たより巻頭言「愛は光色」 大柴 譲治

 落ち葉の季節を迎えた。毎日、色づいてゆく落ち葉の微妙な変化の中に、季節の移り変わりを感じる。

 色というものは考えてみれば不思議なものだ。吸収する色ではなく、反射する色がそのものの色として見えるのだから。黄色の葉っぱは、黄以外の色を全部吸収し、黄だけを反射する。だから黄色く見える。赤い葉っぱは、赤以外を吸収し、赤だけを反射するから赤く見える。色とは光の反射なのだ。ちなみに、全ての色を吸収すると黒くなる。宇宙にあるブラックホールがそれだ。逆に、すべての色を反射すると白くなる。山上の変貌では主のみ顔やみ衣のすべてが白く輝いた。主は十字架上でご自身のすべてを人々に与え尽くされる。だからまぶしく光輝く。愛は光色なのである。

 自分が所有する色ではなく、自分が与えてゆく色がそのものの色となるというのは意味深い。人間にも色があるとすれば、それもまた、その人がいかに多くを得たかではなくて、いかに多くを与えたかで決まるのではないか。

 落ち葉がキラキラと舞いながら散ってゆく。私は何色に見えるのだろうか。しかし、もし葉っぱに目があったとしても、自分の色は反射して見えないであろう。それは外からしか見えないのだから。私の色は私自身には見えないのだ。

 落ち葉の色づきの豊かさの中に、神さまが備えてくださっている人生の機微を思う。最近話題の絵本、レオ・バスカーリアの『葉っぱのフレディー~いのちの旅』(童話屋)を読む。落ち葉が色彩の陰影に富んでいるように、私たちに対する神の恵みも限りなく深い。生も死もすべては主のみ手にある。人間の悲しみも苦しみも喜びも、すべてはキリストの愛の中に、光の色の中に置かれている。

  在天の神よ
  この弱き身と魂をすくひて
  神とキリストの光のために働かせて下さい   (八木重吉)