たより巻頭言『「構成美」ということについて』 大柴 譲治

 芸術の秋。金沢での学生時代、マンドリンオーケストラの指揮者をしていたことがある。大学二年の時、一年先輩の指揮者に、「大柴、音楽の中で何が一番美しいと思うか」と突然言われて答えに窮した。とっさに出た答えはこうであった。「メロディーの美しさやリズムのおもしろさもなかなかですが、今はハーモニーの美しさが一番です」と。実際、音楽の響きの織りなすバランスや色彩感といったものがおもしろくなったきていた頃でもあった。しかし、その先輩が語った言葉は私にとってはショックであり、大きな啓示でもあった。「おれは違う。構成美だ」。

 構成美!?それまでそんな次元を意識したこともなかったし、そのような美を経験したこともなかった。しかし、その言葉を聞いて目から鱗が落ちる思いがした。指揮者として音楽全体を視野に入れてまとめてゆく必要があったことを知ったのだ。ダウランド、パーセル、バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ブラームス、ドビュッシー、ラベル、ブルックナー、マーラー、ブリテン、バーンスタイン、武満徹。構成美といったものを抜きにしてその音楽を語ることはできないであろう。

 あれから20年以上経つ。今でも私は先輩の言葉を感謝している。少なくともそれ以降、私は「構成」といったものを意識するようになった。音楽に限らず、それはすべてに通じているように思われる。文章を書くときにも説教を準備する時にも、また人前で話す時にも、語るべき主題やその表現について考えるのはもちろんのこと、起承転結や序破急といったその構成をも強く意識している自分に気づく。音楽に当てはめるならば、簡単な三部形式から始まってソナタ形式であるとか複雑なフガート形式であるとか、一つないし二つの主題をどのようなかたちで展開してゆくべきかということを考える静かな楽しみがある。

 思えば、私たちの人生も音楽にたとえられるのかもしれない。人生における構成美を考える時、私には「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11、口語訳)というみ言葉が思い出されてならない。私たちもまた、創造主なる神の、そのみ手によるひとつの作品なのだから。