たより巻頭言 『「インマヌエル」の神、「現在」の神」 』大柴 譲治

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(ルカ20:38)

ギリシャの諺。「時間の神さまには後ろ髪しかない。だから通り過ぎなければつかめない」。その通りである。もちろん、通り過ぎてしまったらもう後の祭りということにもなってしまうのだが‥‥。おもしろいのはそれに対応する諺がもう一つあることだ。「チャンスの神さまには前髪しかない。通り過ぎたらもうつかめない」。これまたなるほどと思わされる。時間とはかくも捉え難いものなのである。一期一会の今、この瞬間を大切にする以外にはないのであろう。

私たちは過去を振り返る時、心に深い悔いを持つことがある。「あの時、こうすればよかった」「ああしなければよかった」と心が痛む。後悔先に立たずである。しかし、結果が出たところから過去を振り返ってみるからこそいろいろなことが見えてくるわけであるが、その時にはこれから先、未来がどのようになってゆくのか全くわからない暗中模索の中で一生懸命考え、祈り、よかれと思って決断をしたのである。たとえそれが予想外の結果に終わったとしても、人間には未来は見えないのだからそれは仕方なかったとしか言い様がないのではないか。覆水盆に戻らず‥‥。人生はそもそもが悔いが残るようになっているもののようである。歳とともに悔いが山積みされてゆくような思いにもなる。しかし、たとえ後ろ髪を引かれるような悔いが残ったとしても諦めのつく人生、let it goのできる人生を歩みたいと願う。私たちは最後には神さまのあわれみに委ねる以外にはないのであるから。 キリエ・エレイソン! そこに神の摂理を認めることができる者は幸いであろう。

私たちの信じる神は「インマヌエル」の神。順境の時も逆境の時も、常に私たちと共にいましたもう「現在」の神。昼は雲の柱、夜は火の柱をもって私たちを荒野の旅の中で導いてくださる神。日ごとに天からマナを与え、岩清水を打ち出してくださる神。悔いや罪や恥など、私たちの重荷をすべてあの十字架に背負ってくださる神。死からのよみがえりをもって私たちを解放してくださる神。人生の最後の最後に自分のすべてを委ねることができるこのような存在を持つ者は幸いである。このお方のゆえに、私たちは「恵みの今」を生きることができるのだ。


(2004年 5月号)