たより巻頭言「信仰的リフレーミング」 大柴 譲治

「野の花、空の鳥を見なさい」(マタイ5章25~34節)

 映画や写真を見て、その構図やカメラワークの斬新さ、美しさに感銘を受けることがある。一つの事物は別の角度や距離からも見うるはずだが、まさにその瞬間に、その角度から、その枠組みで撮られたものの中に結晶した真実がある。そして日常生活にも思わぬ瞬間が宿っていることを知る。

 一つの事実の意味(解釈)は、それを受け止める側の枠組み(フレーム)によって異なる。枠組みが変われば意味も変わる。そして意味が変わればその人の反応や行動もまた変わる。これを「reframing」と呼ぶ。

 一人の婦人の例をあげよう。彼女は自宅のじゅうたんをいつもきれいにしておきたい。次第に塵どころか人の足跡がつくことをも嫌い、掃除機を放さず、家族にもいつもガミガミ言うようになった。困った家族が彼女をセラピストのところに連れてきた。セラピストは彼女に言う。「目を閉じてじゅうたんを思い浮かべなさい。どこにも一つの足跡もついていない、清潔でふっくらしたじゅうたんを」。婦人は目を閉じ、幸せそうにうっとり微笑む。するとセラピストが「そのきれいなじゅうたんが意味しているのは、あなたが全くひとりきりで、愛する大切な人達は誰もまわりにいないということなんですよ」と言う。婦人の表情はがらりと変わって惨めな気分になる。「今度はじゅうたんに足跡をいくつかつけてみて、それはあなたにとって何よりも大切な人達がそばにいるしるしだと思ってごらんなさい」と言われて婦人の気分はまた良くなった(バンドラー/グリンダー『リフレーミング』星和書店より)。

 キリストを信じることも、この世界をそれまでとは異なった視点と枠組みから見るという意味では、信仰的なリフレーミングと呼ぶことができよう。そこでは野の花や空の鳥もまた新しい輝きをもって見えてくる。

 今はレント。主のご受難を思う。私たちにとって十字架とは、何よりも大切な人がそばにいてくださることのしるしでもある。そこから私たちの存在全体のリフレーミングが始まるのだ。