説教 「キリストを模範とせよ」 大柴譲治

フィリピ 2:1-11

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

『キリスト讃歌』

9月の最初から、パウロが獄中から書いたフィリピの信徒への手紙の連続講解説教を続けております。

本日は2章の最初の部分となります。この箇所は実に重要な部分で、歴史的な資料としても大変に興味深い部分でもあります。2:6-11は「キリスト讃歌」としてもよく知られていますが、これは初代教会の礼拝で用いられた讃美歌がここに挿入されていると考えられています。それは初代教会の信仰告白と言ってもよい。初代教会のキリスト者たちが主イエス・キリストに対してどのような信仰をもって礼拝していたかがよく分かる部分でもあります。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(2:6-11)。

それは前半(6-8節)と後半(9-11節)の二つの部分に分かれています。6-8節の前半部分では、神と等しくあられたお方が僕の姿を取ってこの地上に降ってこられたということ(「先在のキリストとその謙卑/受肉」)とそのキリストが死に至るまで神に従順であったことが歌われ、9-11節の後半部分では、人/僕となられたキリストが再び天に引き上げられたこと(「キリストの高挙」)が歌われています。

この部分には、パウロの手紙ではほとんど使われていない言葉が使われていることや、パウロに現れない(ヨハネ福音書的な)神と等しい先在のキリスト論や(復活には触れずに)キリストの高挙論が語られていること、パウロに特徴的な救済論的な十字架理解や復活が出てこないことなどから、それがパウロの作であるというより、礼拝で用いられた典礼であったことが分かります。ただ一ヶ所、8節の「それも十字架の死に至るまで」は他と異った言葉のリズムを持っていることから、パウロの挿入であると考えられています。

キリストのへりくだり(謙卑)

この箇所は私たちが繰り返し味わい読むべき箇所でありましょう。天におられたお方、神と等しくあられたお方がなぜ奴隷の姿を取ってこの地上に降り立たなければならなかったのか。それは、私たちに関係のないどこか遠くの出来事ではない。それは、この私の救いのために与えられた出来事であったということを私たちは知らなければなりません。

天で神と等しくあられたお方が、それに固執することなく、自分を徹底的に無にして、僕の姿を取って私たちの地上へと降ってくださった!それは、出口の見えない闇の中でもがき、滅びの道を歩んでいた私たちを救うためであったと聖書は語ります。あのステンドグラスの羊飼いの腕に抱かれている羊は迷子であった私自身が主によって見い出された姿を表しています。

ベツレヘムの飼い葉桶からゴルゴダの十字架に至るまで、主の地上での歩みは、人間世界の最も低いところ、辛いところ、惨めなところを歩まれた真にへりくだった歩みでした。ヨハネ福音書13章には、主が弟子たちの足を奴隷として洗われた出来事が記されています。神と等しくあられたキリストが僕として仕えるために来てくださった!それも私たちの最も汚れたところ、最も清めを必要としている部分を洗い、拭ってくださるために来てくださったのです。

二日前の飯能集会で2コリント8章を読みましたが、そこにはこうありました。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(2コリント8:9)。主の貧しさによって、私たちは豐かにされている!そこに溢れるほどの、有り難い主の恵みがあります。

ルターは『キリスト者の自由』の中でそれを「喜ばしい交換」と言っています。キリストの豊かさと私たちの貧しさ、キリストの義と私たちの罪とが交換されたのだと強調しているのです(『キリスト者の自由』第12項、岩波文庫、p21-22引用)。主が貧しくなったのは、その豊かさを私たちの貧しさと交換してくださったからです。私たちはそのことによって救われたのです。

「総会議長の足を洗った男、総会議長に足を洗われた男」

私にはこの主の洗足と喜ばしき交換ということに関して忘れられない体験があります。それはもう20年近くも前のこと、私が牧師になった次の年(1987年)の2月のことでした。前年8月の総会で総会議長に選出された前田貞一先生の就任式が2月の常議員会で行われたのです。前田先生の発案で、総会議長の就任式を教職名簿の一番下にある新卒の牧師が行うということになりました。その前年は私一人しか牧師になりませんでした(1億円の育成費がかかったので私は「金の卵」と呼ばれました)ので、私に白羽の矢が立ったわけです。一番上の立場にある総会議長が一番下に位置する者によって立てられてゆくというのは聖書的な考えでありましょう。偉くなりたい者は仕えられる者ではなく、一番下で仕える者となりなさいと主も言われています。

前田先生は、私も神学校で学んだ礼拝学の専門家ですが、そして大変に厳しく怖い先生でもあったので、私は恐る恐る一つの提案を申し上げました。通常、受難週の木曜日に行われる洗足式を就任式の中で行うことが出来ないかという提案です。私にはそれが前田先生の「教職者名簿の一番下にいる者によって総会議長の就任式が行われる」という考え方にも相応しい事柄であるように思えたのです。前田先生も驚かれたことでしょうが、苦笑いをしながら、「分かりました。それでよいでしょう」と言ってくださいました。そしてそれが実現したのです。私にとっては忘れられない体験です。総会議長の足を洗い、総会議長の足を洗ってもらったという牧師はおそらく後にも先にも私だけだと思います。前田先生に対しては今でも特別な尊敬の思いを持ちますが、そのふところの広さが印象に残っています。自分が上に立つ立場になった時、あるいは最年長で定年直前になった時に、同じように一番若い牧師の足を洗うことが出来るだろうかと考えるとなかなかそれが容易なことではないと思うのです。

そしてこのことは私の誇りであると共に、牧師としての原点として私の中で位置づけられています。総会議長の就任式で、常議員が周りに座っている中で、私たちにはお湯とたらいと手ぬぐいが用意され、靴と靴下を脱いで足を洗い合ったのです。実際に行うと分かりますが、皆の前でかがんで足を洗うというのは、少し場違いのような、気恥ずかしい体験でもありました。また、それは私にとって、仕えるということがどのようなことかを教えられた得難い体験でもありました。瞬間、主に足を洗われたペトロたち12弟子の気持ちが分かったようにも思いました。回りでイスに座っている常議員たちも驚いたようでした。次は自分の足が洗われるのだろうかと思ってハッとしたということを、数年後に私に語ってくださった先生もおられました。

10-11節にはこうあります。「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。全宇宙のすべてのものが主のみ名の前にひざまずくことを通してそれを救い主として礼拝をし讃美する姿がそこには描かれていますが、そのようなお方が私たちのために先にひざまずいてくださったことを心に刻みたいと思います。それが「神と等しくあられた方が自分を無にし、僕の姿を取ってくださった」ということの意味です。礼拝を英語ではService、ドイツ語ではGottesdienstと申しますが、それは神が私たちに仕えてくださる、神のサービス/奉仕を受けるという意味があります。神が私たちにひざまずいて仕えるためにこの地上に降り立ってくださった!それを心に刻みたいと思います。

「かたち」から入ることの大切

同時に、私たちにとって「かたちから入る」ことの大切さを思います。まず行動を起すとき、心は後から付いてくるということがあるのです。「人間の感情というものは理性には従わないが、行動には従う」という行動心理学者の理論があります。形から入ることの大切さを教える言葉です。(私が小さい頃に『ひょっこりヒョウタン島』という人形劇がありましたが、その主題歌の中に「泣くのはいやだ笑っちゃえ」という一節がありました。私たちは悲しいから涙を流しますが、涙を流すともっと悲しくなるのです。逆に、辛いときでも笑顔を見せることで、辛さが和らぎ耐えやすくなるということがあるのです。)

このことは試してみるとすぐ分かります。どんなに頑張ろうと頭で思っても気持ちは変化しないのに、姿勢を正して胸を張ると気持ちが上向いてくるのです。「上を向いて歩こう」という坂本九ちゃんの歌がありましたが、確かに上を向いて歩いていると気持ちは上向いてくるのです。逆にうつむいて下ばかり見ていると気持ちも落ち込んできます。あるいはカウンセリングの交流分析理論などでもよく言われることですが、ネガティブなことばかり言ってしまう自分がポジティブな表現をあえて取ってみるとき、不思議なことですが自分の生き方が少しずつ変わってくるということもあります。生きる姿勢を変えてみるということも一つの大きな気づきを与えてくれることがあります。

特にキリスト教の歴史の中では「イミタチオ・クリスティ」、キリストに倣いてということが大切に考えられてきました。「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来た」と主は言われますが、キリストのように人々に仕えることを通して私たちは変えられて行くのです。私たちの思い上がりがそれによって打ち砕かれるからです。その意味で、仕えるということは信仰の一つのバロメーターであるように思えます。バザーで奉仕することも、掃除やお花を生けることも、昼食を準備してくださることも、すべてが私たちにとっては益となるのです。仕えることができなくなるとすれば、私たちはどこかで思い上がってしまっているのです。思い上がると私たちは人が見えなくなってしまう。自分しか見えなくなってしまうのです。利己心と虚栄心によって生きる人生は、寂しいモノローグ的な生です。それを突破させるために主は私たちのところに来てくださったのです。

へりくだりのしるし~復活の主の十字架の傷跡

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

この主のへりくだりの中に私たちの慰めがあり、喜びがあり、平安がある。そのようなキリストの歩みを模範として歩むとき、私たちは小さなキリストの証し人として用いられてゆくのです。へりくだること、人々に仕えてゆくことがどれほど辛く苦しいものであったとしても、私たちには喜びが約束されているのです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(3-4節)とパウロは言いますが、キリストに従うことで私たちは利己心や虚栄心から解放され、自由になって、本当の愛と自由の喜びの中に招き入れられるのです。

私たちの羊飼いには十字架の釘跡が付いているのです。復活されたキリストがトマスに十字架の釘跡と脇腹の槍跡を示されたように、天に昇られたキリストには傷が残っておられるのです。私たちを救うために負われた傷が残っている。イバラの冠の跡もおありでしょう。その苦しみはしかし今や天上の光の中で救いの喜びに呑み込まれています。私たちの苦しみや悲しみの傷跡も清められ勝利の光に呑み込まれる日が来るのです。私たちの背負う悲しみも苦しみも復活の主の十字架の傷跡とつながっているのです。

そのことは不思議な天よりの慰めを与えてくれるように思います。低く降ることの中に高く挙げられたキリストに従う喜びがある。天におられ神と等しく、神の身分であられたキリストが自分を無にして僕の身分となってくださり、この地上に降り立ち、十字架へと歩んでくださった。この私のために、この私を見いだし、私に自らのすべてを与え、私を神のものとしてくださるために! 主は豊かであったのに、私たちのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、私たちが一人残らず豊かになるためだった! そのことを深く噛みしめながら、主のみ後に従って、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に豐かな主の支えと導きとがありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年9月24日 聖霊降臨後第16主日礼拝 説教)