本郷教会礼拝説教 「 人はキリストの中に 」 ―小川修兄を偲ぶ― 

2011年11月13日

増 島 俊 之

 

.8月28日にお話しする二日前、腸の憩室出血があり、緊急入院をしたために、安井牧師にご迷惑をかけ、大変申し訳なかったと思います。しかし、また機会を与えて下さり感謝しています。本日は、今年1月5日に聖路加病院で天に召された小川修さんを偲びたいと思います。すでに10か月経過していますが、心に残る友を偲び、小川さんが聖書研究から私たちにいわば遺言として残したかった考えの一部に触れ、私たちの信仰を考える契機としたいと思います。その観点からは、本郷教会の説教で語ることは必ずしも適切ではないかも知れませんが、お許しください。

.小川修さんを簡単に紹介します。小川修さんは私の親しい友人です。1941年生。東京大学法学部卒、卒業後富士銀行に就職。1966年岡田曠吉牧師から受洗。後に立教大学大学院で神学を学びます。その後、ニューヨーク・ユニオン神学校に留学。首席で卒業。後にドイツに留学し、エルランゲン、テュービンゲンなどの大学で神学、宗教哲学を学びます。聖徳大学、ルーテル学院大学、同志社大学、実践女子大学などで比較宗教学、パウロ書簡講義、ドイツ語などを教えられました。本郷教会では1970年代前半には本郷学生センター運営委員長をなさいました。青年会でローマ書講義などもしてくれました。後に東京池袋教会会員となります。2011年1月5日聖路加病院にて天に召されました。

.2010年12月4日、安井牧師よりメール連絡がありました。その連絡の中で大柴牧師からのメールが転送されていました。大柴牧師は「火曜日の夕刻に立山先生と小川修先生をお見舞いした折に、増島さんのことをお伝えしました。入院先をお教えしていただいてよいということでした。お見舞いいただければ喜ばれると思います。聖路加国際病院の10階の緩和ケア病棟です。ここは24時間面会ができる病棟で、受付で患者さんの名前を申し出るとカードをくれますので、それが10階の緩和ケア病棟のキーになっています。・・・余命数ヶ月ほどという診断が出ているようです。」とありました。

.私は、翌12月5日、礼拝後、家内と共に築地にある聖路加病院の1067号室の小川さんを見舞いました。看護師が措置中でしたので、病室の前で、座って待っていると、伊藤文雄牧師と出会いました。しばらくして、病室にはいると、小川さんは「久しぶりですね」といいながらにこりと笑って、ベッドの横の椅子に座るように言ってくれました。そして、「この病院の看護はあまり良くないのですよ。看護師が親切に対応してくれないですよ。だから、伊藤君が来てくれて助かっているのですよ。」と言いました。その言葉は私にとって意外でした。死を目の前にしているような人の言葉ではなく、いつもの小川さんらしく言いたいことをずけずけ言う俗っぽい風情だったからです。しかしその言葉はふっと私の緊張感を解きほぐすものでした。私と家内とが15分ほどして立ち上がろうとしますと、「まだいいですよ」と言って押しとどめられました。そのあと他愛もない会話で、病室の中で声を立てて笑ったりしました。小川さんも軽い笑みを浮かべていました。私が、「小川さんの論文を読みましたよ。あれは難しいですね。」と言いますと、「あれは私の遺言のつもりで書いたものです。」と言いました。その論文とは、「イエスキリストの<まこと>―パウロ書簡の神人学的理解の試みー」と題するもので、「ルーテル学院研究紀要」(40号、2006)に掲載されているものです。「本郷教会を去ったあとに、私がしていたことは、ギリシャ語の聖書の研究でした」と語りました。いずれも重みのある言葉でした。そうこうしているうちに1時間半ほど経ってしまい、病室を去りました。伊藤牧師はそのあとも残っておられました。

5.12月10日(木)に、再度、私は一人で聖路加病院緩和病棟を訪ねました。小川さんは、私のいろいろな問いかけにつられてか、「自分の神学の思想は盤珪とパウロに影響を受けています」と言いました。盤珪(1622〜93)は、江戸前期の臨済宗の僧です。彼が説いた独特の禅は不生禅といいます。不生禅とは、人は生まれながらにして不生不滅の仏心をもつということです。盤珪は、形式的な座禅修行を否定し、日常生活そのものが座禅に通じると、通俗平易な言葉で人々をさとした。小川さんは、「盤珪は、危険思想の持ち主として批判されたのですよ。当時の危険思想というのは何か分かりますか。それはキリスト教なのですよ。」

「盤珪は仏心のみ説きました。それに対してパウロは、キリストのみ説いたのです。パウロは生前のイエスにほとんど会っていないのですよ。パウロの手紙の中には、福音書の中にあるような記述はほとんどありません。盤珪の思想とパウロの思想それが私の神学の核心です」と、小川さんは言われました。

私は「だれがあなたの思想の理解者ですか」と訊ねますと、「自分の思想の理解者は、一人は、同志社大学で聖書講解を担当したときの学生で清水さんという人です。その人は京都大学の卒業生で今、滋賀大学の医学部で学んでいる」と言いました。「もう一人は、立山牧師です。立山さんは私の良き理解者です」と言いました。それを語った後、小川さんは「あぁ、急に吐き気がしてきました。こんなことを話したのは初めてだから興奮してしまったのかもしれない。増島さん、そこに吐いたものを受ける容器があるでしょう。それをとってくれませんか。」 私はその容器を直ぐに小川さんの顔の横に置きました。私は申し訳ないなという思いと、自分を小川さんの状況に身を置くときに、自分が語り伝える思想の核心は何かをも考えました。

6.私は、病床の兄になんども読んで聞かせた詩篇116のことを思い出し、「詩篇を朗読しても良いですか」と尋ねました。小川さんは、「どうぞ」と言いました。

 

「わたしは主を愛する。

主は嘆き祈る声を聞き

わたしに耳を傾けてくださる。

生涯、わたしは主を呼ぼう。

死の綱がわたしにからみつき

陰府の脅威にさらされ

苦しみと嘆きを前にして

主の御名をわたしは呼ぶ。

「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」

主は憐れみ深く、正義を行われる。

わたしたちの神は情け深い。

哀れな人を守ってくださる主は

弱り果てたわたしを救ってくださる。

わたしの魂よ、再び安らうがよい

主はお前に報いてくださる。

あなたはわたしの魂を死から

わたしの目を涙から

わたしの足を突き落とそうとする者から助け出してくださった。

命あるものの地にある限り

わたしは主の御前に歩み続けよう。

 わたしは信じる

「激しい苦しみに襲われている」と言うときも

 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。」

(旧約聖書詩編116・1〜11)

ふと、小川さんを見ると、すやすやとかすかに口を開け、眠っていました。み言葉は少なくとも小川さんにひとときの魂の安らぎを与えてくださった。私はそっと席を立とうとすると、小川さんは目を開けました。「また来ます。」というと、「どうも」と言われた。

.私たちは、信仰告白にいたるときを振り返ると、膨大な知識を獲得して、それをなるほどと思って「信じます」とは言っていません。しかし、いったん信仰告白をすると、背負えないような膨大な聖書の知識を教会は真理の言葉として私たちに受け入れることを求めます。だから、信仰の中で何が大切かということを、識者に聴きたいと思います。同時に私たちも考えなければならないと思います。そのような思いでいるときに、独自の信仰の世界を歩んで、生涯、聖書の言葉の研究に打ち込んできた小川さんに心から畏敬の念をもちます。

.小川さんが東京池袋教会で行った「パウロは何を説いたのか」(2010年4月25日)という講演のCDがあります。小川さんはかなり前にこれを直接私に贈呈してくれました。このCDはみなさんの中でお聞きになった方もおられるのではないかと思います。その要旨は、パウロ的キリスト教とは、人はキリストの中にある、キリストは人の中にいる(人基一体・人基相入)ということであります。

 第1コリント書1:30には、「しかし、あなたがたがキリスト・イエスの中にあるのは神による。この(わたしたちを自らの中に抱く)キリスト(こそ)が、神からわたしたちへ(与えられた)知恵となり、義と聖と贖いとなったのである。(新共同訳:神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。)そして、ガラテア書2・20に、「わたしはキリスト・イエスと共に十字架につけられている。生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。なぜなら、わたしが今、肉体において生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身を棄てた神の子の<まこと>の中に生きているからである。」とあります。

そして、パウロ的キリスト教の基本構造は、

①あなたがたは事実上例外なしにアダムの中にあるが、しかし、真実には全員がキリストの中にある。

②だからあなたがたは自分がキリストの中にあるという、この根源的事実(真実)に気づき、それをしっかり認識しなさい。

その解釈は、厳密なギリシャ語の聖書の吟味に立脚するものであります。

①の真実は、全員がキリストの中にあるということは、洗礼を受けたかどうかとは関係がない。すべて人間はキリストの中にある、というのであります。小川さんが、自分の神学の核心は、盤珪とパウロであるということの意味が分かる気がします。盤珪は、「仏心のみ」を説きました。人間にはすべて仏心がある。それはどこかで学んだというようなものではなくて、生まれながら身に付いていることであると説きました。恐らく、小川さんは、人間はキリストの中にあるという言葉に直面した時に、それは、クリスチャンがキリストの中にあるとは書いていないことを発見し、盤珪の不生禅の思想に啓示を与えられたのだと考えます。小川さんの解釈によれば、すでに救いの恵みは、広く万人に開かれているということになります。

さらに、第2コリント書の13:5に、「あなたがたは、はたして自分が〈まこと〉(ピスティス)の中にあるかどうか、自分自身を吟味し、自分自身を験証するがよい。それとも、自分自身のことを、イエス・キリストがあなたがたの中におられるということを、認識しないのか。―ただし、あなたがたが失格者(偽物)でもよいというなら話は別だが。) とあります。この「まこと」については、次に説明します。

(新共同訳聖書では、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。」となっている。NIVでは” Examine yourselves to see whether you are in the faith; test yourselves. Do you not realize that Christ Jesus is in you–unless, of course, you fail the test?”とある。興味深いことには、RSVでは、13:5の前半では、”Examine yourselves, to see whether you are holding to your faith.”となっているが、NRSVでは、” Examine yourselves to see whether you are living in the faith.”ここでは、「信仰をもっているかどうか」という解釈を修正し、「信仰の中に生きているかどうか」としている。)

9.小川さんはさらに信仰義認論に関して驚くべきことに言及しています。

ローマ書1:17の翻訳は、私たちが用いている新共同訳では、

●「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。【新共同訳】」となっています。

●口語訳では、「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。【口語訳】」となっています。

●(英訳では、“For in the gospel a righteousness from God is revealed, a righteousness that is by faith from first to last, {[17] Or <is from faith to faith>} just as it is written: “The righteous will live by faith.” “NIV】

●“For in it the righteousness of God is revealed from faith to faith; as it is written, “The just shall live by faith.” ”【NKJV】

●“For the gospel reveals how God puts people right with himself: it is through faith from beginning to end. As the scripture says, “The person who is put right with God through faith shall live.” “【TEV】)

●これに対して、小川さんは、口語訳で用いられている「信仰に始まり信仰に至らせる」の中での二つの「信仰」の意味は、異なると言っています。前者の「信仰」は、ギリシャ語では、πίστις(ピスティス)という言葉が使われていますが、本来「信仰」や「信」と訳すべきものではなく、「イエス・キリストのまこと」と訳すべきであり、それは、「イエス・キリストという<まこと>」という意味である、と言っています。小川訳では、「福音(宣教)にいう神の義は、(神の)<まこと>より(人間)の<まこと>へと、すべての人間に啓示されている(与えられている)からである。(έκ πίστεως είς πίστινエック ピステオス エイス ピスティン)「(ひと)義人(とされて・として)生くるは(まこと)によれり」とある通りである。

これが、第1のピスティスであり、それを端緒として、それに気づき、それに感謝した者が「私の信仰」を見出し、また、「信仰」を告白するのである。それが第2のピスティスである、と言うのです。故に、義認とは、本来「私たちの信仰」によって起こることではなく、「私たちの信仰」は第2のピスティスでしかない。第2のピスティスも極めて重要であるが、神のまことがまず先行するというのであります。

小川さんが私に自分の遺言であると述べた論文「イエスキリストの<まこと>―パウロ書簡の神人学的理解の試みー」(ルーテル学院研究紀要第40号、2006)では、πίστιςとは、「キリストの十字架への「信仰」、十字架「信仰」のことというより、キリストが「わたしを愛し、わたしのためにご自身を棄てた」、まさにその(こと)、キリストの十字架そのものの(こと)をいう。」と述べています。先ほどのローマ書1:17も、「福音において神の義は(神の)(まこと)から(人間の)(まこと)へと啓示される」となります。さらに、3:22は、新共同訳では「すなわち、イエス・キリストを信ずることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」となっていますが、小川訳では、「神の義はイエス・キリストの<まこと>により(それを)信ずる人すべてに啓示されている」となっています。(33頁)

ちなみに、カール・バルトの『ローマ書講解上』(平凡社、2001)では、1・17は、「神の義は、その救いの音信の中に啓示され、真実(Die Treue)から信仰へ至らせるからである。」という訳になっています。(80頁)そして、バルトは「神の我々に対する真実(Die Treue)から、神の義があらわになる。」という解説をしています。(91頁)

義とされるということについて、かつて私は、イエスを信ずることにより、神の前に白い衣を身につけることであると教えられましたが、小川さんの解釈では、イエス・キリストの十字架により、私たちの信仰の如何にかかわらず、すでに私たちは白い衣を身につけているということになります。それに気付き感謝した者にそのことが明確に示されるというのであります。

池袋教会の立山牧師は、小川説の重大性を認識し、従来の信仰義認論では、私たちの信ずる行為により救いが決まることになってしまうのではないかと小川説を強く支持しています。従って、新共同訳のローマ書1:17の訳に立山牧師も疑問を呈しています。

繰り返しますが、小川神学の大切なポイントは、2点あります。第1は、「人はキリストの中に」といったときに、この「人」は、クリスチャンではなく、信仰を持っている人、持っていない人のすべてを含む「人間」です。第2点は、ローマ書1:17の「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」(口語訳)という有名な箇所についての新しい解釈です。ギリシャ語では、「ピスティス」という言葉が使われていますが、小川さんは、はじめの「信仰」と後の「信仰」とは、意味が異なるというのです。小川さんは、イエス・キリストがすべての人間のために十字架につけられ贖いとなられたという真実がまずあり、次にそれを感謝して受けとめる者にその恵みが啓示されるというのです。小川さんは、「ピスティス」を「まこと」という言葉に訳し、神の「まこと」から人の「まこと」へという言葉を使っています。この2点が、私が理解する限り、小川神学のエッセンスです。

10.本日の聖書の箇所を選ぶのに困りました。自分が引用したい新共同訳の箇所がまさに小川さんによって修正されているからです。そして福音書のエッセンスは何かと考えたときに、ヨハネによる福音書3:16が思い浮かびました。この箇所をルターは小さな聖書と呼びました。そこには福音のエッセンスが語られています。まず、前半の「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあります。これはまさに事実が語られています。対象も「世」であり、すべての人を含みます。小川さんの述べる第1のピスティスであります。後半の「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」が、まさに第2のピスティスである私たちの信仰と、救いの真実を感謝をもって受け入れる者にその救いが啓示されることが語られています。小川さんに私の考えを伝え、彼の意見をお聞きしたかったと、今つくづく思います。

11.12月26日(日)午後の役員候補推薦の会議のあと、私は、聖路加病院の緩和病棟に向かいました。病床にそっと入って見た小川さんの顔は、土気色でした。「小川さん、また来ました。」というと、何を思ったか小川さんはベッドの上に起きあがろうとするではありませんか。そしてベッドの下の床に足をつけて、ベッドのそばに姿勢を正して座りました。すると直ぐに看護師さんが駆けつけてきました。床にはセンサーがついたカーペットがあり、それで、看護師さんがとんできたのです。看護師が「小川さんどうされましたか。」と聞くが、何も答えませんでした。すると看護師さんが、「まだ明るいですから、お庭に出ますか。」と言い、私に「車いすでご一緒に行って頂けますか。」といいますので、「はい、喜んで」と答えました。看護師さんが小川さんに「いらっしゃいますか」と念を押すと、頸を横に振りました。

私は看護師さんに「私いますから」といいますと、控え室に看護師さんは戻っていきました。私は小川さんが何故姿勢を正して座ったのかということが不思議でした。後日、伊藤牧師からお聞きしたことですが、12月24日に伊藤牧師は小川さんに告別の聖餐式をしたそうです。その時に小川さんは、みなに感謝し、病院の看護師にも世話になったと言ったといいます。その話を聞いたときに、ついでに伊藤牧師に26日のことを話しましたら、即座に、「増島さん。それは明らかですよ。増島さんに対する感謝の思いですよ。」ときっぱりとおっしゃった。それは、小川さん流の、古武士のような、律儀な挨拶であったのかと思いました。それなら、私も最後の感謝の言葉を小川さんに直接捧げたかったとつくづく思いました。

12.2011年1月5日、小川さんは天に召された。葬儀は1月7日池袋教会で行われることになりましたが、私は当日自分の静脈瘤の手術のために参列できないので、1月6日に家内と一緒に池袋教会に向かいました。教会の前に着いたとき、丁度立山牧師が外から自転車で帰って来ました。聖壇の前に据えられた小川さんの棺の前で、立山牧師は「お顔を見ますか」と言われた。「いいえ、結構です。」と言い、その前で祈りを捧げました。帰り際に、立山牧師は、『教会と宣教』第16号を下さった。そこに小川さんの業績のエッセンスを語る立山論文が書かれていました。家に帰り、熟読し感動しました。その論文は、奇しくも聖書の研究者小川修氏に捧げる最高の弔辞となっていたのであります。

 

一言の祈りを捧げます

父なる神様 小川修さんという友が本郷教会の交わりの中に与えられたことを感謝します。どうか小川さんが生涯かけて明らかにされようとした真実が御旨にかなうものであり、多くの方と分かち合うことができますように。小川さんの御霊に永久に平安がありますように。アーメン

 

(参照文献)

①  小川修「パウロは何を説いたのか」(池袋教会講演、2010/4/25、CD)

②  小川修著「イエスキリストの<まこと>―パウロ書簡の神人学的理解の試みー」(ルーテル学院研究紀要第40号、2006)

③  立山忠浩「義認の根拠としての<キリストを信じる信仰>?」(『教会と宣教』第16号、日本福音ルーテル教会東教区―宣教ビジョンセンター紀要―、2010)

④  禅文化研究所編『盤珪禅師逸話選』(禅文化研究所、1992)

⑤  鈴木大拙編校『盤珪禅師語録』(岩波文庫、1941)

⑥  カール・バルト『ローマ書講解上』(平凡社、2001)80〜93頁

⑦  小川修「ローマ書講義」CD、ルーテル学院大学ルーテル神学校講義録

小川修『パウロ書簡講義録1―神の<まこと>から人間の<まこと>へ』(小川修パウロ書簡講義録刊行会、2011年8月)