5月28日(日)10:30 説 教:「 主の証人となる 」浅野 直樹牧師

昇天主日礼拝
-聖 書:使徒言行録 1:1-11、 エフェソ 1:15-23、 ルカ 24:44-53
讃美歌:534、157、502、225

5月21日(日)10:30  説 教:「 決して見捨てない愛がここに 」平岡仁子 牧師

復活後第5主日礼拝
-聖 書:使徒言行録 17:22-34, Iペトロ 3:8-17、 ヨハネ 14:15-21
讃美歌:教会157(1、3、5)、教会279、教会335、教会357

5月14日(日)10:30 説 教:「 この道はどこへ行く道? 」浅野直樹 牧師

復活後第4主日礼拝
-聖 書-:使徒言行録 17:1-15, Iペトロ 2:4-10、 ヨハネ 14:1-14
讃美歌:教会 164、教会 345、教会 346、教会 424

2017年いずみの会・修養会(5月14日)

*日本福音ルーテル 市ヶ谷教会、 スオミ教会、むさしの教会*
宗教改革500年の今、新たな出会いを求めて
〜北欧の宗教改革〜
北欧の人々のアイデンティティ形成に果たしたルター派の役割とは

●日時:2017年5月17日(日)
●受付:13:45〜
●開会:14:00〜17:00
14:00~14:10 開会・賛美・オリエンテーション
14:10~15:30 吉村博明先生による講義
15:30~15:45 休憩(コーヒー&スナックのブレイクタイム)
15:45~16:50 Q&A質疑応答
16:50~17:00 閉会・賛美 
●場所:日本福音ルーテルむさしの教会(当教会)
●講演:吉村博明 宣教師
フィンランド・ルター派国教会のミッション団体SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師。同国教会信徒。神学博士。慶応大学大学院在学中にフィンランド・トゥルク大学法学部留学。同国政府奨学金留学生、フィンランド科学アカデミー研究員、日本学術振興会特別研究員、外務省専門調査員(在スウェーデン日本大使館付)を経て、1998年フィンランドのスウェーデン語系オーボ・アカデミー大学神学部入学。2003年神学修士。国教会牧師助手等を経て2010年同博士。同年SLEYの宣教師として日本福音ルーテル教会に派遣され現在に至る。13年ルーテル学院大学・同神学校にて新約聖書ギリシャ語講師。

5月7日(日)10:30 説 教:「 主は我が牧者 」浅野直樹 牧師

復活後第3主日聖餐礼拝

-聖 書-:使徒言行録 6:1-10  Iペトロ 2:19-25  ヨハネ 10:1-16

讃美歌: 3、238、354、324

4月30日(日)10:30 説 教: 「 皆で集まっているところに 」浅野直樹 牧師

復活後第2主日礼拝

聖 書:使徒言行録 2:36-47  Iペトロ 1:17-21  ヨハネ 20:24-29

讃美歌: 教会99、教会322、教会344、教会413

4月23日(日)10:30 「私たちは魂の救いを得ている」浅野直樹 牧師

復活後第1主日

聖書:使徒言行録 2章22-32 ペトロの手紙I 1章3-9 ヨハネ20章19-23

讃美歌:154、298、525、352

4月16日 午前9:00 子どもイースター礼拝&お楽しみ会

午前 9:00~子どもと家族のイースター礼拝 ※受付 午前8:45~
午前 9:30~楽しい卵(イースターエッグ)さがし
午前 10:00〜祝会(お茶とお菓子)

4月16日(日)10:30 説 教: 「 ガリラヤへ行け 」鈴木 浩 牧師

復活祭礼拝

聖 書:使徒言行録 10:39-43  コロサイ3:1-4  マタイ28:1-10

讃美歌: 教会89、教会95、教会97,教会453

4月9日(日)10:30 説 教: 「 イエスの十字架 」浅野直樹 牧師

枝の主日・受難主日礼拝

聖書:ゼカリヤ9:9〜10 フィリピ2:6〜11 マタイ27:32〜56

讃美歌:134、136、515、332

4月2日(日)10:30 説 教: 「 どうしても救いたい 」浅野直樹 牧師

四旬節第5主日聖餐礼拝

聖 書: エゼキエル 33:10-16  ローマ 5:1-5  ヨハネ 11:17-53

讃美歌: 教会 80  教会 292  教会 388  教会

 

3月26日(日)10:30  「 ちゃんと見えてる? 」浅野直樹 牧師

四旬節第4主日礼拝
聖 書: イザヤ 42:14-21 エフェソ 5:8-14 ヨハネ 9:13-25
讃美歌: 11、142、269、270

3月19日(日)10:30 「 わたしたちの弱さ 」浅野直樹 牧師

四旬節第3主日礼拝

聖 書: 出エジプト 17:1-7  ローマ 4:17b-25  ヨハネ 4:5-26

讃美歌: 教会64、教会279、教会328、教会344

人は意味なくして生きることはできない 賀来 周一

『夜と霧』で有名なオーストリアの精神科医ヴィクトル・フランクル(1905−1997)は、<人は意味なくして生きることはできない>という言葉を残したことで有名である。同書は、霜山徳爾によって邦訳(1956年)が出されたが、1977年フランクル自身によって改訂され、池田香代子による新訳(2002年)が出ている(いずれもみすず書房)。

同書は第二次大戦の最中、ユダヤ人強制収容所における絶望的な状況の中を生き抜いた人たちは、如何にして命を全うしたかを綴った記録である。彼自身も1941年から45年までの収容所で過ごし、自ら経験したこと、また収容所内で起こった出来事を可能なかぎり断片的なメモに記し、45年4月米軍によって解放され、ウイーンに帰国した後、1946年『夜と霧』にまとめ上げた。同書は発刊と共に注目され、希望と苦悩の中に生きざるを得ない人々に光を与えた著作となった。また精神科医でもある彼は、この強制収容所の経験を通して、実存分析療法(ロゴセラピー)という心理療法にまで完成させ、生きがいを失った人々に再び希望を与えたことでよく知られている。

彼の考え方は、単に理論を開発したというのでなく、飢えと死が身近に迫る過酷な強制収容所において、自らの置かれた状況に意味を見出した者のみが命を全うしたという事実に基づいている。考えてみれば、人はわたしたちも含めて意味のないところに身を置くことはない。意味のないところに身を置けば、生きていても仕方がないと思うであろう。言い換えれば、人は生きるためには意味を必要としているのである。彼の著作に『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)があるが、たとえ、絶望的な人生が目の前に広がっていたとしても、その状況そのものに意味を見出すならば、なお、一歩前に向かって進む自分を発見するということをその本の中で強調した。

しかし、フランクルは絶望的な人生の状況に対して、人が自分の側から問いかけ、そこにどのような意味があるかと期待をしても意味は発見できないと主張する。むしろ、自分が置かれた状況そのものが、自分に何を語りかけているかに耳を傾けないかぎりそこに意味を発見することはないというのが彼の基本的な主張である。旧約の哀歌3章28節に「軛を負わされたなら、黙して独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない」とあるように、状況が如何に絶望的であれ、絶望そのものが語りかける答えに静かに耳を傾けることで、そこにどのような意味があるかを発見する。

言い換えれば、置かれた状況に対して、自分という存在はあくまで脇役に撤し、状況が如何に絶望的であれ、その絶望そのものに主役の座を譲り渡さない限り、意味を発見することはないということである。意味は向こう側から来るといってよいであろう。この姿勢はまことに信仰的であると言える。信仰者の生き方もまた、自分はさておき、何よりもまず神の御心は何であるかに耳を傾けることから始まるからである。   (むさしの教会元牧師)

《 折々の信仰随想 》

キリスト教カウンセリングセンター理事長

むさしの便り12月号より

礼拝説教 「御言葉が教える平和」  浅野 直樹

ヨハネによる福音書15章9〜12節(ミカ書4章1〜5節)

8月に入りましたが、この8月は私たち日本人にとりましては、非常に感慨深いときではないか、と思います。昨日の6日は広島に原爆が投下されて71年目の日でしたし、9日には長崎に…、15日には71回目の終戦の日(敗戦の日)を迎えるからです。今年は、リオデジャネイロ・オリンピックもあり、NHKなどでもあまり戦争関連の特番は組まれていないようですが、それでも(オリンピックを楽しむことはいいことですが)、私たちにとっては決して忘れてはならない日々だと思うのです。明日、8日から恒例のルーテルこどもキャンプが広島で行われますが(むさしの教会からも2名参加)、是非、この平和ということについても学んできていただきたいと願っています。

そういう訳ですので、私が牧師になりましてから8月の第1主日は「平和の主日」として守ってまいりました。そして、これからも余程のことがない限り、この8月の第1主日は「平和の主日」として、ご一緒に「平和」について考えるときをもっていきたいと願っています。

そのように考えまして、今回も説教の準備をしていた訳ですが、インターネットで面白いものを見つけましたので、ぜひ皆さんにご紹介したいと思いました。東郷潤という方が書かれた『終わりのない物語』という絵本です。

 

【『終わりのない物語』を読む】

(インターネットで簡単に見られますので、興味のある方はお調べになってください)

いかがだったでしょうか。絵はちょっと…、と思わない訳ではありませんが、いろいろと考えさせられるところがあったのではないでしょうか。

作者の東郷さんは「あとがき」で次のように書いておられます。「絵本『終わりのない物語』は、善悪の錯覚が引き起こす憎しみの連鎖/暴力の連鎖をテーマとしています。善悪という考え方を巡っては、これ以外にも、本当に多くの錯覚が存在しています。そして、それらの錯覚は様々な悲劇を生む土壌となり、結果的に、億単位の人々が犠牲になっているのです。そうした悲劇を地球上から少しでも減らすことを目的に、絵本『終わりのない物語』を執筆しました」。私は、ここに重要なキーワードが二つあるように思いました。一つは「善悪の錯覚」という言葉です。この物語の面白さ(ユニークさ)は、悪人がいないということです。登場してくるお猿さんも、猫さんも、象さんも、みんな正義を愛する立派な人(ではないですね、動物)たちでした。そんな彼らですから、人殺しという悪を見逃すことができなかったのです。その悪を絶つために、正義の名の下悪人たちを殺す。しかし、その殺した悪人たちは、実は悪人たちではなかった。彼らもまた自分たちの正義のために悪を懲らしめている者に過ぎなかった。正義のために戦った人々を、正義の名の下に殺していく。そんなおかしなことが起こっている、というのです。確かに、そうです。みんな自分たちの大切なものを守るために殺しあっていく。国を守るために、愛する者を守るために、家族を…、子どもたちを守るために、自分たちを脅かす悪者どもを殺す。そうでないと大切なものが守れないから、と殺していく。しかし、自分たちの目から見れば悪者と思えるような人々も、大切なものを…、国を…、愛する者を…、家族を…、子どもたちを守るために、自分たちを脅かしている悪者どもに立ち向かっているだけに過ぎないのかもしれない…。

絵本に登場してまいります猿、猫、象を、アメリカ、ロシア、ISなどと置き換えてみたらいいと思います。この世の中で、そんな単純な善悪など果たして存在しているのだろうか。単純に、こちらは正義でこちらは悪と言い切ってしまえるようなものなんだろうか、そんな問いをこの物語は私たちに投げかけているように感じるのです。

そして、もう一つは「連鎖」(憎しみの連鎖/暴力の連鎖)という言葉です。もちろん、この連鎖は断ち切らなければならないはずです。

皆さんは新約聖書の書き出しが何であるかをご存知だと思います。そう、系図です。マタイによる福音書1章1節からイエスさまの系図が記されていきます。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。皆さんもおそらくそうだったと思いますが、聖書をこれから読もうと思って開くのがこの箇所でしょう。そして、いくぶんうんざりする…。よく知らないカタカナの名前がずらっと出てくるからです。そして、聖書を読むのに少し慣れてくると、ここはもう読む必要もない、と飛ばしてしまうかもしれない…。そんな系図です。私も、そうでした。しかし、聖書を…、特に旧約聖書を理解するようになってくると、なぜイエス・キリストの福音を伝える新約聖書がこの系図から始められているのか、得心がいったように思いました。イスラエル民族の系図は通常男系なのですが、このイエスさまの系図には数名の女性が名を連ねています。しかも、いわゆる曰く付きの女性たちです。3節のタマルはユダの息子の嫁です。つまり、ユダは息子の嫁によって子どもをもうけた、ということです。

5節のラハブは遊女ラハブと言われる女性ですし、その後のルツは異邦人です。そして、極め付けは6節の「ウリヤの妻」…、これはバト・シェバのことですが、名前すら載せず、サムエル記の出来事を想起させるかのように「ウリヤの妻」とだけ記されています。詳しくお話しする時間はありませんが、ダビデはウリヤの妻を寝取り、不倫がばれそうになると、夫のウリヤを戦場の最前線に送り出して殺してしまうのです。そして、いけしゃあしゃあと未亡人のバト・シェバを妻として迎える。本当にとんでもない悪事を働いたわけです。それが、イエス・キリストの系図だ、という。本来ならば隠せばいい汚点をさらけ出しながら、これこそがメシア(救い主)の系図だと示すのです。私は、ここに救い主の意味を見たような気がしました。イエスさまの誕生によって、この血塗られた血筋に楔が打たれた…、連綿と続いてきた罪と過ちの歴史、その呪いが断たれた…、新しい救いの時代が到来した…、そう思ったからです。

憎しみの連鎖、暴力の連鎖は、このイエスさまによって断たれるのではないでしょうか。イエス・キリストという存在こそが、人類の英知によっては断ち切ることのできなかったこの「連鎖」を、断ち切ってくださるのではないか…、そう思うのです。

私は最近、このイエスさまの弟子に「熱心党のシモン」がいたことの意味をつくづく考えるようになりました。この「熱心党」…、ある辞書には次のように記されていました。「熱心党は狂信的な愛国グループで、ゲリラ活動によりローマ占領軍を追い払うことを目的としたが、実際にはさまざまな血なまぐさい報復事件を引き起こしていた」。現代でいえば、テロリズムの考え方を持っていたと言ってもいいのかもしれません。そんなシモンが、ペトロやヤコブ、ヨハネなどと並んでイエスさまの弟子となっていた。目的のためならば、人を殺すことも厭わなかったシモンが、全く別の方法で世界を、社会を変えようとしていった…。ここにも、私たちが注意を払うべきイエスさまのお姿があるように思うからです。

「平和学」という学問分野があることをご存知でしょうか。簡単に言ってしまえば「平和を追求する学問」と言えるのかもしれません。そんな「平和学」の本に、こんなことが書いてありました。「平和学は極めて学際的な学問であり、国際政治学や国際関係論以外にも、経済学、法学、社会学、心理学、人類学、教育学、宗教学、倫理学、哲学など、多くの分野の学問を含んでいる」。つまり、平和の問題というのは、単に軍事や政治の問題に限らず、非常に複雑で難しい課題が絡み合っているということでしょう。確かに、誰もが平和を望んでいるはずなのに、現実にはなかなか難しいわけです。そうであっても、私たちは一市民として、この平和のためにも政治にも選挙などを通して積極的に参加すべきだし、自分たちの暮らしぶりや経済活動が、果たして貧しい国々の構造的暴力に加担することになってはいまいか、と反省することはもちろん大切ですが、ではキリスト者として一体何ができるのだろうか、といった問いも非常に大切になるのではないか、と思うのです。キリスト者だからこそ…、いいえ、キリスト者にしかできないことがあるはずです。それは、もちろんイエス・キリストです。今日の旧約の日課、ミカ書にはこのように書かれていました。「主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」。

私たちは、この旧約の言葉がイエスさまによって実現すると信じます。イエスさまがこの地上に来られたのは…、お生まれになったのも、その人生を人々への宣教…、弟子たちへの教育に費やされたのも、十字架に死に復活されたのも、平和のためだったと信じるからです。私たちの主イエス・キリストは「平和の主」です。私たちは、この平和の主を「信じる」ところからまず始めるのです。それが、私たちの生き方にもなっていくからです。

戦後71年。これまで続いてきた平和が案外脆いものであることに私たちは気づき始めました。平和だと思っていた時代にあっても、平和ではなかった人々が数多くいたことも知りました。戦争がないことだけが平和なのではない、ということについても考え始めています。だからこそ…、そんな時代、現代だからこそ、平和を作られたイエス・キリストに…、熱心党のシモンでさえも弟子とされたイエス・キリストに思いをむけていきたいと思うのです。そして、このキリストの平和の輪をもっと広げていきたい、そんな仲間をもっと増やしていきたい、そう願わされます。2016年8月7日

平和の主日礼拝説教(むさしの教会)

むさしの便り10月号より

「クリスマス・プレゼント」 浅野 直樹

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

(ヨハネによる福音書3章16節)

 

今年もクリスマスの季節になりました。心からイエスさまの御降誕を祝っていきたいと思います。

私の手元には『ほんもののプレゼント』(偕成社)という小さな本があります。結婚前に妻がクリスマス・プレゼントとしてくれたものですが、O・ヘンリーの「賢者の贈り物」(The Gift of the Magi)として知られているものです。私はクリスマスになると、この物語をよく思い起こすのです。

ジムとデラという若い夫婦が主人公です。夫のジムは若干22歳。おそらく新婚さんなのでしょう。夫婦としての初めてのクリスマスを迎えるのですが、お互いにプレゼントをする余裕がありません。妻のデラは一生懸命に倹約をしてきましたが、なかなかプレゼント代をためることができませんでした。思い切ってご自慢の栗毛の長髪(ながかみ)を売って、お祖父(じい)さんの代から受け継いできたジム自慢の金時計(懐中)を彩るプラチナのチェーンを購入することができました。デラはわくわくしながらジムの帰りを待っていましたが、ジムは帰ってくるなりデラを見て呆然としてしまいます。それは、ジムはジムで妻の自慢の長髪のために金時計を売ってしまって素敵な櫛のセットを購入していたからでした。つまり、お互いのプレゼントは役に立たないプレゼントとなってしまったわけです。でも、この本はこう書きます。「頭のいい人たちは頭のいいプレゼントをします。…ところがこのアパートに住む、二人の、あまり頭のよくない子どもっぽい人たちは、いちばんたいせつな宝ものを、いちばん頭のよくない方法で、おたがいになくしてしまいました。でも、現代の頭のいいみなさん。プレゼントをする人たちの中で、この二人こそだれよりもかしこい人たちだったといえるのではないでしょうか。プレゼントをあげたりもらったりするということは、この二人のようにすることなのではないでしょうか。」

イエス・キリストは私たち人類に与えられた神さまからのプレゼントだと聖書は告げています。あなたのために、あなたのことを思って、もっとも大切な宝さえも手放して、ただあなたの幸せを願って与えられたプレゼント…。それがクリスマスです。

むさしの便り12月号より

巻頭言   浅野 直樹

去る8月11日、むさしの教会を会場に「今知りたい、バングラデシュ」(シャプラニール=市民による海外協力の会、シェア・ザ・プラネット、オックスファム・ジャパン共催)と題して講演会が行われました。まだ記憶に新しい、日本人も犠牲者となったバングラデシュの襲撃事件を受けてのことです。長く現地滞在を経験されたシェア・ザ・プラネットの筒井さんという方がテロの背景となっている現状などを詳しくお話しくださいましたが、その中で一人の現地青年のインタビュー記事が配られました。この青年はいわゆる「リクルーター(テロ活動に勧誘する人物)」との接触経験があったということです。幸いにして彼は両親の説得などもあって深入りすることはありませんでしたが、場合によっては自分もあの青年たちの仲間入りをしていたかもしれない、と語っています。この青年に一体何があったのでしょうか…。

彼はバングラデシュの中では比較的裕福な家庭に生まれ育ちました。そんな彼は両親や周りの期待を背負って有名私立中学に進学しますが、あまり馴染めなかったようです。そこで上級生からのいじめも経験しました。大量の課題や宿題にもついていけませんでした。有名私立という体面を気にする学校の姿勢にも違和感を感じてきました。彼は次第にうつ的になり、家に閉じこもるようになり、暴力的なゲームに明け暮れるようになったようです。そんな中、モスクで非常に気さくな青年と出会います。彼は初めのうちは警戒しつつも次第に打ち解け、心の内を全て打ち明けるようにさえなりました。「久しぶりに私は誰かに理解されたと感じた」とインタビュー記事に記されています。その親切な彼が、先ほど記したリクルーターだったわけです。

私はこの記事を読んで、モスク云々は別としても、これは今の日本の青年のことではないか、と思いました。そういう意味では、あの事件は現代社会における世界的(地域的ではなく)な問題ということでしょう。いいえ、これは何も現代に限らず時代を越えた問題…、普遍的な青年たちの姿(社会に対する不満、純粋すぎる正義感、アイデンティティクライシスetc.)でもあるのだと思うのです。ということは、その青年時代に誰と出会えるのか、ということが重要になる。一見親切そうに装いながらもテロに駆り立てるようなリクルーターと出会うのか、それとも、自分もかつてそうだったように、青年たちの抱える不満を理解しつつも人生の先輩としてあるべき道筋を示してくれるような人たちと出会えるのか、ということです。

そう、これは青年の問題じゃない。私たち大人の問題なのです。私たち大人たちがちゃんと青年たちの隣人になれているのか、という問題なのです。青年たちが不安定なのは、今に始まったことではありません。むさしの教会はそんな『彼らの』教会でもありたい、と願わされます。

むさしの便り10月号より

〜読書会から〜  村田沙耶香著 『コンビニ人間』 廣幸 朝子

子どもたちが公園で小鳥の死骸を見つける。子供たちが口々に「かわいそう」「穴を掘って埋めてあげよう」「お墓をつくろう」と言っているとき「私」は「これ、食べよう」と言って周りをぎょっとさせる。彼女にしてみればニワトリを殺して焼き鳥にするのだから、せっかく死んでいる鳥をなぜ食べないのか、と思う。そしてみんなが、かわいそうに、と言いながら、咲いている花をちぎってお墓にいれるのがもっと不思議に思えるのだ。それなりに考えて彼女なりに理由があるのに、それはしばしば、普通ではない、常識がないと批判され、途惑うばかり。他者とのかかわりに困難を抱えながら成長し、やっと見つけたコンビニのアルバイトに初めて自分の居場所を得る。そこでは、一から十までマニュアルがあり、自己の裁量など一切無用。それが彼女にはありがたい。決められた通りに動いていれば褒められる、給料がもらえてなんとか社会の歯車の一つになれた。

文章は平易で、話の展開も軽快。コンビニの店員さんも結構大変なんだなと、気楽に読んでいると、気が付くとまわりにはひたひたと闇が迫っている。皆の読後感も、「不安」「不気味」「閉塞感」「息苦しい」等々。得体の知れない同調圧力とか、異質なものへの不寛容とか、そんな社会を誰も望んではいないだろう。作者が声高に叫んでいるわけではないが、限られた生を生きる人間同士、もっとやさしく、もっと自由に生きられないものか。

折しも米国では、分断と憎悪を煽ってトランプ氏が大統領にえらばれた。欧州では移民排斥の動きが広がり、日本でもヘイトスピーチが街を練り歩く。私たちの世界はよりよい方向に向かえるのだろうか。

むさしの便り12月号より

「幸いを得なさい」  浅野 直樹

 ルカによる福音書18章9~14節   

はじめまして。浅野直樹です。一応、「ジュニア」という扱いになっています。

いや~、面倒なことになってしまいました。浅野先生(シニア)には随分とご迷惑をおかけしていると思っています。

ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、私は他教派で10年ほど牧師をしておりまして、その頃からルーテル教会に同姓同名の先生がいらっしゃることは知っていました(岡崎教会の頃だったと思います)。でもその頃は、自分がまさかルーテルに来るとは思ってもいませんでしたので、「へ~、そうなんだ。珍しいこともあるもんだな」くらいにしか受け止めていませんでしたが、縁あってルーテルに来ることになったために、こんなことになってしまいました。それでも、以前は教区も違っていましたので、お互いに不都合もそれほど感じていなかったと思いますが、この度、誰の陰謀なのか、はたまた神さまのユーモアなのかは分かりませんが、同じ教区に、しかも同じ教会共同体、お隣の教会に来ることになりまして、浅野先生(シニア)も複雑な思いをもっておられるのではないか、と想像しています。先日もこんな電話がありました。以前、電話で相談を受けた方のようで、どうやらインターネットで私のことを探されたようですが、するとHP(むさしの教会の)の写真と違っていたそうです。混乱気味に、一体どうなっているのか、というのです。もちろん、丁寧に説明させて頂きました。私の記憶が正しければ、浅野先生とは一回り違いますが同じひつじ年です。星座も同じしし座。同姓同名、漢字も一緒。二人で占ってもらったら、ほとんど同じ結果になると思いますが(ですから占いもあてにならないのでしょうね)、性格も、また、これまでたどってきた人生も全く違っているでしょう。浅野先生はまじめ、と聞きますが、私はちゃらんぽらんのいい加減な人間ですから。せめて、浅野先生が私と間違えられて悪い印象で見られるようなことにはならないように、謹んで励んでいきたいと思っています。

変な話を長々としてしまいましたが、「初顔合わせ」ということですので、お許し頂きたいと思います。

さて、本題ですが、今日の箇所はお分かりのように、イエスさまが語られた譬え話の一つです。この譬え話は、数ある譬え話の中でも非常に分かりやすい譬え話の一つだと思いますが、少し注意が必要ではないかと思っています。それは、『安易な評価』ということです。ここではファリサイ派と徴税人が登場して参ります。聖書を読んでいきますと、このファリサイ派の人々は常にイエスさまと衝突する人々として描かれていますので、私たちにとっては印象の良くない人々として映っているのかもしれません。それに対して徴税人はマタイやザアカイに代表されるように、確かに当時においては否定的な見方がされていたのかもしれませんが、どことなく憎めない人…、むしろ律法、律法という堅苦しい社会の中で彼らこそ犠牲者だったのではないか。社会から差別され、蔑まれてきた可哀そうな人たちなのではなかったか。だから、イエスさまはそんな彼らの隣人となり、彼らを救い、自由にされたのではなかったか…と、どちらかと言えば好意的な印象を受けているようにも思います。「逆差別」というのも言い過ぎかもしれませんが、どうしても弱い立場だった人々の肩を持ちたくなるような感情も湧いてくるからです。そんなこともあってか、私たちにとっては、この譬え話はむしろ何の抵抗感もなくすらっと読めてしまうのかもしれない。そうだ、そうだ、その通りだ、と共感できるのかもしれない。確かに、そうだと思います。しかし、単純に両者をそのように色分けできるのか、とも思う。律法を一生懸命守ろうとした人々が悪者で、律法も守らず、自分勝手にいい加減に生きてきた人々が、果たして本当に善人なんだろうか。かえって、後者(徴税人)に好意的な私たちは、どこかでこの徴税人や罪人と言われている人々を隠れ蓑にしながら、律法を守ろうとしない、律法を蔑ろにしている自分を正当化し、罪人であることに安住するために、都合よく利用しようとしているところがあるのではないか。そんなふうにも思う…。

皆さん、考えてみてください。身なりもしっかりしていて、まじめで間違ったこともせず(倫理・道徳面にもしっかりしている)、神さまの戒めに一生懸命に生きようとしている人と、権力を傘に、不当な取り立てをしては私腹を肥やし、贅沢な羽目を外した生活をしている人と、どちらと付き合いたいか。どちらに好感が持てるか。おそらく、私たちの目の前にこの二種類の人が現れたのなら、断然前者の方に好意が向くのではないでしょうか。ですから、単純にファリサイ派のような人がだめで、徴税人のような人が良いということではないはずです。逆に徴税人の方が高ぶっていれば低くされるでしょうし、ファリサイ派の人々がへりくだっていれば高められるでしょう。当然、逆もありうるということです。問題は「高ぶっているか」「へりくだっているか」だからです。しかし、それでも、やはりこの譬え話に「問題あり」としてファリサイ派が登場してくるには意味があるのです。9節でこのように書かれているからです。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても」。これが、ファリサイ派の人々の問題なのです。

まじめで、努力家で、戒めを守ることに一生懸命でも、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下」すようでは、やはり本質がズレてしまっているからです。しかも、この「うぬぼれ」と訳されている言葉は、「自分自身を頼りにしている」と訳した方が良い、と言われます。もともとの意味がそうだからです。ですから、この譬え話に登場してくる、いいえ、実際にイエスさまがこれまで接してきたファリサイ派の人々の問題点とは「自分の正しさにこそより頼んでいる」ということなのです。だからこそ、彼らの祈りは自分の正しさを羅列するものになるのです。「他人を見下す」ことも非常に問題ではありますが、しかし、それは、「自分の正しさに頼る」結果でしかありません。その問題の本質は、「自分の正しさこそ(自分の努力、頑張り、熱意の結果)頼りになるものなのだ(結局、「自分を頼る」ということでしょう)」との信仰理解なのです。

先ほど、この徴税人たちを律法を守れない自分たち、私たちの正当化のための隠れ蓑にしてはいまいか、と問いました。つまり、恵みがあるのだから律法などどうでもよい、という言い訳にしていないか、ということです。それに対して律法を守ることの大切さを説いているのが、今朝の旧約の日課でした。神さまは戒め、律法を守ることを求めておられます。それは、今日においても、尚そうでしょう。それが、神さまの思い、心です。しかし、今日の日課では、その先の思い、心が記されていました。申命記10章13節:わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。神さまは単に、闇雲に、戒め・律法を守ることを求めておられるのではないのです。私たちの幸せのためです。私たちが幸せになるために、幸いを得るために、戒め・律法を守ることを求めておられるのです。

では、その戒め・律法とは何か。一言でいえば、「愛に生きる」ということでしょう。神さまが人を、私たちを愛されたように、私たちもまた愛に生きてほしい。愛に生きることによって幸いを得てほしい。幸せになってほしい。これが、神さまが戒め・律法に込められた思いでした。しかし、残念ながらファリサイ派の人々は、そんな神さまの思いを掴みとれなかった。かえって、律法を守ることを、自分の正しさを打ち立てるために利用しようとした。自分の正しさこそが、神さまの恵みを引き出す、愛を引き出す「頼るべきもの」と考えたからです。しかし、そうではないのです。そもそも、神さまは恵みを、その愛を注いでくださっているのです。幸せを願うのが、まさにそうです。だからこその、戒め・律法なのです。もし、そのことをしっかりと受け止めてさえいれば、彼らは自分の正しさに頼ることもなかったし、自分よりも未熟な、不熱心な、欠けの多い人々をことさら見下すこともなかったはずです。この神さまの思い、心をはき違えてしまった熱心さが、彼らの罪となってしまいました。

しかし、私はこうも思うのです。私たち日本人キリスト者にとっての問題は、実は前者よりも後者、この徴税人の姿をはき違えていることにあるのではないか、と。一見すると、日本人キリスト者は、前者のファリサイ派の人々よりも、後者の徴税人に近いように思います。よくこんな言葉を聞くからです。「わたしは罪深い者です」「私なんて全然だめです」「自分が救われているなどとは思えません」「不信仰者の私なんか天国には行けないでしょう」。うつむきながら、自信なさげに言われる…。これらは果たして、ここで言われている「へりくだり」なのでしょうか。何度も言いますが、ここでの問題は「自分(の正しさ)を頼る」ということです。

つまり、何を頼るべきか、ということです。ファリサイ派は何度も言っているように「自分」でしたが、この徴税人にとっては、頼るべきは「神さまの憐み」でした。この神さまの憐みに一心により頼んだ徴税人が「義」とされたのです。つまり、先ほどのように、自分はダメだ、罪人だ、自信がない、といっている私たちは、では、本当に神さまに依り頼んでいるのか、ということです。私はどうも、そうではないように思えてならないのです。結局は、私たち(日本人キリスト者たち)も自分を頼りにしているに過ぎないのではないか。だから、相変わらず自信なさげに、自分はダメだなどと言っているのではないか。結局、へりくだっているようには見えるけれども、その本質は、むしろこのファリサイ派の方に近いのではないか。そんなふうにも思えるのです。

ある解説を読みますと、イエスさまはここに登場してくる徴税人や罪人、娼婦などを自らの罪を悟り、へりくだった者として、高く評価していたとありました。確かに、そうかもしれません。しかし、もっと大切なことは、イエスさまを受け入れたかどうかです。この両者の決定的な違いは、そこにこそあるからです。何よりもイエスさまを頼りにする。ここに正しい「へりくだり」の姿勢があるのではないでしょうか。

もっと自信をもったらいい。私たちの幸せを願うイエスさまが必ず救ってくださるから…。罪を赦し、罪の縄目から解放してくださるから…。そして、私たちの幸せを願う神さまの戒めに従ったらいい。愛に生きたらいい。そして、愛に生きられない自分を知ったら、また神さまの前に、素直に悔い改めていったらいい。どうぞ、あなたの愛に生きられないこの私を憐れんでください、と神さまを頼ったらいい。そして、またイエスさまの恵みをいただいて、晴れやかに、どうどうと、赦されているとイエスさまを頼って生きたらいい。また…、何度も…。それが、私たちの「へりくだった」人生なのです。

2016年10月23日 聖霊降臨後第二十三主日

礼拝説教(市ヶ谷教会—講壇交換)

むさしの便り12月号より

5年4ヶ月後の被災地を訪れて 八木 久美

「語り部」となった男性の安寧を祈りながら、私たちはをその場を後にした。しばらく歩き名残惜しさに振り返ると、日和山神社の大鳥居が天空に両手を広げるかの様に建っていた。

現地支援協力者である斉藤さんご夫妻も合流して予てからの計画通り、追浜川河川団地仮設住宅 を訪れると “布ぞうり・なごみの会”武山たか子さん、幸子さん、三條照子さんと“おちゃっこ会”のみなさんが20畳ほどの集会所で待っていてくださった。全員の顔が見えるようにとロの字に配置されたテーブルの上には色とりどりの心づくしの料理や新鮮な果物が所狭しと並べられていた。何ともお目出度い席に招かれたかの賑わいに恐縮しながら、心からの歓迎の意がこちらに強く伝わってきた。

今まで電話やメールのみで交信していた互いの声と顔が合致して喜び合う中で一人の方が、震災から5年を経て初めて、ご自分のお孫さんを津波で亡くしたと吐露された(周囲の方も知らなかった)。楽しい語らいでふと口をついて出たかの様な、周りを気遣うその言葉に一同が心を寄せていると、引率役の野口勝彦牧師がおもむろに傍らにある包みを解き、中から四角い板状のものを取り出して話しをされた。それは空や海を想わせる青を基調とした一辺が45cmほどのステンドグラスで、中央には六角形の星に白い鳩が重なる美しいもので、松本教会員である作家の手になるものだった。今は仮設に住む姉妹方が、やがて復興住宅や他の地域へ転居された後も「“平和の鳩”の元に健やかで集えるように」との祈りが込められているそうだ。

太平洋に面したこの一帯に翼を広げる平和の鳩。その鳩と共に、希望を未来へと繋げていってほしい…もっと話していたい思いを抱えて駆け足のスケジュールに恨めしさを覚えながら、次なる訪問先の“吊し雛・華の会”みなさんが待つ多目的団地の集会所へと向かった。そこでは、色鮮やかな吊し雛や“苦が去る人形”(風船蔓の種を小猿の顔に見立て着物を着せた1cmほどの人形が南天・桜の枝に九つ並ぶ)など、多くの可愛らしい作品が作られていた。笑顔で会話しながらも休まず動く指先からは、次々と小物が生み出されている。そうだ、豊かだが厳しい自然の中の生活者は、何があろうとも皆はたらき者なのだ。

移動中、一瞬立ち寄った南三陸町防災庁舎は、巨大なピラミッドの如き防潮堤の盛り土に埋もれるかの様に心細げに建っていた。周囲には他に、何も無い。…

「あの日」から変わったこと、変わらないこと。

振り返ると、その場に身を置き直に触れて味わい識ることは、未来へと希望と祈りを絶やさずに共に繋がり伝え続けること。この大切さを気付かされ心に刻んだ時となった。

祈りをもって

 

むさしの便り10月号より