レント黙想      大柴 譲治牧師

この一月の間に、三人の先輩牧師たちが癌との闘病の末、天へと帰って行かれた。小泉潤師が2月5日に78歳で、三浦謙師が2月24日に67歳で、そして重冨克彦師が3月6日に71歳で召された。「神学校教会」初代邦人牧師であった三浦豕師は三浦謙師の御祖父にあたる。生と死という重たい現実の前に立つとき、私たちは厳粛な思いになる。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が奪われる。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ1:21)。突然すべてを失うという深い衝撃と嘆きの中で、ヨブはすべてを神に帰する。主権は神にあり、私たちはただこれに「御意」と言って服従するのみなのだ。ヨブの告白は主イエスの告白でもあったに違いない。今は四旬節。主のご受難の歩みを覚える40日。見えないかたちではあるが、今も私たちの人生に寄り添い、共に歩まれる十字架と復活の主のご臨在を覚える。確かに私たちは「裸」で生まれ、「裸」でこの世を去ってゆく。私たちには持ってゆけるものは何もない。ただ一つ、「信仰(ピスティス)」以外は。神はご自身の「まこと(ピスティス)」を「恩寵」として私たちに賜わり給う。聖書はそのことを証ししている。この「ピスティス(信)」によって集められた「神の家族」「信仰共同体」「教会」の交わりがここにある。主はこの「交わり」の中へと私たちを召し出された。この「交わり」が私たちの存在を根底から支える。ゆえに、私たちはこの「神の教会」という恩寵の中に立つ。我、教会を信ず!