【 説教・音声版 】2022年5月22日(日)10:30  復活節第6主日礼拝  説教 「 聖霊の約束 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書14章23~29


今年もペンテコステ・聖霊降臨祭が近づいて参りました。今日の日課には、そんな聖霊の働きについても記されていました。

聖霊…。私たちは、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体なる神を信じています。これが、私たちキリスト教信仰の基本中の基本ということになります。しかし、先ほどの父なる神は創造主、子なる神は私たちの救い主イエス・キリストと良く理解されているのに対しまして、この聖霊なる神については、よくわからない、といった声も度々耳に致します。

徳善先生が訳されました『エンキリディオン 小教理問答』には、このように記されています。ご存知のように、「使徒信条」は三位一体なる神を告白している訳ですが̶̶使 徒信条に限らず、聖餐式礼拝の時に唱える「ニケヤ信条」も同様ですが̶̶聖霊の箇所に ついては、「第三条 聖化について」とあり、次のように記していきます。「答え 私は信じている。私は自分の理性や力では、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみ許に来ることもできないが、聖霊が福音によって私を召し、その賜物をもって照らし、正しい信仰において聖め、保ってくださったことを。同じように聖霊は地上の全キリスト教会を召し、集め、照らし、聖め、イエス・キリストのみ許にあって正しい、ひとつの信仰の内に保ってくださる。

このキリスト教会において聖霊は日毎に私とすべての信仰者のすべての罪を豊かに赦し、終わりの日には私とすべての死者とを呼び起こし、すべての信仰者と共に私にキリストにある永遠のいのちを与えてくださるのだ。これは確かに真実なのだよ」。聞くだけでは、なかなか理解しづらいと思いますが、要するに、私たち個々人においても、また教会、もっと広くキリスト教世界と言っても良いのかもしれませんが、ともかく聖霊によらなければ何もはじまらない、ということです。

聖霊の働きがなければ、神さまを、イエスさまを求めることもできないし、救いの出来事(ルター風に言えば、罪の赦しということでしょうが)にも関心を抱けないし、信仰の歩みなどあり得ない、ということです。今日、今、この礼拝堂に集まって、あるいはライブ配信等によっても、礼拝することなどあり得ない。つまり、逆に言えば、私たちが一つ一つその働きを意識しようとしなかろうと、信仰の事柄がそこにあるということは、聖霊の働きがあるからです。

先々週もお話ししましたように、例えそれが信仰の悩みであったとしても、自分の不信仰さに嫌気が差すような思いであったとしても、神さまに悔いる・謝罪するしかないような日常であったとしても、つまり、とても信仰者らしい振る舞いではないように思えるようなことであったとしても、聖霊の働きがなければ何も起こらない。何一つ始まらないのです。それらがあるということは、与えられているということは、そこに必ず聖霊の働きがあるからです。少なくとも、ルターはそのように理解していたのではないか、そう思う。

私たちは、どうしても自分基準で物事を見てしまいやすい。信仰の事柄も、聖霊の働きについても、きっとこうではないか、と自分で測ってしまいやすい。しかし、そうではありません。なぜなら、あなたを救いたがっているのは、あなた自身ではないからです。そうではなくて、神さまがそのように欲しておられるからです。私たちは、自分自身の救いさえも求めることができないのです。それが、不信仰というものです。なのになぜ、私たちは救いを求めているのか。少しでも神さまを信じたいと欲しているのか。信仰の弱さを嘆いているのか。聖霊なる神さまが、いいえ、父・子・聖霊なる三位一体なる神さまが、この私たちを欲しておられるからです。救いたい、と。癒したい、と。愛の中に包み込みたい、と。平安を与えたい、と。真の自由、命へと導きたい、と。私たちではない。神さまが、そう欲しておられる。だからこその、聖霊の働きなのです。

先々週だったでしょうか。私たちがイエスさまの羊であるといった話をした時、その羊の特徴はイエスさまの声を聞き分けることだ、と言いました。それが、ヨハネが記すイエスさまの羊の第一の特徴です。今日の箇所にも同様のことが記されていました。23節

「イエスはこう答えて言われた。『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。……わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない』」。イエスさまの羊であるならば、飼い主であるイエスさまを、たとえ拙い不十分な愛だとしても、愛するはずです。自分なりの小さな愛で愛そうとするはず。それは、御言葉を守ることだ、とおっしゃる。御言葉に従うことだ、とおっしゃる。では、そんな御言葉を守る、御言葉に従うということはどういうことなのだろうか。

私は、そのことを考える上で、あのペトロの召命物語が良い例ではないか、と思っています。ルカによる福音書です。もうよくお分かりだと思いますので、くどくどと説明しませんが、ペトロはガリラヤ湖の漁師でした。夜通し働いたのに何も収穫がなかったところにイエスさまが現れ、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。その時のペトロの答えがこうです。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。

皆さんもよくご存知の言葉だと思います。ここでペトロはこう答えました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と。これが、おそらく私たちの自然な反応でしょう。ペトロはもう何年もここで漁師として生活していた。そんな彼の知恵、知識、経験則が、また感覚、感情、思いが、「夜通し働いたのにとれなかったから無理だ」と結論づけたわけです。もし、ここで終わってしまったら、それはイエスさまの羊ではなくなってしまいます。なぜなら、御言葉を大切にしないどころか、無視することになるからです。

グイド・レーニ作「鍵を聖ペテロに渡すキリスト」、1624-1626年、パリ、ルーヴル美術館



しかし、ペトロはこう続けることができた。「しかし、お言葉ですから」と。聖書には何も記されていませんが、先ほどからの聖霊の働きを考えるならば、ペトロの知らない内に、自覚のないままに、聖霊の働きがあったのかもしれない。だから、「お言葉ですから」と言えたのかもしれません。もちろん、信じていた、信じきっていた、とは言い難かったでしょう。むしろ、どうせダメに決まっている、と心の中では思っていたのかもしれない。しかし、「お言葉ですから」と進むことができたからこそ、奇跡を、イエスさまの言葉の真実を体験できたのです。そして、これが御言葉を守る、御言葉に従う、という時に大切なことだと思うのです。私たちは、相変わらず不十分な者です。ルター風に言えば、

「義人であると同時に罪人」にすぎない。つまり、信仰の恵みを頂きながらも、十分にその恩恵を発揮することができていない途上の人間に過ぎない訳です。しかし、それでも、そんな自分達の思いを超えて、「お言葉ですから」と従っていく。信じていく。それが、イエスさまを愛することにもつながっていく。そうではないでしょうか。

確かに、私たちはイエスさまの羊です。イエスさまを愛しています。だから、御言葉を信じて、従っていきたい、と思う。不完全であることを自覚しながらも、そう願わされている。しかし、では、私たちの実際の生活、現実はどうなんだろうか。「お言葉ですから」と従っていけているだろうか。むしろ、御言葉を忘れたような生き方になってはいないだろうか。そんな問いも浮かんでくるのではないでしょうか。

そこで、私たちは、このイエスさまの言葉をも信じ・信頼していく必要があるのだと思うのです。「わたしは、あなたがたといたとき、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。たとえ、私たちが忘れてしまったようになったとしても、見失ってしまったようになったとしても、神さまが遣わしてくださる聖霊によって、もう一度全てのことを教えてくださり、また思い起こさせてくださる、というのです。それが、聖霊の働き、役割である、と。しかも、雨宮神父はここの「思い起こせる」というところを、「過去の単なる想起では終わらず、イエスの言動を納得させ、さらには生きる方向をも転換させることを表す言葉」だと言っておられます。

もう一度言います。聖霊の働きがなければ、何もはじまりません。個々人においても、教会においても信仰的なことは、何一つ生まれないのです。その道中さえもままならない。そして、完成もあり得ない。つまり、全てにおいて…、キリスト者である私たちの生と死、ありふれた日常生活、全ての領域において聖霊の働きがある、ということです。私たちは、この聖霊に囲まれて生きている。私たちを救い、生かすために。何よりも御言葉によって命を得させるために。

私たちが、そう願うからではない。神さまがそう願っておられるから。だから、聖霊が与えられている。確かに、そう…。しかし、この言葉も真実でしょう。ルカは祈りについて教えている中でこのようにも語っているからです。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。聖霊降臨祭を前に、なおも「聖霊をお遣わしください」と祈る私たちでもありたい。そう思います。

【週報:司式部分】 2022年5月22日 復活節第6主日礼拝


司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 苅谷 和子

開会の部
前  奏 神の御子は勝利の凱旋をなし給う J.S.Bach

初めの歌 教会179番(1節)くらきやみに

1.くらきやみに 星はかがやき
迷えるとき み神をあおぐ。
時のながれ み手にありて
世ははじまり いまもつづく。
アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
惜しみない愛の神様。あなたは私たちをあなたの園に招き、命の木から食べさせてくださいます。
霊の力によって励まされ、互いに愛し合い、あなたの創られた世界を大切に守ることができるよう、御言葉で養ってください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。
第1の朗読 使徒言行録 16章:9-15( 新約 245 頁 )
第2の朗読 ヨハネの黙示録 21章:10-22,22章:5( 新約 478 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 14章:23-29( 新約 197 頁 )

みことばの歌 教会106番(1節)憂いをさちに

1.憂いをさちに 死をいのちに、
主は変えませり うれしき日よ。
み民よ見ずや 光の主を
くらきと罪に 勝ちたる主を

説 教 「 聖霊の約束 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会116番(1節)聖なるみ霊よ

1.聖なるみ霊(たま)よ われらの心に やどりたまいて、
喜びあふるる あめなる光を みたさせたまえ。
み霊(たま)よ われらの祈りにこたえて 力をたまえや。
アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会413番(1節)苦しみ悩みの

1.苦しみ悩(なや)みの お暗(ぐら)き道を
望みを持ちつつ うたいて進む。
行手(ゆくて)にしるべの み光あれば
主にある同胞(はらから) ふたたびまみえん。

後  奏 神のみわざはすべて善し P.Blumenthal

【週報:司式部分】 2022年5月15日 復活節第5主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 三浦 慎里子 神学生
奏  楽 萩森 英明

開会の部
前  奏 「教会讃美歌187番による前奏曲」J.G..Walther

初めの歌 教会187(1節)さかえに輝く主の

1.さかえに輝(かがや)く 主のまえに集(つど)いて
かしこみひれ伏す 天地(あめつち)すべては
とこしえの力と みさかえを語る。
み使いらも 声をあわせ 「ホサナ」と
聖なるみ神を ほめたたえうたう。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
主なる神様。あなたは、愛なしにはすべての業(わざ)は虚しいと教えてくださいます。
何が平和か、何が良いことかを理解できるように、聖霊によって生きて働く愛の賜物を注いでください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 11章:1-18( 新約 234 頁 )
第2の朗読 ヨハネの黙示録 21章:1-6b( 新約 477 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 13章:31-35( 新約 195 頁 )

みことばの歌 教会240番(3節)み言葉によりて

3.み霊(たま)なる神よ 民を一(ひとつ)にし
死より命(いのち)へと 導きたまえや。
アーメン

説 教 「 わたしが愛したように 」 三浦 慎里子 神学生

感謝の歌 教会 307番(4節)まぶねのなかに

4.この人を見よ、 この人にぞ、
こよなき愛は あらわれたる、
この人を見よ、 この人こそ
人となりたる 活(い)ける神なれ。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会199番(1節)主よいま去りゆく

1.主よいま去りゆく われらの胸(むね)を
安(やす)きと愛もて 満たしたまえや。
あらたなよろこび われらを強めん。

後  奏 「天にいますわれらの父よ」J.Pachelbel

【説教・音声版】2022年5月15日(日)10:30  復活節第5主日礼拝  説教 「わたしが愛したように 」 三浦 慎里子 神学生



ヨハネ13:31-35

「わたしが愛したように」 於:むさしの教会ついにその時がやってきました。イエス様は弟子たちの汚れた足を自ら洗い、共に食卓を囲まれます。後にイエス様を裏切る弟子のユダが、夜の闇の中へと消えてゆき、十字架の死へのカウントダウンが始まりました。ご自分が天の父のもとへと帰る時が来たことを悟ったイエス様は、「告別説教」と呼ばれる長大な教えを残されることになるのですが、本日の福音書のテキストはその告別説教の直前、弟子たちとの別れの時が迫る中で、イエス様が弟子たちに語られた最初の言葉です。

まず、イエス様はこう言われます。「今や、人の子は栄光を受けた。」栄光は、ヨハネ福音書で多く使われる言葉です。父なる神の御心を行うために、人としてこの世に遣わされた神の子イエスが、様々なしるしを通して神の栄光を現わしていく様子が、福音書全体を通して描かれています。イエス様は、ユダが動き出した時、ご自分が裏切られ、十字架にかけられて死ぬことを悟っていました。全てを悟った上で、「栄光が与えられた」と語っておられるのです。

十字架の上で罪人として無残に処刑されることが栄光でしょうか。この世の基準で考えれば、輝かしさや偉大さとは最もかけ離れた状況でしょう。しかし、イエス様の十字架は、復活と、そして父なる神のもとへ引き上げられることと結び合わされています。十字架刑に処されることは、同時に神のもとへと戻って行くことでもあるので、栄光だと言われるのです。その時が、ついに来た。神様の偉大な御心が明らかにされる時が。ご自分の命と引き換えにすべての人を救う時が来たのです。

時の到来という決定的な契機を迎えて、イエス様は弟子たちに語りかけられます。「子たちよ」と。イエス様と弟子たちの間にある親密な絆が感じられます。私がいなくなったら、この者たちは悲しみに暮れるだろう。混乱し、私を求めるだろう。共に旅をし、多くを語り合った弟子たち。私を信じてついてきてくれた弟子たち。一人一人の顔を見ながら、イエス様は何を思われたでしょうか。ご自分が不在の間も、弟子たちが、試練に打ち勝ち、御国に迎えられる日まで耐え忍んで欲しい。そう思われたのではないでしょうか。ここでイエス様が「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができない」と言われます。

これは、ヨハネ福音書8:21 でファリサイ派の人々に向かって語られたのと同じ言葉ですが、その意味合いは大きく異なっています。ファリサイ派の人々に対しては、信じない者への裁きと追放の言葉として発せられました。しかし苦楽を共にし、自分を信じてついて来た弟子たちへの言葉が、これと同じ意味で発せられたはずがありません。先週のお説教の中で浅野先生がお話されていたように、イエス様を神の子と信じる者たちが、神様とイエス様との深い関係の中に入れられていることが前提となっています。御国に入るその日まで、しばし別れなければならないけれども、あなたたちにはなんとか頑張って欲しいんだと。そこで、イエス様が弟子たちに与えられたものが、「互いを愛する」という内容の掟でした。

弟子の足を洗う:ティントレット (1519–1594) プラド美術館



「互いに愛し合いなさい」と聞いて、皆さんはどう思われますか。人それぞれ程度の差はありますが、私たちは日々の生活の中で他人に多少なりとも気を使い、責任感と思いやりを持って接しています。悩みの相談に乗ることもあるし、慈善活動に参加している人もいるかもしれません。家族も大切にしています。私たち、結構頑張っていますよね。完璧じゃないけれど、それなりに愛してはいるでしょう。それなのに、更に「互いに愛し合いなさい」と言われる。今でも頑張っているのに。しかも、イエス様はこれを「新しい掟」と呼ばれています。愛することが新しい掟?そんなこと、モーセの律法でも言われていますから特に新しいものだとは感じられません。
ところが、この掟はやはり新しいのです。それは、この後に続くイエス様の言葉「わたしがあなたがたを愛したように」という点において新しいのです。イエス様ご自身に根拠がある愛だからです。「掟」と聞くと、旧約聖書のモーセ律法を思い出しますが、ここでイエス様が与える掟はキリストの律法です。命令であるモーセ律法とは決定的に違い、キリストの律法は、キリストの愛を知った人にしか受け取ることのできない律法です。

私たちが家族や友人を愛したり、他人に親切にしたりすることは、尊く素晴らしいことだと、間違いなく言うことができます。しかし、同時に私たちは、自分の愛にはひび割れや欠けがあることに気付いています。自分にとって価値が無いものを愛することは難しいですし、愛したとしても、愛を返してもらえなければ不満や悲しみが募ります。元気で満ち足りている時には愛せても、ひとたびそれが損なわれればその愛も移ろいがちになります。壁にぶつかる時、私たちの愛はたびたび揺らぐものではないでしょうか。更に、世の中では多くの人が、自分自身のことさえも愛することができないという苦しみを抱えながら生きています。

自らの命を奪ってしまう人が後を絶ちません。私たちが愛するだけでは、平和は、そのひび割れから、欠けからこぼれ落ちていってしまいます。私たちが自分の力だけで愛することには限界があると思います。弟子たちも私たちと同じく限界を持った人間でしたし、イエス様はそのことを良く分かっておられました。だからこそ言われるのです。「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」と。この箇所は、「互いに愛し合いなさい」とはっきり命令口調で訳されていますが、原文では明確に命令口調で書かれているわけではありません。「わたしはあなたがたに新しい掟を与える、あなたがたが互いを愛するという」と、このような感じの文章なのです。命令されるというより、提案されているような少し柔らかい印象があります。へたくそな文章だと言う人もいます。

しかし私はここに、弟子たちの弱さも知り尽くした上で、それでも、私の愛に結ばれたあなたたちならできるはずだよと語りかけておられるようなイエス様の優しさと弟子たちへの信頼を感じます。イエス様が愛してくださったように愛するということは大変なことでしょう。自分の力だけでは達成できません。しかし、私たちの愛のひび割れや欠けたところには、イエス様の愛が染み込み、隙間が埋められます。私たちは一人で愛するのではなく、キリストと共に愛するのです。これは大きな励ましです。こんな弱い私でも、イエス様の愛が共にあるならばできるかもしれないと、力が湧いてくるのではないでしょうか。

そして、そのイエス様の愛は十字架の死に現わされています。イエス様の愛は十字架の形をしています。この十字架の形をした愛、ご自分の命を捨ててまで私たちのことを救おうとしてくださったイエス様の愛を、自分のものとして受け止め、心に刻み込む時初めて、私たちはイエス様と神様との深い関係に結ばれている自分を知り、この新しい掟を受け取ることができます。キリストの律法に従って生きる者とされるのです。

本日のテキストの最後にイエス様はこう言われます。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と。イエス様はここで、「わたしの弟子であることを皆に知らせなさい」とは言っていません。私たちが与えられた掟に従うならば、おのずと皆が知ることにな るだろうと言っているのです。私たちが生きるこの世界のあらゆる場所では、今 も、戦争や分裂が起こり、尊い命が奪われています。争いだけでなく、孤独も人間を内側から蝕みます。愛に飢えている人がたくさんいます。この世界には愛が 必要です。私たちは、毎週この教会で、みことばから福音を受け取り、またそれぞれの場所へと帰っていきます。それは地味で小さなことに思えるかもしれま せん。

イエス様の教えは、時に私たちの耳には現実味のないきれいごとにしか聞 こえない時もあるかもしれません。しかしその教えこそが、私たちを日々の試練 や誘惑の中で踏みとどまらせ、あるべき場所に立ちかえらせます。みことばの恵 みが、暗闇の中でどれほど明るく輝くかは、私よりも先輩である皆さんの方が、 信仰生活を通してたくさん経験しておられるのではないでしょうか。そして、私 たちの間でキリストの律法に従って起こることは、たとえ小さなことでも、やが て波紋のように広がっていくでしょう。悲惨な状況にある世界に向かって。

愛に 飢える人々に向かって。私たちはそのことを信じて歩み続けるのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」イエス様によって示された愛は、私たち一人一人の欠けた愛を埋めるだけではなく、イエ ス様を信じて従う人全てを結び合わせます。私たちを決してひとりきりにはし ておかれないお方に信頼して、共に歩んでいきましょう。

【説教・音声版】2022年5月8日(日)10:30  復活節第4主日礼拝  説教 「 イエスの羊」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書10章22~30節

信仰とは、実に不思議なものだと思います。
私ごとで恐縮ですが、私は信仰に悩んできた人間です。受洗まで5年かかりました。その間に、教会から逃げ出したこともありました。罪の自覚に居た堪れなかったからです。私のような罪深い者がいるような場所ではないと…。受洗後も、信仰の悩みが消え去ったわけではない。その後も、何年も悩み続けました。時には、友人に伝道をしようと試みましたが、失敗したこともありました。そのような過程を経て気付かされたことは、信仰とは実に不思議なものであるということ、そして、信仰とは自分の内から出てくるものではない、ということです。神さまからの賜物でしかない。そう痛感させられてきました。

日の箇所は、読み方によっては大変厳しいものです。ある意味、絶望感を伴うもの、と言っても良いでしょう。信仰に悩んでいたかつての私なら、そう受け止めたに違いな い。なぜなら、イエスさまの羊でなければ、可能性がゼロだからです。いくら求めても、求道しても、救われたいと願ったとしても、もしイエスさまの羊でなければ、決して手に入れることができないからです。ある意味、この決定論的な事柄は、私たちにとっては理不尽とさえ思える。

今日の物語は、ユダヤ人からの問いからはじまりました。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。私たちは、聖書の中のこういった言葉を読むと、ついついイエスさまに敵対する者たちが、揚げ足を取るために、訴える口実を見つけるために、論争をふっかけている、と受け止めやすいと思います。確かに、そういったことがあったのかも知れませんが、案外純粋に本当のところを知りた い、と思っての問いだったのかも知れません。しかし、イエスさまはこう言われるので す。

「あなたたちは、信じない。わたしの羊ではないからである」と。そう言われてし まっては、もう身も蓋もない。先ほど言いましたように、せっかく求めたとしても、「あなたは、わたしの羊ではないから、無理だ」と言われてしまったら、もうどうしようもないでしょう。そして、おそらく私たちの多くは自信満々に、いいえ、私はイエスさまの羊です、と言い切れないところがあるのではないか、そう思う。

これはよく、「選びの教理」「予定論」と言われたりするものです。当然、そのことを突き詰めていけば、救われる者も、救われない者も、すでに決められている、変えることのできないものとして選ばれている、ということになるでしょう。しかし、何度かお話ししてきたことですが、本来の予定論は、自分が果たして選ばれているかどうかと不安に なっている者に対して、「大丈夫、あなたは選ばれている」と確信を与えるためのものだと思うのです。少なくとも、不安感を助長させるためのものではないはずです。そこで、はっきりと区別しなければならないのは、いわゆる不信仰と信仰的な悩みとは全く違うものなのだ、ということです。

最初に私自身のことを話しましたが、その頃の私は、信仰の悩みを持つことを「不信 仰」だと思い込んでいました。だから、イエスさまの羊ではないのではないか、と思い悩んだ。しかし、悩めるということは、信仰があるからです。与えられているからです。自分の信仰的弱さを嘆いたり、御言葉に従い得ない自分を責めたり、自分の不信仰ぶりに(私がこのような時に使う「不信仰」とは、不良信仰のことを意味するのですが)嫌気が差すのは、「信じたい」との思いが与えられているからこその悩みだからです。それに対して、不信仰とは、文字通り信仰を否定することです。つまり、信じたいのに、なんていう悩みなど起こらないのが、不信仰。自分とは関わりのないこととして、無関心でいられる、ということです。皆さんは、そうではないでしょう。

確かに、信仰的な悩みはあるのかも知れない。自分は不信仰だ、と思えてくるのかも知れない。しかし、そのことに落ち込むことができること自体が、すでに信仰が与えられている証拠なのです。イエスさまの羊であることの証拠なのです。しかし、羊は迷いやすいことも事実。私たちはついつい目の前の自分にとっての良きこと、利益に心奪われてしまい、向かうべき場所を見失ってしまうかも知れない。では、そんな羊は見捨てられるのか。いいえ、違うわけです。イエスさまはご自分の羊を、他の99匹を野に残しておいてでも、探し出される。決して、見捨てるようなことはされない。だから、「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできな い」と言われるのです。

自信を持ってください。自分に、ではありません。この私を、私たちを、イエスさまの羊としてくださった、そのようにお選び下さった神さまに、イエスさまに、です。私たちが信仰深いから、熱心だから、だからやっていける、信仰生活を続けていける、ということではありません。私たちがイエスさまの羊だからです。そうして下さったからです。だから、私たちは滅びない。見捨てられることもない。そのことに、自信を持っていただきたいのです。

先ほども言いましたように、イエスさまは「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と言ってくださいましたが、この言葉を聞いて、私自身はパウロの次の言葉を思い出します。ローマの信徒への手紙8章35節以下です。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。

このコロナ禍、ウクライナ問題…、それらによって、この世界が大変厳しいものであることに、私たちは改めて気付かされたのではないでしょうか。先日も電話相談を受けましたが(教会員の方ではありません)、本当に厳しい現実でした。たとえ、そうではなくても、いずれ私たちの誰もが「死」という厳しい現実に向き合わされることになる。そんな世界で、私たちの現実の中で、一体何が救いとなるのか。

イエスさまです。これは、単なる気休めではありません。イエスさまの時代、初代教会の時代は、今の私たちよりも、よほど厳しかった。子どもたちは生まれてすぐに死んで いった。大人になるのは当たり前ではなかった。ローマに占領されていた。領主たちの理不尽な統治に苦しめられていた。何度も、反乱が起こっていた。病気で死ぬ者、武力で殺される者、あちらこちらに死の匂いが漂っていた。将来に展望など見出せなかった。本当に、この世界に神さまはおられるのか、と問わざるを得ない現実を抱えていた。その人々を救ったのが、イエス・キリストなのです。おとぎ話でもなんでもない。ハッピーエンドとも限らない。信仰のゆえに殺されていった人だって多くいた。それでも、人は救われたのです。イエスさまによって救われたのです。なぜなら、永遠の命が与えられたからです。

「永遠の命」…。文字通り、永遠の命です。しかし、それだけではない。ヨハネはこのようにも語っています。17章3節「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなた と、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。「知ること」、これは深い関係性を表す言葉です。神さま・イエスさまと深く結ばれる。しかも、永遠に。それが、永遠の命…。だから、言える。誰も、奪うことはできない、と。この世の何者からも、悪魔からも、死においてでさえも、神さまから、イエスさまから、引き離されることはない。その愛から、断ち切られることなど、あり得ない。それが、イエスさまの羊。そして、あなた方は、すでに「わたしの羊なのだ」とおっしゃってくださっているのです。

なろうと思ってなれるものではありません。私たちは、そんな不思議な世界の中に生きている。生かされている。信仰という不思議な世界の中に、神さま・イエスさまとのつながりの中で…。

悩んでもいいのです。むしろ、イエスさまの羊ならば、信仰の悩みはつきものなのかも知れません。しかし、そんな自分ばかりを見つめても解決にはつながらないことも知る必要があります。むしろ、そうではなくて、この言葉に耳を傾けていきたいと思う。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。こんな私が、イエスさまの羊などと受け止めていいのだろうか。

イエスさまの愛を、赦 しを、救いを、信じていいのだろうか。いつどこにいても、どんな時にも、たとえ死の床につくような時にも、その先にも、イエスさまは本当に私を見捨てることなく、一人にすることなく、共にいて下さるのだろうか。こんな弱き信仰の、罪深い私でも…。そう疑ってしまうかも知れない。それが、私たち。でも、信じるのです。この私の気持ち、思い、心を信じるのではない。

「あなたの言葉を、その約束を信じます。たとえ、信じられないといった自分がいたとしても、あなたがおっしゃるなら、そう信じます」と言っていける、信じていけるのもイエスさまの羊であることを覚えていきたいと思います。

【週報:司式部分】 2022年5月8日 復活節第4主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 上村 朋子

開会の部
前  奏 いまぞ 喜べキリスト者よ J.S.Bach

初めの歌 教会157  ほめまつれ あまつきみ  1 節

1.ほめまつれ あまつきみ、
いざうたえ 主の愛を。
とわにいます わが神に
たたえのうた わきあふる。 アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
平和の神様、あなたは羊の大牧者、私たちの主イエス・キリストを死者の中から引き上げられました。
御心にかなう働きができるように、永遠の契約の血によって私たちをよき、わざをなす完全な者としてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 9章:36-43( 新約 231 頁 )
第2の朗読 ヨハネの黙示録 7章:9-17( 新約 460 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 10章:22-30( 新約 187 頁 )

みことばの歌 教会93番(1節)よろこびつどいて

1.喜びつどいて たたえよ主の民、
死の戸を砕くだきて 主イェスは勝ちたもぅ。

説 教 「 イエスの羊 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会410番(1節)すくいのぬし主よ

1.救いのぬし主よ わたくしたちを
牧場(まきば)に導き お守りくださぃ、
とうといイェスさま わたくしたちは
恵(めぐ)みを喜ぶ あなたのこども。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会412番(1節)ちちのかみ、このわれを

1.父の神、 このわれを
平和めざし導きて
生命(いのち)なるイェスきみに
たより進ませたまえ。 アーメン

後  奏 小曲 ヘ長調 C.H.Rinck

 

【説教】2022年5月1日(日)10:30  復活節第3主日礼拝  説教 「 再起」 浅野 直樹 牧師

復活節第三主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書 21:1-19

弟子たちは、ペトロは失敗をしました。明らかに、失敗したのです。イエスさまを置き去りにして、逃げてしまったからです。最後の最後まで従い続けることができなかったからです。特にペトロは、3度「イエスさまを知らない」と言いました。イエスさまとの関係性を否定したのです。あの人と私は、何の関わりもないのだ、と。彼らは、失敗したのです。

私たちも失敗します。人生において、家庭において、職場において、様々なところで失敗する。人生の選択、人間関係、言葉の失敗を繰り返してしまう。そんな、取り返しのつかない事をしてしまった、という「傷」を、いくつも抱えているのかもしれません。
では、信仰は? あの弟子たちとは違うのか? イエスさまに対して申し訳ない、顔向できない、といった思いはないだろうか…。
失敗したペトロに、イエスさまはこう問われました。「あなたは、わたしを愛しているか」と。あなたにも、同様に問われたとしたら、あなたはどう答えられるでしょうか。「あなたは、わたしを愛しているか」。

先週、復活のイエスさまと出会った弟子たちは「救われた」と言いました。本当に、そうだと思います。彼らは、失敗したからです。復活のイエスさまとは会いたくないと恐れるほどに、鍵をかけ閉じこもっていたのです。その只中にイエスさまは無理矢理に入ってこられ、恨みでも、怒りでも、裁きでもない言葉を語ってくださったからです。「あなたがたに平和があるように」。シャローム。この言葉は、彼らにとって、まさに救いの言葉に他ならなかったでしょう。シャローム。「あなたがたに平和があるように」。

ペトロはイエスさまが死におもむくと告げられた時、このように答えました。
ヨハネ13章36節以下です。「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』」。あなたのためなら、イエスさまのためなら命を捨てる。ペトロはそう誓う。同じヨハネ福音書にはこんな言葉もあります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない」と。ペトロがいかにイエスさまを愛していたかが分かります。

ペトロ自身、そんな自分の愛を疑うことはなかったで しょう。しかし、その思いは崩れてしまった。ヨハネ福音書も、そのペトロが3度イエスさまを否んだことを告げています。しかし、ペトロが泣き崩れたことは記していません。それは、他の共観福音書が伝えているところです。しかも、マタイとルカは「激しく泣いた」と伝えている。大の大人が、海の男が、人目も憚らずに泣き崩れるのです。これほど激しい心の動きはない。

では、なぜそれほど激しく動かされたのか。自分のイエスさまに対する思いが、愛が、こんなにも脆いものだったのか、と痛感させられたからです。自信喪失、自己否定、自我崩壊といってもいい。人は誹謗中傷など「外」からの攻撃にももちろん傷つきますが、案外「内」からの攻撃…、自分が自分を否定するような、拒絶するような攻撃に弱いものです。もちろん、ペトロだって人間です。これまでにだってくよくよすることはあったでしょう。しかし、これほど内なる攻撃にさらされたのは、はじめての経験だったのかもしれません。

繰り返しますが、ペトロもまた復活のイエスさまと出会うことによって救われたので す。それは、事実です。復活のイエスさまを見て「喜んだ」と書かれてあるのが、何よりの証拠です。しかし、まだ積み残されていた課題があったことも事実のようです。赦されている、といった体験だけでは、まだ解決しきれていない課題があった。そのことを伝えているのが、今日の日課の物語でもあるように思うのです。

Christ’s Charge to St.Peter, by Raphael



今日の箇所では、ペトロと他の6人の弟子たちがディベリアス湖畔、つまりガリラヤ湖に来ていたことが分かります。故郷に帰っていたと言ってもいいでしょう。しかし、実はここで多くの人が立ち止まらされると言うのです。なぜならば、先ほどから言っています復活のイエスさまとの出会いの中で、このように言われているからです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。

つまり、宣教命令です。ここでペトロたちは宣教の命令を受けているのに、なぜガリラヤ湖に帰っているのか。しか も、宣教活動ではなく、かつての生業であった漁をしているのか、と問う訳です。しか し、私には彼らの気持ちがよく分かる気がする。私自身、失敗した経験を持つからです。確かに、赦されました。罪、過ち、失敗を赦していただきました。その体験は感謝に堪えないものです。しかし、自信はなかなか取り戻せません。過ちの記憶、失敗の記憶というものは、そうそう消せるものではないのです。確かに、赦して頂けたことは感謝なこと だ。

しかし、あのような失敗をしでかした者が、一体どの面下げて何事もなかったかのように宣教活動に踏み出せるのか、と。ペトロは確かに赦していただいたということを受け止めながらも、自分自身を赦すことができなかったのかもしれない。そんな悶々とした気持ちを振り払うかのように、忘れようとするかのように、かつてのように漁に出ていったのではないか、そう思うのです。しかし、一晩中働きましたが、一匹も捕れませんでし た。

ペトロは夜の暗闇の中、そんな徒労とも思える作業を繰り返しながら、思い出していたのかもしれません。あの時も、一晩中働いたが、一匹も捕れなかったな、と。そうです。ルカ福音書に記されている弟子の召命物語です。あの時も、一匹も捕れなかった。そし て、疲れ切って網を繕っていると、イエスさまが来られて、舟を使わせてほしいと言われた。人々への話が終わると、沖へ漕ぎ出しなさい、と言われた。一晩中働いたが何も捕れなかったと答えたが、お言葉だからと従ってみた。すると、信じられないくらいの魚が捕れた。あまりのことに恐ろしくなると、イエスさまはこうおっしゃった。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。懐かしく、思い返していたのかもしれません。

すると、一人の人から声がかけられました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と。その通りにしてみると、大量の魚が網にかかりました。そして、ヨハネとも考えられているイエスさまが愛しておられた弟子がペトロにこう語った。「主だ」と。雷にでも打たれたような感じだったのかもしれません。あるいは、ちぐはぐだった ピースが一気に当て嵌まったような衝撃だったのかもしれません。ペトロは思わず湖に飛び込むほどでした。
ペトロが復活のイエスさまと出会ったのは、これで3度目です。ですので、復活のイエスさまと出会ったという衝撃ではなかったでしょう。しかし、今度の出会いは、今までとは違うものであったはずです。赦しのため、というよりも、「再起」のため、と言えるのではないか。失ってしまっていたものを、再び取り戻すため。いいえ、元に戻るのではなく、新たにされるための出会いでもあった。

ペトロはイエスさまに問われます。「あなたは、わたしを愛しているか」と。ペトロはこう答えます。「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知で す」。これまでのペトロの性格から言えば、信じられないような答え方です。従来のペトロならば、「もちろんです。わたしはあなたを愛しています。この命にかけても」とでも答えたでしょう。しかし、この答えからは、そんな自信は感じられません。むしろ、主 よ、あなたこそ知っていてくださいます、とイエスさまに委ねているかのような言い方です。

ペトロはあの裏切りから、ずっと問うてきたのではないでしょうか。私のイエスさまへの思いは、愛は、本物なのか、と。あんなにも脆い愛など、愛の名に値しないのではないか、と。内から湧き上がる問いの中で、彼は自分の心を、本当の自分自身を見つめざるを得なかったのではないでしょうか。そこで、気付かされたことは、それでも愛している、という事実です。自分の内側に、奥深くに生まれていた、育っていた、イエスさまへの思いです。たとえそれは、小さく、脆いものであったとしても、弱く、儚いものであったとしても、他と比較したら見劣りするようなものであったとしても、それが否定しようのない真実だった。私は、イエスさまを愛している。

そこで、皆さんに、あなたに、改めて問いたい。イエスさまの「あなたは、わたしを愛しているか」との問いに、どうお答えになるのか、と。そうです。おそらく、自信満々に答えられるような愛はもってはいないのかもしれません。しかし、もっと奥深くを覗き込んでください。必ず、あなたにもイエスさまへの愛があるはずです。どんなに小さくて も、見窄らしくても、必ずある。イエスさまご自身が、その愛の業をはじめてくださったからです。でなければ、私たちは信仰に生きることなどできない。

ある方は、このペトロの愛を、「悲しみを知っている者の愛」だと言いました。そうだと思います。おそらく、ペトロも生涯、あの裏切りを忘れることはできなかったでしょ う。パウロもキリストの教会を迫害してしまったという痛みを生涯消せなかったでしょ う。しかし、その上で、いいえ、それ以上の恵みを知ったからこそ、イエスさまを愛する愛に生きられたのです。

「あなたは、わたしを愛しているか」。この問いは、責めるためでも、奮起させるためでも、落ち込ませるためでもありません。そうではなくて、こんなにも小さな愛であったとしても、その愛を引き上げてくださるためであり、受け入れてくださるためであり、新たな愛の絆で結んでくださるためなのです。
そこから、「主に従う」という道もはじまっていきます。

【週報:司式部分】 2022年5月1日 復活節第3主日礼拝


司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 中山 康子

開会の部
前  奏 主をあがめたたえよ 教会讃美歌170番に基づく前奏曲 H.ペーター

初めの歌 教会讃美歌 170(1節)主をあがめたたえよ

1.主をあがめたたえよ もろもろの国よ
神をほめたたえよ もろもろの民よ
み神はわれらを あわれみ選びて
神の子としたもぅ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
憐れみ深い永遠の神様。すべての天使と聖徒たちとともに大いなる御力を賛美します。
御子の復活によってご自身を顕し、聖霊によって私たちをキリストに従うものとしてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 9:1-6( 新約 229 頁 )
第2の朗読 ヨハネの黙示録 5:11-14( 新約 458 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 21:1-19( 新約 211 頁 )

みことばの歌 教会讃美歌 387(4節)十字架の主を知るや

4.よみがえりしを知るや、
よみがえりしを知るや、ああ、
わが罪のため、 主は、ああ主は、
よみがえりしを知るや。

説 教 「 再起 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 会讃美歌 339(1節) イエスきみは恵みの主
1.イェスきみは恵めぐみの主、 罪びとあわれみたもう。
道なる主、 義ぎなる主は ひかりといのちを示さん。
朝日のごとくに 現われ来たりて、
死のくさり解きはなち 罪びと生かしめたもう。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌 472(1節) なにゆえこの身は
1.なにゆえこの身は
心さわぎ、 罪を嘆(なげ)く。
わが主ともに在ます、
なにか恐(おそ)れん、 主はわがもの。

後  奏 すべての栄光を主なる神に  H.A.Metzger

【週報:司式部分】 2022年4月24日 復活節第2主日礼拝


司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 上村 朋子

開会の部
前  奏 さぁ、わが心よ、喜びをもって H.Hasse

初めの歌 教会203(1節)ちちの神よ

1.父の神よ、 夜(よる)は去りて
われらいま み前に立ち
さんびのうたを かしこみ捧(ささ)ぐ
声もたかく。
アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
憐れみの神様。あなたは失われた者を喜び迎え、憐れみをもって抱きしめてくださいます。
洗礼によって私たちに恵みの衣を着せ、愛の食卓で養ってください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 5:27-32( 新約 222 頁 )
第2の朗読 ヨハネによる黙示録 1:4-8( 新約 452 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 20:19-31( 新約 210 頁 )

みことばの歌 会 239(1節)人となりたる

1.ひととなりたる 神のことば
変わらぬまこと 知恵(ちえ)なる主よ、
聖書(みふみ)に満つる そのひかりは
かがやきいでて やみを照(て)らす。
ーメン

説 教 「 わたしの信仰告白 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会105(1節) たぐいなきみ恵みよ

1.たぐいなきみ恵みよ、 主は生きていたもぅ。
なにゆえにわが霊(たま)よ 悲しみに沈む。
主は墓にいまさず よみがえりたもう。
われ見たり、み子イェスを みどりの木陰(こかげ)に。
われ見たり、み子イェスを みどりの木陰に。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会 388(4節)とうとき血をもて

4.なやみとくるしみ この世(よ)にあれど
わが身をささげて 務(つと)めを果たさん。
あわれみあふるる み顔をあおぎ
つぶやくことなく なさしめたまえ。
アーメン

後  奏 いまぞ喜べ、尊きキリストの徒よ、相共に J.S.Bach

【説教・音声版】2022年4月24日(日)10:30  復活節第2主日礼拝  説教 「 わたしの信仰告白」 浅野 直樹 牧師

復活節第二主日礼拝

ヨハネによる福音書20章19~31節



本日、復活節第二主日に与えられました福音書の日課には、あの疑り深いトマスが登場してまいりました。

私たちはどうしても、このトマスの物語に目がいってしまい易いわけですが、その前に本日の第一の朗読で読まれました使徒言行録に少し目を向けていきたいと思っています。
ご承知のように、この使徒言行録は福音書記者ルカが記しましたルカ福音書の続編と いった形となっています。福音書はイエスさまのご生涯を取り扱っているのに対しまし て、この続編である使徒言行録は初期教会の歴史が取り扱われています。弟子たちの物語といっても良いでしょう。前半は使徒ペトロが、後半はパウロが中心に取り上げられることになる。今日の日課は、前半のペトロの物語となります。

ところで、今日の福音書の日課の冒頭には、このように記されていました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。イエスさまが復活された日です。その日の夕方のことです。いいえ、夕方のことだけではないでしょう。弟子たちはずっとユダヤ人たちを恐れて閉じこもっていました。ご存知のように、イエスさまを裏切ったのは、イスカリオテのユダだけではな かった。あの過越の食事の時、ペトロはイエスさまから離反の予告を受けると、「たと え、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い張ったのです。他の弟子たちもそうでした。彼らは本気でそう信じていた。自分を…。しかし、イエスさまが無抵抗のままに逮捕されるや否や、弟子たちは一目散に逃げ出したのです。ペトロはかろうじて、成り行きを見守ろうと遠く離れて付いていきますが、「お前も弟子の一人だろう」と問いただされると、呪いの言葉さえも口にしながら否定してしまったのです。

あれから数日間、弟子たちがどのように過ごしていたかは分かりません。聖書はそのことを記していない。少なくとも、先週もお話ししましたように、ヨハネを除いては十字架にも葬りにも立ち会わなかったのです。そして、復活の日に、ユダヤ人たちを恐れて閉じこもっていた、と記されている。その間、ずっとそうだったと考えても、不思議ではないでしょう。イエスさまが捕らえられ、不当な裁判にかけられ、 人々から馬鹿にされ、十字架の上で命を落とされ、岩の墓に葬られ、女の弟子たちがきちんと葬りをするために墓に急いでいた時にも、彼ら男の弟子たちはユダヤ人たちを恐れて家の中に閉じこもっていた。それが、かつての弟子たちだった。しかし、今は違う。使徒言行録に出てくる弟子たちは、違っていました。

イエスさまの名によって宣教してはならない、と脅されていました。それでも、彼らは怯まなかった。とうとう弟子たちは逮捕されます。そして、イエスさまも裁かれたサンヘドリン・最高法院に呼び出されることになる。そこで、ペトロはこのように語ったと記されています。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」。

復活など不合理だ、といった意見があります。しかし、私は思う。では、この弟子たちの変化は、どう説明できるのか、と。人間はそうそう変われない。嘘偽りのために命など賭けられない。私自身は自分の経験則からも、そう感じずにはいられません。復活のない弟子の変化の方が、私には不合理だと思われる。キリストの教会は、キリスト教の歴史 は、この弟子たちの変化がなければ起こり得ないことでした。

復活のイエスさまは、ユダヤ人たちを恐れて部屋の中に閉じこもるしかなかった弟子たちの只中に、ある意味強引に入ってこられました。あるいは、彼らが恐れていたのはユダヤ人だけではなかった、とも言われます。弟子たちは復活のイエスさまの訪れにも恐れていた、という。それは、彼らが裏切ったからです。罪を犯したからです。顔向できなかったからです。女性たちからイエスさまの復活の知らせを聞いた。もちろん、そんな話は戯言のように思えて信じられなかった、というのもあるでしょう。しかし、その可能性を否定できないとしても、むしろ、だからこそ、会いたくなかった、会うのが恐ろしかったとの心理が、「鍵をかけ閉じこもる」といった表現の中にあったのではないか、というのです。そうだと思います。弟子たちが喜び勇んで復活のイエスさまを迎えたのではないので す。むしろ、彼らはイエスさまが入ってこれないように鍵さえかけていた。

しかし、イエスさまは、そんなことは構わずに、強引に入ってこられた。そして、弟子たちに語られ た。それは、叱責でも裁きでも呪いでもなかった。「あなたがたに平和があるように」と語られた。シャローム、イスラエルの普通の挨拶の言葉です。しかし、それ以上の意味があったという。あなたたちの上に神さまからの平和があるように。私はあなたたちを罪に定めない。私はあなたたちを赦す。あなたたちの祝福を願う。そんなシャロームです。弟子たちは、まさに救われた。「そう言って、手をわき腹とをお見せになった。弟子たち は、主を見て喜んだ」。釘と槍に刺された跡のあるイエスさまのお体です。自分たちが裏切ってしまったが故に、そんな目に遭われたのだ、と思い悩んでいたお体です。しかし、イエスさまのシャロームで、そんな自らの罪を強く連想させられる十字架のお体を見て、弟子たちは喜ぶことができた。この上なく、喜ぶことができた。それが、復活の出来事です。

トマスの不信(1601年〜1602年)カラヴァッジオ (1571–1610) サンスーシ絵画館



しかし、12弟子の一人でもあったトマスは、間の悪いことにその場に居合わせませんでした。しかも、他の弟子たちから復活のイエスさまと出会ったと聞かされて、余計に心頑なにしたように、こう言い放ったのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。ここから、疑り深いトマスと言われるようになったわけです。しかし、復活のイエスさまは、このトマスにもお会いになります。いいえ、むしろ、この疑り深いトマスに出会うために訪ねてくださったといっても良いでしょう。ここでも、トマスがイエスさまを探したのではなかった。見つけ出そうとしたのではなかった。私に出会って欲しいと願ったのでもなかった。そうではなくて、イエスさまの方から訪ねてくださったのです。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。

罪に恐れて自ら復活のイエスさまと出会うことを拒んでいるような弟子たち。生来の疑り深さと他の弟子たちへの嫉妬心からより心頑なにして復活を信じようとしなかったトマス。彼らが信じたのは、信じることができたのは、イエスさまが訪ねてくださったからです。自らではない。私たちは何もできない。閉じこもるしかない。うろつくことしかできない。しかし、そんな私たちを見捨てず、強引にでも出会ってくださり、赦しを、平安を、希望を与えて下さるのが、復活のイエスさま。それが、週の初めの日ごとに起こった、という。それは、私たちの言うところの日曜日です。日曜日ごとに行われる礼拝においてです。そこで、集まっているときに、起こったことです。恐れの中で閉じこもっていても、起こったこと。その日にはたまたま集うことができなかったとしても、また集うことに よって得ることができた出会いの体験です。そのことを、この福音書の記事は伝えてい る。

この日曜日ごとの出会いの中で弟子たちに何が起こったか、といえば、復活のイエスさまと出会えた喜び、そして、私の、私たちの信仰告白です。「わたしの主、わたしの神 よ」。復活のイエスさまとの出会いによって語ったトマスの信仰の告白を、私たちも共にする。
今日の日課の終わりには、このヨハネ福音書の目的も記されていました。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。

私たちは、トマスを、弟子たちを羨ましく思うのかもしれません。彼らのような体験ができたら、私たちももっと素直に復活が信じられるのに、と。しかし、イエスさまはこうも語られたことを忘れてはいけないと思います。「見ないのに信じる人は、幸いである」と。私たちは、残念ながら彼らのようには実際に「見る」ことはできません。しかし、それが不幸かといえば、違うと言われます。むしろ、見ずに信じる人は、幸いだと。そうです。私たちには、実際に見た、変えられた証人たちがいる。証人が語ってくれた言葉、物語がある。それがあれば、イエスさまが神の子であることも、復活の主であることも、イエスさまから与えられる復活の命、永遠の命のことも、信じることができる。それが、礼拝の中で起こっている。そのこともまた、この弟子たちに続くイエスさまの弟子、私たちが、2000年の教会の歴史の中で経験してきたことです。

そのことも憶えながら、今日もこの弟子たちと、トマスと一緒に私たちも告白していきたいと思います。「わたしの 主、わたしの神よ」と。

【説教・音声版】2022年4月17日(日)10:30  主の復活聖餐礼拝  説教 「 主イエスの復活」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書24章1~12節


「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
女たちが、泣いています。愛する者の命が奪われたからです。不当にも…。
それは、突然でした。そんなことが起こるとは、想像もしていなかった。突然に、世界は、日常は変わってしまった。裁かれるべき罪などないのに、捕らえられ、連行されます。兵士たちは口々に、「お前は何者だ。なぜ従わない。我々と戦うつもりか」とがなりたてます。ある者は殴りつけ、唾を吐き、無抵抗なその人の命を奪っていった。女たちが見ている前で…。

女たちはただ、見ていることしかできませんでした。恐怖と不安の中で足がすくんでしまい、何もできなかった。まさか、ここまでされるとは思っていなかったのかもしれません。彼女たちは、そんな崩れ落ちた亡骸を、丁重に葬ることもできなかった。ただただ、泣き崩れるしかなかった。悲しみ、信じられないという思い、憎しみ、怒り、恐怖、絶望…、色んな感情が渦巻く中で、女たちは泣くしかなかったのです。

マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアたちも、そうだったでしょう。彼女たちは、イエスさまを愛していました。心の底から尊敬していました。おそらく、この女性たちはイエスさま一行と行動を共にし、彼らの身の回りの世話をしていたのかもしれません。食事の準備をし、汚れ物の洗濯をし、繕い物などもしていたでしょう。彼女たちにとっても、イエスさま一行は家族だった。

イエスさまは、家族以上のかけがえのない存在だったに違いありません。そんなイエスさま一行が夜中に出かけたと思っていたら、逮捕されたと聞かされた。当時のユダヤ社会では、女性は身分の低い存在でしたから、おそらくイエスさまに近づくことは不可能だったでしょう。遠巻きに、人混みの後ろうの方から様子を伺うことしかできなかった。それでも、男の弟子たちは我が身可愛さに隠れてしまっていたにも関わらず、女たちは常にイエスさまを追いかけていきました。愛する者を放ってはおけないという女性の強さがあったのだと思います。福音書を読みますと、女性だけです。ヨハネを除いて。イエスさまの十字架に立ち会ったのは。そして、葬りに立ち会ったのは。

イエスさまが十字架上で息を引き取られたのは、金曜日の午後3時頃だと伝えられています。ユダヤの理解ですと、日没から次の日がはじまることになっており、次は土曜日、安息日です。ですので、葬りをするためにも時間がありませんでした。イエスさまの遺体を引き取ったのは、アリマタヤのヨセフという人です。これも、通常ではあり得ないことだったと言われます。なぜなら、処刑された罪人を丁重に葬ろうとする人など、いなかったからです。

ヨセフはあまり時間のない中でイエスさまの遺体を引き取り、最低限の礼節をもって、イエスさまを葬りました。そこでも、女性たちはただ見守ることしかできなかった。手を出すことが許されなかったからです。ですから、「家に帰って、香料と香油を準備した」のです。それが、本来のユダヤの葬りだったからです。せめて、丁重に葬りたかった。それが、残された者ができる僅かなこと。

おそらく、女性たちには他の目的もあったのでしょう。それは、別れをすること。それは、あまりに突然で、予期せぬことだった。女性たちのイエスさまとの最後のやりとりは、「行ってくるよ」「行ってらっしゃい。気をつけて」だったのかもしれません。感謝の言葉も、愛の言葉も、まだ伝えきれていない。だから、たとえご遺体であったとしても、ちゃんと顔を見て、体に触れて、この自分達の気持ちを伝えたい。そう思っていたに違いありません。ですから、安息日が明けて、日が昇るとすぐに、彼女たちは墓に急いだのです。私たちにも、痛いほど分かる思いです。しかし、そこにはイエスさまのご遺体はなかった。墓は空であった。しかも、御使いがこのように告げたという。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と。なんという知らせ。おそらく、愛する者の死を、その痛みを経験した者ならば、誰もが思うのではないか。生き返ってくれたなら、と。もう一度、私たちのところに戻ってきてほしい、と。そんな喜ばしき復活の知らせがここにあった。そうです。復活ほど、喜ばしき知らせはありません。

ヤイロという人の娘がいました。まだ12歳でした。彼女は今にも死にそうな病に冒されていました。ですから、彼は必死にイエスさまに娘の癒しを願ったのです。しかし、その道中で娘の死を知らされてしまった。間に合わなかった。おそらく、彼は深い絶望を味わったことでしょう。しかし、イエスさまはこの娘を生き返らせました。この出来事は、どれほどこの家族を救ったことか。あるいは、イエスさまはあるやもめの一人息子の葬儀に遭遇されたこともありました。夫を亡くし、最愛の息子をも送らなければならなかったこの女性の思いはいかばかりだっただろうか。イエスさまは可哀想に思われ、この息子を母親にお返しになられました。

この母親の喜びはどれほどのものだったでしょう。あるいは、ラザロのことも思い起こされます。イエスさまと親しかったラザロも病で死にました。その姉妹であるマルタ、マリアの悲しみが聖書にははっきりと記されています。これほど感情がはっきりと記されている箇所も珍しいと思います。そのラザロも復活した。どれほど慰められたことだろうか。そうです。復活は救いです。絶望の淵からの救いです。

これほど私たちを救うものは、ない。しかし、私たちはこう思うのかもしれません。では、私たちの父は、母は。祖父は、祖母は。兄弟、姉妹は。子どもたちは。孫たちは。いとこ、はとこは。友人、知人、恩師、同僚、仲間たちは。私たちが大好きだった、愛していたあの人たちは、誰も復活しなかったではないか。私たちは皆、それらの人々の死を悲しみ、葬ることしかできなかったではないか。復活など、復活の慰めなど、どこにあるのか、と。

復活:1805年 ウィリアム・ブレイク –ウィンスロップ・コレクション フォッグ美術館



確かに、そうです。それらは、ごくごく一部の人々。ほとんどの人々は復活などしなかった。そうです。ここに登場してくるマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアたちも、いずれ死の時を迎えたでしょうが、誰一人復活しませんでした。彼女たちからイエスさまの復活を知らされた弟子たちも、誰も、誰一人として復活しませんでした。では、復活など、そもそもあり得ないのか。期待するだけ損なのか。

いいえ、そうではない。イエスさまが復活された。それだけで十分なのです。それだけで信じるに値する。それだけで希望がもてる。イエスさまが復活されたという事実だけで、私たちはこの困難な世界を生きていける。そして、神さまの御心に従って安らかに息を引き取っていける。看取っていける。そう、弟子たちは、この女性たちは考えた。受け止めた。受け止めることができた。人々を復活させ、人々を絶望からお救いくださった方が、まさに復活されたからです。これ以上の希望、確かさはない。

もちろん、信じられないことです。信じるしかないことです。この女性たちも半信半疑だったのかもしれない。弟子たちに至っては、全く信じなかった。信じられなかったのです。それが、私たちの姿でもある。でも、聖書にはこうも書かれていました。「『まだ、ガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」。イエスさまのお言葉を思い出したからこそ、婦人たちは信じることができた、という。

イエスさまは嘘つきでしょうか。とんでもないペテン師でしょうか。ありもしないことで民衆を煽っていった扇動家でしょうか。イエスさまの言動は、そんなにも信頼に値しないようなものなのでしょうか。一番身近にいたこの女性たちは、そのことを一番よく知っていたはずです。

イエスさまは復活されました。それで、十分です。たとえ、未だに私たちは、私たちの愛する者たちは復活の奇跡、命を体験していなくとも、その復活のイエスさまが私たちにも復活を、その新しい永遠の命を、死に打ち勝つ力を、確かな望みを約束してくださっているからです。イエスさまは必ず私たちの涙を拭い取ってくださる。そう信じます。

【週報:司式部分】 2022年4月17日 主の復活聖餐礼拝



司  式 浅野 直樹 三浦 慎里子
聖書朗読 浅野 直樹 三浦 慎里子
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 苅谷 和子

開会の部
前  奏 キリストは死の布に横たわった J.S.Bach

初めの歌 教会87番( うれしき朝を )(1節)

1.うれしき朝をたたえよ。
み国は勝ちに照り映はえ、
よみがえりしイェスきみの
さかえは永遠とわに尽きせじ。
うれしき朝をたたえよ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り

慈しみの神様。
主は生きておられます。私たちはもはや御子を死者の中に捜しません。
主はいのちの主となられました。キリストと共に私たちのうちにも復活のいのちを増し加えてください。
そうして、あなたの民としてあなたとひとつとなる永遠の命の完成に向かって成長することができますように。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 10:34-43( 旧約 233 頁 )
第2の朗読 コリントの信徒への手紙 I 15:19-26( 新約 321  頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 24:1-12( 新約 159 頁 )

みことばの歌 教会90番( キリスト・イエスは )(1節)

1.キリスト・イェスは ハレルヤ、
よみがえられた ハレルヤ、
勝利をうたい ハレルヤ、
み名をたたえよう ハレルヤ。

説 教 「 主イエスの復活 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会110番( 墓をばこぼちて )

墓をば こぼちて 永遠とわのよろこびを
もたらしたもう。
勝利の主イェスは みさかえのうちに
あらわれたもう。
いざ来こよほめうた 高らにうたえよ、
主はよみがえりぬ。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会361番( 世に告げよ )(1節)

1.世よに告つげよ、 たからかに
いとくしき 主のみ名を。
イェスきみこそ勝利しょうりの主
地の果はてまで治おさめたもぅ。
アーメン

後  奏 Trumpeting Tune R.Jones

 

【週報:司式部分】 2022年4月10日 四旬節第6主日



司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 萩森 英明

開会の部
前  奏 「われ汝に別れを告げん」J. S. Bach

初めの歌 教会77番(1節) さかえとほまれ
1.さかえとほまれ ただ主にあれ、
おさなごうたう 「ホサナ、ホサナ」、
ダビデのみ子よ さかえの主よ、
恵まれしもの 救いぬしよ 。アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
いと高(たか)き神様(かみさま)。あなたは御子(みこ)の僕(しもべ)の姿(すがた)によって人(ひと)の心(こころ)を新(あら)たに定(さだ)められました。
日(ひ)ごとに御子(みこ)を主(しゅ)と告白(こくはく)し、賛美(さんび)する喜(よろこ)びの列(れつ)に加(くわ)わることができますように。
あなたとともにただ独(ひと)りの神(かみ)、永遠(えいえん)の支配者(しはいしゃ)、御子(みこ)、主(しゅ)イエス・キリストによって
祈(いの)ります。アーメン

第1の朗読 イザヤ書50:4-9a( 旧約 1145 頁 )
第2の朗読 フィリピの信徒への手紙 2:5-11( 新約 363 頁 )
詠 歌
福音書の朗読 ルカによる福音書 23:26-49( 新約 158頁 )

みことばの歌 教会73番(1節)主はわがかくれが
1.主はわが隠れ家、 わが救いぬし、
荒野をうるおす 恵みのいずみ。
罪ある民らに その目をそそぎ、
すべての悩みを  になわせたもう。 アーメン

説 教 「 主イエスの十字架 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会81番(1節)血しおに染みし
1.血しおに染みし 主のみかしら
いばらの冠 ああ、いたわし。
さかえを捨てて 悩める主を、
心をこめて 仰ぎまつらん 。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会395番(1節)十字架を負いつつ
1.十字架を負いつつ われらは進む
なやみも恥をも 主のため忍ばん。
この世の望みの 消え去るときも
心はゆたけし 主ともにませば。

後  奏 「血潮したたる主のみかしら」 J.Pachelbel

【説教・音声版】2022年4月10日(日)10:30  四旬節第6主日  説教 「 主イエスの十字架 」 浅野 直樹 牧師

主の受難主日礼拝



聖書箇所:ルカによる福音書23章26~49節

いよいよ受難週が始まりました。
これは、何度かお話しさせて頂いたことだと思いますが、むさしの教会ではどちらかと言いますとこの日を「棕櫚の主日」として記念してきたように思いますが̶̶今日も棕櫚 の十字架を用意してくださっていますので、お持ち帰りいただければと思います̶̶私が 赴任してからは、「受難主日」として守らせていただいていると思います。

もちろん、今週金曜日にも「聖金曜日礼拝」を行なってイエスさまの十字架の出来事を覚えて行こうと思っていますが、全ての方が参加できるわけではありませんので、十字架なしに、十字架を飛び越えて、いきなり「復活」に行ってしまうのはどうなのだろうか、と個人的には思っているからです。ですので、今日は皆さんとしっかりとイエスさまの十字架に思いを向けていきたいと思っています。

私たちは先週、衝撃的な映像を目にしました。ロシア軍の後退によって、キーフ周辺の惨状が明らかになったからです。SNSが戦争を変えたと言われますが、ご覧になられたことがおありでしょうか。ニュース映像等でも生々しく衝撃的ですが、私もほんの少し覗いてみたことがありましたが、もう見ていられないような惨状が映し出されていました。

一般市民のご遺体です。しかも、誤爆によるのでも、戦闘に巻き込まれたのでもないのです。明らかに標的にされた民間人。拷問され、手を後ろで縛られ、銃で撃ち殺されていく。

小学校の高学年のとき(確か4~5年生だったと思いますが)、学校の図書室で何気なく一冊の写真集を手にとったことがありました。戦争の写真集です。空爆され煙をあげている街中の様子や、瓦礫と化した建物など、色々な写真があったと思いますが、その中の一枚に釘付けになったことを今でもよく覚えています。おそらく、中国の人だったので しょう。軍服ではなく普通の服を着ていました。そんな3~4人の男性たちが手を後ろで縛られて跪いています。その後ろで彼らを見下ろすように立っていた日本兵が手前の男性の後頭部に拳銃の銃口を突きつけている、そんな写真です。しかも、その日本兵は笑っていた。あるいは、手前の人と談笑していたのかもしれません。笑いながら、銃口を突きつけていた。忘れられない写真です。

ロシア軍によるこの残虐極まりない振る舞いを非難するのは、もっともなことです。しかし、同時に、私はこの写真のことが思い起こされて仕方がないのです。日本もしてきたことではないか、どの口が言えるのか、と。いいえ、日本だけでもないでしょう。アメリカも、ドイツも、フランスも、イギリスも、どこの国でも、おそらく同じことをしてきてしまった…。それが、戦争です。

だから、どんな理由があろうと戦争はしてはいけないのです。綺麗な戦争など、あり得ないからです。ともかく、他人事としてはいられないような思いがする。残念ながら人類は、この21世紀になっても、7~80年前も、何百年前も、何千年前も、同じ愚かなことをし続けている。残念ながら、それが世界の現実。私たち人類・人間が歪めてしまった世界です。

私たちはひょっとして、ここ数十年の「平和ぼけ」と言われる幸いな時代の中で、どことなく罪の世界という現実を忘れてしまっていたのかもしれません。単に個々人の精神世界のことではなくて、具体的な罪の世界の現実というものを…。

改めて、ヨセフスが書いた『ユダヤ戦記』を読んでみました。このヨセフスはユダヤ人で、イエスさまがお亡くなりになられた少し後に生まれた人です。これは、いわゆる「マカバイ戦争」(紀元前167年)からユダヤ戦争(これはローマと戦った戦争で、エルサレム神殿が破壊された戦争として有名ですが)まで、主に戦争を中心に描いた歴史書ですが、彼自身、ユダヤ戦争には参加していましたので、自分の体験談も元にして書かれているものです。

これを読んでいきますと、なんだか今行われていますウクライナ侵攻のことが書かれているような錯覚を覚えました。いいえ、シリア紛争のことも、イラク戦争のことも、イスラム国との戦いについても書かれているようにさえ思います。笑ながら銃口を突きつけるような、自国の平和・安全のため、人々の幸せを守るため、自分達の正義を実現するためにと、まさに血塗られた歴史です。イエスさまは、そんな世界に来られ、そして死なれたのです。

イエスさまの物語は、メルヘンでもフィクションでもありません。この世界の現実の中で…、人が生き、死ぬ、そんな現実の真っ只中で起こった出来事です。この時代には、小規模な反乱が多発し、流血沙汰も多かったと言われます。ローマ兵は一応軍隊としての規律は保たれていたようですが̶̶ヨセフスも、ユダヤ戦争の時、実はローマの兵隊よりも ユダヤ人の武装勢力の方が恐ろしかったと述べています。これも、沖縄の人たちから聞いた、アメリカ兵よりも日本兵の方が恐ろしかったという証言を思い起こします̶̶、それでも見せしめ的な残虐行為がなかったとは言えないでしょう。パレスチナのあちらこちらで十字架刑の人が晒されていた、とも言われます。

あるいは、今風に言えば、政情不安でもありました。国の指導者たちが、イエスさま一向に事を起こされてローマ軍が介入しては敵わん、といった理屈も分からない訳ではありません。ともかく、社会秩序を乱す目障りなイエスさまを亡き者にしたかったわけです。

あるいは、民衆はどうだったでしょう。もちろん、賛否はあったと思います。しかし、おそらく、彼らの多くもイエスさまに罪状が見出せなかったとしても、自分達の正義感や価値観から、「十字架につけろ」と叫んだのではないでしょうか。

イエスさまは、道ゆく人々からも「自分を救ってみろ。そうしたら信じてやるさ」と馬鹿にされ続けられました。最後の最後まで、人々の悪意に晒され続けられました。そうです。イエスさまを十字架につけたのは、人々の悪意に他ならなかった。色々と言い訳をつけたとしても、人の命を奪ってでも自分を…、という人の罪の結果に他ならなかった。

確かに、そうです。イエスさまを十字架につけたのは、イエスさまを殺したのは、人 の、私たちの罪です。もし、私たちもその時代の只中にいたら、同じようにしたかもしれない。あの銃口を向けた人のように。しかし、私たちは知っています。それだけではな い、と。パウロもはっきりと語っている。イエスさまの十字架は、この罪人である私たちを救うためにあったのだ、と。

私たちは今朝、もう一度、あのイザヤ書第53章の言葉をしっかりと噛み締めていきたいと思います。

「わたしたちが聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風貌も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。……彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」。

確かに、イエスさまを十字架につけたのは、紛れもない私たちの、人類の罪です。いまだになくならない罪のせいです。しかし、そんな罪人である私たちを神さまは放ってはおけなかった。自ら侵略行為を行い、拒否権を発動するようなどこぞの国とは違い、正し き・正当な裁きをしつつも、人を救う道を諦めることができず、命懸けでその道を探し求められた神さまのご計画でもあるからです。そんな神さまの御心にイエスさまは応えられた。全身全霊で応えられた。私たちに向けられた銃口の前に、自ら立ち塞がってくださった。私たちを愛するが故に。それが、ご自分の喜びであるかのように。

今日の日課には、このようにも記されていました。「太陽は光を失っていた」と。確かに、イエスさまの死はそのようなものです。全く光を失い、暗黒の中に閉ざされてしまうような出来事です。それが、罪の現実です。しかし、聖書は続けてこう語っていきます。

「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」と。だからこそ、神さまへの道が開かれたのだ、と。新たな何かが始まろうとしているのだ、と。イエスさまの死によって…。

十字架は終わりではありません。復活へと向かう道です。私たちは、来主日の復活祭に向かって、その道を歩んでいくことになる。確かに、2000年も経っても相変わらず人は変わらないのだ、と思い知らされるような昨今ですが、しかし、それでも、やはり人類は変わってきた、変わって来れたのだと思うのです。それは、やはりイエスさまの十字架と復活の出来事が、確かにこの世界の只中で起こったからです。

そして、それを信じる 人々が、群れが起こったから。罪を悔い、平和を求める人々が。それもまた、私たちのこの世界の現実だと思います。

【週報:司式部分】 2022年4月3日 四旬節第5主日



司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 中山 康子

開会の部
前  奏 いのちのさなか、死に囲まれ 教会讃美歌増補 分冊1 5番

初めの歌 讃美歌2(1節)

いざやともに こえうちあげて、
くしきみわざ ほめうたわまし
つくりましし あめつちみな、
かみによりて よろこびあり。
アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
創造主(創り主)である神様、
あなたは私たちの荒れ野に新しい道を拓き、恵みの水を砂漠に注がれます。
新しい御業(みわざ)によって造り変え、
尽きることのないあなたの愛を宣べ伝えることができるようにしてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、
永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 イザヤ書43:16-21( 旧約 1131 頁 )
第2の朗読 フィリピの信徒への手紙 3:4b-14( 新約 364 頁 )
詠 歌
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 12:1-8( 新約 191頁 )

みことばの歌 讃美歌142(1節と5節)

1.さかえの主イエスの 十字架をあおげば、
世のとみほまれは 塵にぞひとしき。

5.ああ主のめぐみに むくゆるすべなし、
ただ身とたまとを ささげてぬかずく。
アーメン

説 教 「 愛を受け入れて 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 讃美歌 391 (1節)

1.ナルドの壺 ならねど
ささげまつる、わが愛、
みわざのため 主よ、潔めて
うけませ。
アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 讃美歌 324 (1節)

1.主イエスはすくいを もとむるこの身に
ゆたけきめぐみを そそがせたまえり。
いよいよわが主を 愛せしめたまえ。
アーメン

後  奏 アグヌス・デイ 新式文スペード版より

【説教・音声版】2022年4月3日(日)10:30  四旬節第3主日  説教 「 愛を受け入れて」 浅野 直樹 牧師

四旬節第五主日礼拝

聖書箇所:ヨハネによる福音書12章1~8節

いよいよ、イエスさまの御受難の日が近づいてまいりました。来週は「受難週」となります。

早いものです。今週の日課の出だしにも「過越祭の六日前に」とありますので、なんだかそんな緊迫感が伝わってくるようです。
これまでの3年半とも言われる公生涯でしたが、イエスさまはどのように過ごして来られたのでしょうか。ひとことで言えば、愛の生涯でした。

人を愛し、弟子たちを愛され た。その代表的な出来事が、同じヨハネ福音書の13章に記されています「洗足」の出来事でしょう。このように記されているからです。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。

弟子たちへの愛を余すことなく示されたのが、弟子たちの足を洗うことだった、という。
ご存知の方も多いと思いますが、当時、この足を洗うという行為は、最も身分の低い奴隷の仕事だったと言われています。普通の奴隷でも嫌がる仕事だった。

ある意味、侮辱的なことだったのでしょう。土埃に塗れた最も汚(けが)れた足を洗うという行為は。それを、師であり主であるイエスさまがなさったのです。一人一人の弟子の足元に膝をつき、身をかがめ、弟子の足を持ち上げ、たらいの水でその汚(よご)れた足を洗い流し、腰につけていた手ぬぐいで足を拭いておやりになる。神の子、イエスさまがそれをおやりに なった。しかも、それは、罪の赦し、清めの十字架と深く関わっているとも言われています。

もうお亡くなりになりましたが、神学校時代の恩師に村瀬という先生がおられました。先輩方からは「鬼の村瀬」と恐れられていたと聞かされていましたが、私たちの頃は「仏の村瀬」と言われるほどの変わりっぷり。それは、どうやら幻の中で先生がこの洗足の出来事を体験されたからだそうです。この自分の足をイエスさまが洗ってくださったのだ、と。

ともかく、イエスさまはこのように弟子たちを愛し、愛し抜かれました。もちろん、弟子たちだけではありません。方々で神の国を教え、多くの人の病を癒し、悪霊を追い出し、社会的にも抹殺されていた皮膚病を患っていた人々を回復させ、腹を減らせて帰らせるのは可哀想だと供食の奇跡を行い、一人っ子を亡くし悲しみに暮れていた母親に息子を返され、生まれつき目の不自由だった人の目を開いていかれました。

それは、それら困り果てていた人々を羊飼いのいない羊のように憐れまれ、愛されたからです。そう、イエスさまは人々を愛していかれました。では、逆に人々は、そんな愛されてきた人々は、あるいは弟子たちは、イエスさまに対して何をしていったのか。聖書は、それについてはほとんど記していません。もちろん、人々はイエスさまに感謝していたことでしょう。弟子たちだって、イエスさまを愛していたに違いない。心の中では…。しかし、それを表していたかどうかは、甚だ疑問です。言葉は悪いですが、聖書を読む限り、印象では受けっぱなしで、頂きっぱなしで、返そうとしていないようにも思える。そんな中で、数少ないイエスさまに対する感謝を、愛を表したのが、今日の日課ではないか、と思います。

これもよく言われることですが、いわゆるこの「香油注ぎ」の記事はどの福音書にも記されていますが、かなり違いも大きいのです。特に、ルカ福音書とは違いが大きい。ですので、このヨハネ福音書の記事は共通性の多いマタイ・マルコの記事とルカの記事とをごちゃ混ぜにしたようなものだ、とも言われています。それらの細かな議論については置いておきますが、確かに読んでいましても、ちょっと強引さを感じないわけでもありませ ん。例えば、ここでイスカリオテ・ユダの悪事が急に入ってくる。

これは、ヨハネ特有の記事です。あるいは、この出来事の日時も違っています。先ほど言いましたように、ルカ福音書は例外としても、マタイ・マルコでは「エルサレム入城」の後、十字架の直前の出来事として、まさに緊迫した中での出来事として記されていますが、このヨハネでは「エルサレム入城」の前の出来事、最初に言いましたようにイエスさまの十字架の出来事と大いに関係のある「過越祭(過越の祭)」の六日前と記されています。つまり、緊迫感が多少落ちているとも言える訳です。しかし、果たしてそうでしょうか。たとえ数日の違いがあったとしても、まさに緊迫感が高まっていたに違いないと思うのです。

たとえ、弟子たちはそのことに気づいていなくとも、弟子たちは最後まである意味能天気に描かれていますが、イエスさまご自身だけはひしひしとその瞬間を感じていたことでしょう。逆に、その温度差が、弟子たちとの、周りの人たちとの温度差が、かえってイエスさまを苦しめていたのかもしれない。そんな時です。マリアが香油を注いだのは…。平時ではない。まさに非常時。もうすぐにでも命が奪われようとしていたとき。あのゲッセマネの祈りにも見られるように、イエスさまでさえも平然としてはいられないような中で、です。その時を取り除いて欲しいと必死に祈らざるを得ないような中で、です。そんな時に、この香油注ぎは起きた。あたかも、自分の葬りを準備してくれるかのように。

おそらく、マリアとしてはそんなつもりではなかったでしょう。イエスさまが数日後には、この世からいなくなるなどとは思いもしなかったと思います。しかし、少なくともイエスさまは、イエスさまだけはそう受け止められたのです。分かってくれて、ありがと う、と。自分を慕ってくれて、愛してくれて、ありがとう、と。

マグダラのマリア:ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1567年 ナポリ、カポディモンテ美術館



誰も、イエスさまを理解しようとはしなかった。弟子たちでさえも、理解してくれな かった。自分が十字架の主であるということを。自分が死ななければ救えない命があるということを。彼らは勝手に盛り上がって、自分を王として担ごうとしていた。この時も、人々は祭りを前にして気分を高揚させていたのかもしれない。この時、何か大きなことをしてくれるのではないか、と期待していたのかもしれない。イエスさまの思いとは真逆の方に…。

おそらく、イエスさまは孤独だったのかもしれません。弟子たちと一緒にいながらも、多くの人々に囲まれていながらも、人々から期待を寄せられながらも、孤独だったのかもしれない。自分を理解してくれる人は誰もいないのだ、と。分かってくれている人は誰もいないのだ、と。そこに、マリアは精一杯の愛を注いでくれた。

この香油は300デナリオンの価値があったと言います。年収に近い額です。しかし、そんなことは関係ない。そうではなくて、このマリアのなりふり構わない愛が嬉しかっ た。無駄遣いと揶揄されてもおかしくないような行為が嬉しかった。少なくともイエスさまはそう感じられたのはないでしょうか。

もちろん、マリアがそのような愛の業ができたのも、マリア自身がイエスさまの愛を受けていたからです。今日の箇所ではラザロも登場しています。ご存知のように、このラザロはマリアの兄弟(おそらくは弟でしょう)で、病で死んでしまったのをイエスさまに よって復活させて頂いたのです。それが、今日の箇所の直前、11章に記されている。マリアが感謝しなかったはずはありません。これによって、どれほど救われたことか。

私たちもまた、イエスさまの愛を頂いていることを知っています。感謝もしています。しかし、どのようにお返ししたら良いのか分からないといった思いがあるかもしれませ ん。いいえ、そもそも返せる自信がないのかもしれない。

同じヨハネ福音書の21章に、3度イエスさまから「わたしを愛しているか」との問いかけを受けたペトロの記事があることをご存知でしょう。イエスさまを知らない、自分とは関係がない、と3度否定してしまったペトロに対して問われた言葉です。


以前もお話ししたかと思いますが、私自身、この問いかけを受けた思いをもったことがあります。それは、イエスさまを裏切ってしまったのではないかと思い悩んでいた時で す。そこで、私も問われた。「あなたは、わたしを愛しているか」と。「はい、主よ」と答える勇気も自信もありませんでした。大きな失敗をしでかし、裏切ってしまったような私です。どの口でそのように言えましょう。

しかし、その問いを受け、私自身、自分の心の中を覗きこまされた。もちろん、堂々とは言えません。自信もありません。おそらく、基準点・合格点にもならないようなみすぼらしい小さな愛です。しかし、どんなに小さくみすぼらしいものであったとしても、確かに私の心の中には否定しようのないイエスさまに対する愛があることにも気付かされたのです。

だから、私はこう答えた。「はい、主 よ、あなたはご存知です。本当にみすぼらしく小さな愛でしかありませんが、私はあなたを愛しています」と。それが、私の転機となった。再び立ち上がるきっかけとなった。なぜなら、こんな小さな愛さえも、イエスさまは喜んで受け取ってくださることを知ったからです。

300デナリオンでなくても良いのです。香油でなくても良いのです。ピント外れで、そんなつもりでなくても良いのです。自分ができることで、自分が持ってこと・持っているものでイエスさまを愛する。それを、イエスさまは喜んで受け取ってくださり、意味のあるものとしてくださる。このマリアのように。

今日の箇所では、イエスさまの死について、またラザロを通して復活のことも暗示されていると言われます。

私たちも、まさに受難週、復活祭へと歩んでいくことになる。そこで、少しでもイエスさまに私たちの愛を届けていきたい、そんな歩みをしていきたい。そう思うのです。

 

2022年4月3日からの主日礼拝について

4月3日主日礼拝より、予約なしで礼拝に参加いただけることと致しました。

●礼拝堂は50名を定員
●それ以上の参加者がいる場合は順次2階集会室等へ

ご理解ご協力をよろしくお願いいたします。
なお引き続き、マスクの着用・検温・手指消毒などの基本的感染対策にご協力をお願いいたします。

【説教・音声版】2022年3月27日(日)10:30  四旬節第3主日  説教 「 父の心 」 浅野 直樹 牧師

四旬節第四主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書15章1~3、11b~32節

先週は、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」との大変厳しいみ言葉を聞いてきた訳ですが、そこから、悔い改めを求めておられる神さまのお姿を考えて参りました。今朝のよく知られた、いわゆる「放蕩息子の譬え話」は、そんな悔い改めを求めておられる神さまのお姿、また悔い改めに導かれている、招かれている私たち人の姿とが実によく描き出されている、そんな譬え話ではなかったか、と思います。

「ある人に息子が二人いた」とあります。一人は、これは弟の方ですが、皆さんよくご存知の「放蕩息子」…、父の財産を食い潰すような人です。もう一人は兄でして、後半の中心人物となります。彼は弟とは対照的に描かれています。いわゆる「出来た息子」で す。私たちはどちらかというと、前者の「放蕩息子」、弟の方が印象深いのではないでしょうか。彼の半生はドラマチックでもある。そして、どことなく同情的なのかもしれませ ん。しかし、どう贔屓目に見ても、彼は駄目な人です。もし、身近に、例えば親類に同様の人物がいたとしたら、あるいは自分の子どもがそんな生き方をしてしまったとしたら、私たちはどう思うだろうか。突然、親に相続財産を要求し、手に入れると家を飛び出して音信不通…。仕事もせずに遊び歩いて、お金が底をつくと、ノコノコと帰ってくる。そんな人を好意的に見ることなど、私たちはおそらく出来ないでしょう。

今日の福音書の朗読では、最初にこのように読みました。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」。ここから、ご存知のように、三つの譬え話を…、99匹を野に残しておいてでも見失った一匹の羊を懸命に探し出す羊飼いの話や、無くした一枚の銀貨を必死に探し当てる女性の話、そして、この「放蕩息子の譬え話」が語られたのでした。つまり、ここに、これらの譬え話が語られた意図があったわけです。

ならば、ここで登場する弟の方は「徴税人や罪人」を、兄の方は「ファリサイ派や律法学者たち」を表していると言っても、言い過ぎではないと思うのです。

私たちは、この「徴税人や罪人」と言われる人たちが、ある意味社会・社会制度の犠牲者だといった理解があるのかもしれません。それは、ある意味、当たっていると思いま す。今日のような社会状況ならば、そういった非難は当たらなかったかもしれない。しかし、私たちも、自分の権力を利用して私腹を肥やしているような人を見聞きしては憤り、犯罪とまではならなくとも不倫・不道徳・不祥事などを見聞きして、いい気分にはならないはずです。そういった現実だってあった。そういった現実を抱えていた。

ムリーリョ『放蕩息子の帰還』(1667~70年、油彩、236cm×262cm、ワシントン、ナショナルギャラリー所蔵)



だから、「放蕩息子」なのです。単に、父である神さまから離れてしまった、不信仰に生きた、というのではない。そこで自分勝手な生き方をして、欲望のおもむくままに放蕩していったのです。他人を、自分を、神さまを傷つけるようなことをしてきてしまった。それも、私たち人類の真実。

しかし、彼は悔い改めました。だがしかし、正直私は、それもちょっと納得がいかないところがある。彼はいつ悔い改めたのか。最後の最後です。命の危険を、死の現実を感じざるを得ないような時です。昔々ある皇帝が、死の間際の洗礼を求めた、と言います。つまり、死の間際までは、これまで通りの生活がしたい、ということです。例え罪の赦しが必要だとしても、それは死の間際で良い、と考えた。他人事ではない。私たちにだって、そういった考えがない訳ではない。悔い改めの機会は何度もあった。しかし、人はそれを拒んでしまう。最後の最後まで抵抗しようとする。この弟のように。

しかも、彼のいいぐさはこうです。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と」。私自身、もし我が子が帰って来る気になった時に、どうしてそう思うようになったのかと尋ねた答えがこうだった ら、どう反応するだろうか。「お前な~、本当にちゃんと反省しているのか」と思わないだろうか。

私は、ファリサイ派や律法学者たちが正しいとは思いません。聖書を読む限り、彼らとは相容れないところがある、といった思いもあります。しかし、ことこの箇所において は、どうやら私自身は、この兄の方に、つまりファリサイ派・律法学者たちの方に心理的な、心情的な近さを感じたりもしています。皆さんは、どうでしょうか。

兄は弟が無条件で父に受け入れられたことに腹を立てます。そうです。おそらく、無条件で受け入れられたことに腹を立てたのでしょう。つまり、あれだけのことをしておい て、自分と同等か、それ以上の扱いを受けていることに我慢ならなかったのです。私たちにも分かることではないか。そうです。むしろ、それ相応の報いがあれば納得できたのです。弟が申し出ようとしたように、雇い人の一人として帰って来たならば、色々と思うところはあったとしても、受け入れられたのかもしれない。そうです。無条件が気に入らないのです。

それは、不当・不正義とも思える。正しい評価がされていないのではないか、依枯贔屓がすぎるのではないか、と思える。翻って、それによってこの自分が受け入れられていないようにも思えてくる…。

兄弟姉妹がおられる方には、よく分かることではないでしょうか。親は同じように接しているつもりでも、兄の方が、弟の方が、姉の方が、妹の方が、と思ってしまうことがある。自分は正当に評価されていないと、自分は受け入れられていないのではないかと思い込んでしまうことがある。そうです。兄弟であっても…、むしろ近しい相手だからこそ人は比較の対象として相手を見てしまうからです。自分との比較の中で、相手を評価しようとする。それが、人の、兄弟の視点です。

しかし、親の視点は全く違う。兄だろうと弟だろうと、親からすれば我が子です。愛すべき子どもたちです。それが、神さまの視点。駄目な徴税人、罪人であろうと、出来のいいファリサイ派、律法学者であろうと、神さまからすれば、大切な息子たちに違いないのです。しかも、弟の方は家を飛び出していってしまって、何の音沙汰もない。生きているのか死んでいるのかも分からない。そんな息子。そんな息子が、もう戻ってはこないのではないか、と諦めかけていたような息子が、次男は死んでしまったのだと自分に言い聞かせるしかなかったような息子が、帰ってきた。やつれた顔で、みすぼらしい姿で、帰ってきた。それは、もう迎えずにはいられないのが、親の心境でしょう。帰ってきた、死んだと割り切ろうとした子が戻ってきた、それだけで親としては十分だった。どんな反省をしようと、どんな悔い改めをしようと、どんな覚悟だろうと、そんなことは二の次。今は、ただ帰ってきてくれたことを、戻ってきてくれたことを喜ぶ。感謝する。それが、親の 心。親の視点。

親とは、親バカになれる存在です。社会の常識・通念、理性的な判断・評価を超えて「バカ」になれる、「愚か」になれる、それが親の愛。部外者が首を傾げるような親バカな事件や、子どもを庇い自分が犯人になるといったドラマが作られる訳です。その是非は別です。歪んだ愛情とも言えなくもない。しかし、親とは子どものために、そこまで馬鹿になれる存在でもある訳です。

この「放蕩息子の譬え」の父親もそうでしょう。息子の視点では、無条件に弟を赦し受け入れる父の姿に当然納得できないし、一般的な視点でも、弟を迎える姿、兄を宥めすかす姿は「親バカ」と映るのかもしれません。しかし、そこを言いたいのです。神さまの愛とは、親バカとも言えるような常識外れの愛なのだ、とイエスさまは言いたいのです。この父親ならば、兄に対しても同じことをしたでしょう。だから、兄であるファリサイ派、律法学者たちにも、そのことに気づいてほしいと訴えておられる。

しかし、私は、やはり弟の方も気掛かりです。確かに、無条件に赦され、受け入れられたことを弟は喜んだでしょう。しかし、父親が催した宴会にどんな思いで参加したんだろうか。おそらく、ばつが悪かったのではないか、と想像するのです。みんな、自分が何をして来たかを知っているからです。むしろ、自分が願い出ようとしたように、雇い人の一人に、少なくともしばらくはそうしてもらった方がスッキリしたのに、と思っていたのかもしれない。つまり、どちらも、兄も弟も親の心子知らずということでしょう。私たちも気をつけなければいけない。救われて、赦されて当然というのはおかしいとしても、せっかく赦していただいているのに、いつまでもばつの悪い、居心地の悪い、つまり納得のいかないあり方はどうか、とも思うからです。

父の愛を素直に、ありがたく受け取りたい。ある方は、この箇所を「放蕩息子の譬え話」と呼ぶのは間違いだ、と言います。そうで はなくて、「父の愛の物語」と呼ぶべきではないか、というのです。私も、そう思います。この物語の主役は、弟でも兄でもないからです。父です。父なる神さまです。駄目人間でも、出来た人間でも、この神さまの愛に招かれている。常識外れの愛に招かれている。

それに気づいてほしい。イエスさまはそう訴えておられるのではないか、と思うのです。

 

【週報:司式部分】 2022年3月27日 四旬節第4主日



2022年3月27日(日)10:30 四旬節第4主日

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 中山 康子

開会の部
前  奏 “キリエ” 新式文のハート版より

初めの歌 教会176番(1節) あさひをうけ
朝日をうけ われはたたう、
イェス・ キリスト
ゆうべのかね み名をあがむ。
イェス・ キリスト。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
憐れみの神様。あなたは失われた者を喜び迎え、憐れみをもって抱きしめてくださいます。
洗礼によって私たちに恵みの衣を着せ、愛の食卓で養ってください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 ヨシュア記5:9-12( 旧約 345 頁 )
第2の朗読 コリントの信徒への手紙第二 5:16-21( 新約 331 頁 )
詠 歌
福音書の朗読 ルカによる福音書 15:1-3,11b-32( 新約 138 頁 )

みことばの歌 教会295番(1節)ひかりにそむき
1.ひかりにそむき 閉(と)ざす門(かど)を
おとずれたもう 客人(まれびと)あり。
神のしもべの 名にそむきて
などむかえざる 神のみ子を。
アーメン

説 教 「 父の心 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会 298番(3節) こころまよいゆくを
3.われを見たもぅ救い主(ぬし)の 愛に満(み)つるひとみ、
罪をゆるし、やすき与え いのち満たしたもう。
嘆(なげ)きいたむわれを 捕(とら)えたもう
神の愛のひとみ わが主のまなざし。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会397番(1節) われはあおぐ
1.我は仰(あお)ぐ  にえとなりし 小羊。
わが罪(つみ)咎(とが) とりのぞきて
きみのものと したまえ。 アーメン
*にえ=犠牲

後  奏 “アニュス・デイ” 新式文のハート版より

【説教・音声版】2022年3月20日(日)10:30  四旬節第3主日  説教 「 悔い改めを待っている 」 浅野 直樹 牧師

四旬節第三主日礼拝説教



教会の桜のつぼみも随分と膨らんで参りました。散歩に出かけますと、白い大きな白木蓮(ハクモクレン)の花が目を楽しませ、沈丁花(ジンチョウゲ)の芳しい香りが気持ちをワクワクさせてくれます。毎年、このような季節になりますと、自然の不思議さ、力強さを感じさせられ、色とりどりの景色になるのを心待ちにさせられます。

イエスとヘロデ :アルブレヒト・デューラー (1471–1528) 木版画 1509年 National Gallery of Art



今日の説教題は、「悔い改めを待っている」としました。今日の福音書の日課は、明らかに「悔い改め」がテーマとなっているからです。
私たちは連日、ウクライナで起こっている出来事に釘付けになり、心を痛めてきまし た。と思いきや、先日の地震です。ここ東京でもかなり揺れました。物が倒れないかと心配した。その揺れが結構続きましたので、2011年のことが連想されました。すぐさまネットで情報を見ますと、やはり東北で震度6強の揺れがあり、津波注意報も出されていることが分かりました。嫌な予感がしました。残念ながらお亡くなりになられた方や怪我をされた方もいらっしゃいましたが、大惨事にならずに済んで、ほっといたしました。 当たり前といえば当たり前かもしれませんが、イエスさまの時代にもそんな不幸な出来 事があったのです。

今日の日課がそうです。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」と聖書は記しています。ピラトというのは、イエスさまを十字架につけた、あの総督ピラトのことです。しかし、実はこの事件の概要がよく分からないのです。ローマの資料にも、ヨセフス(『ユダヤ戦記』を書いたユダヤ人の有名な歴史家ですが)の歴史書にも記されていないからです。つまり、他に当たる資料がまるでない、ということです。ですから、この聖書の言葉から推察するしかないのですが、それがまた難しい。なぜなら、「いけにえ」は神殿でしか捧げられませんから、異教徒であるピラトが神殿に押し入って「ガリラヤ人の血をいけにえに混ぜる」なんてことは普通ならば考えられないことだからです。もし、こんな暴挙に出たのなら、他の何らかの資料に も、例えば先ほど言いましたヨセフスの文章にも出てくるはずだからです。ですから、よく分からない。しかし、何らかの流血沙汰が起こったことは事実なのでしょう。ローマ総督ピラトの手によって。それが、不幸な出来事の一つ。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 「冷たい石の上のキリスト」(1614)



もう一つは、「シロアムの塔が倒れ」たことです。それによって、18名の犠牲者が出たという。これも、当時の人々はよく知っていた出来事・事故だったようですが、今ではよく分からない。シロアムという池の側に水道かあるいは城壁が造られていて、その建築用の櫓が倒れたと推測している人もいます。ともかく、多くの人はこれを「天災・自然災害」と分類している。

つまり、先ほどのものは、明らかに人の手によってなされた不幸ということですが、ここで二種類の不幸…、いいえ、そもそも不幸というものは人の手によるのか、それとも自然が起こすものかでしかないようにも思いますので、人を不幸たらしめる原因全てが記されていると言っても良いのかもしれません。当然、どうしてそんな不幸な目に遭うのか、という理由を知りたくなるのも人情というものでしょう。そこで、イエスさまはこう答えられました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」。

当時、そう考える人たちが多かったのでしょう。いいえ、現代だって決して少なくないのかもしれません。不幸の原因はその人自身にあるのだ、と。私も、そうでした。長男が死の病にかかってしまったのは私の罪のせいではないか、と思っていた。しかし、イエスさまは続けてこう語られた。「決してそうではない」と。これは、救われる言葉です。そして、あのヨハネ福音書にあるように、こう言ってくださるに違いない、と私たちは期待する。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。しかし、今朝の日課は、そんな私たちの期待を裏切るものです。

「決してそうではない。 言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。そう言われる。これは、なかなかにしんどい言葉です。しかし、ここで注意して頂きたいのですが、ここで言われているのは、自分の不幸をどう受け止めるか、ということではない、ということです。そうではなくて、他人の不幸をどう受け止めるべきか、ということです。当然、先の地震だって、被害にあったのはあなたがた自身のせいだ、自業自得だ、などということは、私たちは決して思わない。むしろ、なんで東北の人ばっかり、と心を痛める。イエスさまだって、あんな不幸な目に遭ったのは、あの人たち自身の罪のせいだ、といった問いかけに対して、はっきりと「違う、決してそうではない」とおっしゃっておられる。その人の罪、過ちが災いを招いた、といったある種の因果応報的な考え方に対して、はっきりと「ノー」と言っておられる。

つまり、そういったことを追求しておられるのではないのです。そうではなくて、それらの不幸な出来事を、あなた方は他人事としていないか、と問われるのです。むしろ、我が身を顧みる機会とすべきではないか、と問われる。確か に、そうです。どれほど同情を寄せ、心配りしているつもりでも、それ自体は悪いことではないと思いますが、それでも「自分はそんな目には合わない」とどこかで思っている自分がいる。他人事、自分とは関係のないこととしている自分がいる。そうではないだろ う、あなた方の身にだっていつでも起こりうることだ、そうなってからでは遅いのだ、とイエスさまは問われるのです。

プーチン大統領は、今回の戦闘行為を安全保障のためだ、自国を守るためだ、と言っています。恐らく私たちの多くは、あのウクライナの惨状を見て、そんな言葉は全く納得できない、と思っているのではないでしょうか。ウクライナの人々の命を奪う理由にはならない、と。では、私たちの国を、日本を守るために、安全保障のために、北朝鮮を、中国を、どこかの国を攻撃することは許されるのでしょうか。自衛のためならば、人を殺すことは、問題にならないのでしょうか。どんな場合でも、人殺しは罪であるはずです。「汝殺すなかれ」。

以前もお話ししたことがあると思いますが、私は30代の前半に、はじめて沖縄を訪れる機会が与えられました。本当は会議に出席しなければいけませんでしたが、同世代の牧師仲間と抜け出して、レンタカーを借りて、戦争の史跡巡りをしたのです。もちろん、私は昭和42年生まれ、戦争を知らない世代です。しかし、今よりもずっと触れる機会が あったように思います。偏ったあり方ではあったかもしれませんが。とにかく、当時の軍国主義が諸悪の根源とばかりに叩き込まれていた。そのせいでもあるのか、戦後民主主義に生きる私とは関係のないことだ、と正直思っていました。少なくとも、自分はそんな間違った考えにはならないと。しかし、史跡巡りをしていく中で、その時代に生きた人々に触れていく中で、本当にそうだろうか、と思うようになりました。もし、自分がその時代に生きていたら、今のような考え方になっていただろうか。そして、自分の中にもはっきりと戦争の血が流れていることに気付かされ、愕然としたことを覚えています。

何が言いたいのか。他人事ではない、ということです。誰の罪のせいなんて呑気なことを言っている場合じゃない。私たち皆が悔い改めに招かれている。悔い改めるべき存在である。そのことに気付け、とイエスさまは語られる。

6節からは、ある意味悔い改めを待っておられる神さまの様子が譬え話として語られています。何の説明もいらないくらいに、よくお分かりでしょう。悔い改めの実を実らせようとしない私たちのために、イエスさまが猶予を願い出てくださっている。それは、分かる。ありがたいとも思う。しかし、もしこの一年も実を結ばなかったら、どうしよう、といった思いを持たれるのかもしれません。そもそも、どうしたら実を結べるのだろうか、とも…。

最初に季節の話をしました。本当に不思議です。なぜ季節になると芽吹くのか。花を咲かせるのか。木々たちが頑張って咲かせるのではないと思うのです。そうではなく、自然に、です。そう創られているからです。むしろ、そうでない方が不自然なこと、異常なことです。むしろ、何かがそんな自然の営みを無理矢理に止めている、ということでしょ う。このいちじくの木もそうなのではないか。

ご存知のように、ヨハネ福音書には「ぶどうの枝」の譬えが記されています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。イエスさまにつながってさえいれ ば、実は自然と結ぶという。あるいは、ロマ書です。ここではユダヤ人をオリーブの木に譬えられ、異邦人である私たちが、その木に接木されていると語りながら、こう記されています。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」。

つまり、神さまのご愛を信じて、恵みの中に留まり続けることの大切さを言っているのでしょう。今日のところでも、実を結ばせることに必死なのは、園丁であるイエスさまなのです。 私たちの努力の結果ではない。では、何が必要なことか。神さまが開いてくださる命の道を閉ざさないことです。なぜ神さまは私たちに悔い改めを要求されるのか。断罪のためではありません。私たちを救うため、自然に実を結ぶように命に生かすためです。そのために、イエスさまは必死になってくださっている。必死に食い下がり、猶予を勝ち取ってくださっている。そのことに気づくためにも、無関心であったり、他人事であったりしてはいけないのです。私たちはすぐにでも神さまから離れてしまう弱さを持っているからです。だからこそ、この悔い改めの招きにも素直に答えていきたいと思うのです。