巻頭言

カタカナ語について 川上 範夫

新聞やテレビでニュースを見る時、厄介なのがアルファベット略語である。だが、略語は昔から各業界では使われていた。銀行ならばLC(信用状)、FOB(本船渡し)等は日常の業務用語である。但し、これらの略語が一般社会のニュースに出ることはなかった。ところが最近はアルファベット略語が一般のニュースに頻繁に出るようになった。WHO(世界保健機関)、ASEAN(東南アジア諸国連合)等はいささか古いが、TPP等、新しいものが次々現れてくる。略語の意味が分らないとニュースそのものが分らぬことがある。更に、略語は政治、経済のみならず一般社会でも使われて、また私はある会合でMCを頼まれたが、何をするのか分からず恥をかいたことがある。いつ頃から司会者のことをMCというようになったのだろう(蛇足ながら、MCとはMaster of Ceremoniesの略語である)。とはいえ、アルファベット略語は世界の公用語であり、国際化の時代、日本でもこれが日常的に使われるのは当然のことであろう。
ところが、もう一つ厄介なのがカタカナ語である。これは、文章の中にも会話の中にも頻繁に出てくる。ある辞典では、現代生活において眞に必要と思われるカタカナ語として、人名、地名等の固有名詞を除き、2万語をあげている。言うまでもないが、カタカナ語はアルファベット略語と異なり、日本だけでしか通用しない用語である。併し、パソコン等技術に関する用語を英語等から直訳でカタカナ語にするのは已む得ないであろう。だが、「生き死に」にかかわる言葉にカタカナ語が多いのには困惑する。リビングウィル、グリーフワーク、スピリチュアルケア等々である。特に、今や一種の流行語となったスピリチュアルは、その意味がよく分らない。
ちなみに、本屋にゆくと、最近はスピリチュアルのコーナーがあり、そこには多種多様な本が並べられているが、何がスピリチュアルなのか見えてこないし、医学、心理学等、分野によってその意味が異なるようである。意味が不明確のまま、言葉だけが独り歩きしているように思われる。この言葉が社会に現われてから相当の年月が経過した。スピリチュアルはじめ「生き死に」に関するカタカナ語を専門家の方々によって、是非とも、普通の人達に届く日本語に変換してもらいたいものである。

(むさしの教会だより 2012年5月号)

五つの破局論 川上 範夫

東日本大震災から一年がたつが、被災された方々のことを覚え、一日も早い復興を祈るのみである。

ところで、震災から2~3ヶ月後、書店の店頭には災害や原発に関する出版物が一斉に並べられた。題名は危機をあおるものが多く、「第三の敗戦」「日本経済は大崩壊する」等である。私はこれらに興味はなかったが、表紙を眺めるうちに、20年前に読んだ一冊の本を思い出した。それは、1988年刊、牧野昇(三菱総合研究所会長)の「五つの破局論」である。

その内容は、多くの日本人が抱いている先行きに対する不安をとりあげ、これを大きく五つに分類、不安の実像と虚像を検証したものである。

第一の不安は「自然の破局」である。本書は、地震は日本の宿命だという。対策についても述べているが、私が認識を新たにした点は、地震国である日本の政治、経済その他あらゆる機能が東京に集中していることへの危惧である。

不安の第二は「技術の破局」である。その一つとして原発事故に言及している。

この章で特に感銘を受けた論点は“絶対”という安全はないということ。「絶対安全でないものは禁止」となれば、現代文明は成り立たないということである。又、原発を含め巨大技術の事故は、その殆どが“ヒューマン・エラー”にもとづくものだという点である。

さて、本書が警告した大地震と原発事故は昨年3月、現実のものとなった。そこで私は「五つの破局」のうち前述の自然と技術の破局以外の三項目について本書は何を語っているか、紙幅の関係から、ポイントを列記しておきたい。その一は「政治の破局」である。政治の破局は戦争への危機だと述べている。また第三世界に拡がる核の恐怖について警告している。その二は「社会の破局」である。この項では、エイズの恐怖と情報管理社会の強化の二点をあげている。その三は「経済の破局」である。国際的な財務不均衡と企業脱出による空洞化を強調している。

私共は毎日、押し寄せてくる情報に流され、物事の本質を見失いがちである。この観点からも、24年前に書かれた本書は示唆に富んだものだと思う。だが、私は本書を読み返しながら、聖書の一節が頭から離れなかった。

「かってあったことはこれからもあり、かって起こったことはこれからも起こる。太陽の下、新しいものは何一つない。」 (コヘレトの言葉1・9)

(むさしの教会だより 2012年3月号より)

讃美歌への想い    川上 範夫

信徒にとって、求道者にとっても、聖日礼拝に出席することは大きな喜びである。熱心な会員だった根本静江さん(平成11年、91才で召天)が「私はね、日曜礼拝に出席するために、あとの6日間は体調を整えているのよ」と言われたことが、今は、よく分かる気がする。

私は礼拝に出席する時、ここには変わらぬものがあると感じる。私が学生だった60年前、この教会を初めて訪ねた時も今も同じ礼拝が守られていた。この間に私達をとりまく社会はどれ程目まぐるしく変化したことだろう。礼拝は説教が中心であるが、私には会衆が声を合わせて歌う讃美歌が礼拝堂にあふれる時特に喜びを感じる。

話は変わるが、去る7月下旬、羽村教会の会員だった女性と60年ぶりに電話で話した。彼女は、むさしの教会に頼んで新しい讃美歌を入手できたと感謝していたが、昔話の後、「新しい讃美歌は番号がすっかり変わったのね。戸惑ってしまった」と言った。私は、ふと、自分達が青年時代、主な讃美歌は番号で覚えていたことを思い出した。○○番といえば、そのメロディーも歌詞も頭に浮かんだものである。最近は讃美歌の種類が多く、○○番といっても、それはページをめくるだけのものになった。

私は礼拝で古い讃美歌(日本基督教団、昭和20年代刊)を歌う時、なぜか胸が一杯になる。これは感傷なのだろうか。神学者の北森嘉蔵先生は、日本人クリスチャンの特徴は「一種のはにかみ」だと言われたが、感傷もそれに類するものかもしれない。
戦後、日本ではキリスト教文化が多くの人々に親近感をもたれ、遠藤周作はじめキリスト教作家の読者層は厚く、バッハやヘンデルのファンは多い。だが、ごく少数の人々がキリスト教を信仰として受けとめ、教会の門をたたいた。そして、その人達が最初に出会ったものが讃美歌だったのではないだろうか。

聖書についていえば「新共同訳聖書」がすっかり定着した。それにしても、あの格調高い文語体聖書はどこに消えてしまったのだろう。だが、古い讃美歌は歌詞も全て文語体で残している。この歌詞は聖書のみ言葉と同じように心に響いてくる。
私は、ただ、昔をなつかしむという思いはないが、あの古い讃美歌は、敗戦後の混乱した時代、教会に集った青年達の心にしっかりしみこんだものだったのである。

-むさしの教会だより第434号  2011年 11月 20日発行-

たより巻頭言「ほめる文化」 川上範夫

ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の理事長を20年にわたって務められた石原寛先生が亡くなられて1年近くになるが、私は今でも時折、喪失感が胸をよぎることがある。

石原先生は市ヶ谷教会の会員で、教会はもとより社会的にも弁護士として有力な方である。だが、むさしの教会で先生と親交のあった人は少ないと思う。私の場合、本教会の収益事業などでご一緒した機会は別として、先生との接点は、先生がルーテル学院の理事長ご在任中、私が監事を務めていたことである。

監事というのは地味な仕事で、決算書の計数をチェックし、その結果を理事会で報告、又、財務内容について一言、所見をのべるのが役目である。年に一度、監査報告が終ると、石原理事長は満面に笑みを浮かべ「分かりやすいご報告をいただき有難うございます」とおほめの言葉をいただいた。私にとって、この一言は喜びであり励みであった。私が先に述べた喪失感とは、もう、この言葉が聞けなくなったことなのだと思う。

話は変わるが、日本人は勤勉で秩序正しく、その評価は海外でも高いようである。日本語に、気持ちを表す言葉は、慰め、励まし、お詫び、お礼など多様な表現があるが、「ほめる」ということは少ないと思う。日本では「ほめる」というと、お世辞とか、見方が甘いとか、マイナスにとられる傾向がある。これは言語や表現の問題ではなく、日本には「ほめる文化」がないのだと思う。日本人は常に他と比べられ、足らざる点を指摘され続ける。又、マスコミも同様で、何に対しても批判的で、その上、価値あるもの、人々が尊敬しているものにケチをつけることに熱心である。併し「ほめられる」ことは、慰めや、励ましより心に響くものだと思う。昔、何かでほめられたことが、生涯、心の中で輝き続けることがある。

ところで、ルーテル教会に「ほめる文化」はあるだろうか。近頃、私がやや気になっていることは、ルーテル教会全体に、組織や活動、更に、牧師に対する批判が多いように思うことである。若し、そうであるなら、このような空気は変えてゆかねばならない。

「ほめる文化」が拡がることを私は心から願っている。

(2011年 9月号)

たより巻頭言『ベートーヴェンの「第九」』 川上範夫

ベートーヴェンの交響曲弟9番は毎年12月に演奏される、これは日本だけで起 る特異な現象ではないだろうか。何故12月に演奏されるのか、それにはいろんな説があるようだが真偽のほどは不明である。 8月に「第九」の演奏を聴きたいと思っても、それは無理な話で、「暮れ」まで待たねばならぬだろう。まるで鮎の解禁のようで ある。

ところが、8月に「第九」を聴いた人達がいたのである。このことを私は平成元年 12月16日の日経新聞のコラムで知った。その一部を紹介すると次の通りである。

「第九」の圧倒的なフィナーレを振り終って拍手もブラボーも聞かなかった指揮 者が二人いる。その一人はベートーヴェンその人で、彼は1824年5月、ウィーン で初演を指揮した時、すっかり聴力を失っていた。アルト歌手にうながされて、初めて熱狂する聴衆を知った。もう一人は、尾高尚安氏である。彼は昭和19年 8月6日、 東京帝大の法文経25番教室での「出陣学徒のための演奏会」で「第九」の三・四楽章を指揮した。太平洋戦争の敗色濃厚だったが、戦地におもむく前に、せめて至高の名曲を聴きたいという学生の願いから催された会だった。当時、日響(N響)の品川の練習場から本郷まで馬車で2時間半かかって楽器を運んだ。トラックのガソリンがなかったのだ。会場には、ただならぬ悲壮感が漂っていた。“すべての人類は汝のやさしき翼の下、友達たれ”と日本語の合唱だった。みな泣いて歌った。尾高の指揮棒が静止したとき、長い沈黙が続いたという。やがて、全員で“海行かば”が歌われた。

以上がコラムの要約である。ひと言、私見を付け加えるなら、この演奏会の丁度1年後の8月6日、広島に原爆が投下され、その数日後、終戦となった。東京はじめ日本中の主要都市は殆んどガレキと化した。 あの「第九」を聴いた学生達の多くは戦場で散っていったに違いない。

ところで、私は、例年12月にしか演奏されない「第九」を去る4月17日、テレビで聴いた。それは「東日本大震災チャリティーコンサート」だった。黙祷から始まっ た演奏は大合唱のフィナーレとなり、会場には拍手が鳴り止まなかった。指揮者はズービン・メータだった。あの敗戦1年前の 「第九」から67年が経過していた。あの時、 敗戦のガレキから奇跡の復興をなしとげた日本は、3月11日大災害からも立派に立ち直ると私は信じている。

(2011年 7月号)

たより巻頭言「私があなたがたを選んだ」 川上範夫

ルーテル教会は1993年に宣教百年を迎えたが、東教区では記念事業として「証言集」を刊行した。このため教区には編集チーム、各教会には担当者がおかれた。証言の寄稿者は1教会15名とされ、むさしの教会の寄稿者も15名であった(うち9名は召天しておられる)。証言集の編集は大へんな仕事であったようだ。何しろ、企画から「宣教百年東教区証言集」として刊行されるまでに2年を費やしている。この企画には東教区の37教会が全て参加し、掲載された証言は、信徒、牧師、宣教師を含めて452名であった。

証言とは何か、内村鑑三の言葉を借りるなら「余は如何にして基督教徒となりしか」を語ることだと思っている。

ところで私は証言集を読むうちに気付いたことがある。それは執筆者のうち約三分の一の方々が受洗の動機として聖句をあげておられことである。更に驚いたことに、あげられた聖句に共通のものが多いことであった。そこで、私はこれらを丹念に数えてみた。聖書の“何が”我々の心をゆさぶったのかを知ることが出来ると考えたからである。

その結果、とりあげられた頻度の高かった聖句は二つであった。一つは「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ福音書3:16)もう一つは「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ福音書15:16)であった。

私共信徒の中には、聖書を学び礼拝に出席し、よくよく考えた末、受洗した方もおられるし、教会の門をたたいてすぐ受洗した方もおられる。死の前に、病床洗礼を受けたかたもおられる。そこには、それぞれ決断があったと思うが、併し、私共は特別な勉強や修行をしたわけではない。ただ選ばれたのである。その基準は一般教養でも社会良識でも聖書についての理解度でもない。私共は自らが決断したと思っているが“そうではない”と聖書は語っている。自分の決断や信仰の確信はいつもゆらいでいるが、選んで下さった方はゆるがぬ方である。

地にある教会(visible church)は社会的な存在である以上、組織や規則や人事や会計のこと等、なすべきことは多い。しかも常に問題を抱えている。だが、教会は主に選ばれた人々の群れなのだから、あれやこれや、あまり思い煩わずに歩んでゆきたいと思う。

(2011年 5月号)

たより巻頭言「少数者」 川上範夫

私はルーテル教会で百周年というタイトルのつく二つのイベントのいずれにも参加した。

一つは1993年8月、熊本で開催された宣教百周年記念大会で、もう一つは2009年9月、三鷹で開催された神学校創立百周年式典である。いずれも心に残るものであった。だが、これらのイベントで重要なことは、これを契機に宣教を強化し教勢(礼拝出席人数、受洗者数、献金額)を高めることであった。

私は1993年の大会以来、どういうわけか教会本部や東教区の宣教運動にかかわることとなった。ともかく、1993年の宣教百周年から2009年の神学校百周年までの、おおよそ20年間、教会本部も教区も各個教会も宣教強化、教勢向上にその力を結集した。宣教フォーラム、全国伝道セミ、宣教ビジョンセンター等、多くの組織が立ちあがり、教会の現状分析、教勢不振の原因調査、教勢拡大の具体策等に取り組んだ。これらの活動に費やした時間とエネルギーは膨大なものであった。だが、それにも拘らず、全体教会も個々の教会も教勢は低下の一途をたどったのである。運動にかかわった者の一人として空しさを感じることがある。併し、教勢の低下はルーテル教会に限ったものではなく、日本のキリスト教会全体の実体であった。さらに顧みれば、明治の初めから今日まで、日本のクリスチャン人口が1%を超えたことはないのである。

このような現実について考える時、私には、いつも頭から離れない加賀乙彦(1929年生れ、医師で作家)のことばがある。加賀は1987年12月、夫人と共にカトリックの洗礼を受けたが、その翌月、日経新聞のコラムに受洗の感想文を書いている。全文を掲載する紙面はないが、彼は締めくくりの言葉として次のように述べている。「キリスト者になるとは、日本においては少数者になることだということを私はつくづく実感した」と。

日本におけるクリスチャン人口は百年後も1%をこえることはないかもしれない。そして少数者(マイノリティー)であり続けるかもしれない。併し、日本という同質社会にあって、しかも思考の多様性を求められている現代、日本にキリスト者が存在し、さまざまな分野で活躍していることは、日本にとって、また、日本の文化にとって貴重なものと私は思っている。

(2011年 3月号)

たより巻頭言「星に導かれて~アドベントに想う」 大柴 譲治

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」  (マタイ2:10-11)

今年も11/28(日)からアドベント(待降節)を迎えます。クリスマス前の4週間を私たちは自分のこころに主をお迎えするための備えの期節として過ごすのです。教会暦ではそこから一足早く新年が始まります。教会には今年ももみの木のクリスマスツリーとアドベントクランツが飾られました。教会の桜の木からの落ち葉は今年もたっぷりと降り積もり、見事な色合いを見せてくれています。季節の移り変わりを感じます。皆さんにとって今年はどのような一年だったでしょうか。

「アドベント」とはラテン語で「到来」を意味します。二千年前の主イエスの御降誕を「第一のアドベント」、終わりの日に約束されている主の再臨を「第二のアドベント」と呼ぶとすれば、私たちは今ここで、二つのアドベントに挾まれた時を生きています。コンパスが常に北極を向いてピタッと止まるように、私たちも主イエスの到来に向けてこころを備えるように最初から方向づけられているのです。アウグスティヌスが次のように記す通りです。「神よ、あなたは私たちをあなたに向けて造られました。だから私たちの魂はあなたのうちに憩いを得るまで安らぐことはないのです」(『告白』)。

最初のクリスマスに先立ってベツレヘムの上にはひときわ輝く星が姿を現します。救い主の到来を告げる光です。その星を目指して東から占星術の学者たちが登場します(マタイ2:1-12)。博士たちの旅は星に導かれての夜の旅でした。現代のように整備された街灯も道もありませんから、その旅は夜空に星を見上げつつ闇の中に足もとを確かめながらの長い長い手探りの旅だったことでしょう。時には星を見失ったこともありました。幼子を拝し、黄金、没薬、乳香を捧げるために、困難をものともせず彼らは旅を続けてきたのです。深い喜びが彼らを捉えていたからです。人間的に見ればその旅立ちも大きな決断だったはずです。それは行き先も知らないで出発したアブラハムの旅立ちとも重なります。星の専門家でもあった彼らはその専門性を生かしながら神の御業を証しするという大切な役割を果たしてゆきました。

主の到来を告げる星の輝きはこの世界を今も静かに照らしています。皆さんも私たちとご一緒にこの星を見上げる喜びを味わいませんか。12/24(金)19時よりのクリスマスイブ音楽礼拝でお待ちしています。シャローム(平安)!

(2010年11月号)

たより巻頭言「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」 大柴 譲治

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、   (口語訳聖書・伝道の書3:1-2)

今年は本当に暑い夏でした。ようやく朝夕の虫の音に秋の気配を感じるようになりホッとしています。

8/23から五日間、夏休みをいただいて四年ぶりに妻の実家である韓国ソウルに、長女と妻と三人で里帰りをしてきました。四年前、むさしの教会からの訪問団と共に訪韓した翌朝、2006年8月26日に義母(金福オモニム)が天に召されてからちょうど四年になります。義母は私たちの訪韓を待っていてくれたかのようでした。2004年夏の米国サンディエゴのホスピス研修時に「死に行く人はその死のタイミングを自らのイニシアティブをもって選んでいるように思われる」と何人ものチャプレンから聞いたことを思い起こします。

埋葬に至るまでの一連の葬儀式が予め予定されていた訪問団の滞在期間中にすべて収まったことも不思議なことでした。ウォンシムニ・カトリック教会で行われた葬儀ミサには日本からの訪韓団のメンバーが参加してくださり、私たち家族にとっては大きな慰めとなりました。

そういえば、2003年5月にむさしの教会からの訪問団がヨハンナ・ハリュラさんをフィンランドに訪ねたときにも、長く日本伝道を支援してくださった方のご葬儀に参列させていただいたことがありました。大江健三郎が悲しみのことを南米のインディオが「人生の親戚」と呼んでいると伝えていますが、確かに悲しみは、言語や習慣、歴史や文化の違いを越えて、私たちを深いところで一つの大きな家族として結びつける役割を担ってきたことを思います。私たちはその中心にキリストの十字架が立っていることを知っています。

今年は奇しくも日韓併合百年の年でした。清渓川チョンゲチョンや仁寺洞インサドンなどの観光スポットに加えて、タプコル公園(以前は「パゴダ公園」と呼ばれていた、1919年3月1日の三一独立「万歳」運動発祥の地)や景福宮(1895年10月に閔妃暗殺事件が起こった場所。今は撤去されていますが、 1998年まではこの広い前庭に、宮殿の入口を大きく遮るようなかたちで元朝鮮総督府の建物が残っていました)などを三人でゆっくりと歩きました。 1991年8月に西教区の平和と核兵器廃絶を求める委員会(PND委員会)が行った「韓国巡礼の旅」で出会った青年たちが結婚し、現在神学生とその配偶者としてむさしの教会で奉仕してくださっていることにも不思議な天の配剤を感じます(伊藤節彦・真理ご夫妻)。その時3歳だった長女も既に22歳になろうとしています。

私たち人間の罪と悲しみに満ちたこの世の現実にも関わらず、そこに神の救済の歴史が貫かれ、神の時が備えられていることを覚え感謝したいと思います。そして主の十字架を見上げる中でパウロと共に次のように告白したいのです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と(2コリント6:2)

(2010年 9月号)

たより巻頭言『「パントマイム伝道」~石居正己先生を覚えて』 大柴 譲治

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」 (1コリント1:18)

人は自らの死を意識する時、生かされている「今ここ」のかけがえのなさを知る。「兄は幼い頃から小児喘息を患っていましたから、皆が長くは生きられないと思っていました。それが82歳まで生きることができたのですから、これは大往生と言えましょう」。これは石居正己先生の葬儀後に下の弟さん(志郎氏、医師)から伺った言葉であった。病気のため小学校も二年遅れ、二歳下の上の弟さん(光夫氏、バプテスト教会牧師)と一緒の卒業となった。喘息は咳のため呼吸ができなくなるほど苦しく辛い。死の恐怖と隣り合わせである。発作が始まるとまんじりともできない中で長い夜を過ごすことになる。終わりを意識する時、意識は覚醒し研ぎ澄まされる。石居正己先生は幼い頃から死を強く意識する中で、あのように覚醒した視点から信仰の思索を粘り強く深めてゆかれたのだと納得した。先生が結核で夭折した信仰の詩人・八木重吉をよく引用されたのも、止め得ぬ咳の中で詩人と同じ思いを味わってこられたからではなかったか。キルケゴール然り。その覚醒した意識の中で先生は復活のキリストから牧師としての召しを受けられたのである。受洗は佐賀教会で20歳の時に間垣洋助牧師からであった(1948/4/25)。

石居先生の最後の著作は『ルターと死の問題~死への備えと新しいいのち』(リトン、2009)であった。ルターにおいては、罪人たる人間の死とキリストにある義人の復活は常に表裏一体である。キリストは十字架において自らの義を私たちの罪と交換してくださった。また、最後の二つ前の著作『教会とはだれか~ルターにおける教会』(リトン、2005)も最後まで具体的に教会に仕え続けた石居先生の信仰をよく表していると思う。教会とは組織でも建物でもなく、キリストを信じる聖徒の群れである。そこにおいて福音が純粋に説教され、聖礼典が福音に従って正しく執行される。3月23日(火)に京都教会での告別式で市川ルーテル学院大学学長が、石居先生がよく信徒の生活はパントマイム伝道なのだと言われていたとお話しくださった。月曜日から土曜日までは、私たちキリスト者は言葉ではなく生活を通して福音を伝道するという意味である。言い得て妙である。伺うところによると石居先生には「ディアコニア」等あと数冊の著作の予定があったという。残されたものは私たち後輩たちへの宿題となった。「あとは皆に託したのでよろしう」。あのよく響く石居先生の声が聞こえてくるように思う。

それにしても石居先生の大きな声とあのガハッと歯を見せる笑顔には実に迫力があった。それは私たちを越えたところから注がれるいのちの力を宿していた。それもまた石居先生のパントマイム伝道であったのであろう。昨秋の復刻版説教集をことのほか喜んでくださったことを思い起こす。ここに八木重吉の詩を引用してこの文を終わりとしたい。 soli deo gloria.

神の愚は人の賢きにまさる
己れを虚しうし神をひとにみせよう
自分がすきとほって背中の神を人にあらわそう

(2010年 7月号)

たより巻頭言『きみは愛されるため生まれた』 大柴 譲治

「主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。」 (イザヤ49:1)


1998年以降、毎年自殺者が3万人を超す日本社会。2009年の統計によると自殺率の高さで日本は、ベラルーシ、リトアニア、ロシア、カザフスタン、ハンガリーに次いで世界第6位となっている。過酷な現実である。私には「死にたい!」という叫びは「生きたい!」という叫びに聞こえる。誰かが傍にいてその気持ちを受け止めることができたら・・・。ご遺族の辛さと無念さとを思う。私は学生時代に、当時京都大学の学生カウンセラーであった石井完一郎氏の『青年の生と死の間』(弘文堂、1979)という自死についてのケーススタディーを記した書物と出会って衝撃を受け、自らもいのちの電話に関わりたいと思って上京することになる。その後不思議な導きを得て私はカウンセラーではなく牧師となったが、その思いは今も変わらない。主なる神は言われた。「わたしはだれの死をも喜ばない。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル18:32、一部口語訳)と。

私たちは母の胎内にある時から神によって召し出されていると聖書は告げている。神はその御声をもって私の名を呼んでくださったのだ(イザヤ49:1)。その太初の声の記憶をおそらく私たちは魂に保持しているのであろう。主イエスも受洗時に天からの声を聴いた。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)。それは究極的なアファーメイション(存在是認)の声であり、存在義認の声でもある。「もう息子失格です」と失意の中でボロボロになって帰ってきた放蕩息子も父の力強い抱擁と接吻の中で同じ声を聴き取ったに違いない(ルカ15:20)。彼は込み上げてくる熱いものを止め得なかったことであろう。主イエスも十字架への重たい歩みの中で繰り返し祈りにおいてこの声を確認し続けたはずである。私たちもまたそのような天からの声によって支えられている。それは今も響いている。この声に私たちの希望があり、生きる力の源がある。

韓国生まれの『きみは愛されるため生まれた』(作詞作曲イ・ミンソプ)という讃美歌がある。

 きみは愛されるため生まれた
 きみの生涯は愛で満ちている
 きみは愛されるため生まれた
 きみの生涯は愛で満ちている
 永遠の神の愛は
 われらの出会いの中で実を結ぶ
 きみの存在が
 私にはどれほど大きな喜びでしょう
 きみは愛されるため生まれた
 今もその愛受けている
 きみは愛されるため生まれた
 今もその愛受けている

神はその独り子を賜るほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためであった(ヨハネ3:16)。私たちが母の胎にあった時から神は私たちに”I love you!”と呼びかけてくださった。その愛の事実を苦しむ者たちと共に分かち合いたい。私たちの教会もそのための一つの避難所でありたいと願っている。
(東京いのちの電話:03-3264-4343、24時間相談受付)

(2010年 5月号)

たより巻頭言「黙して歩む神の小羊」 大柴 譲治

「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。《 (イザヤ53:7)


ディートリッヒ・ボンヘッファーに『共に生きる生活』という本がある。これは彼が所長を務めた二つの牧師補研修所での実際の共同生活の中から生み出された「白鳥の歌《であり、霊的な洞察の書である。手にされた方も少なくないであろう。その中にキリスト者の為すべき奉仕について語られている。「謙虚という奉仕《「聴くということの奉仕《に先立って「言葉を慎むという奉仕《がその最初に置かれている。箴言が繰り返し警鐘を発しているように、交わりにおいては「口を管理すること《はとても大切な事柄である。しかしそこでボンヘッファーが言いたかったのは、さらに深い次元の事柄ではなかったか。私たちが沈黙において自分を捨てて「無《となり、自分の十字架を負ってキリストに従うということなのだ。

「受容と傾聴《は確かにコミュニケーションの要であるが、それが実現するためには「言葉を慎む/沈黙する《という前提が求められる。私たちは自分が語っている時には相手の言葉を聴いていないし、相手に耳を傾けている時には私たちの口は動いていない。口と耳とはどうやら同時には働かないもののようである。現実には私たちは、沈黙の中で相手に傾聴しているように見えても自分の中だけで喧喧諤諤と独白(モノローグ)していることが多いようにも思う。最近の脳科学の知見によると、ものを考えている時にも私たちの頭の中では言葉が声として響いているのだそうである。真の対話(ダイアローグ)の何と困難なことか。対話において語りと傾聴とは、自然な呼吸のリズムに合わせ、沈黙の間を保ちながら、交互に起こる。

私たちは確かに自分の心の声に耳を傾けてくれる存在を求めている。「ねえねえお母さん、きいてきいて《と子供が親の応答を求めるように、真の応答を求める気持ちが私たちの中には確かにある。太初から人間は互いに応答し合うべく造られた「関係的存在《なのだ。キリストが屠り場に引かれる小羊のように自ら黙して口を開かれなかったのは、私たちの声にならない声にそっと耳を澄ませるためだったのではないか。その沈黙の歩みの中には徹底して神と人との対話(ダイアローグ)に生きられた「人の子《の姿が浮かび上がってくる。

今は四旬節(レント)。礼拝で用いられる典礼色は悲しみと悔い改め、そして王の高貴さを表す「紫《。黙して十字架へと歩まれた「神の小羊《の姿を共に心に刻みたい。

(2010年 3月号)

たより巻頭言「苦難と讃美~韓国人テノール歌手ベー・チェチョルの歌声」 大柴 譲治

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。《 (詩篇119:71、口語訳)

ベー・チェチョルという韓国人テノール歌手がいる。幼い頃から聖歌隊で歌ってきたキリスト者で、「アジア最高のテノール歌手《とも「100年に一度の逸材《とも呼ばれて将来を嘱望されていた。しかし彼は2005年、突然甲状腺ガンのため声を失う。家族や友人に支えられ、日本で声帯の手術を受け、血のにじむような訓練の結果、新しい声を得て彼は上死鳥のようによみがえった。そのあたりの経緯については10月17日の朝日新聞夕刊にも紹介されていた。

私がベー・チェチョル氏のことを初めて知ったのは昨年2月。教会員の落合武四郎兄がNHKで放映されたドキュメンタリーを録画して送ってくださったのである(『あの歌声を再び〜テノール歌手べー・チェチョルの挑戦』)。それは大きな反響を呼び、今年2月にも再放映されている。今年5月13日、私は妻と白寿ホールでの「奇跡のテノール ベー・チェチョル リサイタル〜歌う歓び、生きる喜び《に足を運ぶ機会を得、神への讃美を歌うその姿に強い感銘を受けた。9 月には自伝『奇跡の歌』がいのちのことば社から出版されている。

キリストを信じるということは、苦しみや悲しみを味わわなくなることではない。信仰を与えられても苦しみや悲しみは依然として存在する。キリスト教信仰に「御利益《はない。否、「搊《ばかりかもしれない。しかしそこで上思議なことが起こる。試練の苦しみが私たちをキリストへと導き、十字架のキリストへと結びつけるのである。そこではキリストこそが私たちの希望となる。パウロが「為ん方尽くれども希望を失わず《と語る通りである(2コリント4:8、文語訳)。キリスト者は涙の中でも讃美の歌声を上げることができるのだ。「わが涙よ、わが歌となれ《(原崎百子)。ベー・チェチョル氏の歌声はそれが真実であることを力強く証ししている。

今年もアドヴェントを迎えた。典礼色は悔い改めを表す紫。四週間、私たちは主の到来に思いを向けつつ自らを省みる期節を過ごす。そしてその後にクリスマスを迎える。神からの光は闇の中に輝いている。「主は与え、主は奪う。主の御吊はほめたたえられよ!《(ヨブ1:21)

(2009年11月号)

たより巻頭言「アナムネーシス」 大柴 譲治

「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 (ルカ22:19-20)


「わたしの記念としてこれを行いなさい」。主は最後の晩餐でこう繰り返される(1コリント11:23-25)。ここで「記念」と訳されている語はギリシャ語で「アナムネーシス」。「想起」とも「記憶」とも訳される語である。主の言葉をキリスト教会は二千年に渡り守ってきた。このキリストの恵みの出来事を忘れず、繰り返し思い起こすところに私たちキリスト者のアイデンティティーがある。

この夏はアナムネーシスの大切さを深く思わされた。8/17より夏休みをいただいて家族5人で一週間の旅に出た。それは横浜、藤枝、高野山、福山、広島を巡る二千キロの墓参りの旅である。それは死者たちを覚える慰霊の旅であったし、家族としてのアイデンティティーを確認する旅でもあった。藤枝には私の父の墓、奥の院には私の曾祖父と祖父母の墓がある。初任地の福山では土曜日の主日礼拝を守った後、キリスト教合同墓園・聖徒廟と、6月に天に召された福山教会員の墓前を訪問する。翌日主日礼拝のために訪れた広島教会には「メメントモリ(死を覚えよ)」と刻まれていた。そして広島平和記念公園には「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」とあった。1981年2月、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は平和アピールのためヒロシマを訪れた。最初に跪いて大地に接吻されたことが印象的であった。「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」。アナムネーシスである。かつて平和公園の外にあった韓国人原爆慰霊碑は公園内に移設されていた。

考えてみれば、私たちが守る主日礼拝も「墓参り」である。そこで私たちは主の空の墓を覚えている。最近では「聖卓(=主の食卓)」を擁する礼拝堂が少なくないが、しばらく前までは壁に密着した「聖壇」を擁する礼拝堂が多かった。聖壇は主の墓を表している。その墓は空っぽであり、死は終わりではないこと、墓は私たちの終着駅ではないことを毎週の礼拝において確認しているのだ。14年ぶりに家族皆で訪れた福山教会では壁にあった聖壇が前に出され、聖卓として用いられていたことが目からウロコ体験だった。主の墓参りをする私たちに主は繰り返し「取って食べなさい。これはあなたのために与えるわたしのからだ。取って飲みなさい。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」とパンとブドウ酒を差し出してくださる。ここに私たちの真のアイデンティティがある。

9/20(日)に武蔵野教会はホームカミングデーとして聖餐礼拝を祝う。久しぶりに懐かしいお顏に会えることが楽しみでもある。そこにはいつも変わらず私たちを暖かく迎え入れてくれる羊飼いのステンドグラスと交わりがあることを感謝し、その喜びを共にかみしめたい。

アナムネーシスに乾杯!!

(2009年9月号)

たより巻頭言『「それは愛」(野村克也監督)』 大柴 譲治

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」 (1コリント13:13)


先日テレビで野村克也監督(現東北楽天ゴールデンイーグルス)のインタビュー番組を見た。その個性的な発言からこれまでも興味を感じていたが、野村監督がたゆまぬ努力によって自己独自のスタイルを確立した人物であることを改めて知った。キャッチャーとして緻密なデータに基づいた分析と相手バッターやピッチャーの心理を巧みに読み取りながら、ブツブツとボヤクことでバッターボックスに立った相手選手を心理的に動揺させるという手を使いながらも泥臭い野球をしてきた人である。番組には野村哲学とも呼ぶべきものが描かれていて大変に興味深かった(「牧師の一週間は説教のネタ探しである」とはある牧師の弁)。

「人生の最大の敵、それは『鈍感』である」とは鋭い指摘である。監督は野球を語りながら人間の生き方そのものを語っている。「一芸に秀でる」ということはすべてに通じることであるのだ。監督はある時、試合中に選手たちを呼び集め、「なぜ人間が存在しているか考えてみろ。生きるため、存在するために存在するのだ」と鼓舞している。野球の次元を遙かに超えたところを指し示しつつ選手自身に考えさせるよう促しながら語っているのである。真の教育者である。

「『失敗』と書いて『成長』と読むことにしている」という言葉にも感心した。大いなる励ましの言葉である。監督自らが失敗を積み重ねる中で、その悔しさをバネにして成長してきたということがよく分かる。それにしても野村監督は、どこからそのような失敗を乗り越えてゆくしぶとさを得てきたのだろうか。それは愛である。選手を育てるのに一番大切なのは何かと問われて監督は「それは愛情である」と即座に答えていた。自分が今あるのは自分を信じ、支えてくれた母親の愛があればこそだったと言う。愛されたからこそ愛することができるのである。

野球が好きで好きでたまらないということが画面から伝わってきた。好きこそものの上手なれ、である。自分をとことん表現できるものと出会えた者は幸いである。「鉄人」と呼ばれた広島東洋カープの衣笠祥雄選手の引退試合でのスピーチ第一声を想起する。「私に野球を与えてくれた神さまに感謝します」。これも何とすごい言葉であろうか。

6/29(月)の早朝に池宮裕姉が84歳のご生涯を終えて、ご家族の見守る中で安らかに天に召された。4/5(日)には守屋茂枝姉が90歳で、4 /18(土)には園山繁雄兄が89歳で天の召しを受けられた。思い起こすのはやはり、その方々の愛である。ご遺族に慰めを祈ると共に、私たちに与えられた信仰者の交わりを感謝し、神を讃美するものでありたい。

soli deo gloria!

(2009年7月号)

たより巻頭言「みどりの風に吹かれて」 大柴 譲治

「みどりも深き若葉の里 ナザレの村よ、
  ながちまたを こころ清らに行きかいつつ、
  育ちたまいし 人を知るや」
(賛美歌122番)

新緑が目にまぶしい。風が頬をなでてゆく。苦しみや悲しみは果てしがないのに、柔らかな陽光に世界は輝いている。緑にも様々な色合いがあることに気づく。その色彩の多様さを見ながら、自然の生命が回帰してゆくことの不思議さを思う。

4/25(土)、池袋の東京芸術劇場で重見通典牧師の指揮するマタイ受難曲を聴いた。それは音楽会というよりも、礼拝そのものであるように感じられ、心に響いた。関係者の労を多としたい。

その音楽を聴きながら、改めてペトロに自らの罪を覚醒させた鶏の声にハッとした。翌日の主日礼拝では、復活の主が弟子たちのために炭火を起こし、焼き魚を焼いて朝食を準備されるというヨハネ21章の御言が聖書日課として与えられていた。鶏の鳴き声、そして炭火の煙と焼き魚のにおい。それらは不思議なほどリアルな質感(脳科学者はそれを「クオリア」と呼ぶ)をもって私に迫ってきた。十字架と復活のキリストのリアリティーをそこに強く感じたのである。

私たちの五感が呼び覚まされる瞬間がある。それは、私が今ここに生かされていることを実感する瞬間である。それは思いもかけぬタイミング、思いもかけぬ仕方で、いつも向こう側から与えられる。鶏の鳴き声にペトロは自分の裏切りを予告する主の声を思い出して泣き崩れた。炭火と焼き魚のにおいの中に弟子たちは、主が準備してくださった最後の晩餐を思い出してハッとした。それは、弟子たちが深い痛みやどうしようもない弱さを抱えながらも、そのただ中で、それを超えて、復活の主が弟子たちを受容し、共におられるという神の真実が彼らを捉えた瞬間でもあった。私たち自身にもそのような覚醒の時が備えられているに違いない。

4月から新しい歩みを始められた方々の上に祝福を祈りたい。それぞれの生活の場、「みどりも深き若葉の里」において、主から贈られる薫風を感じることができますように。

(2009年5月号)

たより巻頭言「私たちの人生にクロスする神のドラマ」 大柴 譲治

「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう。」(ヤコブ4:15)

3月8日(日)の夜、東京教会で行われた日本福音ルーテル教会(JELC)教職授任按手式において四人の牧師が誕生した。四人のうちの二人は小山茂牧師と崔大凡《ちぇてぼん》牧師である。1893年から始まったJELCの116年の歴史の中に、むさしの教会出身の牧師が二人新たに加えられたことになる。神の大いなるみ業に感謝し神を讃美すると共に、ご本人と神学校関係者の労を多としたい。私自身、神のドラマを最前列で観劇させていただいている感がある。4 月1日より、小山牧師は鹿児島・阿久根教会で、崔牧師は熊本にある九州ルーテル学院(旧九州女学院)中学高校でチャプレンとしてのお働きを始められる。お二人のこれからの歩みの上に神の祝福を祈りたい。

按手式に先立ち3月1日(日)に神学校の夕べが守られた。その中で教会讃美歌285番を歌いながら、私には熱いものがこみ上げてきた。2月18日に58歳で天に召された甲府・諏訪教会の平岡正幸牧師から、その福音のバトンを五人の神学校卒業生が引き継いだように感じられたためである。神のみ業はこの地上においても目に見えるかたちで継承されてゆく。すべての業には時があって、神のなさる業は皆その時に適って美しいと言わなければならない。

それにしても思い起こすのは、もう15年以上も前のことになるが、第一回ヒロシマ宗教者平和シンポジウムでのカトリック司教相馬一夫司祭の言葉である。「平和を考える上で、宗教者というものは十年や二十年単位でものを考えていてはダメである。一千年を視野に入れなければならないのだ」と。一千年を視野に入れる!?それが具体的にどのような意味であるのか未だにはっきりしないが、ただこれだけは言えるであろう。神の永遠性の前で人の生命は有限にしか過ぎない。しかしそのようなはかない存在である私たちが神の永遠のみ業に参与することを許されているのである。すべてを神の御心に委ねつつ、私たちは今自分のなすべきことをなしてゆくだけである。「たとえ明日世界の終わりが来ようとも、わたしは今日リンゴの木を植える」(ルターの言葉とされている)。

「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」(ヤコブ4:15)。これは昨年の敬老カードに記された聖句である。この地上での生命は、天につながるだけでなく、確かにこの地上においても御心に適う仕方で引き継がれてゆくのである。時はレント(四旬節)。教会暦では、主の十字架の歩みを覚える期節である。自らを吟味しつつ、私たち人間のささやかな人生の上に神のダイナミックなドラマがクロスすることに思いを馳せてゆきたい。

(2009年3月号)

たより巻頭言「復活の主の息」 大柴 譲治

(イエスは)そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:22)

漢字で「息」を「自らの心」と書くことに最近気づいた。私たちの息づかいにはその心が自ずと表れるということ。「人間の意識には志向性がある」とはフッサールの言葉。呼吸に意識を向けることの重要性を思う。自らの呼吸音は通常自分には聞こえない。それほど呼吸と意識が一つになっているということか。

神は土の塵で人をかたち造り、その鼻に自らの息を吹き入れられた。そして人は生きるものとなった(創世記2:7)。「生きる」とは「息する」と同源。赤ちゃんはオギャーと泣く前に一度大きく息を吸い込む。そして吐く息で泣き始めるのだ。昔の人は、人間の地上で最初の吸気の中に神の息/呼気を見たのだ。神は私たちの中に「自らの心/息」を吹き込まれた。ここに愛がある。「愛」という字は「(真ん中に)心を受ける」と書く。私たちは神の愛をその存在の中心に受け止めて呼吸するのである。愛はその意味で酸素のようなものであろう。

人がこの地上で一番最後にすることは息をフウーッと吐くこと。息を吸うところに始まった私たちの地上での生は、息を吐くところで終わる。その最後の息を責任をもって引き取ってくださるお方がおられる。私たちは天父に神の息をお返しするのである。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が奪われたのだ。主の聖名はほむべきかな」(ヨブ1:21)。

実は最初と最後の息だけではない。私たちのこの瞬間の一呼吸一呼吸が神とつながっているのだ。インマヌエル(神われらと共にいます)の神は、私たちと呼吸を合わせてくださる神である。そして祈りは霊的な呼吸でもある。

パウロは言う、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)。喜ぶ者には喜びの呼吸があり、悲しむ者には悲しみの息がある。傍らで呼吸を合わせてくれる友を持つ者は幸いである。たとえ状況が全く変わらなくとも、私たちはそのような者の存在によって深く慰められ支えられる。主はそのような牧者である。

信仰とは神の息をこの身に感じて生きること。教会は呼吸を合わせる礼拝共同体。式文や讃美歌において共に息を合わせることで、私たちの呼吸は整えられてゆく。復活の主の息が私たちの中に吹き込まれている。呼吸が乱れたり行き詰まったりする日々の生活の中で、真の安息がここにある。父の召天を通してそう思わされている。神の息とは聖霊のこと。聖霊の風よ、我に吹き来たれ。時はアドベント。マラナタ!

(2008年11月号)

たより巻頭言「新たなページ」 大柴 譲治

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」 (コヘレトの言葉3:1)

1925年10月4日に路帖神学校の中で始まった私たちの教会の歴史は、この10月から宣教84年目の新しいページを開くことになる。9月末に待望の牧師館・集会室が完成し、10月初旬には牧師とその家族が入居することが決まっている。消えていた灯台の光が再度点火されるような思いを持つ信徒は少なくないであろう。改めて、ここに至るまでの歴代の役員を中心とした多くの方々の祈りとお支えに感謝したい。既に天に召された方々も、主のみ国において共に喜んでくださっていることと思う。

振り返ってみると、1995年の教会の増改築(屋根の改修、集会室・台所の増築)、2005年の教会の耐震補強工事(会堂改修と牧師館の撤去)、そして 2008年の牧師館・集会室の新築と教会の改修(エレベーターの設置等)と三期に渡り、準備期間を入れて17年以上の歳月をかけて教会のB領域(ビルディング/建物)が整えられてきたことになる。これを用いてA領域(アクション/宣教と奉仕)とC領域(コミュニティー/交わり)がさらに深められてゆくことが期待されている。9月7日の礼拝後には、交わりを深めるためにもこれからの教会像を探るためにも信徒交流会が開かれた。参加者の声は様々であったが、礼拝をどこまでも中心に大切にするむさしの教会の信仰的に成熟した姿勢が明確に浮かび上がってきたように思う。

礼拝(Service)とは、私たちの行為であるよりも先に、その独り子を捧げてくださった神が私たちに奉仕してくださる出来事である。ステンドグラスに描かれた羊飼いキリストのライヴと言ってもよい。そこにおいて私たちは、時計で計量可能なクロノス(時間/歴史)の流れの中にあって、神のカイロス(時)を知るのである。私たちは神からの息吹を、永遠の今を、キリストのご臨在を味わうのだ。どのような困難な時にも神は私たちを見捨てず、私たちと共にいてくださる。神は愛。愛は神。闇の底にもその光は届いている。神のなさることは皆、その時に適って美しい。

9月28日(日)の午後2時、私たちは新牧師館・集会室の完成祝福式を行う。主なる神がこのむさしの教会を通して、そのあふれるほどの恵みを今も私たちに注いで、ここに救いの歴史の新たなページを開いてくださることを共に喜び祝いたい。神の民としてこの教会の交わりに集うことが許されている恵みに感謝したい。然り。ただ神にのみ栄光がありますように!

(2008年9月号)

たより巻頭言「我、ここに立つ!」 大柴 譲治

「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。」(1コリント3:10)

4月12日に起工式が行われ、16日に着工した牧師館・集会室の建築工事は現在順調に進んでいる。7月2日にはエレベーターのための柱が立てられた。大工さんたちの丁寧な仕事を見ながら、家を建てるということの面白さに感心する。職人芸による総合芸術である。特に、土台や枠組みというものの大切さを教えられる中、人生の土台と枠組みに思いを馳せる。6月13日には上棟式が行われた。据えられた土台の上に、何とたった一日で家の枠組みが組まれた。式中で江戸木遣りの歌声が響く。梁を支える大黒柱も初めて見ることができた。新しい作品を創造することは喜びである。神さまも自らの天地創造においては大きな喜びを感じたに違いない。「よし」とされたところにそれが記されていよう。工事は9月中旬に完成、9月28日(日)には献堂式の予定である。共にその日を喜び迎えたい。

不思議なことが続いた。基礎のコンクリートを打った日は快晴、熱を持つコンクリートを冷やすために水撒きが必要となる翌日からは雨が降った。上棟式の前日は大雨だったが、上棟から屋根を張るところまでの一週間は梅雨の晴れ間が続いた。そして6/21からは再び大雨。天は我に味方せり! である。

もう一つ。5/18、石居基夫先生が説教をしてくださった三位一体主日礼拝には島田療育センターから奥田浩子姉と二川敏之兄、そして特別に木実谷哲史院長が出席された。礼拝後に木実谷先生より故元宮道子姉(ペコちゃん)の遺産の一部として百万円が捧げられる。長年に渡る島田との深い関わりの中で起こった出来事である。2003年6月5日にペコちゃんが天に召されて既に5年。むさしの教会のウェブサイトにある葬儀説教(通常葬儀説教はプライベートなものゆえに掲載しない原則だが、身寄りのなかったペコちゃんの告別説教だけはその生の証しとして特別に掲載させていただいている)が重要な役割を果たしたと伺う。教会の建築工事のためにもぜひ元宮さんの遺産を役立てていただきたいというお話であった。「ペコちゃんの記念としてエレベーター設置のために用いさせていただきます」と感謝して受け取った。天からの不思議な介入を強く感じた出来事でもあった。

すべてがイエス・キリストという土台の上に起こる出来事であると思う。主ご自身も石大工職人で、誰よりも基礎工事の大切さを知っていた。山上の説教の最後には「岩の上に建てた家」の譬えもある。テント職人であったパウロも「神から賜った恵みによって、熟練した建築家のように(教会の)土台を据えた」と語る。私たちも神の生けるみ言、キリストの現臨という土台の上にすべてを築いてゆきたい。「我、ここに立つ!」と告白したルターのように。

(2008年7月号)