説教 「贈り物への感謝と結びの言葉」~フィリピ書連続講解説教・最終回 大柴譲治

フィリピ 4:10-23

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

フィリピ書連続講解説教の最終回に当たって

本日は聖霊降臨後の最終主日です。教会の暦では一年の最後の日曜日となります。そしてまた9月から行ってまいりましたフィリピ書の連続講解説教の最終回でもあります。何にしても「終わり」というのは一つの大切な区切りです。これまで歩んできた来し方を振り返ると共にこれから歩むべき行く末を仰ぎ見る、そのような礼拝が本日は与えられているのだと思います。

そして来週からアドベント(待降節)。キリストの光の到来を待ち望みつつ、新しい一年が始まろうとしています。古き自分に区切りを付け、新しいキリストにある自分としての歩みを踏み出してまいりたいと思います。

フィリピの信徒たちからパウロ、経済的援助を受ける

本日はフィリピ書のまとめの部分です。パウロはその手紙の最後に相手への挨拶を送るのが常でした。

パウロは10-20節で、エパフロディトを通してフィリピの信徒たちから送られた経済的援助(18節に具体的に触れる)について感謝の意を表し、以前に受けた援助についても15-16節で言及しています。

パウロは宣教に際して、相手から決して金銭を自分のためには受けないことを自分の福音宣教の原則にしていました。そのことは1テサロニケ2:5-9や2テサロニケ3:7-9、1コリント9:4-18、2コリント11:7-10などを読むとよく分かります。テサロニケの教会のために働く時にも、コリント教会のために働く時にも、それらの教会には全く財政的な負担をかけなかったと言っています。その際に実は、フィリピの教会がパウロを財政的に支えていたということがこのことの背景にはあります。

パウロは教会間の相互援助は大切に考えていたようです。2コリント8-9章を読むとパウロはここでコリント教会に対して経済的に困窮していたエルサレム教会を支えるための献金依頼をしています。

パウロは言います。10節。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。」ここでパウロは「心遣い」という表現を用いて直接「金銭」という表現を避けているようですが、それが何がしかの具体的な経済的援助を含んでいたことは明らかです。献金とは愛と祈りとの具体的な表れです。

今日、ヨハンナ・ハリュラさん(100年でフィンランド福音ルーテル教会から日本に派遣された100番目の宣教師です)が成田からこの時間にフィンランドに向けて発とうとしていますが、宣教師たちの働きを支えるフィンランドの教会の熱い祈りがそこに目に見えるかたちであることを私たちは心に刻みたいと思います。

パウロはフィリピの「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」という表現はパウロのフィリピの信徒たちに対する気遣い(牧会的配慮)を表しています。

11節aで「物欲しさにこう言っているのではありません」とパウロは言います。そこから語られる言葉は私たちにとっても強く響いてきます。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。(12)貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。(13)わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(11b-13節)。この部分は長く親しんできた口語訳の方をご記憶の方が多いでしょう。「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」。私たちはキリストにゆえにどのような境遇にも適応してゆくことができるのです。パウロのこの言葉が獄中で語られていることを覚えたいと思います。

言葉と文化習慣の全く異なる日本にキリストに福音を宣べ伝えるために故国を捨てて派遣された宣教師たちの働きがそのことを証ししています。ヨハンナさんと同じ時に派遣されたテレルボ・クーシランタ宣教師は50歳で宣教師としてのビジョンを与えられ、ヘルシンキの聖書学院院長の地位を捨てて、日本への宣教師として遣わされました。今体調を崩しておられるようですが、覚えて祈っていただきたいと思います。一人の宣教師の働きを支えるその背後にはさらに大きな祈りと献金と犠牲とがあるということを覚えたいと思います。パウロの言葉を借りて言えば「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえ」なのです。

14節。「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」パウロが心底嬉しかったのは、離れていても自分のために祈り、献金を通して支え、宣教の苦しみを共にしてくれる信仰の友の存在でした。私たちもどのような境遇にあっても信仰によって足ることを知るとしても、そのような信仰者の交わりに大きく支えられるのです。宣教者として孤独な戦いを強いられたパウロは、しかしキリストにあって決して孤独ではありませんでした。このような絆が苦難を支えるのです。私たちにこのむさしの教会という信仰者の交わりが与えられているということは、神の恵みです。この聖徒の交わりを通して、このキリストに絆において私たちは必要な支えを与えられるのです。

パウロとフィリピの信徒たちとの絆~S.D.G.

15-20節はパウロとフィリピの人々の深い絆がよく示されています。味読したいところです。

「(15)フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。(16)また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。(17)贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。(18)わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。(19)わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(20)わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

19節:「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」。この言葉が獄中で語られていることを心に刻みたいと思います。その独り子をも惜しまずに与えてくださった神ご自身が、その栄光の富を私たちと分かち合ってくださるのです。その神にのみ栄光が世々限りなくあり続けるのです。ただまことの神を神とする。ただ神にのみ栄光を帰する。ルター派の信仰者であったあのヨハン・セバスチャン・バッハがその楽譜の最後にいつもS.D.G.という三文字を書き記したことはよく知られています。Soli deo gloria! ただ神にのみ栄光あれ! 私たちの人生もそのような形で終えることができたらすばらしいものだと思います。

そしてパウロとフィリピの信徒たちとの絆は、そのような神の栄光を表すためにあったのだということ、私たちの交わり、私たちの命は、ただ神に栄光を帰するためにあるのだということを覚えたいと思います。

今から8年前にガンのために47歳の命を終えて神さまのみもとに帰ってゆかれた松下容子姉が、あと病いのため半年の命と宣告されてこの教会での求道を開始し洗礼を受け、召される三日前に病床聖餐式に訪れた時に微笑みながら言われた言葉を思い起こします。「先生、間違っているかもしれませんが、人生は神さまと出会うためにあるのではないでしょうか」。Soli deo gloria! 「(20)わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」。

結びの言葉

最後、21-23節は結びの言葉です。「(21)キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。(22)すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。(23)主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。」

「皇帝の家の人」とは、当時パウロが獄に捕えられていたエフェソにはローマ総督の官邸がありましたが、そこに仕える人々を指しています。ローマ人キリスト者が少なからずいたことが表わされています。

「喜びなさい。重ねて言います。主にあって喜びなさい」と繰り返す「喜びの手紙」と呼ばれるフィリピ書。それはエフェソの獄中で紀元54-56年頃に書かれたいくつかの手紙が一つにまとめられていると考えられています。「生きるとはキリスト、死ぬことは益である」と1:20にありましたが、生きるか死ぬかの危機の中にあって、キリストとつながり続けることに死によっても奪われることのない本当の喜びがあるのだというメッセージを私たちはパウロとフィリピの信徒たちとの篤い絆の中に心に刻みたいと思います。

この教会暦の終わりの日に、そしてアドベントから新しい一年が始まろうとする時に、私たちは主にある交わりを互いに「よろしく」と挨拶を交わすことの中で確認してゆきたいと思います。

お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年11月26日 聖霊降臨後最終主日礼拝 説教)