たより巻頭言「存在の白い輝き」 大柴 譲治

 いったいあれは何だったのだろうか。私を取り巻いているすべての人が白く輝いて見えるのだ。看護婦さんが「白衣の天使」に見えるだけではない。お医者さんも患者さんも、お茶くみのおばさんも掃除のお兄さんも、付き添いの家族も見舞客も、すべてが天使のように見えた。あれは幻影だったのだろうか。眼の手術を受けた直後、およそ一日の間、すべての人が白く輝いて見えた。まことに不思議な体験だった。これが柳田邦男のいう「光の体験」か。ガンの告知を受けた人の多くが世界が輝いて見えたと報告しているという。

 32歳で逝った青年医師・井村和清の『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社、1980)を思い起こす。肺への転移を知らされた著者はこう記す。「その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中がとても明るいのです。スーパーへ来る買い物客が輝いてみえる。走りまわる子供たちが輝いてみえる。犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが輝いてみえるのです。アパートへ戻ってみた妻もまた、手をあわせたいほどに尊くみえました」。

 まったく無力で弱い立場、幼子のような立場に置かれた者だけに見える存在の輝き。今ここに生かされているということへの感謝。それが「見えない(恩寵の)事実を確認する」(ヘブライ11:1)ということなのか。

 教会暦では3月8日の聖灰水曜日より四旬節に入る。身を正して十字架を想う期節で、典礼色は悔い改めを表す紫。5日は主の変容主日。山上に白く輝く主の姿は十字架へと歩み始めようとするわが子に対する天父の然りでもあった。「これはわたしの愛する子、これに聞け」。神の愛はみ子の十字架に深く隠されている。最も小さな者の姿を取って十字架へと独り歩まれる神。そこにインマヌエル(神、われらと共にいます)という神の恵みの現実が輝き出る。