世軍では士官学校と言いますが)に行くことを決意されました。それを知った家族は大反対をする。家族どころではない。親族皆が大反対をし翻意を迫った。

しかし、この方の決意は変わらず、神学校に行く道を選ばれたのですが、家族からは勘当されてしまったそうです。私はその時、大変興味深くその話を聞いていましたが、そんな例はおそらく少なくなかったでしょう。イエスさまを信じている、従おうとしているというだけで家族の中に仲違いが生まれてしまう。波風が立ってしまう。そんな現実が、おそらく今でもある。

特に、日本のように、家族の中で信仰者は自分一人だけ、といった状況ではより多く起こっているのかもしれません。そういった家族の中で信仰者はどんな態度をとるのか。もちろん、いろいろと考えられるでしょうが、大きく分けると、「脅迫」と「妥協」と言えるのではないでしょうか。他の家族の者に信仰を強要する。信仰の名の下に家族を断罪する。高圧的な態度で自分を正当化する。

自分を守るためにも、どこか攻撃的になってしまう。それも、信仰を大切にすればこそ、で分からなくもありませんが、しかし、多くの傷を生んでいることも事実です。30代の頃学生会を担当していましたが、そういったキャンプに参加する学生の幾人かは、信仰者の親から受けた、ある意味パワハラ的な言動によって信仰的な事柄や教会がトラウマになってしまっていました。

また、その傷は根深いようで、大人になってもそういった子どもの頃に受けた傷が信仰生活や教会生活のみならず、様々な現実生活にも暗い影を落としている現実も見えて来ます。
おそらく、それよりも多いのが「妥協」といった態度でしょう。家庭に影響を与えない程度に信仰生活を守ろうとする。それは、信仰よりも̶̶信仰とはイエス・キリストに従う、ということですが̶̶家族の方が優先順位が高いからです。家族関係が第一。それも良く分かる。私自身、このどちらも…、「脅迫」も「妥協」も身に覚えがあります。

つまり、どこかで、この信仰…、イエス・キリストに従うことと家族を大切にすることとが相容れないことだと分かっているからです。もちろん、聖書は家族を大切にすることも語っている。それも神さまの御心だと私たちは知っています。ですから、それに従おうともする。しかし、いざという時、どちらかを選ばざるを得ない時が来ることを、「わたしをとるのか、わたしたちをとるのか」と迫られるようなものでもあることを知っているからこそ、その決断がなかなかつけられなくて、どこか逃げ腰に「脅迫」と「妥協」という当面は安全と思える世界へと逃げ込もうとしているのではないか。そんなふうにも思えるのです。

ともかく、キリスト教信仰とはそういうものです。何よりも、イエスさまご自身がそれらを経験して来られた。本来ならば、誰よりも分かってくれる、理解してくれる、賛同してくれるはずの家族が、「気が狂った」と心配になって、その活動を辞めさせようとしたからです。もちろん、そんな家族にも言い分がある。イエスさまを心配したからこそそうしたのだ、と。愛すればこそ、なのだと。そもそも、信仰とは二分してしまうものなのです。

信じるか、信じないか。受け入れるか、拒絶するか。賛同するか、反対するか。従うか、従わないか。確かに、信仰の持つ性格からしても、そういったことが自然に起こるのです。それも、事実。しかし、このイエスさまのお言葉は、そういったことが自然に起こってしまうから仕方がないよね、ということだけでもないように思うのです。なぜならば、ここでイエスさまは積極的に、「もたらすために」「させるために」と語っておられるからです。そして、こうも語られる。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」。大変厳しい言葉です。先ほど言った優先順位ということです。ここで優先順位を変えろ、とおっしゃる。家族ではなく、わたしのことを優先順位の第一位にしろ、とおっしゃる。だから、不和が起こる。ですから、積極的に不和を起こそうとしているかのようにも聞こえる訳です。

しかし、そうではありません。たとえ、そのことのゆえに不和が生じてしまうことが起ころうとも、わたしに従うことを第一にしろ、とおっしゃっておられるのです。重要なのは、そのことです。では、イエスさまはそのことを要求するあまりに、家族のことなどどうでも良いと思っておられるのか、といえば、そうではないでしょう。イエスさまはこう言われる。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。

「命」は私たちにとって最も大切なものです。ですから、この場合、最も大切なものとして「家族」と言い直しても良いのではないか。つまり、自分の家族を必死に得ようとしても、それだけでは失ってしまうかもしれませんが、家族よりもイエスさまのことを優先することが、実は家族のためにもなるということではないか。そう思うのです。私自身、自分の家族…、妻や子どもたちを大切にしているつもりです。

彼らのためには、出来ることは何でもしてあげたい、とも思っている。しかし、私は明日死ぬかもしれない。そうなると、家族は路頭に迷います。助けてあげたいのに、何一つ助けてあげられない。私自身、そんなちっぽけな人間だと痛感する。本当に家族のことを思うならば、どなたに委ねることが最善なのか。そんなことを、最近はつくづく考えてしまいます。

ですから、家族よりもイエスさまを優先させるということは、先ほど言った「脅迫」とは全然異なるものであることが分かると思います。それらは、結局は信仰の名を借りた独りよがりな自己満足に過ぎないからです。イエスさまの思いは家族をも大切にすることです。しかし、それでも、いいえ、その上で、わたしにまず従え、とおっしゃる。

イエスさまに従うということは、家族をないがしろにしたり、断罪したり、喧嘩腰になることではありません。逆に「妥協」して信仰者らしい振る舞いをしないことでもない。イエスさまのお言葉に従って忍耐し、祈り、赦し、愛を貫いていくことでもある。

柔和な心で穏やかにイエスさまの恵みを証ししていくことでもある。そういったことに反感を持たれながらも、たとえ相手が変わらなくても、なおも従っていけるようにと祈りつつ志を立てていく。そうではないか、と思うのです。

『信仰の寓意』 ヨハネス・フェルメール 1670年〜1672年頃制作。メトロポリタン美術館蔵 *1



最初に言いましたように、先週の日課は「迫害」といったことが底辺にあった訳ですが、もう一つ大切なことは、「宣教」ということでした。それは、10章16節にこうあるからです。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。

ですから、この「宣教」となんらかの「迫害」…、妨害工作や家族をはじめとした人々との不和が切っても切れない関係として描かれている訳です。そんな厳しい宣教の現実の中にも、好意的な人々がいてくれると言われている。それは、本当に心強いし、嬉しいことです。それは、私たちにも良く分かることです。迫害のない現代でも、正直ドキドキします。案内一つ配るにしても、どんな反応が返ってくるのか、と不安になる。

大方は、一応日本人らしい礼儀正しさから受け取ってくれます。時には、あからさまに拒否されたり、厳しい一言が返ってくることもある。私ばかりではない、多くの人々が経験してきたことでしょう。そんな中でも好意的に接してくれる人々がいます。むかし教会に行ったことがあるのよ、とか、ミッション系の学校に通っていたの、とか、心和む反応をしてくださる方々もいる。そして、実際に集会等に来てくださることもある。

本当に嬉しいし力づけられます。そういったことがなければ、心が折れてしまうと言っても言い過ぎではないと思います。本当にそうです。だから、がんばろうという気にもなれる。しかし、今日の箇所では、もっと大切なことがある、というのです。それは、次の言葉です。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れる、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」。私たちは気づいていないかもしれませんが、イエスさまと一つとされている、ということです。神さまと一つとされている、ということです。孤独に戦っているように思えても、そこにはイエスさまが、神さまが共にいてくださる。

ドキドキしながら、不安になりながらしているときも、ちょっとした喜びに心躍らせている時にも、手厳しい反応にがっかりしているときにも、もう二度とこんな気持ちを味わいたくないと思っている時にも、心からってなかなか思えなくて、仕方なくと思っている時にも、イエスさまは、神さまは共にいてくださる。

家族の中でも思うようにいかなくって、イエスさまに従おう従おうとすればするほど、イエスさまの愛に生きよう生きようとすればするほど、かえって浮いてしまったり、孤立感を感じてしまったり、軋轢を生んでしまうような時にも、イエスさまは、神さまは共にいてくださる。そして、この私に水一杯でも飲ませてくれる者に、必ず報いてくださると約束してくださっている。

たとえ家族がそんな大層な思いでなくても、キリスト者である私を相変わらず家族として迎え入れてくれているということは、わたしを…、イエスさまを、神さまを受け入れていることと同じことなのだ、とさえ言ってくださっている。だからこそ、なのです。単に、わたしに従え、というだけの方ならば、私たちは付いて行けない。やはり家族は捨てられない。

しかし、この私のことばかりでない、私たちの家族のことも、私たちのことを受け入れてくれる人々のことも、ちゃんと考えてくださっている方だからこそ、私たちは何よりもこの方のことを第一としていけるのではないか。そう思うのです。

《 祈り 》
・梅雨の時期も3分の1ほどが過ぎましたが、今年も局地的な豪雨が続いています。これも温暖化の影響なのか、以前の梅雨とは異なり、降る時には猛烈な雨が降り、災害にまで発展してしまいます。昨日から九州地方では猛烈な雨が降って、災害が心配されていますが、どうぞ大きな被害が出るような災害とならないようにお守りください。このところ毎年のように深刻な被害が出てしまっていますが、どうぞ憐れんでくださいますようにお願いいたします。

・このところ都内では50名前後の新規感染者数が出ており、心配しています。経済活動との両立という難しい時代に入っていますが、以前のように医療機関が逼迫するような事態にならないように、それぞれが自分たちができる対策をしっかりしていくことができるようにお導きください。

世界では本当に深刻な状態が続いていますが、特に医療機関にも十分にかかることのできない貧しい方々から多くの犠牲者が出ているとも聞きます。どうぞ憐れんでくださいますようにお願いいたします。

・アメリカをはじめ、あちらこちらの国々・地域で、人種差別に端を発して、様々なことが問い直されているとも聞きます。日本人の中にもアジアの方々に対する差別意識や優越思想が根強くあるようにも感じています。過去の過ち、現代の課題、問題意識にも真摯に向き合い、少しでも御心に叶った判断を一人一人が志していくことができますように、どうぞ導いてください。

・現在、紛争下にある国々や貧困者の多い国々などの食料不足がより深刻化していると言われています。それは、この新型コロナの影響で物資の移動が困難になったり、また、感染の危険から職員を守るための人員不足などによるとも言われています。全世界規模のパンデミックで、それぞれの国でも余裕がないのでしょうが、どんどんと置き去りになってしまっている国々、人々を思うと胸が痛みます。私たちができることといえば、ほんのわずかなことですが、それらの人々のためにも祈りつつ、小さな援助の業を行うことができるように。また、援助する国々、団体も多く起こされますように、どうぞ憐れみお助けください。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

アーメン



*1ウィキペディア:『信仰の寓意』ヨハネス・フェルメール

-週報- 2020年6月28日 聖霊降臨後第4主日礼拝

 



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 “めぐみ”ヒムプレーヤー音源

前  奏 最愛なるイエスよ、われらここに     J.S.バッハ

初めの歌  9( ちからの主を )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

特別の祈り

力(ちから)なる神(かみ)さま。
生まれながら弱い私たちは、あなたによらないで正しいことを行うことができません。あなたの戒めを守り、思いと言葉と行いのすべてで、あなたに仕えることができるように、み力で支えてください。


み子、主イエス・キリストによって祈ります。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

 

第1 の朗読 エレミヤ書 28:5-9( 旧約 1229頁)

第2 の朗読  ローマの信徒への手紙 6:12-23( 新約 281頁)

福音書の朗読 マタイによる福音書 10:40−42( 新約 19頁 )

みことばのうた 85( 主の真理(まこと)は )

説教 「 キリストと一つ 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 338( 主よ、おわりまで )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  344( とらえたまえ、わが身を )

後  奏 我は汝に呼ばわる、主イエスキリストよ  J.S.バッハ

* 前奏・後奏(上村朋子 選曲)

【テキスト・音声版】2020年6月21日 説教「困難な時代を生きる」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第三主日礼拝説教



ライブ配信はこちらからご視聴できます。

 

聖書箇所:マタイによる福音書10章24~39節

今朝の福音書の日課は、大変厳しい内容の箇所でした。日課ではありませんでしたので読みませんでしたが、今日の箇所の小見出しに「迫害を予告する」とありますように、10章16節以下には「迫害」について記されています。ですから、今日の日課の底辺に流れているのは、「迫害」ということでしょう。

ご存知のように、キリスト教の歴史は迫害の歴史でもありました。おそらく、この福音書を最初に読んでいた教会の人々も、程度の差こそあれ、様々な迫害に遭っていたことでしょう。キリスト者…、キリストを信じる者というだけで、人々から疎んじられ、白眼視され、陰口を叩かれ、罵詈雑言を浴びせられ、時には実際に暴力までも振るわれる…。中には、そんな嫌がらせ、迫害に耐えかねて教会を去って行った人々もいたでしょう。それが、この箇所を読んでいた人々の現実でもあった。

幸いにして、今の私たちは、この箇所を読んでも縁遠く感じていられます。先ほど言いましたように、知識として、過去に起こっていた出来事としては理解できても、自分のこととしては感じずに済んでいるからです。信教の自由が保障されている現代日本では、信仰という事柄だけではあからさまな嫌がらせなどを受けることは、まず滅多にないでしょう。

The Procession To Calvary(ゴルゴタの丘への行進) 1564,Pieter Brueghel The Elder ※1



また、近年は随分と変わったとしても、今だにキリスト教のイメージは日本ではそれほど悪くないと思います。西洋美術に西洋音楽、むさしの教会にもあります素敵なステンドグラスにヨーロッパを思わせる建築物。そういった文化的なものに憧れや関心を持つ人々も決して少なくないからです。そして、なんとなく抱いているキリスト者のイメージも決して悪くはない。ですから、イベントごとには、結構多くの方々が来てくださいます。

先ほどは、キリスト教は迫害の歴史だ、と言いました。確かに、そうです。そして、大方は、キリスト教は迫害を受けた側だと理解していることでしょう。しかし、実はそうではないのです。キリスト教の迫害の歴史は、被害者でもあり加害者でもあるからです。

このところ、時間が与えられていますので、いろいろと本を読ませてもらっています。その中で、改めてキリスト教の歴史についての本を読みました。正直、後味が悪かった。

物事には光りと影があるものです。キリスト教の歴史も例外ではないでしょう。しかし、光どころではない。あまりに影が濃くって光が見出せないほど惨憺たるものでした。もっとも、著者がそういったこともしっかりと記そうとしたからなのかもしれませんが…。権力闘争、聖職売買、あらゆる堕落、信仰の名の下の流血…、等々。確かに、教会は迫害を受けて来た。

日本におけるキリシタンの迫害もまさにそうでしょう。しかし、一方で、教会も他の人たちを迫害してきた。同じキリスト者同士であっても迫害をしてきた。しかも、残虐極まりない方法で。そういった歴史が確かにある。迫害のことばかりではありませんが、私たちキリスト者たちも、そういった現実を真摯に受け止めなければならないと思います。

そして、そういった教会の様々な過ち、思惑も含めて、政治、経済、不満の爆発などが歴史を動かして行く。はっきり言って、そこに正義はあるのか、と思う。もちろん、彼らはそれを正義だと主張し、場合によっては本当に正義だと思い込んでいるのかもしれませんが、しかし、所詮は自分たちの利益のために他ならない。そして、虐げられてきた者たちが爆発し、大抵は血を流して終わるのです。

現在のコロナ禍の中で見えて来たものがある、と言われます。あるいは、「コロナ後の世界」といったことも言われています。アメリカで起こった大きな人種差別に対する抗議運動もその一つかもしれません。潜在化していた紛れもない問題が、このコロナ禍で顕在化してきた。

あるいは、近頃の北朝鮮の過激な言動も関連があるとも言われています。経済封鎖の上、このコロナ禍での危機的な状況がその背後にあるのではないか、と指摘されているからです。ともかく、人々は、あるいは人類は、危機的な状況の中でどう動くか分からないのです。

今まで通りの秩序や価値観が維持されるとも限らない。そこで、権力闘争がおこり、経済的理由で混乱が生じ、不満分子が一気に火を吹き暴動が起きるかもしれない。その矛先が、私たちに向けられないとも限らない。

もちろん、そういった可能性は大きくはないとは個人的には思っていますが、しかし、歴史を見れば、そういった理性では測ることのできない激動が決して起こらないとも言えないわけです。

たとえ、そうでなくても、現実においても私たちはある種の不安をいつも抱えているのかもしれません。なぜ公に、自分がキリスト者であることを言い表せないのか。そのために不利益を被ることを恐るからです。人々の自分を見る目が気になるからです。

今まで通りの付き合いができなくなるのではないか、と不安になるからです。プチ「迫害」への恐れ、です。私にも、記憶がある。まだ牧師になる前の私は、一人の普通のキリスト者でした。いいえ、どちらかと言えば不熱心なキリスト者でした。堂々と自分がキリスト者だと言えるときもあれば、隠してしまう時もあった。

なんとなく雰囲気を感じ取って、言わない方が無難だな、と思うような時も決して少なくありませんでした。ですから、言えない気持ち、言いたくない気持ちも良く分かります。しかも、ことは表明するかしないか、だけでもありません。

キリスト者としての生き方、あり方を前面に出すことを躊躇してしまうことがある。キリスト者である自分の価値観からすれば間違っていると思っても、なかなか言えない。何か言ようものなら、「お前はクリスチャンだから」と揶揄されることを恐れてしまう。間違っている、良くないと思いながらも、なんとなく付き合ってしまう。その方が平和だから。

それは、職場や社会の中だけでもないわけです。家庭の中でもそう。信仰の事柄よりも波風立てないことを優先してしまう。それは、決して信仰者ではない家庭の中に止まりません。いわゆるクリスチャン・ホームと言われる中でも起こることです。同じ信仰を持つ者たちであっても、ほどほどがいいのです。熱心すぎると困るので
す。自分の生活が脅かされるような熱心さは不要なのです。だから、献身したいと言い出すと、とたんに反対し、その熱心さを咎めるクリスチャン家庭もある。何事もほどほどがいい。平和を失いたくない。その気持ちも良く分かります。

ともかく、今日の箇所は私たちと無関係だ、と過ごすわけにはいかないのです。遠い過去のこと、歴史の一場面と安易に捉えることも間違いなのです。25節にこう記されています。「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」。次週の日課にありますように、私たちのことを受け入れてくれる人々は確かに存在します。キリスト者だといった理由だけで良くしてくれる人も確かにいる。

しかし、イエスさまがそうだったように、どうしてか分かりませんが、反対する者たちも多くいるのです。私たちの目からすれば不思議でならない。真理を語り、愛に富み、良きことをしているのに、そのことを目の当たりにしているはずなのに、なぜか反発する人々が確かにいるのです。偽善者扱いし、悪魔に取り憑かれているとさえ言う。

イエスさまがそうであったならば、イエスさまの弟子であるあなたがたもそうではないか、と言われるのです。悪を行ったからではありません。不正を働いたからでもありません。善を行ったにも関わらず、イエス・キリストと関わりがあるというだけで、宣教したというだけで迫害を受ける。それが、弟子たちの姿でもあった。だから、イエスさまはこうも言われる。

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。天を見上げることが必要なのです。あの最初の殉教者であったステファノもそうでした。まさに石を投げつけられようとした時、彼は天を見上げてこう言いました。

「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」。私たちの力、希望は全てこの天の神さま、父・子・聖霊なる神さまにかかっている。確かにそう。しかし、ではこの私たちが、かつての信仰の英雄たちと同じように迫害に対峙できるのか、と言えば、自信満々に「そうだ」と答えらえる人はまずいないでしょう。

「迫害」と言えば、遠藤周作の『沈黙』を思い出さずにはいられません。ご存知のように、キリシタン迫害下が舞台ですが、その弾圧の苛烈さに目を覆いたくなるほどです。その迫害下にあっても、勇敢に最後まで信仰を貫き通して殉教の死を遂げて行く信仰の英雄たちもいれば、そのあまりの過酷さに棄教する者たちも多く出て来ます。その弱さの代表なのが、もう一人の重要人物キチジローでしょう。

すでに迫害下の中にあった日本に、主人公のロドリゴは秘密裏にやってきて、隠れキリシタンたちを力づけていきますが、先ほどのキチジローに裏切られ、囚われてしまいます。当時のカトリック宣教師たちにとって、殉教は大変名誉なことでしたので、ロドリゴも殉教することを願いますが、しかし、自分が棄教しない限り、代わりに信徒たちが拷問され続けることを知って、ついに彼は信徒を救うために棄教することを決意します。信仰を捨てたくないのに捨てざるを得ないロドリゴ。

自分の弱さの故に信仰を捨てる決意をしたものの、しかし、捨てきれずに自分の弱さを後悔し続けるキチジロー。どちらの気持ちも痛いほど良く分かる。先ほども言いましたように、迫害にあっても最後まで信仰に生きた信仰の英雄にこそ神さまは目を留めてくださる。そう考えるのが伝統的な信仰理解だったでしょう。

しかし、遠藤は、人の弱さにこそ目を留めてくださっている神さまのお姿を明確に示していきました。確かに、私自身も、弱さのために信仰を守り通すことのできなかった、棄教してしまった、転んでしまったキチジローのような弱き信仰者たちも、神さまは英雄たちと同じようにお救いくださると信じています。しかし、それでも、この言葉はどうしても無視できないのだと思うのです。

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。

どんな迫害が来ても微塵も動じず、殉教さえも厭わない信仰の英雄が必ずしも望まれているのではないと思います。誰からも揶揄されない、恥じることのない立派な人物が求められているのでもないと思います。一度でも失敗したらもうアウトということでもないでしょう。

現に、この言葉を直に聞いた弟子たちは、この通りには生きられなかったからです。ペトロなどは、三度もイエスさまを知らないと言ってしまった。だからこそのイエスさまの十字架だと言えるのです。罪の赦しです。弱さの労りです。しかし、そうであっても、私たちはこの言葉の前に言い逃れをして良いのか、とも思う。弱さがあっても、失敗があっても、反省があってもいい。

それと、無視することとは違うからです。私たちは英雄にはなれないのかもしれない。やはり、不安で恐れるのかもしれない。目に見える迫害がない時代でも、その不安は消えないのかもしれない。しかし、いいえ、だからこそ、私たちは聖書を通して、ますますこの方を、普段私たちが見えている現実ではなく天を、天の現実を見る必要があるのだと思うのです。ペトロをはじめ、弟子たちを変えていった現実を。英雄にはなれなかった、弱さを嘆いてきた多くのキリスト者たちをそれでも立ち上がらせていった現実を。

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐るな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。

「小鳥への説教」(画:ジョット、1305年頃)※2



《 祈り》
・今、北朝鮮と韓国とが、大変厳しい状況に置かれています。傍若無人(ぼうじゃくぶじん)で悪質な北朝鮮の謀略行為ですが、一方で餓死者が出るほどの厳しい国内事情の現れだとも言われています。

もともとの農作物の不作に加え、新型コロナによる国境封鎖の影響で食料の供給が滞り、1990年代に300万人もの餓死者が出た頃に迫る危機的な状況とも言われています。核兵器問題を抱える北朝鮮のためにどのように祈れば良いのか分かりませんが、しかし、いつでも虐げられ、苦しい思いをするのは、弱き者たちですので、国同士のいざこざやプライドによるのではなく、弱者のための解決を双方がまず求めることができるように、国の指導者や国民たちを、また世界の世論を導いてくださいますようにお願いいたします。

・アメリカからはじまった人種差別における抗議運動も続けられています。それは、世界中で現に人種差別が横行しているといった事実があるからでしょう。日本も他人事ではありません。日本では「白人」「黒人」といった差別はないのかもしれませんが、同じアジアの人々に対しては少なからず差別意識を持っているのかもしれません。

現に、アジアの人々に対する差別的なヘイトスピーチが後を絶たないからです。どうぞ、人種差別をはじめとした様々な差別がなくなりますように。一人一人の人権を大切にする世界が広がっていきますように、私たち一人一人の意識を変えていってくださいますようにお願いいたします。

・現在、紛争下にある国々や貧困者の多い国々などの食料不足がより深刻化していると言われています。それは、この新型コロナの影響で物資の移動が困難になったり、また、感染の危険から職員を守るための人員不足などによるとも言われています。全世界規模のパンデミックで、それぞれの国でも余裕がないのでしょうが、どんどんと置き去りになってしまっている国々、人々を思うと胸が痛みます。

私たちができることといえば、ほんのわずかなことですが、それらの人々のためにも祈りつつ、小さな援助の業を行うことができ
るように。また、援助する国々、団体も多く起こされますように、どうぞ憐れみお助けください。

・新型コロナの脅威からも人々を守ってくださいますように。医療従事者たちを顧みてくださいますようにお願いいたします。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン



 

※1, ゴルゴタの丘への行進 – 中央に十字架を担うキリスト、右上にゴルゴダの丘
※2,フレスコ画、サン・フランチェスコ聖堂上堂、アッシジ

-週報- 2020年6月21日 聖霊降臨後第3主日



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 “めぐみ”ヒムプレーヤー音源

前  奏 アリア(組曲・水上の音楽より) G.ヘンデル

初めの歌  6( われら主をたたえまし )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

特別の祈り

すべての民の主なる神さま。

あなたはあなたの民にみ心を示し、あなたの民を救う約束を与えられました。
私たちがあなたの戒めに耳を傾け、み旨を行うために、あなたの強い力で
支えてください。

み子、主イエス・キリストによって祈ります。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

第1 の朗読 エレミヤ書 20:7-13( 旧約 1214頁)

第2 の朗読  ローマの信徒への手紙 6:1b-11( 新約 280頁)

福音書の朗読 マタイによる福音書 10:24−39( 新約 18頁 )

みことばのうた 249( われつみびとの )

説  教  「 困難な時代を生きる 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 273A( わがたましいを )

信仰の告白  使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  494( わが行くみち )

後  奏 イエス、わが喜び   J.S.バッハ

* 前奏・後奏(小山泉 選曲)

-週報- 2020年6月14日 聖霊降臨後第二主日

 



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 中山 康子 (録音)

前  奏 詩編19編   ベネデット・マルチェッロ  編曲 T.E.G.

初めの歌  1( 神のちからを )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

特別の祈り

力なる神さま。生まれながら弱い私たちは、あなたによらないで正しいことを行うことができません。あなたの戒めを守り、思いと言葉と行いのすべてであなたに仕えることができるよう、み力によって支えてください。

み子、主イエス・キリストによって祈ります。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

 

第1 の朗読 創出エジプト記 19:2-8a( 旧約 124頁)

第2 の朗読  ローマの信徒への手紙 5:1-8( 新約 279頁 )

福音書の朗読 マタイによる福音書 9:35−10:8( 新約 17頁 )

みことばのうた 239( さまよう人々 )

説教 「 わたしたちも行こう 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 【21】408( この世のもので )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  352( あめなるよろこび )

後  奏 さあ、イエス様とずっと一緒に歩こう   R. ヒラート

* 前奏・後奏(今回自宅録音)

【音声版・テキスト】2020年6月14日 説教「わたしたちも行こう」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第二主日礼拝説教



Live版はこちらから

聖書箇所:マタイによる福音書9章35~10章8節

先程お読みした第一の朗読は、出エジプトの物語の一場面でした。ある方の言い方をすれば、旧約聖書の中でも最も大切な意味を持つものの一つ、ということです。

ご承知のように、イスラエルの民はアブラハムに遡ります。神さまのお告げを受けたアブラハムは、故郷を捨てて神さまが示された地、子孫に与えると約束された土地であるパレスチナに移り住みます。そこで、約束の子としてのイサクをもうけ、イサクはヤコブをもうけました。

このヤコブは4人の妻によって、後のイスラエルの12部族の始祖ともなる12人の息子たちを得ることが出来ましたが、父に溺愛されていたヨセフを妬んだ兄たちは、ヨセフを奴隷商人に売り飛ばしてしまいます。奴隷としてエジプトに連れてこられたヨセフは不遇な青年期を送りますが、王さまの夢を解き明かす機会が与えらえ、見事解き明かしたヨセフを気に入った王さま・ファラオはヨセフを宰相に取り立てます。

その頃、飢饉に見舞われていたパレスチナからヨセフのいるエジプトに兄たちが穀物を買いに来たことから再会を果たし、紆余曲折はありましたが和解することが出来、父ヤコブも含めた一族揃って、ヨセフを頼ってエジプトに住むことになりました。この頃は、ヨセフのおかげでイスラエルの民たちも特権的な地位を得ていたわけですが、時代が移り、政治情勢が変わったことによって不遇な時代へと突き進むようになりました。イスラエルの民たちは奴隷とされ、強制労働に酷使されるようになったのです。



また、新たに生まれてくる男子の赤子を皆殺しにするようにとの命令まで受けるようになります。まさに、民族存亡の危機でした。そんな圧政に苦しんでいた民を救い出すために、神さまはモーセを立てられ、出エジプトを計画されたのです。10の災いを含めた王との様々なやり取りを経て、ようやくイスラエルの民たちは、エジプトから出ていくことが出来ました。

その時に、あの有名な、いわゆる「紅海渡渉」の奇跡も起こりました。エジプトからの脱出を果たしたイスラエルの民たちでしたが、約束の地であるパレスチナまでの道のりも、決して簡単なものではありませんでした。その途中に立ち寄ったシナイ山の出来事が、今日お読みした19章から続いていくことになります。

そのシナイ山でモーセは神さまから次のような語りかけを聞きます。(3節~)「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た わたしがエジプト人にしたこと また、あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。

あなたたちは、わたしにとって 祭司の王国、聖なる国民となる』」。これは、イスラエルの民たちと神さまとの基本的な関係性と言えるでしょう。強いて言えば、私たち人と神さまとの関係性と言っていいのかも知れません。まず神さまはモーセに、今ここにいるイスラエルの人々が確かに「見た」という事実を告げよ、と言われます。見た、とは、体験した、と言っても良いでしょう。彼らは、確かに体験した。何を。救いを、です。

この出エジプトの出来事は、イスラエルの人々にとっては、全く予期していなかったこと、期待もしていなかったことでした。たとえモーセが非常に有能な人であったとしても、人ひとりの力で一体何ができるでしょうか。エジプトの人々からすれば、イスラエルの民たちは、安価で使い勝手のいい労働力です。不都合になれば、殺してしまえばいい。

彼らにとっては、一つの自分たちの所有物、財産にすぎない訳です。そんなものをみすみす手放すはずがない。事実、先ほど「10の災い」と言いましたが、なぜ10もの災いが必要だったかと言えば、その都度王さまが心変わりをしたからです。やはり、王さまをはじめ、エジプトの人々にとっては手放すのは惜しい存在なのです。しかも、当のイスラエルの人々からもモーセは一切支持されていませんでした。むしろ、モーセの訴えに懐疑的だった。そんなことが起こるはずはない、と。

“エジプト第七の災い”, ジョン・マーティン, 1824年 Leona R. Beal Gallery (European Art 1800–1870)



むしろ、モーセの企みは自分たちをより窮地に追い込むようなものだと否定的だった。ですから、この出エジプトの目論見など成功するとは思えなかったのです。当のモーセ自身も最初はそう思い、神さまから遣わされることを躊躇したほどです。しかし、そんな彼らが「見た」のです。救いの業を。不可能と思われていたことが、現実に起こっていくさまをつぶさに見ていた。そして、自分たちの気持ちも変わっていくのが分かった。だからこそ、それは神さまの業、救いの業でしかないことを信じたのです。

不可能なことを可能にできるのは神さま以外にはありえないからです。ですから、こう言われる。「あなたたちは見た わたしがエジプト人にしたことまた、あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを」。だからこその、「今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば」なのです。何の根拠もなく、そう命じられたのではない。強要されるのでもない。

確かに、あなたがたは見たはずだ。わたしがあなたがたを救ったことを。ならば、「わたしの声に聞き従い わたしの契約を守る」ことも無理からぬことではないか、と。これは、約束の伴う自発的な応答への勧めです。神さまの救いのみ業を見たからこそ、自ら進んで答えることのできる盟約なのです。ですから、その救いの出来事の記憶も新しい彼らイスラエルの民たちはこう言うことができた。「民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います』と言った」。

どうでしょうか。この言葉を語った時の民たちの喜びの表情が見えて来ないでしょうか。彼らはこのとき、確かに、強いられてでも強制されてでもなく、嫌々でも無理矢理にでもなく、あの悪夢とも思えるような現実から救ってくださった神さまに対して、喜んで、真心からこう語ったに違いないと思う。しかし、私たちは知っている。その後、この民たちがどのようになっていったかということを。先ほども言いましたように、確かに約束の地であるパレスチナへの道のりは決して簡単なものではありませんでした。

こんなはずではなかった、期待外れだった、と思えるような現実も多々あった。それらは確かに、同情できない訳ではない。しかし、彼らは、自分たちを苦しめていたエジプトを懐かしむことさえしだした。エジプトから出て来なければよかった、とさえ語りだした。つまり、救われなかった方がまだましだった、と言っているようなものです。神さまの救いの業の全否定と言ってもいい。しかも、彼らは他の神々、いわゆる偶像に心が奪われるまでになっていった。

つまり、神さまの救いの業の全否定に飽き足らず、他の救いを求めていた、ということでしょう。これは、明らかに、神さまを捨てた、ということです。神さまが人を、イスラエルの民たちを捨てたのではない。彼らが、イスラエルの民たちが、人が神さまを捨てた。当然、そんな状態では、この契約は破棄されたことになる。もはや、神さまにとって、彼らは「宝」でなくなるのは当然のことでしょう。神さまから見限られてもおかしくない。これが、イスラエルの民たちが辿った道筋です。いいえ、イスラエルの民たちに限定できるのだろうか。

私たちにだって身に覚えがあるはずです。明確に神さまを捨てた自覚がなくても、他の神々に乗り換えた覚えはなくても、神さまから遠く心が離れてしまい、もはや救いの事実も見えなくなってしまっている現実、信頼も期待もおけていない現実がある。そう、神さまが私たちを捨てたのではない。私たちが神さまを捨ててしまっている現実です。

そんな民たちを神さまがお怒りになるのも当然でしょう。私たちはどうも、この神さまの怒りに対してとことん否定的です。愛が裏切られたときの怒りが当然だということを知っているのに。私たちも心痛め、怒る。相手を愛しているからです。その愛している者の裏切りだからこそ怒りが生まれる。では、裏切られた者は、どんな態度に出るのか。復讐をしたくなる。同じ痛みを味わわせてやりたい、と思う。もう金輪際顔も見たくないと関係を断絶したくなる。



そういった神さまのお姿も、聖書には度々記されている。そうする権利が神さまにはある。一方的に裏切られ、契約が破られたからです。そうしても良かった。そんなそぶりも見え隠れしていた。しかし、神さまはどうしてもイスラエルの民たちを、人を、私たちを、見捨てることができなかった。愛することを止めることができなかった。憎しみに身をまかせることができなかった。

そして、本来あるべき救いの方法…、先ほどの出エジプト記に記されているような自発的な応答による契約では人を救い得ないならば、と他の方法を模索された。それが、今日の第二の朗読、神の独り子イエス・キリストによる贖いを信じる、という方法なのです。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

……実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。

今日の福音書で、イエスさまが宣教をされていた動機がこのように記されていました。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。イエスさまから見れば、神さまから離れてしまっている民たちの姿はそのように映っていたのです。もちろん、彼らはユダヤ人です。信仰がない訳ではない。しかし、当時の彼らの多くは神さまの愛のお姿も、救いのみ業も、自分たちを思いやってくださっている心も見えなくなっていた。

だからといって、そのことを銘々が自覚していたということとはイコールではないのです。羊飼いからはぐれてしまっていても気づかないことがある。その羊飼いの必要性・重要性に無自覚なときもある。目の前に広がっている草、現実ばかりしか目に入っていない時には、案外気づかないものです。外敵に襲われた時、食料がなくなったとき、喉が乾いた時、つまり、自分にとって危機的な状況に陥らなければ、羊飼いの不在に気づかないのかもしれない。

だから、ある意味のんきに生きることができる。しかし、困難が起こった時、生きるべき、向かうべき方向、道が見えなくなってしまった時、死の危険、恐れが迫って来た時、羊飼いのいない私たちは、とたんに太刀打ちできなくなるのです。イエスさまの目には、私たちはそんなふうに映っていた。だから、弟子たちに収穫の主である神さまに働き人を与えてくださるように祈るようにと促し、弟子たちを宣教へと遣わされました。

もう時間がないので一言。私たちも含めてかもしれませんが、「飼い主のいない羊」のように弱り果てておられる方々がこの世界には多くおられます。しかも、その大多数は、そのことに無自覚でいる。神さまと離れているのに、のんきでいる人々がいる。だから、宣教が必要なのです。そののんきさは永遠に続くものでは決してないからです。必ず「羊飼い」がいないことに困ってしまうときがくる。だから、宣教する。そして、その宣教に、私たちもまた用いられていることを、今日新たに覚えたいと思います。

ルカ・シニョレッリ『12使徒の聖体拝受』 Communion of the Apostles (Signorelli),1512,Diocesan Museum , Cortona



《祈り》
・日本各地が梅雨に入りました。特にここ数年は温暖化の影響もあってか、毎年大きな豪雨被害が出ています。今年の梅雨もそんな懸念が出されていますが、どうぞ憐れんでくださり、大きな被害が出ないようにお守りくださいますようにお願いいたします。また、今年は特に新型コロナの問題もあり、避難所生活などにおける危惧もあります。

一人一人が、新型コロナに対する意識ばかりでなく、災害大国に住んでいる意識を持ちつつ、普段から備えなども怠ることのないように、また、いざという時の対策なども事前にしっかりと立てて行くことができますように、特に災害弱者と言われる方々などに行政の手などがしっかりと届いていきますように、どうぞお導きください。

・また、蒸し暑い時期にもなります。例年、熱中症にかかる方々が多くでますが、今年は特に新型コロナの影響もあり、マスクなどの着用によって、より熱中症のリスクが高まるとも言われています。本当に、あれもこれもと大変な状況の中にありますが、どうぞ一人一人をお守りくださり、特に熱中症にもなりやすいご年配の方々などをお守りくださいますようにお願いいたします。

・日本では比較的落ち着いているように見えますが、世界では相変わらず新型コロナウイルスが猛威を振るっています。どうぞ、憐れんでください。日本でも、いつ危険な状態になるか分かりませんので、十分に注意をしていくことができますようにお導きください。
日本でも世界においても感染症対策と経済活動という相反する難しい課題の舵取りを同時にしなくてはならない状況におかれています。指導する者たちが適切な判断をしていくことができるように、政争の道具にしたり、一部の支持者向けの判断ではなく、必要な判断を適切にしていくことができるようにもどうぞお導きください。

・アメリカからはじまった人種差別における抗議運動も世界に広がっています。それは、世界中で現に人種差別が横行しているといった表れでもあるのでしょう。どうぞ、人種差別をはじめとした様々な差別がなくなりますように。一人一人の人権を大切にする世界が広がっていきますように、どうぞ導いてください。

・北朝鮮も不穏な動きを見せています。アメリカと中国もこの新型コロナによってますます難しい状態になっているとも言われています。それ以外にも対立している国々、指導者たちも多くいます。どうぞ、世界が平和になりますように、悔い改めに導いてください。
イエス・キリストの御名によって。

アーメン

【重要】4 / 5 / 6 月の礼拝について

みなさまへ

当教会では予てから来会者への新型コロナウイルス感染防止対策の一環として、 3月29日以降6月にまたがり主日礼拝は外出なさらずに『ご自宅での礼拝』で祈りを合わせていただいて参りました。

5/25(4/8 以降実施)政府の緊急事態宣言解除に伴い東京都の外出自粛要請の段階 的移行(Step1〜Step3)が実施される中、6/2発動された東京アラートも6/11解除 となりましたが、全てがままならない状況の中で、難儀されておられる方々も多いと 存じます。

当教会では現状の推移を鑑みて、集会形式の礼拝再開準備を進めておりますので、今暫くご自宅での礼拝に祈りを合わせていただきたく存じます。
再開のお知らせは、近日中に教会掲示板、ホームページ、メール、電話、葉書にて速やかにご案内の予定です。どうぞ、みなさまの上に主の豊かな平安とお守りをお祈り申し上げます。

当教会の礼拝内容(オンライン礼拝配信)・活動情報は随時、ホームページに掲載しておりますのでご覧ください。

日本福音ルーテルむさしの教会
牧師 浅野 直樹・役員一同